平成社会の人々の動き



第 11 話 「モンゴルの横綱」(国技の国際化)


目   次

<モンゴル出身の横綱誕生>
<土俵を去って行く平成の兄弟横綱>
<相撲界の外国人力士>
(参考メモ)野見宿禰と相撲史


<モンゴル出身の横綱誕生>


(読売新聞・平成15年1月30日付け)
 ここに掲げた写真を見て、平成15年1月現在の日本人は、よほどの相撲嫌い(そんな日本人が
いるかどうか知りませんが)以外、ああ誰だ、と分かると思います。

 (実は、このホームページは、100年後の日本人のために書いているのです。)

 写真の右の力士は、どう見ても、日本人の顔をしています。左の力士は、どうも日本人ではなさ
そうです。
 そうです。タネを証しますと、左は、アメリカ・ハワイ出身で外人初の元横綱曙の曙親方です。
 右は実は、日本人ではなく、モンゴル出身の朝青龍関です。

 新聞の見出しは、次の通りです。
 「あす奉納土俵入りー曙親方らに所作学ぶ」
  (曙親方に雲竜型の指導を受ける朝青龍)(30日午前11時、高砂部屋で)

 平成15年1月場所で優勝した大関朝青龍(22歳)は、大相撲第68代横綱に昇進しました。
 横綱の土俵入りで使う横綱の綱打ちが約1時間かけて行われ、早速真新しい綱を締めて雲竜型の
土俵入りを稽古し、翌日の明治神宮の奉納土俵入りに備えているところなのです。

 稽古の甲斐あって、翌日の1月31日午前10時明治神宮神前で、立派な奉納土俵入りを果たし
ました。

新横綱朝青龍の奉納土俵入り(太刀持ちは闘牙関)(読売新聞・平成15年1月31日付け)
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<土俵を去って行く平成の兄弟横綱>
 この新聞記事に遡ること、丁度10日前の相撲面の新聞記事には、次のような見出しと写真が
載りました。

 「貴乃花引退ー燃えた15年 魅せた名勝負」
  平成の大相撲人気を支えてきた横綱貴乃花(30)が初場所9日目の20日、15年に渡る
  土俵生活にピリオドを打った。・・・
 「2歳年下の貴乃花とともに、平成の相撲ブームを築いた元三代目横綱若乃花で兄の花田勝さんは、
  都内で記者会見し、・・・・・弟をねぎらった。」

(左)現役最後の土俵入りする横綱貴乃花(右)「最大のライバル」横綱曙との横綱昇進を駆けた勝負
(読売新聞・平成15年1月21日付け)
  (相撲ファンにとって)忘れられないの(名勝負)が、1995年(平成7年)九州場所で実現した
兄若乃花との(相撲)史上初の兄弟優勝決定戦。・・・先手を取った(兄)若乃花が下手投げで弟を
下した。

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<相撲界の外人力士>
  外人初の横綱曙が引退し、そのライバルの横綱貴乃花も引退したため、遂に国技である大相撲横綱は
武蔵丸関と朝青龍関という外人が東西の横綱を占めることになりました。

 強いものが勝ち上がっていくという、単純にしてかつ動物世界に共通の原理にもと付いた国技です
から、例外なく原則通り、強い外人関取が横綱になるのです。いかな日本人でも、文句の付けようが
ありません。「国技」だからといって、その国の人でないといけないことはないと思います。

 現在世界各国で盛んな「サッカー」に至っては、世界各国の人々が「自分の国の国技だ」といって、
試合となれば、とっくみあいの喧嘩までして必死に応援する始末ですから。
 サッカーでなくとも、日本の「お家芸」といわれる「柔道」が「相撲」の先例です。

 今を去る約40年前、「東京オリンピック」柔道競技において、日本人の神永選手がオランダの
ヘーシング選手に敗れ、日本国民はがっくりと肩を落としましたが、それも「日本の柔道」から
「世界の柔道」になった証拠だと思えば、日本人として「日本の国技」を自慢できるわけです。
 柔道に類似の闘争技は世界各国のあるようですが、その中でも日本の柔道は、世界各国から
「みんなの出来る素晴らしい闘争技」として認められたわけですから、胸を張って自慢できましょう。

 相撲界に於いて、外国人力士はその「東京オリンピック」の年にアメリカのハワイからやってきた
高見山が高砂部屋に入りました。しかし、彼が初めての外人力士ではなかったのです。
 新聞記事(読売新聞・平成15年2月1日付け)に依りますと、

 「・・・外国人力士が登場したのは、1934年、当時の春日野部屋に入門したアメリカ
  ロサンゼルス出身の日系二世、平賀将司という人が最初でした。第二次世界大戦の前は
  七人の外国人力士がいました。・・・」

 「・・・高見山に続くハワイ出身の力士は、元大関の小錦です。最高284キロの体重と力強い
  突っ張りで、幕内で三回優勝し、・・・」

 その後、各国から力士が入門し、2000年までにすでに、幕内・十両・幕下以下で14名になり、
平成15年現在11カ国(モンゴル31名、ロシア4名、アメリカ3名、ブラジル3名他)51名の
多くの多国籍力士世界になって、力士全体の8%弱になっています。12名の力士に1名の外国人が
いることになります。

