ここから本文エリア 現在位置:asahi.com >歴史は生きている >4章:辛亥革命と民衆運動 > 孫文の革命は 東京から始まった
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孫文と宮崎滔天が並んであるく銅像。「赤誠友誼」と題されている=南京中国近代史遺址博物館の中庭で、佐藤写す |
宮崎滔天(上)と孫文(下)。辛亥革命で中国に戻った孫文を迎えた時の写真の一部=辛亥革命博物館で |
宇都宮太郎(うつのみや・たろう)(1861〜1922) 佐賀藩出身。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業した陸軍のエリートで、主に参謀本部で情報分野を担当した。陸軍内では反長州閥の中心人物の一人だった。辛亥革命では岩崎久弥(三菱財閥当主)から活動費10万円(現在の数億円に相当)の提供を約束させ、中国での情報・工作費にあてた。後に首相となる犬養毅とも関係を持ち、中国に向かう犬養に1万円を渡している。1919年の3・1独立運動の際には朝鮮軍司令官だった。 宇都宮の長男は、軍縮問題や中国・朝鮮半島との友好に取り組んだ故・宇都宮徳馬参院議員。 |
北京は夜半から雨となった。
戦後生まれでは初めての日本の宰相が唐突に退陣を表明した日の夜、私は天安門近くのホテルにいた。中国中央テレビが、日本の後継首相候補について長々と報じるのを部屋でぼんやりと見ていた。
「さて、これからの中国と日本の関係はどうなりますか」
番組の最後、司会者がコメンテーターたちに尋ねた。学者の一人がこう応じた。「経済の相互依存が深まっていますから基本的な関係は変わらないでしょう。ただ、今、日本人は台頭する中国に対してどう対応するかという心理的な問題を抱えていますがね」
心理的な問題。
それは、中国という国家をどうとらえるのか、そしてどのような関係を築くべきかという問いに結びつく。
100年ほど前、辛亥革命のころの日本も、今とは異なる文脈ながら、同じ問いに向き合っていた。そのときの日本人はどんな答えを見いだそうとしたのか。革命に深くかかわった2人の日本人の足跡をたどってみることにした。
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アジアが欧米列強の侵略をはねかえすためには、中国が強い国家に生まれかわらなければならない。
宮崎滔天(みやざき・とうてん)は終生、そう固く信じ、そのために革命家・孫文(スン・ウェン)(そん・ぶん)を支えた。滔天の眼中には「中国大陸での利権」とか「日本の膨張」という言葉は無かった。孫文を支えた日本人には中国での利権に固執し、後に右翼と呼ばれる国家主義者が少なくなかった。しかし、滔天は違った。その意味でまれな人物だった。
滔天の重みを中国の人々がどのように感じているかは、南京市にある「南京中国近代史遺址(いし)博物館」に行くとよく分かる。辛亥革命後、孫文の臨時大総統府として使われた建物で、その執務室、居室などがそのまま保存されている。孫文記念館と言ってもよいほどだ。年間200万人を超すという観光客が大型バスを連ねてやってくる。
博物館の中庭に、四つの小さな銅像が高さ1メートルほどの台座にそれぞれ置かれている。その一つに孫文に付き従うように歩む宮崎滔天の像がある。孫文をはさんで反対側にはアメリカ人で孫文の軍事顧問となったホーマー・リーがいる。銅像には中国語で「赤誠友誼(ゆうぎ)」という題がつけられている。「偽りのない友情」という意味だ。
案内してくれた劉暁寧(リウ・シアオニン)・副館長はこう説明してくれた。「孫中山(そん・ちゅうざん=孫文の中国での呼び方)にとって重要な意味を持つ出来事を四つの銅像であらわしました。この銅像は孫中山の革命を生涯にわたって支えてくれた友人たちを示しています。日本の友人はたくさんいましたが、革命初期に一番支えてくれたのが宮崎滔天さんです」
たしかに滔天がいなければ、孫文の革命運動はさらに厳しい道のりをたどったに違いない。今から110年前、清朝政府に追われる孫文は、ひそかに日本に入った。滔天は孫文を探しだし、中国を変えることができるのはこの人物だと確信する。そして犬養毅ら有力政治家に紹介し、孫文が日本を拠点に活動できるようにする。
さらに滔天は、1905年に東京での「中国同盟会」の発足を後押しし、これが革命運動の転機となった。
同盟会は、東京にいた中国の革命派の様々なグループを統合したものだ。北京大の王暁秋(ワン・シアオチウ)教授によれば、辛亥革命のスタートはこの同盟会発足からと言ってもよいという。「同盟会の成立によって、きちんとしたリーダー、綱領、組織ができた。それがあって辛亥革命は核心をもった革命となったのです」
■欧米の侵略阻止を稼ぎつぎこむ
滔天は一体どんな人物だったのか。
晩年を過ごした家は今も東京・西池袋にある。庭には滔天が植えた松の木が数本そびえたち、周囲の家々を見下ろしている。
「それは豪快な人でしてね。家族を顧みないと言っちゃいけないけど、例えば収入があってもすべて革命につかうんですよ。だから貧乏のどん底でした」
孫の宮崎蕗苳(ふき)さん(82)が、滔天の妻の槌子(つちこ)や息子の龍介(りゅうすけ)(蕗苳さんの父親)から聞いたエピソードを披露してくれた。
――旧制一高に通っていた龍介は旧制高校生のシンボルであるマントも買ってもらえなかったが、ある日突然新しいマントを与えられた。何だろうといぶかしんでいると、爆弾を隠し運ぶためのものだった。
