« 負けたと思うまで | トップページ

2008年1月19日 (土曜日)

反科学の情熱

最近、ニセ科学批判の論壇に接することで「『ニセ科学批判』批判」なる耳慣れない言説の分野があるということを識ったのだが、実際のところをよく聞いてみると、極少数の論客や不審なヒトがニセ科学を批判する言説に対して無責任に茶々を入れているというのが本当のところのようである。

まあ、これは考えてみれば当たり前の話で、ニセ科学批判を専門的に批判する立場というのは、他人の特定の言説傾向に関心が特化した立場だということになるが、普通の人から視ればそういうものが在り得るということがそもそも不思議に感じられるだろう。

そういう次第で、今回はこのニセ科学批判批判というものについて少し考えてみようと思うのだが、そうは言っても昨日今日の新参者で何分この論壇のこれまでの経緯をよく識らないのだから、まあ観念的な考察ということになる。

まず最初に定義しておくと、今回のエントリーで謂う「『ニセ科学批判』批判」とは単にニセ科学批判の特定言説を批判する行為一般を意味する言葉ではなく、「ニセ科学批判の言説一般を批判する立場に特化した論者の言説」という意味で、こういう不思議な立場がこの領域には存在するというお話であることをお断りしておく。

実際にニセ科学批判者とニセ科学批判批判者との議論を視ればわかるが、ニセ科学批判という一項を省いて考えると、ニセ科学という現実の領域とニセ科学批判批判というメタ的言説の間には必然性の観点の照応関係がない。

つまり、ニセ科学という現実の問題性が存在するからニセ科学批判という言説が存在するという関係性はあるが、ニセ科学が存在するからニセ科学批判批判が存在するという関係にはならないのであり、ニセ科学批判批判はニセ科学という現実の領域には言及することなくニセ科学批判の言説にのみ一義的に存在の根拠を負うのである。

ニセ科学批判批判の論客と言われる人の主張を視ると、ニセ科学批判への批判を通じてニセ科学という現実の領域に回帰していく理路が存在しないように見える。それでいてニセ科学批判批判というのは、ニセ科学批判という言説の在り方が、たとえばニセ科学のような意味で社会的に有害だという主張でもないのである。

つまり、ニセ科学批判批判の言説一般の特徴として、何故ニセ科学批判を批判しなければならないのかという論理的必然性が、いつまで経っても見えてこないということがあるようである。だとすれば、ニセ科学批判批判というのは、「現実にニセ科学批判に特化して批判する論者が存在する」という事実性においてしか第三者には存在の意味を理解し得ない言説ということになる。

ニセ科学批判の言説を批判することでどのような公益が得られるのか、その為にどんな目的性が据えられているのか、どのような方法論を具えているのか、それがどれだけ議論を通過しても皆目見えてこない。ニセ科学批判批判という言説は、その言説の領域それ自体の意味性によってではなく、個別の論者の動機によって成立している言説の領域だということなのだろう。

これも考えてみれば当然で、本来ニセ科学批判の個別の言説を批判する言説の領域が在り得るとすれば、それは同じニセ科学批判者のそれであるのが当たり前である。何故なら、批判の目的と実効と動機と知識と方法論を洩れなく具えているのが同じ領域の論者であるのは当たり前だからであって、メタ議論だけに特化した立場に立つ者が何一つそれらの条件を満たしていないのは明白だからである。

たとえば文芸批評という分野で考えるなら、特定の論者の批評の言説を批判するのは通常同じ文芸批評の論者である。文芸批評をメタ的に批評することに特化した言説の領域というのは、ウケ狙いの際物という以外に想定出来ない。批評に対する批評というのは通常批評家同士の文芸論争という形で展開するのが筋であり、文芸批評批評家などという特定の立場を想定することは難しい。それはメタ的というより無限に重畳可能な同語反復であり、反復される都度直接対象からの距離が遠離り、無駄話に近附いていく。

一方では、批評という分野が何故成立するのかと言えば、それは多くの人々が関心を持つ現実の領域を直接相手取る言説だからである。批評というのは既存の対象に言及する言説であるに過ぎず、それ自体が社会的価値を創出しているわけではないが、文芸作品という社会的価値を持った現実の領域との照応関係を担保されているから人々の関心の対象で在り得るわけである。

実作を伴わず文芸作品の批評に特化した言説の立場というのは、その意味で客観的な有用性に存在の根拠を支えられている。文芸創作も文芸批評も、文芸に特化した専門性ということでは同じだが、個々の専門家が創作と批評という個別の役割にそれぞれ特化していることには論理的な根拠と公益がある。

それ故に、たとえば文芸批評の批評に特化した言説の立場が在り得るとしても、それは公益性の薄い窮めて個人性の高い言説ということになるわけで、それ自体が芸として面白いというのなら、それはそれだけの意味の「創作」だということになるわけである。

何故なら、批評という言説の価値は社会的な価値を持つ現実の領域との直接的な照応関係によって担保されているが、批評という言説が「何かについての言説」でしかない以上、批評を批評するというメタの次元に立つことで価値を担保する対象との照応が途切れるからである。

であるならば、その言説それ自体が自力で価値を担保しなければならなくなり、「それを装った何か創作に類するもの」「それ自体価値を持つ創作物」でなければ社会的価値とは成り得ないのだし、それはたとえば、文芸批評の風刺的パロディとしての文芸創作か、もしくは「文芸批評論」とでも言うべきそれ自体が新たな知の価値を証すものでなければ人々の関心の対象では在り得ない。

一般的な意味で批評の言説に客観的な存在意義があるとすれば、それは第三者視点における有用性が担保されている必要があるということである。存在意義のない言説というのは発信手段さえあれば個人の自由意志で幾らでも発信出来るわけだが、それは本人以外の誰にとっても無意味な言説でしかない。

また、批評の言説が社会的価値を持ち第三者に対して有用性を持つ条件として、直接の対象に対する或る程度の知識が担保されていることが必須で、これもまた直接対象との照応と言説の妥当性を担保する必須条件であるが、直接対象からの距離が遠離るに連れ言説の成立に必要な条件としての専門知識の重要性が薄れていく。これもまた当然のことで、だからこそ批評の批評が有意義である為には、普通一般には直接対象に対する専門知識を担保された批評家同士の論争という形に落ち着くわけである。

Aの発言に対してBが批評を加える、そのBの発言に対してCがさらに論評を加え、さらにまたDが、というふうに重畳していくなら、Dの時点ではAに対する知識がなくてもCの発言に言及が可能だが、本来メタ議論というのであればDの論者はABCの三者に対する妥当な知識を有していなければ無意味なはずである。大半のニセ科学批判批判はこの間の事情を胡麻化して、一応言説が成立するからというだけで有意義な批判であるかの如くに振る舞っているわけである。

その文脈で、たとえばニセ科学批判批判というメタ議論の領域が客観的な存在意義を具え得るとすれば、第三者視点におけるどのような有用性が担保されているのか、そういう話にもなるだろう。まず思い附くのが、ニセ科学批判の言説の精度を高める為の批評的言及という意味合いである。ニセ科学批判者がニセ科学批判批判者の言説に対して積極的に耳を傾けるとすれば、それはそのような動機に基づくものだろう。

ニセ科学批判の論者は、現実の対象に内在する欺瞞性と社会的な悪影響を根拠として批判しているのであるから、自身の言説の精度を高めることに積極的である。ニセ科学が何故蔓延しているかと言えば、それは一般的に儲かる商売の種だからである。疑似科学ではなくニセ科学を相手取るのであれば、それはおおむね詐術的なカネ儲けと密接に関連しているわけである。つまり、大きなカネが絡む問題だから、批判するほうもされるほうも伊達や酔狂でやっているわけではない。

大きなカネが絡む事柄だけに、合理的に妥当な批判を加えられたからと言って、ハイそうですか、ごめんなさい、と素直に受け容れる相手などというのはそうそういないわけである。おおむねそういう相手は合目的的に相手の批判を封殺しようと努めるのであり自らに有利な要素を強調し不利な要素を否定しようとするのだから、その次元の具体にまで降りてくると現実的な社会闘争の性格を持つ。

ニセ科学を批判する側だって、インチキ商売なら幾ら叩いても構わないが正当なカネ儲けにまで余計な口出しをして邪魔をする権利はないわけで、そのような倫理と実効の兼ね合いにおいて為されるべき言説である。さらに言えば、社会闘争の具体にまで降りてきた段階では相手に勝てる言説でなければ意味はないわけで、おそらく現時点でニセ科学批判の妥当性を計る最もシビアな基準とは、apj さんが仰るように「法廷で勝てる理路を具えていること」である。

裁判に負ける言説というのは、社会的に健全な良識に照らして他者の利益を損なうほどの正当性を持たないと判断される不当な批判であるということになる。それ故に、係争の具体の次元にまで降りてくる社会闘争をニセ科学商売と闘うのは、プロの科学者以外の手には余るということになるだろう。オレなどがホイホイと知識もなく現実の企業活動を公に批判出来る立場にはないわけで、そこは慎重を心懸けている。

ネットコミュニケーションの次元でも、そこまでシビアな基準は適用されないとは言え公益を動機として他者の不当を批判する言説である以上、不当に亘る批判は自身の能力で可能な限り回避しなければならないし、それが面倒くさいとか言うのならば、黙っているほうが怪我はない。それ故に、ニセ科学批判の論者は常に自身の言説の精度を高いレベルで研鑽したいという動機を持っているはずである。

もしもニセ科学批判批判に批評的機能があって、論者の言説の精度を高める効果があるのであれば、互いの立場の違いに基づく活発な議論はあってもそれは穣りある討論だと言えるだろうし、ニセ科学批判もニセ科学批判批判も同等な公益性を具えていると言えるだろう。しかし、現実にはその言説による誤解の流布を阻止する目的の議論に引き込まれることが専らであり、その意味でまず事実性の次元において批評的機能を具えたニセ科学批判批判の言説というのは存在しないわけである。

それ以前の基本的な問題として、ニセ科学批判批判一般に共通するのは、通常特定の対象の批判に必要とされるはずの対象に関する詳細な知識や妥当な理解が決定的に欠けているということである。前述の通り、通常この種のメタ批評には、批判対象が相手取る分野に関して批判対象と同等の知識を持っている必要があるはずであるが、詳細な科学的知識に基づいたニセ科学批判批判の言説というのは、寡聞にしてオレは識らない。