 この外国人力士の参加は、相撲界にとって大変良い刺激になるのではないでしょうか。
 考えてみますと、外国人力士は言葉と生活習慣も違い、しかも普通の日本人社会と違う、いろいろ
昔からの決まりが多い相撲界に入り、その上、実力で、相撲が強くないとやっていけないわけですから、
外国人力士は日本人力士の数倍の努力が要求されるのです。

 現在横綱になっている「武蔵丸」「朝青龍」両関取の人間としてのすばらしさを知るべきでしょう。
 なまじっかな気持ちで、気軽に相撲を取っている日本人力士より数段人間が大きく見え、見習うべき
現在の日本人に欠けている何かを相撲を通じて示してくれているのではないでしょうか。
 
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(参考メモ)野見宿禰と相撲史
 「相撲」とは二人の競技者力士が直径4m55cm(15尺)の土俵の上で、回しを締めたままの
裸体で勝負を争う日本の国技です。勝負は相手を足の裏以外を土に付けるか土俵の外へ出すことです。
 古くから神社の神前で行う神事相撲、祭礼の時の奉納相撲など、いろいろの相撲があり、現在でも
大相撲のような職業相撲と純粋にスポーツの一種としてのアマチュア相撲などがあります。

 相撲は、日本の国技とは言いながら、人間生来の闘争本能に基づく力比べや取り組み合いの格闘競技は
世界各国で類似のものが伝承されてきています。
 五千年前古代バビロニアやエジプト遺跡から相撲の置物や壁画が発見され、インドでは、釈迦が相撲を
取っていた記録があり、中国秦の時代に「角觝」あり、特に漢武帝朝盛んであったと言いますから、
人類の誕生とともに発生した動作であったと見られます。

 日本の相撲の起源は、古事記・日本書紀の中にあるいろいろな力比べの神話や野見宿禰伝説です。
 農作物の収穫を占う祭の儀式として、村落で行われる相撲が宮廷行事となり儀式として洗練され、
様式化され、スポーツとしての形態を整えて伝統的な民族競技として発達してきたと考えられています。

  古事記には建御雷神(たけみかづちのかみ)と建御名方神(たけみなかたのかみ)が出雲伊那佐
小浜で力比べをしたという神話です。

 相撲の始祖とされる野見宿禰とは、出雲の国の出身(「出雲風土記」飯石郡条に野見の野の地名あり)
です。日本書紀(養老四年・740)に第11代垂仁天皇(四世紀)七年七月七日、傲慢な腕自慢の
豪力者当麻蹶速(けはや)と力比べ(試合場所は奈良県桜井市「相撲神社」が建立されているところ)
して脇骨を蹴折り腰を踏み折って殺す、と記されていて、宿禰は相撲に勝った褒美として当麻蹶速の
領地(奈良県香芝市付近の「腰折田」か)を賜り、朝廷に土師匠(土師宿禰の祖)として忠勤したと
されています。

 一方当麻蹶速の遺跡としては、奈良県北葛城郡當麻町に「蹶速塚」があります。

野見宿禰・当麻蹶速対戦絵図と野見宿禰神社(東京都墨田区)(出典:金指基「相撲大事典」)
 野見宿禰の伝説は兎も角として、歴史上にはっきりと相撲が記録され始めたのは7世紀の中頃からで
主な歴史事実を資料より抜粋しますと次のようになります。
    (引用資料:金指基「相撲大事典」(株)現代書館(2002年1月))

    642(孝極天皇元年)百済使者饗応のため健児を召集して相撲を取らせる
               (史実相撲の始め)(日本書紀)
    719(養老三年)  初めて抜出司(相撲司)をおく
               (相撲儀式制度の始まり)(続日本紀)
    726(神亀三年)  聖武天皇、伊勢大廟ほか21社に勅使を派遣して豊作神前相撲奉納
               (神事相撲の始め)
    734(天平六年)  聖武天皇、相撲戯天覧
               (天覧相撲の始まり)(続日本紀)

 かの昭和天皇は大変に大相撲がお好きで、何度も国技館に天覧されたのですが、その1200年前に
聖武天皇による天覧相撲が既に始まっていたのです。確かに「国技」に相応しい出来事であったわけ
です。

 現在のように本当に国民全体が見入る国技になったのは、やはり明治時代になってからでしょう。
 特に優勝制度が確立した明治42年以降、それこそ「大衆のスポーツ」として、庶民の間で人気を
博してきました。現在のように「野球」「サッカー」のような大衆の人気スポーツがなかった時代に
於いて、大衆の唯一の娯楽競技であったことは確かです。

 明治42年から戦前の「大横綱」を列記しておきましょう。

    明治時代 42年夏場所 高見山酉之助(前頭7枚目・高砂部屋)7勝3分
         43年春場所 常陸山谷右衛門(横綱・出羽海部屋) 7勝2分1休
         43年夏場所 太刀山峰右衛門(大関・友綱部屋)  9勝1分
    大正時代        その後大正6年までに9回も優勝しています。
                栃木山守也 (横綱・出羽海部屋)  9回優勝
    昭和時代 初期     常ノ花寛市 (横綱・出羽海部屋) 10回優勝
                玉錦三右衛門(横綱・二所ノ関部屋) 9回優勝
         昭和の大横綱 双葉山定次 (横綱・双葉山)   12回優勝
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平成15年2月5日   ***  奈華仁志  ***


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