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古田選手、ありがとうございました

2007年10月09日 | スポーツ

ヤクルト・スワローズ、否、日本を代表する名捕手、古田敦也選手が
遂に引退を迎えました。いつかは誰もが通る道とはいえ残念です。
今はただ、労いと感謝の言葉しか浮かびません。

高校時代、筆者は捕手でした。中学の時に憧れていた先輩が捕手で
(正確には、捕手姿がカッコ良くて憧れた)筆者も捕手になりたかったの
ですが、ものの見事にクビ。当時は外野手でした。
余談ですが、外野手になりたがっていたヤツが外野をクビになって捕手を
やっていたのだから、何とも皮肉な話です (^^;
そして平成元年のドラフト。この年は社会人野球出身を初め大豊作の年。
7球団が競合した野茂(近鉄1位)、魔神・佐々木(横浜大洋1位)、
今なお現役の小宮山(ロッテ1位)、消えるシンカーが武器の潮崎(西武1位)、
史上2人目の100勝&100セーブを達成した佐々岡(広島1位)、
炎の剛球ストッパー・与田(中日1位)…。
下位を見ても、あのSHINJO(新庄)が阪神に5位入団、天才と名高い
広島・前田選手が4位で指名されています。
そんな中でヤクルトに2位で指名されたのが古田捕手でした。
もともとプロの選手に憧れたり参考にしたりというのが少ない筆者でしたが、
筆者が平成2年に高校へ進学してからは古田選手のプレー、特に
古田"捕手"のプレーは大いに参考にしてきました。

※「それがモノに出来たのか?」という心ない事実には聞く耳を持ちません(爆)

古田捕手といえば強肩が有名ですが、実は特別に強肩というわけでも
ないのです。しかし、盗塁阻止率が高いのは事実。
彼が凄かったのは捕ってから投げるまでの時間の短さと送球の正確さ。
どんなに鉄砲肩でも、捕ってから投げるまでが遅かったりノーコンで
あっては何の意味もありません。
実際、筆者も「捕ってから投げるまでが速い」、「送球が正確」、「ビシッと
投げられる」の3点のうち、前者2つが揃えば殆ど走者を刺す事が
出来ました。反面、前者2つが揃わないと殆ど刺せませんでした。
そういう意味では、本当に生きた教科書のような存在でした。

こうした部分だけであれば、同じく監督を辞任した西武・伊東選手も
同じだったのですが、彼と違うのは古田選手は眼鏡ユーザーであった事。
眼鏡をかけていたが故に大学時に指名されなかったのは有名な話ですが、
それを見事に覆しました。そして、その姿は眼鏡をかけた捕手である
筆者にとっても大きく勇気づけられるものでした。
もちろん、古田選手のような超一流捕手と筆者のような5流捕手を
同列に並べるのはおこがましいにも程があるという事くらい、誰に言われる
までもなく筆者が一番よく知っています。
しかし、ヤクルトファンのみならず、こうした野球プレイヤーをも古田選手は
支えてきたのです。そして、古田選手のプレーに励まされてきたのは
筆者だけでなく全国のメガネ捕手すべてに通じるところであるはずです。

古田敦也選手、本当にお疲れさまでした。
そして、本当にありがとうございました。

また会いましょう!

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コメント
 
 
 
私の野球歴 (ナポレオン・ソロ)
2007-10-11 21:01:00
 古田さんお疲れ様、色々と無念は有ろうが暫く休んで野球を外から見るのも勉強になる様です。

 私も草野球を20年やってました、とは云っても、ハーグさんとは違ってソフトと軟式です、肩が強かったので本当は投手志望でしたが、投手が沢山居るチームに縁があって捕手をやらされました、捕手は小学生の時にケンカ相手とバッテリーを組んで居ましたが喧嘩が絶えなかったので、余り良い印象がなかったんですが、やってみると結構面白かったです。

