<「霊」は、存在するか>
「霊は存在するか?」と問われたら、まともな人間なら「いや」といって否定するだろう。だが、頭では霊の存在を否定しながら、感情的には「そうあって欲しい」と願い、守護霊や先祖霊の存在を信じようとする。ここに自称霊能者のつけ込む隙があるのだ。
注意しなければならないのは、「霊魂」というとき、「霊」と「魂」を分けて考える必要があることだ。日本語で霊といえば、生きている人間と同様に喜んだり悲しんだりする死霊を意味している。しかし、魂の方は、生者の内部にあって、しかも個人感情を超え、それより広く深い内容を持つと考えられている。霊よりも魂の方が、質的に高い内容を持っているのである。
旧制中学時代に小銃の実弾射撃をしたことがある。
これは自分の体験した最初で最後の実弾射撃だったが、私は意外にも成績がよくて、中等学校対抗射撃競技会の「選手」に選ばれた。だが、競技会では振るわず、すっかり面目を失ったけれども、この経験から私は何となく「意識の構造」といったようなものについて自得するところがあったのである。
競技会に出る以前の最初の射撃の場合を考えてみる──級友と並んで伏せの姿勢で標的をねらいはじめた。すると、散漫に散らばっていた注意が、サアーっと一点に集まってくる感覚があり、まわりがほとんど気にならなくなった。
「引き金を指で引いてはダメだぞ。ガク引きといって、銃口が動いてしまうからな」と教官に言われていたから、指先に力を入れず銃把を握りしめるようにして引き金を引いた。私はひどく平静な気持ちになっていた。銃把を握りしめるときにも、最小限の力を使っただけだった。
だが、競技会では、そうはいかなかった。銃を構えて腹這いになり、標的をねらう姿勢に入ったが、「注意が、サアーっと一点に集まってくる」という感覚は、遂にやってこなかった。
競技会特有のザワザワした空気に影響されて、私の意識はあちこちに分散していた。それで、これではいけないと集中力を高めようとする。そのため体のどこかに思わぬ力が入り、銃口がぶれてしまったのだ。
私は、前後二回の射撃体験を思い返してみた。そして、初回に注意が一点に集中して、まわりがほとんど気にならなくなったときにも、意識は周囲の大状況をとらえていたことに気づいた。目は標的に向けられている。だが、まわりも、もう一つの目で見ていたのである。私は大状況を見るともなく見ていて、そのことで私の心に安心感と射撃に必要な落ち着きが生まれたのだった。
二回目には、この大状況が見えて来なかったのだ。私が注意をあちこちに分散させ、銃把を握る手に思わず力を入れ過ぎたのも、小状況のなかから抜け出せなかったからだった。──こんなふうに考えて、当時の私は、大状況を見るのが大我で、小状況の中であたふたしているのが小我だと思った。そして、いかにも中学生らしく、大我によって小我をコントロールしなければならぬと考えたのだ。
大我・小我という言葉の代わりに、霊・魂を持ってくれば、小状況にとらわれているのが「霊」であり、小状況を超えて大状況を見ているのが「魂」ということになる。もし死後にも残るものがあるとしたら、それは「霊」ではなく「魂」なのである。そして、もし魂が宇宙的生命にとけ込んで永久に生きるとしたら、最早、私的な要素は完全に消え失せている。大我は梵我へと昇華している。
細木や江原のいうような霊というものが実際にあるとしても、それは個人の肉体と不可分に結びついたものであり、小我の化身なのだから、肉体が死滅すればそれに伴って消失するのだ。
再言すれば、初回の実弾射撃では、標的をねらう姿勢に入るや否や、潮が引くように雑念は消え、それに伴って自我の構造が変容したのであった。欲望に覆われていた小我の世界が消え、その背後から大きな実在世界が浮上してきたのだ。すると、内面は安心感で満たされた。──安心感に裏打ちされた静かな気持ちで引き金を引いたから、弾は標的の中心を射抜いたのである。
私は小我の見る世界と大我の見る世界を対比して書いてきたが、実は、人は一つの世界しか見ていない。人間の前には事実唯真の広大な世界が広がっており、当初、万人の目にはこの世界だけが入ってくるのだ。しかし、人は成長するにつれて次第にこの世界の一部を囲い込み、その小さな区画の中で生きるようになる。そして、小我の人になる。
だから、人は自閉の区画を自ら取り去り、ゆがんだ色眼鏡をはずしさえすれば、本来の事実唯真世界を回復することができる。そうすれば、死者の霊が現世を見ているというような途方もない話は、人をたぶらかす「狐狸の言」に過ぎないことが分かる。
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