議論が成立しているように見えるのは、科学的に妥当な議論が交わされる為には、科学的な基礎訓練を受けている論者の間でタームや理論や方法論に対する妥当な理解が共有される必要があるという、まさにその故であって、そうではない論者は同じことを語っていても専門家とは決して議論が噛み合わない。厳密に定義された言葉の意味や省略された前提が共有されていないからであり、そもそも話が通じないのは当たり前である。

玄人視点で視れば議論の成立しない素人が出鱈目を言って暴れているようにしか見えないが、素人から視るとその間の事情が必ずしも明らかではない。素人視点では、討論に勝つということは「言い負かす」ということだが、そもそも議論が成立していないのだから「言い負かす」ことは困難であり、言い負かされない為には単に自説が正しく相手が間違っているということを狂信する頑固さがあれば好いからである。

このような相手と議論するには、相手が根負けするまで言葉の通じない素人の暴論に附き合って、意見の矛盾点を淡々と指摘し続け、相手が思い附きそうなことを先回りして潰していくしかない。その意味で科学の専門教育を受けた人間は剰り不利ではないわけで、科学というのはその種の素人が思い附きそうな考えを検証して潰していく作業の積み重ねだったわけだから、大概の思い附きは過去の蓄積に類例がある。

殊に頑迷な素人論者ほど呪術的で原始的な心性の持ち主なのだから、比較的歴史の黎明期に属する初歩的類例で対応可能だろう。困るのは、剰りに物の考え方が出鱈目過ぎて次にどう出るか予想出来ない相手で、どうせ出鱈目しか言わないのだが、出鱈目が出鱈目であることを論理的に説明するには一種の表現上のノウハウが必要である。ニセ科学批判に経験の積み重ねから蓄えられた専門的領域があるとすれば、おそらくこの辺に対するノウハウではないかと思う。

その意味では、狂信的な素人との間で議論を交わす為には一応の科学的専門教育を受けている必要があり、ここでもオレなどの科学素人の出番はない。その言説が正しいことや間違っていることの合理的な説明が理解出来るというだけではなく、正しいとされる知識を自ら保持し相手の言説と照らし合わせ、何処がどのように間違っているかを正確に指摘する必要があるからである。常識で考えろ式の議論では決して狂信的な素人を論破することは出来ないのであって、常識がないから狂信者なのである。

そういうふうに考えていくと、たとえば容易くこの種の素人議論に陥るニセ科学信奉者やニセ科学批判批判者の主張というのは、それ自体不合理な誤解や思い附きによって構築された意見ではないかという疑問が生じてくるわけである。正しいことを言っているのだが議論のテクニックや語彙に問題があるとか、科学的専門知識がないから科学者を言い負かせないという議論の実態論の問題ではなく、そもそもその主張自体に合理的に妥当な理路がないのではないかという話になってくるわけである。

だとすれば、ニセ科学批判者とニセ科学批判批判者の間に意見の対立があるのは、それは専ら後者の自然科学に対する無理解や基礎的知識の欠如が原因で、無根拠な思い附きを狂信するから対立が生じるのだということになる。それこそ「人間によって合理性が認められる」という基準に則って言えば、ニセ科学批判の側が追い詰められている議論の局面など一度も視たことがない。

視られるのは常に、剰りに矛盾した出鱈目を前にどのように表現したら効果的であるかを考えあぐねて長考している図式ぐらいである(笑)。そもそもここで謂うニセ科学批判批判というのは科学の専門家からはまず出てこない言説の在り方なので、必然的にその論者は科学の専門知識に欠ける素人になるのである。そういう意味で、「専門家」というタームに過剰に反応する人がいるのも極自然な話である(笑)。

それ故にニセ科学批判批判者は、おおむね決まって最終的に自然科学の規範そのものを否定する。それは何らかの思想に基づくものというより、論者にその領域の専門知識がないからであり、自身が知的アドバンテージを持っていない土俵で闘うのは不利だからその規範そのものを無効化しようと目論むのだろう。しかし、そうなるとニセ科学批判というのは科学という規範を巡る問題性に関する言説なのだから、その規範自体を無効化する議論には、ニセ科学批判の視点でどんな批評的意味もないということになる。

誰でも思うことだろうが、対象についてわかっていないにも関わらず、それを妥当に批判することは可能なのかというのは極自然な疑問だろう。それこそ際物的な戯れ言のテクストとしてなら意味はあるだろうが、少なくとも普通一般に謂う意味でのマトモな批判では在り得ない。ニセ科学批判批判は常に科学的専門知識を迂回した論点で対象を批判しようとするが、土台そんな自分にも勝てる議論を成立させる為にでっち上げた論点になど何の意味もない。

つまり、ニセ科学批判批判に特化した特定の立場などというものは、一般に戯れ言のテクスト芸として以外では成立の余地などないのである。普通一般的な意味におけるニセ科学批判の言説に対する妥当な批判は、まず第一に本職の自然科学者から、次いで見解を異にするニセ科学批判者からもたらされるのが当たり前の話なのである。

少なくとも、ニセ科学批判批判に特化した特定の立場が特殊な例外として在り得るとすれば、対象に対する詳細な知識と第三者が納得可能な目的性と根拠に立脚しているべきであり、そうでないとすれば「オレが言いたいから言ってるだけ」「言いたいことを言うのは自由だろ」式の難癖だということである。

さらにここで卓袱台返しの話をするなら、これまで敢えて曖昧に語ってきたが、所謂ニセ科学批判批判という言説の不思議なところは、個々のニセ科学批判の言説を批評するものではなく、「ニセ科学批判という行為の総体」を否定的に語ることに特化した言説だということである。Aの言説やBの言説のここがおかしいという話なのではない、ニセ科学を批判する行為自体を批判しているのであり、つまり、「ニセ科学という問題性の立て方」そのものを否定しているのである。

それは普通想像するように、所謂ニセ科学として括られる現実の領域を価値評価した上でそれを批判するニセ科学批判の言説の在り方がおかしいという話ではなく、ニセ科学として括られる現実の領域の問題性一切を捨象して、ニセ科学という問題性の括り方しか相手にしないという言説の立場である。たとえば現実にどんなインチキな商売が行われていようと、それに無駄なカネを出す人間がどれだけいようと、もっとシリアスな社会的影響があろうとも、その領域の現実の事柄には一切言及しないし問題性として認めないという立場である。

これまでにオレが接し得た範囲の言説を視る限り、現状の所謂ニセ科学批判批判の言説には実効的批評機能がないだけではない。おおむねニセ科学批判批判の語るところというのは、大別して「ニセ科学批判には意義がない」「ニセ科学批判は間違っている」という類のものである。つまり、いずれにせよニセ科学批判の存在を許さないという方向性の言説であって、その目的の為なら手段を選ばない、論旨の不整合や論点のブレを厭わない、議論が低レベルの罵り合いに堕すことを寧ろ望んでいるという窮め附けの合目的的な性格がある。

それが何故不思議かと謂えば、現実に科学を装うことで詐欺的な商法が罷り通っておりその被害者が後を絶たない以上、それを批判的に語ることには公益上の妥当性があるわけだが、この種の言説の存在理由を否定するニセ科学批判批判の言説には、たとえばニセ科学批判の言説に内在する明らかに公益に反する側面の指摘がない限り、何ら公益上の存在意義などないからである。

おそらくニセ科学批判に長年携わっておられる論者には自明のことなのだろうが、ニセ科学批判批判の言説というのは、ニセ科学批判という公益に叶う言説の領域を攻撃する言説として、その攻撃の客観的根拠を自ら明らかにしない言説である。トリビアルな細部に対して科学的な知識に欠ける指摘で論難してくるが、それが反論されるとまた別の細部に対して同様の論難を繰り返す。この無限の繰り返しであるが、何故そのような不正確で不毛な論難を情熱的に繰り返すのか、その行為の妥当性の根拠を決して自ら明らかにしない言説なのである。

こういう言説が何故ネットに存在しているのかと言えば、それがネット言説だからだというのがオレの考えである。たとえばネットの登場以前なら、今現在ニセ科学批判を積極的に展開しておられるブロガー諸氏の努力は、たとえばマスメディアにコミットしている論者以外は、自身の周囲の現実的な関係者への影響力に留まっていたことだろう。

ネットコミュニケーション、就中ブログの登場によって個人の発話の到達範囲が爆発的に拡張されたわけだが、それはつまり、マスコミという上位の検閲機関が介在せず個人が自身の意志に基づいて自由に情報発信出来るようになったということで、そうなるとたしかに公益性の高い言説の活発な交流が可能になり、そのシナジー効果という得難いメリットが得られるが、その半面において、公益性のまったくない言説も同等の発信の権利を持っていることになる。

つまり、ネット上の言説の存在を根拠附けるのは、マスメディアの場合とは違って公益性や第三者視点の存在意義ではなく、発話者個人の私的な権利なのである。環境と経済さえ許せば誰でも平等に発話出来るからネットコミュニケーションがこれだけ活発化しているのであり、その意味で発話者当人以外には誰にとっても無価値な言説も平等な発信の権利を有している

だとすれば、本質的に個々のブロガーは公益性の高い発話を心懸けるべき義務などないということである。理念的な意味で謂っても、ブログや掲示板やSNSは利用者に提供されている通信サービスなのだから、法に抵触しない範囲でどのように利用するかは利用者の自由である。

それらのサービスを、一般人が行使可能なマスへの発信メディアと視るか、ケータイに類似の私的なコミュニケーションツールと視るかは、完全に利用者の自由である。法が禁じているのは著しく公益を損なう行為のみであって、公益を目指すべきだなどとは一言も規定していない。本質的にネットの発話は一種の私的娯楽なのであって、自分の為だけに自由に利己的に行う権利がある。

おそらく、ニセ科学批判批判というのは、単に「気に入らない」という無根拠且つ個人的な理由で行われる利己的な発話なのであり、それはネット言説だから存在の余地があるのであり、それを許す原理が同時にニセ科学批判のネットコミュニケーションを活性化しているのだろう。