 当時の我がチームの投手陣は、育英高校野球部出身者(甲子園出場を怪我で棒に振ったらしい)を筆頭に、国体に兵庫県代表としてやり投げで出場した人、昨年まで関西六大学2部の大学のエースと結構な面子でした、そんなチームですから、当然、不動の正捕手が居ましたが、自営業の彼が忙しくなってきた為に余り来られないと言う幸運にも恵まれて、結構出場機会を貰いました。

 でも、やっぱりピッチャーがやりたくて、遠投の時にデモンストレーションをやったりしました、その甲斐あって練習試合で登板の機会を与えて貰い、殆ど真っ直ぐしか投げられずしかもノーコンなのに、相手は結構な強敵でしたが勝手に転けてくれて、完投してしまいました。

 唯、最終回ランナー無しで最後のバッターに向こうの四番が立ちました、過去の3打席、何れも抜いたダケの球で三振か、内野フライだったのですが、余りに速い真っ直ぐが良い処に行くので調子に乗って外角のギリギリの低めに真っ直ぐを思い切り投げました、チョコンと合わせたダケに見えたのですが打球は80mの左翼ボール際に、結局この1失点ダケでしたがその晩は悔しくて眠れませんでした。

 その年に17勝、翌年21勝、その後年間20勝以上が3回あって、20年間で150勝位しましたが、その一球は未だに忘れられません。

 野球って不思議なスポーツですね。
 
 
 
コメントありがとうございます (筆者(ハーグ竹島))
2007-10-11 22:15:16
>ナポレオン・ソロさん

い、育英…。
筆者も大学で準硬式をやろうかと思いましたが、広陵やら
仙台育英やら報徳やらという名前にビビッて入部しなかったという
苦い思い出があります (^^;

それにしても150勝とは凄い。あと少しで名球会じゃないですか(爆)。
筆者も投手経験はありますが、まだ登板機会が少ない上に
どちらかというとリリーバーを務めることが多いので
勝ちにはなかなか恵まれないです。
 
 
 
ソフトボール (ナポレオン・ソロ)
2007-10-12 03:41:08
>ハーグさん
 仕事で疲れて居るんですが、咳がでて眠れませんので、ヤケクソで起きて来ました。

 後、ソフトを12年やってました、こっちは町内会レベルの寄せ集めで、魚屋のオッチャンが監督で投手、不動産屋の社長がマネージャーと言ったチームでしたが、人間関係のバランスが良かったのか、永く続きました、今では良い思い出です。

 ソフトボールは、野球とは亦違う面白さがあるスポーツですね、始めはバカにしていた部分も有りましたが、センターを守っていて、軟式ならトテモ取れそうにない当たりに何故か追い付くのがトテモ面白い、それに、打つ方も真っ直ぐが得意な小生の打率はナント6割以上、本塁打はランニングホームランが半分位ですが300本以上と、正に打ち放題の感が有りました、唯、レベルが川重等、大企業の同好会に上がると、ライジングボールやスライダー、シュートを投げる剛速球投手が登場しますので、3割がやっとでしたが。

ソフトは40歳の頃、皆が仕事が忙しくなってチームが解散、軟式の方は45歳の冬、久々に公式戦のマウントに上がった所為か、所謂「休み肩」で球が走って変化球も切れて、神戸市リーグのBクラスを相手に3回をパーフェクトだったのですが、4回頭の投球練習の際、腰から異音が(嗤)、その回1点取られて4回終了後降板、痛みが引かないので医者に行くと「立派な」椎間板ヘルニアだ、とのお達し、段々酷くなって、一時は朝起きると便所に這って行く位でしたので結局1年以上野球出来ませんでした、その上、その後転職したり病気をしたりした為に、更に行けなくなって結局止めています。

 こっちは、右肘の疲労骨折や、度重なる肩痛、左右の筋肉のアンバランス他、様々な弊害を残しましたので、肉体的に限界だったのかも知れませんが「野球中毒」の症状が今でも残っているほどです。

>小山様
 小生由有って会社、自宅共、現在メールが使えません、連絡を取る方法を考え中です。
 
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