――孫文が滔天の自宅に滞在していた時、革命派を狙う中国人がやってきた。槌子が察して裏口から孫文を逃し、高校生の龍介を同行させた。近くの神社で時間をつぶしていると、夜空にハレー彗星(すいせい)が浮かび上がった。孫文は龍介にこう言った。「これは革命が成功する兆しだよ」
それにしても、と思う。
滔天はなぜひたむきに中国の革命を支え続けたのか。辛亥革命を長く研究してきた山梨県立大の久保田文次・国際政策学部長の説明はこうだった。
「滔天は自由民権の信者で、社会的平等を理想とした。国内で社会改革を進めるためにも中国の革命と近代化を達成させ、欧米の侵略を阻もうとしました。中国の革命によって日本の独立維持や日本や世界の改革を促進することも期待していたのです」
■革命軍参加の大尉、「偉い人」の密命で
もう一人の日本人の話に移ろう。
新潟県野田村(現在の柏崎市の一部)出身で、辛亥革命の発生直後に革命軍に参加し、死亡した金子新太郎である。
金子は清国政府に招かれて軍事学校の教官を務めたこともある中国通の歩兵大尉で、日露戦争後は予備役となり、野田村で村長を務めていた。任期を終えた直後、武昌(現在の武漢市武昌地区)で蜂起が起きる。ほどなく金子は家族に何も告げずに村から姿を消した。
地元で柏崎市の郷土史を研究している杵渕武二(きねぶち・たけじ)さんは33年前、金子新太郎について残された手紙類や当時の地元紙の報道などを丹念に調べ、論文にまとめた。中国から出した妻あての手紙には、四つの変名を使うことや「成功すれば再会の機会もあるだろうが、そうではない時には床下の力持ち、または生命はないものだろうと考えてくれ」と伝えている。
杵渕さんは、蜂起を知った金子が中国行きを希望し、陸軍の密命を帯びて革命軍に参加したのだろうと推測していた。
杵渕さんから金子新太郎の親族がいると聞いて、新潟県長岡市へと向かった。
孫にあたる大宮和正(おおみや・かずまさ)さんは、金子が残した古い写真帳を繰りながら、こう話した。
「孫文の革命に参加したというのは聞いている。軍の正式命令ではないが、偉い人に言われて行ったという話だった」
その「偉い人」とは誰で、何の目的で派遣したのか。肝心のところは不明のまま、金子の名前は歴史の闇に沈んでいた。
■独立国家つくれ 訓示し、「私的派兵」
私がそのなぞを解く記述に出会ったのはまったくの偶然だった。今年4月に刊行された宇都宮太郎の日記を読んでいたときだ。宇都宮は辛亥革命当時、陸軍少将。参謀本部で情報を担当する第2部長だった。
「十一月四日 土曜 小山秋作を本部に招き、渡清熱心家なる後備歩兵大尉金子新太郎の人物を質(ただ)し、之を渡清叛軍に投ぜしむるに決心し(余一個の事業として)、明朝本人に来宅の取り計らいを依頼する」
「十一月五日 日曜 早朝、金子新太郎来宅、之に余の私見の大要を告げ、南北の講和を妨げ、南方に一国にても数国にても建立の必要を告げ、例の金二千円を与え渡清せしむ。同人は目下の処まづ武昌の革命軍に投ずる考にて出発す」
つまり、金子新太郎の人物を確かめたうえで、自分一人の「事業」として革命軍に参加させることを決意した。金子には、清国政府側と革命軍側の講和を妨害し、革命軍の勢力圏である中国南部に独立国家をつくらせよと訓示し、その派遣費用を渡したというのだ。政府や陸軍首脳部がまったく関知しない、宇都宮による「私的派兵」だった。
金子に告げた「余の私見」とは何か。
武昌での革命発生から5日後の夜、いったん床についた宇都宮は未明に目を覚まし、日頃から考えていた対中国政策を一気に書き上げる。参謀本部内を自分の方針でまとめるためである。
政策のポイントは(1)中国すべてを一気に獲得することはできないため、いくつかの独立国に分けて領土を「保存する」ことが望ましい(2)今回の内乱によって満州族、漢族の二つの国家に分かれる可能性がある(3)表面では清朝を助け、裏では革命軍を支援し、時期をみて二つの国家に分かれるよう調停する(4)そのうえで保護国、同盟国などの特殊な関係を結ぶ――というものだ。
この背景には、日露戦争で獲得した大連、旅順の租借地や南満州鉄道の利権を永続的に維持したいといった、いわゆる「満蒙問題」があった。
金子は「第一歩兵顧問官」として革命軍の部隊を指導したが、武漢での戦いは清朝政府軍の巻き返しによって最も激しい攻防となった。革命軍は敗退し、約1万人の犠牲者を出す。その一人が47歳の金子である。宇都宮は1913年2月、金子が死亡した漢陽(現在は武漢市漢陽地区)を訪れ、金子の墓を建立する場所を選び、ブランデーを供えた。私は漢陽をうろうろと動き回り、その場所を探したがついに分からなかった。
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ところで宇都宮の対中政策は結局、政府の考えには反映されなかった。当時の政府は対英米協調外交を機軸としており、冒険的な政策は採らなかったのだ。宇都宮も不満を持ちながら、政府の決定に従った。
だが、革命の動乱期から陸軍は大陸に情報収集のための武官を多く派遣し、独自の中国大陸政策を築こうとする。そして満州を独立国とし、「満蒙問題」を一気に決着させるというアイデアも埋火(うずみび)のように引き継がれていくのである。
◆人名の読み仮名は現地音です。日本語読みが定着している場合にはひらがなで補記しています。
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