それ故に、基本的に所謂「ニセ科学批判批判」と括られる言説の本質とは、ネット上のニセ科学批判言説に対する悪意的な攻撃もしくは拒絶の意志表明という、ただそれだけの意味しかない。何故そんな無意義な言説が成立し得るのかと言えば、ネットコミュニケーションにおいては、法に抵触しない範囲で他者に対する悪意を自由に表現し攻撃を行う権利が万人に保証されているからであり、それを抑制するのは何ら強制力を持たない漠然とした社会倫理に過ぎないからである。

オレの個人的な結論としては、所謂ニセ科学批判批判の言説というのは、悪意や情緒的嫌悪感、そして無論利害関係に基づく反撥等に根を持つ、一種無視出来ない反啓蒙の影響力を具える公益に反する利己的発話で、ニセ科学批判と同一平面上にある並列的な言説の領域ではなく、寧ろニセ科学と同一平面上に領域を占めるニセ科学批判が相手取るべき対象であるように思う。

それは別段、ニセ科学批判批判と問題性を共有して議論すべきだという話ではなく、その逆である。これまで視てきたように、ニセ科学批判批判の核心となる問題性とはニセ科学という問題性の立て方自体を否定もしくは拒絶する意志なのだから、現実の領域との照応関係を根拠にしてそれを前提視するニセ科学批判とは、最初から問題性を共有していない。そもそも噛み合っていない議論なのだし、ニセ科学批判者の大半はすでにそのことに気附いているだろう。

ニセ科学批判の言説はニセ科学という現実の領域を対象化し問題性として据えているわけだが、ニセ科学批判批判の言説というものはニセ科学という問題性との関連において対象化して扱われるのが相応だろうということである。

ニセ科学批判批判がニセ科学という問題性の立て方を認めない以上、ニセ科学批判の側でもニセ科学批判批判の問題性の立て方を認める必要はない。最初からすれ違っている議論なのだし、すれ違っている立場の間でも共有されているべき公的発話の価値規範と言えば、一種の公益性ということになるだろうが、ニセ科学批判批判が何ら公益的妥当性を明示しない以上、そのような言説の立場に誠実に向き合う義理はない。

だとすれば、ニセ科学批判の立場においてニセ科学批判批判に向き合う場合に問題性の核心となるのは、ニセ科学批判批判の言説に伴う影響のニセ科学性だということになるだろうし、ニセ科学という問題性を認めずに否定乃至拒絶するという以上、それはニセ科学批判の立場から言えば、批評的言及の間合いではなく利害が対立する言論闘争の間合いで対峙すべき言説だということになる。

つまり、たとえば水商売ウォッチングを攻撃する水商売関係者の言説と同じ間合いで接すべき言説の立場だということである。たとえばそのような場合、その関係者がニセ科学批判と問題性を共有していないのは明らかで、ニセ科学批判の立場ではその対象のニセ科学性と社会的影響を問題性の核心として視るわけだが、関係者の立場では自身の生業に対する社会的攻撃としてそれを視るわけで、問題性の核心にあるのは自身の利潤追求の権利主張である。

その商品の効用に本当に科学的根拠があるかどうかとか、その商売によってどのような社会的影響が波及していくのかというのは、ぶっちゃけ関係ないわけである。公益を損ねない限り万人に利潤追求の権利が許されている、だから我々は公益を損ねていないし健全な商売をやっていますよ、という主張を為し得ることが問題性の核心であり、実態における科学的根拠の妥当性や社会的影響の如何というのは検証的な課題ではない。そのように公に主張し得ること、そして公の良識に照らしてそのように認められることが最も重要なのであり、その意味では結論ありきの立場であって、実業である以上このような問題性の立て方自体は何処も間違っていない。

問題があるのは、事実において科学的な印象に基づいてアピールされた商品の効用の科学的根拠に明白な疑義があるからであり、その商売に明らかな社会的悪影響や社会的不正義が伴うと視られるからである。天羽優子氏のようにそれを裁判によって明らかにするということは、その理路において必然的な社会闘争のプロセスとなるわけだが、ニセ科学批判批判という言説の立場は、このような次元の現実性に対して一切関心を持たず責任も負わないという立場である。

その意味で、ニセ科学商売が科学的妥当性や社会的悪影響そのものに対して一切関心を持たず、その次元の現実性に対する責任を回避しようと努力するのと同じである。ニセ科学と同様にニセ科学批判批判だって、所謂ニセ科学問題として括られる現実の領域において、科学的妥当性を持たない言説が流布することや社会的不正義が行われることに対して決定的に関心を欠いているのであり、そのアスペクトにおける自身の言説の影響を一切考慮しない言説の立場なのである。

だとすれば、ニセ科学批判の問題性の捉え方においては、ニセ科学もニセ科学批判批判も同一平面上にある対象として扱うのが妥当ではないかと思う。ニセ科学という問題性の立て方を認めずそれと照応する現実性を無視する以上、ニセ科学批判批判には字面の印象とは違って批評的な機能はないのだから、そのニセ科学的な影響力の側面だけがニセ科学批判の射程に重なっているわけである。

|

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/136645/17750021

この記事へのトラックバック一覧です: 反科学の情熱:

» ちょっと分かった [Chromeplated Rat]
黒猫亭さんの反科学の情熱と云うエントリを読んで、なんだかちょいと蒙が啓かれたような気分になっている。個人的な事柄に属する部分なので、「余談」カテゴリに分類。 「ニセ科学批判」批判について、どうしてぼくが時間とエントリを費やして考えているんだろう、と少し自分で不思議だった。 自分の言説に対立するものだから反論を行うのは当然、と云う感覚は実はぼくにはあまりなくて、そこに感じているのは所謂「人体の70%は水分」理論と同種のもので。感覚としてはそこが曖昧だったのだけれど。 そういうふうに考えていくと、... [続きを読む]

受信: 2008年1月20日 (日曜日) 午前 06時43分

コメント

 丁寧な議論ありがとうございます。後で、この議論を踏まえて私の方でも何か書きたいと思います。
 取り急ぎの連絡としまして、事実に間違いがあるようなので訂正をお願いします。
 文中に、
>天羽優子氏などは何度も告発されているわけで、
とありますが、告発をする側になったことはあってもされたことはまだありません。ウェブがらみで話が法的手続きに進んだのは、次のものです。

1)原告天羽、被告お茶の水大、情報公開訴訟
 企業からのクレームにより大学がウェブサイトの公開停止を決めた経緯をめぐって情報開示請求し、隠された部分が多かったため提訴。ただ、内閣府の結論次第で開示するという状態だったため、口頭弁論開始前に取り下げ和解。
2)被告飛騨の人(個人ですのでお名前伏せます)に対する告訴状を提出。罰金刑が確定。名誉毀損。刑事手続きです。
3)原告天羽、被告飛騨の人(上と同一人)。名誉毀損訴訟(民事)
 相手が出てこなくて不戦勝・
4)原告吉岡英介、被告お茶の水大、独立当事者参加人天羽。
 現在進行中の神戸地裁の事件。名誉毀損。ただしニセ科学は関係なく、原告の商売がマルチであることを揶揄した表現が問題とされた・
5)原告天羽、被告マグローブ株式会社。債務不存在確認等。
 被告の製品のステンレス材料に関する議論について、削除要求があり、権利侵害ではない正当な議論だということを確認するため提訴。来週第一回期日。
6)原告天羽、被告マグローブ株式会社、吉岡英介。名誉毀損等。東京地裁。
 吉岡氏が以前関わっていた磁気活水器に公取の調査が入った時、それを私のさしがねであると思い込んで「水は変わる」という本を自費出版しお茶の水大に送りつけたりウェブでも公開したりしたが、これが名誉毀損文書だった。

 「ニセ科学批判」をしても、案外、それ自体で提訴まではいきません。
 但し、「公開された宣伝内容に対する批判」と「製品に対する批判」は別のもので、実験せずにやってよいのは前者のみであるという区別は常に行っています。

投稿 apj | 2008年1月19日 (土曜日) 午後 04時26分

>>>天羽優子氏などは何度も告発されているわけで、
>>とありますが、告発をする側になったことはあってもされたことはまだありません。

失礼いたしました、完全にオレの認識不足……というか事実確認を怠っていたということですので、言い訳のしようもない軽率な記述でした。とりあえず当該箇所は削除しましたが、社会闘争の次元に降りていくプロセスの理解において一過程見落としていたということですので、そちらのご考察を踏まえて、もう少し踏み込んで考えてみたいと思います。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月19日 (土曜日) 午後 04時53分

 対応ありがとうございます。
 また、私のコメント中の「内閣府の」は、「内閣府の情報公開審査会の」に訂正させてください。

投稿 apj | 2008年1月19日 (土曜日) 午後 05時08分

>apjさん

あらためまして、どうもです。こちらの怠慢から一瞬とはいえ不愉快な想いをさせてしまって申し訳ありませんでした。速攻でツッコミを入れて戴いたので、伝播の影響の少ないタイミングで修正出来て幸いでした。後日この借りは更めて返させて戴きますね。

さて、本文に何かを附け加えるとするなら、おそらく専門家によるニセ科学批判に情熱的に喰い附いてくる非専門家のニセ科学批判批判論者の裏面の感情レベルでは、医療不信と似たような専門家不信の心性があるのかな、というのがずっと脳裏に引っ懸かっているんですが、この領域について具体的な実態を識っているわけではないので下手なことは書けないし、ちゃんと論じるには大幅な逸脱が避けられないということで、本文には盛り込まないことにしました。

推測ですが、ニセ科学批判批判の感情的なレベルの動機というのは、poohさんのところで謂われている「イノベーター」のような知的活動の専従者が、専門家の間でのみ意味共有されている議論を戦わせていることを漠然と不愉快に感じる、自分にわからないことなどは信じられないという心性もあるのかな、と。多分、ニセ科学批判の論壇を、一般的に日本医師会がそう思われているような閉じた圧力団体のイメージとして捉えているんではないですかね。

それから、論宅さんのエントリーなんかでは執拗に「あの一味」視する見方をしていますけれど、これをもう少し敷衍すると、多分ニセ科学批判者の間では活発な議論はあるけれど「喧嘩」がないというのが、一般的なネット論者には理解出来ないというところがあるんじゃないでしょうか。議論と喧嘩は全然違うわけで、利害対立の闘争の次元に降りてこないと「喧嘩」をしても意味がないんですが、そこのところネットのカオスの世界では議論も喧嘩も一緒くたな部分があるので、喧嘩しない奴らは仲良しこよしの合従連衡という雑駁な見方があるのかもしれませんね。

