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共戦の旅路 |
1月19日 |
名誉会長とのきのう・きょう・あした |
冬は必ず春となる 思い出すたびに胸が熱くなる。そういう瞬間を持てる人生は幸せである。 みちのくの冬に歓喜の春がやってきた6日間――1982年(昭和57年)1月の池田名誉会長との日々を、秋田の友は忘れない。永遠に忘れることができない。 ◇ 「先生! 先生!」 「泣いてはいけないよ。私が来たから、もう大丈夫だ」 秋田空港から車で10分ほど。ガソリンスタンドの一角に人の輪ができた。 腰の曲がったおじいちゃん、おばあちゃんがいる。赤ん坊をおぶったお母さん。ほっぺが真っ赤な子どもたち。 その中心に、名誉会長がいた。革靴は、雪を踏んで、ぐしゃぐしゃになっている。 「春になるのを待って」 そんな周囲の声を退けて、この日、昭和57年1月10日、厳寒の秋田へ飛んだ。 坊主どもの卑劣な迫害に苦しみ、耐えに耐え抜いた純朴な友が待っていたからだ。 デマ週刊誌を手に罵られた。同志だった人間になじられた。その辛さ、悔しさ。仇を討たねばならなかった。 「一番苦労した人が、一番幸せになれるのが、この妙法です!」 名誉会長はそう言って、一人一人と握手を交わした。そして記念撮影。 こうした“街頭座談会”は秋田文化会館(当時)に着くまで9度にも及んだ。「先生が秋田に!」の報を聞き、居ても立ってもいられず飛び出した人々が、自然発生的に集まったのである。 「先生の手は、つきたてのおもちのようだった」「ふっくら柔らかかったなあ!」 同志の興奮と感激。乗ってきた自転車や、着ていたコートを忘れて帰った友もいたほどである。 もちろん、その後ろにも、会いたい気持ちを抑え、自宅等で秋田訪問の成功を真剣に祈る、無数の同志たちがいた。 当時、陰の戦いに徹したこの人々は「雪の秋田指導 栄光グループ」となっている。 ◇ 「明日の勤行会は総動員だ。外に待っている人も含めて記念撮影しよう」 「『秋田の信心をみろ!』と宣言するんだ」 “雪の秋田指導”のクライマックス――会館に隣接する沼田児童公園での記念撮影は、12日の昼、名誉会長の提案で決まった。 迎えた翌13日。夜来の“ぼた雪”が秋田市内を覆った。そのなかを、名誉会長の元へ、全県から3000人の同志が集ってきた。 雪と同じ、真っ白なコートを着た名誉会長とともに記念撮影。何度も何度も、凱歌の勝鬨と、万歳の歓声。「人間革命の歌」の大合唱が、銀世界に轟きわたった。 空からは雪の花。心には、喜びの花びらが舞っていた。 我らは勝った! これからも勝ち続けるのだ!――と。 ◇ 10日からの6日間で名誉会長が会った同志は、実に9300人になる。 少女部員の頭の雪を大きな手で払い、一緒に“雪やこんこ”を歌った。 花を届けた女子高等部員には“花束ありがとう 合掌”の揮毫。 素手で雪を固め、「かまくら」をつくってくれた青年たちには激励の和歌。 連日の会合。功労者宅の訪問。役員と、居合わせた友と次々にカメラに納まった。 あの眼差し。あの声。肩に掛かった雪。雪まみれの靴。 師匠の姿を思うたびに、秋田の友には、無限の勇気が湧きあがってくるのである。 |
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