昔の仕事でクライアントから「あんたらは口角泡を飛ばしてつかみ合いするような議論をしないから信じられない」と言われたことがあるんですが(笑)、一般的には真剣な議論は必ず感情的な対立に発展するものだという見方があるのかもしれません。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月20日 (日曜日) 午前 04時00分

 抜けている部分を埋めることになるかどうかはわかりませんが、私の認識を書いてみました。
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=7506

投稿 apj | 2008年1月21日 (月曜日) 午前 01時30分

>apj さん

そちらでお返事させて戴こうかともと思ったのですが、長くなってしまいましたのでとりあえずこちらで。

怠慢な認識不足で今一歩詰めの甘い論考になってしまいましたが、apj さんの補足でおおむね足りている議論になるかな、という印象です。社会闘争に触れたくだりで明確化したかったことというのは、闘争一般には善悪正邪というわかりやすい対立軸だけではなく、法的に平等に権利を保証された二者間における利害衝突という主軸があって、応報という観点だけではなく相互の権利間の調停という視座があるということでした。

たとえばニセ科学批判という言説があるとしたら、ニセ科学と名指された企業の側は明らかに商売上差し障るわけで、それがニセ科学であるかどうかという観点を捨象した場合、これはどちらが善玉でどちらが悪玉かを決めるという問題ではないということですね。

ニセ科学と名指された商売とニセ科学批判のそれぞれの立場は、客観的にイーブンで議論の余地を残した問題ですから、議論の余地のある問題を前提視して当不当を判断するわけにはいきません。勿論科学者にはニセ科学言説の科学的妥当性を検証する力があるわけですが、社会的に視た場合、科学者の言説の妥当性は実際の発話で正当性を表明する以前に確定していることではないわけです。勿論ニセ科学的商売には明確な社会悪という側面はあるわけですが、ニセ科学批判の個々の言説の正当性というのは絶対的に前提視するわけにはいかない事柄で、企業の側が正しくて批判のほうが誤っている可能性を常に残しているわけですね。

その場合、ニセ科学の不当を暴くという悪者退治の観点だけではなく、或る特定のネット言説と或る特定の企業活動の利害が対立しているだけ、という客観的に公平な観点は常に存在するわけで、そのすべての成員が公平且つ平等な権利を保障されている社会においては、こっちのほうが基本的な対立軸であるわけです。ニセ科学批判には公益があるというニセ科学批判主観の理由で自由に無責任に商売を邪魔されたのでは、企業の側もたまったものではないわけです。

ニセ科学批判の正当性というのは、飽くまで「ニセ科学」という問題性の切り取り方における相対的なそれでしかないわけですから、たとえばニセ科学批判批判の視座においては絶対正義でも何でもないわけですね。一方で、社会の成員である以上、ニセ科学だろうがニセ科学批判だろうがニセ科学批判批判だろうが、個別の立場の如何に関わらずひとしなみに遵わざるを得ない優先的な規範として、社会的良識という大枠の規範があるわけです。

そして、批判をやめさせたいという主張と批判を行う権利の主張のどちらが社会的良識に照らして妥当かというのは、個々の事例毎に視ていく必要があるわけで、その為に裁判があるわけです。ニセ科学という悪者を批判する言説なら何でも無前提で正義であるというわけではない、という言い方になりますでしょうか。

apj さんが仰るように、商売に差し障るというのは当事者にしてみれば死活問題ですから、相手の視点で言えば「言いたいことを自由に言っただけ」で済まされては困るわけですね。その批判をやめさせる現実的な手段として法廷闘争があるなら、原理的に言ってニセ科学の側が提訴に踏み切る可能性が常にあるわけで、特定企業を対象としたニセ科学批判には、利害対立という観点において公平に法廷闘争を戦わざるを得ない可能性が常にあるわけです。

ここは観念的な考察ですから実態とかけ離れた部分があったわけで、現実問題としては一〇〇ゼロの話ではないですね、そもそも「普通の弁護士であれば提訴するのが難しい内容」であれば訴訟自体が成立しません。しかし、一方で「弁護士は普通はこんなもので提訴はしないと言う」訴訟も、訴訟を維持して結果を出すことそれ自体が目的でなければ、門前払いを喰うとしても無理矢理起こすことが出来るわけで、提訴それ自体が抑止力として働く効果を狙う場合もあります。だとすれば、可能性として常に存在する法廷闘争を戦うわけにはいかない現実的な事情があるならば、特定企業の活動に差し障るニセ科学批判の言説を安易に行ってはいけない、そういう理路としてapj さんのご意見を解釈しました。

今回のエントリーを拝見して、訴訟に発展した場合に正当性を持つ批判のガイドラインを整備されているということを識り、こうした認識に対する対応をすでに考慮しておられることが更めて理解出来ました。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月曜日) 午前 02時44分

こんにちは、黒猫亭さん。

少し「紛らわしさの罪」といった概念を補足させてください。「人の名誉を毀損してはならない」という原則が刑法第230条にあり、「公共の利益のために事実を摘示した場合」という例外が刑法第230条の2にあるわけです。

そして、判例規範として「事実の摘示」に関しては「真実と見なすに相当する事由」がある場合も含まれる事が示されています。これが、これから私が述べようとする「紛らわしさの罪」という事を法解釈的に明らかにした部分です。

我々は「悪いことと紛らわしい行為」もまた嫌悪されるという倫理規範の中で生きています。私は悪徳商法批判の中で、「もし、相手が悪徳商法でなかったら、相手に悪いことをしてしまう」と悩まれる家庭の主婦の方に「皆さんはスーパーで買い物をされるときでも、きちんとスーパーのカゴに商品を入れてレジまで運ばれていて、私物の入っている自分のバッグに商品を入れて運んだりはされないでしょ」と説明し、「もし自分のバッグに商品を入れてレジに運んだ人が、『スーパーの保安員や周りの人が自分を万引きするのではないかと監視した、失礼だ』と怒っておられたときに、『紛らわしいことをするからだ』と思われたりするのではないですか?」と問いかけたりしました。

お金を払って商品を買うという立場の人間でさえ、「万引きの様な悪いことする人間と紛らわしく思われたくない」と気を配るわけです。ましてや、商品やサービスを提供する立場の人間は、買うお客以上に「自分は悪徳な事業者ではない」と「悪徳な事業者と紛らわしく思われること」に対して距離を置く必要があるのでは無いでしょうか?

そういう意味では、たとえば、何らかの形できちんとした学術論文などの根拠まで手繰る事のできない様な科学的イメージ喚起のある広告を行うと言うことは、消費者がスーパーで「万引きと紛らわしい商品の取り扱いをする」という事に等しいか、それ以上の不備ではないかと思うわけです。本来、ニセ科学批判というのはこういう倫理規範の下で考えるべきことだろうと考えています。

投稿 技術開発者 | 2008年1月21日 (月曜日) 午後 05時13分

>技術開発者さん

どうも、いらっしゃいませ。もとより出発点はオレの観念論ですから、具体的な注釈や補足、修整やご批判等は歓迎するところです。何カ所か影響力の大きそうなところでご紹介戴いているようですから、今更「オレの私見です」は通りませんので、流布しては拙い誤解の余地があるのであればご遠慮なくご指摘をお願いします。

>>少し「紛らわしさの罪」といった概念を補足させてください。

念の為、apj さんが挙げられたニセ科学批判のガイドラインを、こちらでも再掲させて戴きます。

・製品そのものに対する批判は試験をしてからでないとやってはいけない。
・公開された製品宣伝の内容については、誰が批判をしてもかまわない。∵一旦公表された表現内容については誰がどう批判しても自由である。
・批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない。
・意見、論評の範囲を逸脱してはいけない。

このガイドラインを視るに、ニセ科学批判という言説が技術開発者さんの仰る「紛らわしさの罪」に対応するものであることがわかりますね。

たしか環境講座の安井先生だと思いますが、メジャーなメーカー製の立派な製品でありながらニセ科学的タームで宣伝したものを「製品がこれだけ高性能なのだから、ニセ科学などに頼らずそこを訴求したほうがよっぽど効果的だったのではないか」というようなことを仰っていましたが、製品そのものについては実際に現物を試験してみないと批判出来ないということですし、逆に製品に何ら瑕瑾がなくてもニセ科学的広告はそれ単独でダメだという話になりますね。

それを法的に根拠附ける説明が、技術開発者さんの仰る「紛らわしさの罪」という関係になるのだろうと思います。apj さんのところで仰っていた「不実証広告」という概念に基づいて「製品ではなく宣伝における」科学のイメージを借りた詐術を「誰でも自由に批判する」のがニセ科学批判の言説であり、「名誉毀損」というような利害対立の次元でその批判の正当性を保証する根拠が「公共の利益のための事実の摘示」で、その為には「批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない」という関係になりますでしょうか。

そこでapj さんのところのエントリーのタイトルである「訴訟を嫌がらないこと」に繋がるということになりますかね。いずれにせよ、潜在的に訴訟に発展する可能性を常に有しているわけですが、勿論、実際の訴訟は無駄な公費を遣わない為に訴訟が成立しないような強引な提訴を門前払いするわけだし、無理矢理提訴してもまず負けることはないから「訴えられる」ということを過剰に恐れる必要はない。

そして、オレが本文で語ったようなことは、健全な社会的良識を象徴する裁判という局面(その前段階に当たる法律家との相談も含みますが)において妥当な形で説明されるまで、その間の理路は無前提で成立しているわけではないのではないか、というような意味のお話でした。

たとえばapj さんのガイドラインから外れたニセ科学批判というものも当然在り得るわけで、技術開発者さんが解説された法的根拠がこのガイドラインで批判の具体に降りていくわけですが、「そういう批判内容」になっているかいないかで話が違ってくると思うんですね。たとえば「ニセ科学と紛らわしい本物の科学に基づいた製品」も在り得るわけで、これをイメージ的にニセ科学と短絡して批判するという事態も想定可能だと思うんですね。勿論、本職の科学者ならこの種の言説はスルーするわけですが、ニセ科学問題とはまったく逆の事態も想定可能なわけです。

その場合、真っ当に商売をしている事業者が無責任な批判で損害を被る可能性もあるわけですね。技術開発者さんの解説によると、こういう場合には「『悪徳な事業者と紛らわしく思われること』に対して距離を置く必要」を課せられた事業者の側の責任のほうが重いわけですが、それはつまり事業者のほうが紛らわしいことをし放題なら相対的に消費者のほうが弱い立場に置かれるからで、事業者と消費者が力関係の上で公平である為の条件附けだと思います。

その意味で、理念的には法律は事業者と消費者を公平に扱っているはずで、力の強い側や不当な行為によって得をしやすい側により重い義務を負わせることで調整を図っているということだと思います。そのような意味で「利害対立に基づく社会闘争の次元では互いにイーブンな立場だ」というようなお話をさせて戴いたわけです。これはつまり、この種の批判言論に附き物の「強者が相手なら何をしても好いということではない」という議論を踏まえた部分です。批判に対する批判を相手取る記事ですから、そこは押さえておく必要があるだろうと考えたわけですね。

事業者の側で不実証広告を打っているというのであれば、また妥当な手法で為された批判であれば、その批判は正当ということになりますが、そのような事実がないのに無根拠な批判を加えたとか粗雑なやり方で為された批判であれば、不当な批判だということになる。事業者が批判者を訴えるという局面になれば、実態としてはその両様の可能性があるわけで、裁判というのは実態がそのいずれであるかを問うものなのだから裁判所はこの両者を利害の対立する公平な二者として扱うはずである、そういう意味でした。

ただそこで、apj さんから「脅されることはあっても実際に提訴されたことはまだ一度もない」というお話を伺い、その為のガイドラインを提示して戴いたわけで、実践の次元ではまず訴訟に至らないという注釈を戴いたわけですね。さらにそこへ技術開発者さんから法的な側面に対する解説を戴いたという流れになるわけで、本文の理路においては脇道ではあるのですが、観念論の曖昧さが誤解を招きかねない部分に対して適切な修正と補足を戴いたものと解釈しています。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月21日 (月曜日) 午後 08時59分

こんにちは、黒猫亭さん。

>その場合、真っ当に商売をしている事業者が無責任な批判で損害を被る可能性もあるわけですね。技術開発者さんの解説によると、こういう場合には「『悪徳な事業者と紛らわしく思われること』に対して距離を置く必要」を課せられた事業者の側の責任のほうが重いわけですが、それはつまり事業者のほうが紛らわしいことをし放題なら相対的に消費者のほうが弱い立場に置かれるからで、事業者と消費者が力関係の上で公平である為の条件附けだと思います。

というか、「真っ当」という事の意味をどのように捉えるかだろうと思います。万引きをしない消費者を「真っ当」と捉えて、「万引きしなければ、万引きと紛らわしいことをしても真っ当な消費者」とするなら、実際に万引きをする者を見つけ出すのは難しくなります。「真っ当な消費者は、万引きしないだけでなく、万引きと紛らわしい行為もしない」とおき、万引きと紛らわしい行為をしてしまった場合に、「自分が紛らわしい事をしたから疑われた」と疑われたことの責めを自分に帰するような部分も含めて「真っ当」と考えるべきではないかと思うわけです。少なくとも私の周りで見かける消費者はこういう意味での「真っ当さ」を持っているように思っています。

消費者と事業者がイーブンという意味で考えるなら、当然、事業者の「真っ当さ」にも、「不実証広告をしない」だけではなくて、「不実証広告と紛らわしい広告をしない」も含まれ、「不実証広告と紛らわしい広告をして悪徳商法と間違われたときはその責めを自分に帰する」部分も含めて「真っ当」ではないかと思うわけです。

そう考えると、ニセ科学批判により「真っ当な事業者」を誤爆してしまう可能性というのは、かなり低いものではないかと考えてしまうわけです。多くの人が「真っ当さ」の線引きを「不実証広告をしない」においてしまうことで、いたずらに誤爆を恐れすぎている気がするので説明してみました。

投稿 技術開発者 | 2008年1月22日 (火曜日) 午前 05時10分

>技術開発者さん

例によって少し長いですが、お附き合い戴ければ幸いです。

つまり、社会的な真っ当さの基準においては「誤解を招く行為を行ったら誤解されても仕方がない」ということですかね。事業者であれ消費者であれ、誤解されない為には誤解を招く行為を「積極的に避ける」義務があるのだし、誤解を招く行為をした場合には誤解した側の「責任は問われない」、そういうところでしょうか。

ニセ科学批判が相手取る領域の問題性は、不実証広告よりもう少し広く「不実証広告と紛らわしい広告」も含まれ、ニセ科学広告とニセ科学批判の夫々の利害が対立した局面においては、ニセ科学批判側はその根拠としてニセ科学広告の「紛らわしさ」を示すだけで十分であるということになりますかね。さらに、事業者側の責任がより重く設定されているのは、「自身の選択においてその立場を占める者」だからである、技術開発者さんの一連のご説明を纏めればこのようなものになるとしたら、素人なりにその間の理路は理解出来ます。

ただ、この観点における技術開発者さんの修整は注釈として受け容れるとして、やはりそれはこの局面における事業者側の不利な部分を公益という観点において説明する特定の視点ではあると思うのですよ。オレが押さえておきたいのは、たとえばapj さんが新エントリーで仰った、

>>民事訴訟の目的は正義の実現ではなく、私的紛争の解決である。その途中経過として真実が明らかになったり、結果として正しい方が勝つこともあるが、それは、たまたま「正しい方」が「真実を立証する活動をした」ことが認められたからに過ぎない。

という「たまたま」という部分なんですね。それに続く手札論というのは公益の観点というより有利に裁判を運ぶ為の具体論だと思うのですね。「裁判所は積極的に真実を明らかにすることはない。真実を明らかにするのは、争う当事者の責任である。主張がいくら正しくても、立証が不十分なら敗訴する」というこの部分は、つまり裁判所が事業者と批判者の間の対立を同等の立場に立つ二者間の私的紛争として認識しているということだと思うのですが、その次元の事実性を記述することが目的です。

その部分が原則論であって、「手札」というのは実態論だと思いますが、公益性という観点で「手札」を読み解くのは、紛争当事者の一方の立場の観点に立った見方だと思うんですね。オレが本文で押さえておきたかったのは、民事訴訟という具体的な闘争の次元に降りた場合、それは原則として利害が対立する二者間の私的闘争として視る見方において裁定されるという事柄であって、ニセ科学批判それ自体の法的な側面における正当性の根拠や有利性の程度ではないんですね。

技術開発者さんの注釈は注釈として、それを織り込むならば、事業者側が「不実証広告と紛らわしい広告を打っているわけではない」「ウチは何ら愧るところのない真っ当な商売をしている」と主張する局面までを想定して、対等な二者間の利害対立に還元し得る次元というものを押さえておく必要があるだろう、そういう目的で書いたわけです。

そうでなければ、やはり「正義は勝つ」「正義『だから』勝つ」「正義『だから』どのように行っても好い」式の誤解を招くのではないか、そういう目的性において押さえておくべき筋道だと思ったわけです。これまで技術開発者さんの言説を追ってこられた方ならそのような誤解はないわけですが、そのような読み手だけに向けられた言説であればそもそも技術開発者さんが補足される必要もないわけで、やはりその種の誤解に対する手当も必要ではないかと思います。

またapj さんがご自分のブログでオレのコメントを修整されたご意見が、

>>法的救済の門戸を閉ざさないため、提訴するための敷居は相当低いし、門前払いされることは現実には滅多にない。

ということであれば、要するにapj さんがこれまで訴えられなかったのは、訴えることの利益よりも不利益が上回ったというそれだけの理由だったということですね。

おおむねニセ科学商売というのは、不実証広告かそれと紛らわしい広告を打っているものなので、批判者の側が不利になる事例は現実にはそれほどないということなのでしょうが、それはそれとして、民事訴訟というのは、たとえばそれが真っ当な商売ではないという根拠に基づいて行われた批判が名誉毀損で訴えられたと想定した場合、その批判が法的な基準に照らして真っ当であるかないかを両者に「公平に」裁定するものであるわけでしょう。

裁判の場面でたとえば批判側が勝つとしたら、それはたとえば個別の「不実証広告と紛らわしい広告」に対する批判の真っ当さを、裁判の過程を通じて批判者側が立証出来たからであって、批判する行為自体が無前提で真っ当だからではないでしょう。つまり、技術開発者さんの仰る「紛らわしさの罪」というものがあるとしても、個別の広告がそのようなものであるかどうかというのは、裁判の場面では前提視されているわけではないし、そのような前提に立って争われるものではないのではないか、ということが言いたいわけです。

apj さんが「正義が勝つというフレーズは民事訴訟にはとことんそぐわない」と仰ったようなアスペクトの問題ですね。そこをまず押さえておかないと、たとえば「負ける可能性は『低い』」「それは裁判が『真っ当さ』を基準に裁定されるからだ」という理路が、容易く「負ける可能性は『ない』」「それは正しいからだ」にスライドして受け取られる危険があると思うのですね。

そこを押さえておかないと、ニセ科学批判は正義なんだから事業者のことはどういうふうに言っても好いんだとか、ニセ科学批判は正義なんだから裁判になっても勝つんだという誤解を招きかねない。おおむねそれで不都合は出ないとしても、それはやはり誤解には違いないと思うんですよ。

勝つことが多い、負けることが少ない、それと必ず勝つ、絶対に負けないというのは違うことですが、窮めて紛らわしい。何故勝ったり負けたりするのかと言えば、原理的な部分でニセ科学と名指された事業者もニセ科学を批判する言論者も民事訴訟の局面では利害の対立する対等な二者として扱われるからだ、こういう理路は押さえておくべきなのではないかと思うわけです。

おそらく技術開発者さんの動機において補足を行うとすれば「ニセ科学批判によって蒙る不利益」が過剰に見積もられ、ニセ科学的広告に対する一般人の追及が萎縮するような誤解を防ぐ目的においてでしょうが、ネット言説を扱った本論において、オレが補足したいと思っているのは、「行為の『真っ当さ』を名分とした非理の可能性」もしくは「『真っ当な』行為を行う側の倫理」についてなんですね。これはどんな分野であれ、ネット言説である限り附き纏う問題だと思うんですね。

たとえばapj さんが挙げられたガイドラインですが、識っていれば遵守可能な条項もありますが、一般人には少し判断の難しいものもある。「批判の内容が、現行の科学に照らして妥当でなければならない」という部分などは、自身が科学者であればその常識知に基づく判断が即ち「現行の科学に照らして妥当」であるという確信が持てますが、そうでない場合は、自身の常識的合理性が必ずしも科学的妥当性を保証してくれるというわけではない。そこに当然自己責任に基づくリスク要素はあるわけです。

また、「意見、論評の範囲を逸脱してはいけない」というのは一種言論のテクニカルな側面で、ナイーブな論者がついついその範疇を逸脱する局面もあるだろう。たとえばそれが法廷闘争の次元に降りた時点では、本職の法律家の助言も受けられますから過剰に恐れる必要はないと言えますが、当たり前のこととして、批評の言説は法廷闘争に先立つその原因であって法廷闘争それ自体ではないわけです。言ってしまってから、係争に発展してから本職のサポートを受けても、それは事後対応ということになるわけです。

たとえば今現在係争中の当事者であるapj さんのご意見と、技術開発者さんのご説明の間には、矛盾はないが欠けた輪があると感じられます。それやこれやを考え併せると、ニセ科学を批判するという公益に適うネット言説においてもその言説の「真っ当さ」を過信することなく、自身の言説の研鑽や情報のアップデートの努力が必要だろう、本文で書きたかったのはそういう理路になります。

そのような流れに沿った形で何かご助言を戴けると有り難いのですが。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月22日 (火曜日) 午後 11時06分

はじめましてですにゃー
自然科学の立場から「××批判」を行なう場合、それが科学主義的なものに陥ることはあるわけですにゃ
(例えば最近のドーキンスの宗教批判)
まあ、「ニセ科学」の場合は向こうのほうから科学を僭称しているのであって、もともと科学の土俵で争うべき問題であり、「ニセ科学批判」を科学主義と批判しても意味はにゃーわけですが。
とはいえ、「ニセ科学批判」の立場のヒトにはどうも科学主義的な世界観のお方もけっこういるのではにゃーかとも感じたりしますにゃ。最近のドーキンスに共感しちゃっているヒトも多いみたいだし。

科学主義は積極的に批判すべき「イズム」のひとつであると思うし、自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまうことは理解できなくもにゃーのです。それは確かに被害妄想かもしれにゃーけど、妄想にも三分の理というか・・・・(三分は多すぎかな)。

僕自身は文系に偏った書痴であるので、科学主義警戒の感覚だけはなんかわかるのですにゃ。まあもちろん、社会学を標榜して汚物言論を垂れ流すどっかの馬鹿のような存在が一番迷惑であることにはかわりにゃーのですが。

投稿 地下に眠るM | 2008年1月23日 (水曜日) 午後 04時15分

地下に眠るMさん、
 科学主義を批判するのはいくらでもやってかまわないのだけど、ニセ科学批判をしている時にそれを持ち出すのは明らかに間違いというか誤爆ですよね。
 科学主義を警戒しているというのが、誤爆を正当化する理由にはならないと思いますけど。

 仮に、ドーキンスの宗教批判に共感している人が居たとして、その人が、明らかな科学の詐称を批判している場合に、ドーキンスに共感しているからという理由でその批判に異議を唱えるのあはおかしいですよね。その人が、科学主義批判として論じなければならない内容を主張した場合に批判するというのならわかりますが。

投稿 apj | 2008年1月23日 (水曜日) 午後 10時19分

>地下に眠るMさん

はじめまして。オレも理系の基礎訓練を放棄した文系のなり損ないですから、そういう気持ちはわからなくもないですけどね。ただ、科学主義と宗教批判とニセ科学批判は完全に分けて考えるべき事柄でしょう。ドーキンスが宗教批判をしたのは彼の個人的な心性の問題であって、科学者であることと必然的な関係にあるわけではないし、ニセ科学批判を行っている人間の中にドーキンスの批判にシンパシーを感じている人間がいるとしても、それは科学者であることとも、ニセ科学を批判していることとも必然的な関係があるわけではない。

自ら「文系に偏った書痴」を自認される以上、人間には多面的な領域があるということはご理解戴けるでしょうし、その多面的要素群はすべて必然的な関係によって結び附くわけでもないということもご理解戴けますよね。余所で一度語ったことですが、たとえば社会的に偉大な業績を挙げた偉人の生涯を振り返って、彼の生涯のすべてをその業績と関係附けて成功要因として語る、たとえば「戦国武将に視る○○術」タイプの物事の見方が単なる牽強付会の物語に過ぎないこともおわかり戴けるはずです。

つまり、人間というのは統合的に整合附けて解釈するわけにいかない非常に多義的で断絶した内面を抱える存在であるということで、こういう人間観は文系の得意領域ではないかと思いますので、その伝で言うとニセ科学批判者の中にドーキンスの宗教批判にシンパシーを感じる人がもしいたとしても、それを以てニセ科学批判一般を語ることには無理があるのではないかと思います。以前のエントリーで警官を引き合いに語ったことと類縁の話ですね。

また、

>>とはいえ、「ニセ科学批判」の立場のヒトにはどうも科学主義的な世界観のお方もけっこういるのではにゃーかとも感じたりしますにゃ。最近のドーキンスに共感しちゃっているヒトも多いみたいだし。

というような括り方は、本来個別の論者毎に「科学主義的な世界観の持ち主であるかどうか」ということを視ていくべき事柄であって、個人名を挙げずにそのように十把一絡げに括るのは流石にどうかという気がしますね。

こういう言い方をすると、たとえば自分は科学主義的な世界観なんか持っていないという方が不満を表明しても「別にあなたのことを言ったわけではないですよ」と幾らでも言い抜けが利きます。ニセ科学批判者集会でも開いて全員に聞いて回るしか反論しようがない言い方で特定の言説を語る人間の傾向一般を決め附けるのは、文系・理系に関係なく不公平な言い方なのではないでしょうか。

>apjさん

とは言うものの、地下に眠るMさんが語っておられるのは、おそらく「感じ方」の問題ではあるのでしょう。ニセ科学批判者を十把一絡げに科学主義者と決め附けることとは別問題として、彼が仰っている、

>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまうこと

という「感じ方」は一面の真理を突いているとも思うのですね。おそらく科学者の間に科学主義的な心性が嘗て風靡したことは歴史的な事実なのかもしれませんが、今現在の科学者一般は、そこまで単純に科学を絶対視してはいないでしょう。にも関わらず、根強くそのような偏見がイッパンタイシューの間に蔓延っているわけで、その原因はまず科学者を視る周囲の感じ方に求められると思います。

科学者一般に「科学主義」を視てしまう非専門家の心性の根底には、自身が習熟していない自然科学的知識の専門家に対する苦手意識のようなものがあって、「自分には抗弁出来ない相手が何かを批判すること」に対する反撥が情緒的な動機となっているのではないかと想像します。

何故自然科学者だけが、というと、つまり所謂文系人間というのは「多様な価値観」式の考え方が好きなんですね。某所で理系の基礎訓練の話なんかしてますが、選択の余地なくやらねばならないことというのが、割と「文系人間」はイヤなんですよ。それと同時に「正しいことが客観的に決まっている」というのも気に入らない。

割合普通の人間が考えがちなのは、「それをやるためにこれをやる」ではなく「それが出来ないからこれをやる」という代償的な考え方で、そんな自身の在り方を正当化する為には、「出来なかったこと」と「替わりにやったこと」が等価でなければならないわけです。自分は理系の教科は苦手だが、文芸の解釈には秀でているとか、そういう代償行為が価値的に等価でなければ不公平だと感じる感じ方があるわけです。

その場合、「あなたの言うことは正しいかもしれないが私の言うことも正しい」という相対主義や多様な価値観という考え方は至極重宝で、何が正しいかは人それぞれという考え方のほうが角が立たないし自分のプライドも満足するわけですね。それなのに、自然科学の考え方は、「私の言うことが正しくてあなたの言うことは間違っている」と決定し得る規範なわけで、これがとにかく気に入らないのだし、その規範に習熟していないことが自身の絶対的ハンディとして意識されるわけですね。

それはもう、自然科学的な物の考え方に理解のない人が「科学主義」だの「科学を絶対視している」だのと言い出すことの、最終的な理由というのはそれだと断言しても差し支えないでしょう。「正しいことを決める」ということに、理屈抜きに感情的にリアクションする人間が自然科学を攻撃するわけで、「オレが、あたしが賛成したわけでもないのに勝手に決めるんじゃない」というのが心性の根底にあるわけです。

何故なら、理系の基礎訓練に挫折した人間は、多くの人々が共有する正しさの決定の営みに参加出来ないというルサンチマンを抱えているからで、これは完全に不合理なルサンチマンでしかなくて、それが不満ならその営みに参加出来るように努力すれば好かったんじゃねーの?でオシマイの話ではあります。しかし、そういう不合理な心性が根っこにあることを理解しないと、不合理なニセ科学批判批判の根底にある心性というのはわからないんだと思います。

で、ニセ科学批判という言説の在り方が何故正当化されるのかと言えば、技術開発者さんが仰ったように社会的公益や真っ当さというものが根拠にあるからですが、それはつまりこういう不合理な心性を抱える多くの人々をも含めた「社会」を前提とした考え方なのですから、「不合理だ」と切り捨ててしまって好いものでもないと思うんですよ。

オレとかpoohさんが、「ニセ科学の問題はコモンセンスの問題でもある」と言う場合には、そういう人間の心性の不合理さというものが主要な問題性として念頭にあるんではないかと思う次第です。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 12時06分

おひさですにゃ>apj
いつぞやはこちらのつけたインネンに対処くださり、お疲れさまでしたにゃ。あのあと、あの権力うんぬんネタを取り上げていてくれたみたいなんだけど、ずいぶんあとになって気づきましたにゃ。ごめんね。

さて
>科学主義を批判するのはいくらでもやってかまわないのだけど、ニセ科学批判をしている時にそれを持ち出すのは明らかに間違いというか誤爆ですよね。

ソノトオリですにゃー。

>科学主義を警戒しているというのが、誤爆を正当化する理由にはならないと思いますけど。

正当化しているつもりはまったくありませんにゃー。

ちゅうか、「ニセ科学批判【非難】」をするお歴々って、ニセ科学は実は典型的な科学主義であることを理解してにゃーお方が多いでしょ? ニセ科学の多くは価値判断に、(詐称された)自然科学を結びつけているわけでしてにゃ。

>仮に、ドーキンスの宗教批判に共感している人が居たとして、その人が、明らかな科学の詐称を批判している場合に、ドーキンスに共感しているからという理由でその批判に異議を唱えるのあはおかしいですよね。

ニセ科学を科学主義の奇形的かつ典型的表現と見なした場合、科学主義者によるニセ科学批判は、科学主義者同士の内ゲバにすぎにゃーという解釈「も」可能になるんでにゃーですか?

誤解して欲しくにゃーのですが、ニセ科学批判はもっともっと広範になされてしかるべきだと思っているし、「ガッカイ」とやらがそうした啓蒙活動にしかるべき敬意を払ってにゃーように門外漢からは見えることもなんとかしてほしいと考えていますにゃ。
そして
僕がニセ科学を嫌いなのは、ニセ科学が科学主義だからでしょうにゃ。そして、ニセ科学を批判する声の中に本来ならば同じ穴のムジナである科学主義者の声が混じるのがにゃんとも気持ちワリイのですにゃ。そうした違和感の表明以上のものではとりあえずはにゃーです。

そして、科学が権力でなければ、科学主義という「イズム」は生じてにゃーのだろうとも付け加えておきますにゃ。

投稿 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 12時20分

>黒猫亭(僕は誰でも呼び捨てなので、僕も同じように扱ってくださいにゃ)

>間には多面的な領域があるということはご理解戴けるでしょうし、その多面的要素群はすべて必然的な関係によって結び附くわけでもないということもご理解戴けますよね。

承知。ニンゲンの心理や行動にはパラメータが多すぎるし、しかも階層構造をなしておりますよにゃ。

>ニセ科学批判者の中にドーキンスの宗教批判にシンパシーを感じる人がもしいたとしても、それを以てニセ科学批判一般を語ることには無理があるのではないかと思います。以前のエントリーで警官を引き合いに語ったことと類縁の話ですね。

「警官一般の信頼性」に着目するのもアリなんではにゃーですか?
もちろん、部分的傾向と全体の傾向の区別は必要ですけれどにゃ。

>本来個別の論者毎に「科学主義的な世界観の持ち主であるかどうか」ということを視ていくべき事柄であって、個人名を挙げずにそのように十把一絡げに括るのは流石にどうかという気がしますね。

ドーキンスの著書とその反応については
http://jbbs.livedoor.jp/study/5329/
上記の「神と科学は共存できるか」というスレで議論しているのが具体例でもあるし、またアマゾンなどにアップされているドーキンスの「神は妄想である」の書評なども具体例になりえるでしょうにゃ。

あと
>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまう
のは、自然科学が権力だからではにゃーでしょうか? 文系の側の自然科学に対するルサンチマンは当然あるのだけれど、それだけで説明することはどんなもんでしょうにゃー?

投稿 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 12時47分

黒猫亭さん、

>某所で理系の基礎訓練の話なんかしてますが、選択の余地なくやらねばならないことというのが、割と「文系人間」はイヤなんですよ。それと同時に「正しいことが客観的に決まっている」というのも気に入らない。

 私なんざ、自分で訴訟を始めた結果として、毎日法律の教科書と格闘する日々が続いていていまして。まさに、文系科目を選択の余地無くやる羽目になってるわけでして……。
 で、勉強してみると結構がっちり体系ができてるんですよねぇ。確かに、教科書を読んでみたら判例通説多数説有力説少数説と並んでいたりするわけで、自然科学の教科書じゃこんなことあり得ねぇ一体どんな世界じゃこれは、と最初はかなりカルチャーショックを受けたものでしたが、最近じゃ慣れました。何て言うか、アナログな考え方に。これはこれで人類の生活の知恵の体系化だなあと思ったりしながらやってます。

 自然科学は、内容がただ一通りに収斂するように作られるので、単なる表現の違いくらいしかなく、意味が違うということになるとそれは既に新しい概念の提案になっていたりします。説が並列するときは、実験によってテストされるまでの一時的な状態であるか、別の方法で内容が同等であることが後から証明されるか、どっちかですよね。

 それでも、「文系人間」が「正しいことが客観的に決まっているのが嫌」、というのなら、理系に居る人間としてはその「文系人間」に向かって「贅沢抜かすな」としか言いようがないです。自然科学が相手にしてるのは自然現象だけで、その場合は客観的に決まるようなやり方で体系化する。でも、人間の価値観を相手にするときはいろいろある、で良いわけですよね。人相手の話か自然現象相手の話かで方法論が違うというだけのことですし、対象によって方法論を器用に使い分けるなんてのはむしろ文系のヒトが得意とするところのはずだと思うんですけど。

 ところで、黒猫亭さんは、別の所で書いておられた内容から読み取るに、文系の人ですよね。私が最初、黒猫亭さんの書かれたものを見たとき、この言葉の使い方は理系の人間にはできない、私はこれに到達するような訓練は全く積んでいない、と思いました。自然現象やそれに関した概念を言葉にしてあらわしていく時のやり方と、人間を対象にして言葉を積み重ねて論じていくときのやり方は、おそらく相当違うんですよ。


地下に眠るMさん、

>自然科学が権力だからではにゃーでしょうか?

 私がいろいろ見た中で一番ピンと来ないのがこの見方です。
どう考えても権力なんかになりようがないものが、どうして権力だと言われるのかがさっぱりわからない。

 だって、自然現象をどうやって理解するかという方法論とそれによって膨大な積み重ねをやっただけに過ぎなくて、それで何でもわかったかというとちっともそんなことはなくて、「それなり」でしかないわけで。


>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまうこと

 これは、多分、自然科学が不寛容だからだと思います。「自然現象を相手にする、定量性や再現性を求める方法で」と限定すると、自然科学はその知識の積み重ね方や思考の方法において、非常に不寛容な面がありますので。もちろん、ブレイクスルーはあるし発想も自由なんですが、やはりお作法の部分が相当強いんですよね。

投稿 apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 01時36分

>「神と科学は共存できるか」というスレ

 このスレで「ニセ科学」という単語を検索すると9件引っかかり、この単語が入っているメッセージは「後悔と懺悔」さんの書かれたものでした。同じハンドル名を使っておられるのだとすると、kikulogの方にちらっと出てこられた方でしょう。

 その部分の前後を読んだのですが、いわゆるニセ科学批判と結びつくような話が見当たらないのですが……。ざっと探しただけなので、私の見落としかも知れませんけど。

投稿 apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 02時11分

>地下に眠るMさん

些末なことからになりますが、仰っていることがよくわかりませんね。そちらが個人的に相手を呼び捨てにすることにしているからと言って、何故オレがそれに遵わなければならないのでしょうか(笑)。というか、普通友だちでもない見ず知らずの相手をいきなり呼び捨てにすれば礼儀識らずだという話になりますし、そういうふうに一般的に受け取られているというのはそちらもご存じのはずですが、地下に眠るMさん個人のルールがそのような一般常識に優先するとお考えなのでしょうか。

そちらがどのような理由でそのようにお考えになったのかは、伺っていない以上わかりませんが、まあ正直興味はありません。ただ何というか、他人のブログにコメントを書き込むのに最初からご自分のルールを通そうとされるという姿勢は、何によらず個人のルールや考えを相手に圧し附ける方だというふうに受け取られる恐れはありますよね。

まあ、別に大した身分の人間ではありませんので、呼び捨てにされても一向構いませんが、それは一応地下に眠るMさんのご意見を判断する材料にさせて戴きますね。

>>「警官一般の信頼性」に着目するのもアリなんではにゃーですか?
もちろん、部分的傾向と全体の傾向の区別は必要ですけれどにゃ。

そのことについては以下のエントリーですでに語っていますので、宜しかったらご参照ください。http://kuronekotei.way-nifty.com/nichijou/2008/01/post_323c.html

全体的傾向によって語るべき事柄を部分的傾向に対する印象論で語るのはおかしいだろうという話ですね。

>>上記の「神と科学は共存できるか」というスレで議論しているのが具体例でもあるし、またアマゾンなどにアップされているドーキンスの「神は妄想である」の書評なども具体例になりえるでしょうにゃ。

あのう、スレのほうを覗いてみたんですが、他でもない地下に眠るMさんご自身が専ら自説を語っておられて、そのご意見に対してそれほど多くない参加者が反応している、またそれに対してそちらが専ら意見を語っておられるように見えるのですが、違いますでしょうか。一連の議論をすべて読んだわけではないのですが、こういうテーマの立て方でドーキンスを持ち出したら、そういう論調になるのも自然だろうし、地下に眠るMさんがそういう論点に誘導しておられるようにも見えましたが。

さらに言えば、ドーキンスの著書の書評というのはドーキンスの著書を前提にした言説ですので、リサーチの対象としては適切ではないのではないですか? 少なくともその本を読んだ人が語る言説ですから、好悪は問わずその本を読むという動機を持っていたり、その本に興味を覚えている人が語っているわけですよね。その時点ですでに対象の選択が偏っていませんか? まさか、ニセ科学批判に関心を持つ論者は、おおむねドーキンスの宗教批判の著書を読んでいて、アマゾンなどに感想を書き込みすると思っておられるのでしょうか。

寧ろ、真っ当な科学者なら、科学者が宗教を批判するという個人的な心性に基づく言説になど興味を持たないのが当たり前じゃないですかね。少なくとも、オレは科学者じゃないですがまったく興味はないです。無駄ですから。

>>>>自然科学の立場から何かを批判することが「攻撃的」に感じられてしまう
>>のは、自然科学が権力だからではにゃーでしょうか?

オレの意見を聞いておられるようですからオレの意見を申しますが、科学とは「力」では在り得ても「権力」ではないですね。人類の知的活動の歴史の中で、初めて心の外側の物理的実体の世界にマトモに触れ得たという意味では世界を読み解く「力」と言えますが、その力が権力で在り得る為には、少数の権力者によって独占されていなければならないのではないでしょうか。誰でもジョウント出来る世界においてジョウント出来るということが、果たして「権力」になるんでしょうかね?

誰でも自由に持てる力、行使出来る力は権力では在り得ませんよね? たとえば文芸の読解力は人の世の現実を読み解く力では在り得ても、決して権力では在り得ない。自然科学もまた、対象が違うだけでそのような意味における力なのであって、権力ではありません。既存の権力が強制によって自然科学の成果物を寡占するというようなことは在り得ますね、軍事機密なんかはそういう性格のものでしょう。

しかし、自然科学自体の論理が知の独占を必然としているわけではないですよ。たとえば自然科学の成果物を寡占する権力というのは、原則的に自然科学者ではなく国家という権力でしょう。まさか、権力を論じる方が、国家という元々権力の装置である制度と自然科学の理念を混同して視ておられるはずなどはないですよね。

所謂「権力」というのは、特定少数に寡占乃至独占されている力を言うのではありませんかね。所謂文系人間が科学という力を権力だと考える理路については、オレなりに想像が附きますが、オレの考えでは科学というのは権力では在り得ません。

何故なら、たとえばあなたが科学者を志したとして、科学者として成功出来るか何うかは保証の限りではありませんが、科学の方法論を学ぶことは出来る。これはもう原理的に言って普通の知力をお持ちの方なら必ず誰にでも出来るんですよ。苦手な理系の教科を我慢して粛々とやり抜いて科学の専門教育を受け科学的研究に携われば、地下に眠るMさんもapj さんと同様の規範において対象を語ることが出来ます。

自然科学の力というのは、それだけのことです。地下に眠るMさんとapj さんが同様の規範に立って同じ物理的現実に関する特定の考えを正しいと認められること。自然科学が目指してきたのはそのような世界の見方であって、その意味で力なんですよ。

では、何故学ばないのかと言えば、それは地下に眠るMさんが自由意志において自然科学を学ばなかったからという、ただそれだけです。自由意志において学ばなかったから手に入れることが出来なかっただけの力の何処が権力と名指し得るのですか? 科学の力というのは、求めれば誰でも平等に得られるものであって、誰もそれを独占乃至寡占しているわけではないですよ。

たとえばオレが、

>>文系の側の自然科学に対するルサンチマンは当然あるのだけれど、それだけで説明することはどんなもんでしょうにゃー?

という問いに対して意見を述べるとしたら、ご自身の自由意志で選ばなかった知の力を他人が行使していることを権力であると視る考え方こそが、ルサンチマンだということです。自分には向いていないとか興味がないという自己責任に基づく理由でその道に進まなかったのであれば、せめてわざわざ相手のフィールドに越境してつまらない難癖を附けるようなみっともないことをするなと言っているだけですよ。

自然科学という規範は、自然科学が適用可能な範囲においてしか力では在り得ないのだし、一部の不心得な例外を除いてはそのような意識において行使されているはずです。処を得て適切に行使されている力を、それを求めようとしなかった者が権力呼ばわりするのは、まさしく理不尽な恨み言というものなのではないですかね。

勿論、ニセ科学批判というのは、自然科学の規範を巡る言説である以上、自然科学が相手取るべき対象であって、別段自然科学が与えられたフィールドを越境して現実に影響力を及ぼしているわけではありませんし、それを科学主義のような「イズム」と括るのは無根拠で雑駁な議論ではないですかね。言わば冒頭で申しあげたような、そちらの感じ方の圧し附けではないかと思います。

科学以外の規範の力が相対的に科学より弱いという現状を以て「権力」と仰っているのであれば、それは科学の責任ではありませんし、科学に何らかのイズムがあるからではないと思いますよ。オレがapj さんに対して語った部分は、そのような人々の心性について触れた部分で、たとえば現代において神信心は現世利益をもたらさないと一般的に考えられていますが、現世利益があって欲しいと願う心性はなくならない。だから一般にあらたかな現世利益を謳う新宗教とそれに騙される人の種は尽きない。

しかし、その一方で自然科学というのはテクノロジーという形で必ず現世利益を約束してくれるわけで、だから宗教対科学という莫迦らしい対立軸があるかのように見えるわけです。一種、現世利益を求める人においては、自然科学は霊験あらたかな宗教の代替物として捉える見方がある。しかし、テクノロジーがもたらす現世利益というのは自然科学の派生物であって本質ではない。

オレは一連の記事で何度も「宗教は心的現実に対して有効な規範である」と陳べてきましたし、それはおおむね地下に眠るMさんの語るところとそんなに違いはないはずですが、なぜ宗教よりも自然科学を持て囃す人が多いのかと言えば、神信心も自然科学も現世利益という基準で価値を量る人が存外に多いからだと思っています。

ニセ宗教と真っ当な宗教の一目でわかる違いというのは、前者は出来もしないのに必ず物理的実体の世界を動かせると騙るという点です。宗教と科学が棲み分けているのは、オレの考えでは心的現実と物理的現実の弁別に基づくのですから、この場合宗教のサイドが自然科学の領域に越境してきているわけで、その瞬間に、本当に物理的実体の世界を動かせる自然科学と同じ土俵に立ってしまうわけです。

ニセ宗教やニセ科学を呼び込んでしまうのは、どんな規範であれ自分に都合の好いように現実を動かす為の手段としか視ない見方一般であって、宗教の規範や科学の規範の責任ではありませんし、自然科学のサイドがニセ科学を批判するのは、理念的に言えば科学をそのようなものと意味附けようとする悪意が存在するからですよ。

最後に一つ余計なご意見を附け加えるとするなら、自然科学を何らかのイズムであり権力と捉える視座に則って何処をどれだけ掘っても何も出てきませんから、早めにその観点を放棄したほうが知的活動の無駄がないと思います。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 02時52分

>>無駄ですから。

これ、素っ気なさ過ぎですね(笑)。もうちょっと注釈すると、客観的な必然というより個人的な心性の動機に基づいて為された批判というのは、一種のブンガクだということです。如何にドーキンスが一般向け啓蒙書で当たりをとった書き手だからと言って、ブンガク素人の科学者が書いたブンガクに科学者一般やブンガク読み一般が興味を持つわけねーだろという話ですね(笑)。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 03時10分

えと、まず科学と権力について>お二方
とりあえず以下のリンク先をお読み願えますかにゃ。まともな社会学者の記述ですにゃ。
http://www.socius.jp/lec/19.html

社会学においては、「権力は悪だああああ、打倒するんだあああああ」とかいった古き良きサヨクの勧善懲悪ハルマゲドン的な権力概念など採用してにゃーことはお分かりいただけたと思いますにゃ。
で、ここからつまみぐいして、

例えばウェーバーのいう「合法的支配」
>(1)非人格的で合理的規則にもとづく「合法的支配」そのもっとも純粋な形としての「官僚制」——人びとはその合法的な地位ゆえに服従し、行政幹部は法的な権限をもつ。
環境・安全・健康などの行政としての重要な課題において、科学的知見なしで官僚制を維持することがはたして可能かどうか、考えるまでもありませんにゃ。医薬品の許認可行政(=行政権力の行使)なんか典型的に、その時点での科学的知見に従うべきものですよにゃ。
もちろん、
立法や司法においても、自然科学の知見に少なくとも耳を傾ける必要のある案件は、増えることはあっても減ることはにゃーと思いますにゃ。

また、自由民主主義社会のタテマエにおいては、私的領域における価値自由というものがありますにゃ。直接的には思想・良心・宗教の自由として憲法で直接に保護されているものですにゃ。したがって、自由民主主義社会における政治の仕事は、タテマエ上は価値中立であることが望ましいわけですにゃ。そして、自然科学というものも価値から中立ということになっていますよにゃ。
だから、自由民主主義社会における公的権力の行使に際して、自然科学の知見を尊重するということは、その権力の具体的な行使の正当性を保障してくれることになりやすく、少なくとも自然科学の知見を尊重するというタテマエは権力行使の際には必要になることが多いのではにゃーでしょうか。責任を他人になすりつけることはほとんど役人の生理ですからにゃ。

以上、自然科学は公権力システムの中枢に組込まれていることは明らかではにゃーでしょうか。


また、私的領域においてはどうか。
これはリンク先の結論部分でも述べられている
>非常に大ざっぱな言い方をすると、ウェーバー流の伝統的な社会学的権力論も、フーコー流の新しい権力作用論も、注意を喚起しているのはともに「人びとの自発的服従」という事態である。それは「社会秩序」とほぼ同義の事態であり、それを「上から」ではなく「下から」把握しようとするとき「自発的服従」概念が理論的意義をもつのである。

ニセ科学が商売になるのは、科学(的に見える)言説に対して「人びとの自発的服従」という事態が非常に広範に見られるからではにゃーですか?
例えば僕がいくら科学主義を嫌悪していても、僕は医者の言うことには従いますにゃ。現代医学に対して僕は自発的に服従する。また、現代物理学と科学者共同体を基本的に信頼しているので、そこに属するapjの「水商売」に関する言説を信頼し、ぶっちゃけ自発的に服従していますにゃ(理解できるところまでは理解に努めているけど、理解を越えた部分については服従としかいいようがにゃーですね)。自分でいうのも何だけど、リテラシー能力と自然科学の科学者共同体の言説に対する服従度って、ある程度まで正の相関関係にあるんではにゃーだろか?

そして、この自然科学に対する私的領域における自発的な服従が、公的権力の行使において自然科学の知見を尊重することをいっそう促進し、公的領域における自然科学の尊重が私的領域における自発的服従をさらにおしすすめる。
つまりこれは、もっとも洗練されたスマートな権力なのではにゃーでしょうか。


ドーキンスやら科学主義については、また時間がとれたときにでも

投稿 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午前 11時24分

(こちらでは)はじめまして
横から失礼します。

権力のさす意味がずれていると思います。
地下に眠るMさんのさす意味は「個人の内外で拘束・規律する力」ではないかと。
 

投稿 FREE | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 01時42分

>apjさん

>>それでも、「文系人間」が「正しいことが客観的に決まっているのが嫌」、というのなら、理系に居る人間としてはその「文系人間」に向かって「贅沢抜かすな」としか言いようがないです。

オレもそれはただの贅沢でしかないとは思っているんですけどね(笑)、これは一種過剰な人間中心主義とも重なってくる心性だと思うんですよ。人間の具体的な行為の次元では「正しさ」というのは多義性の揺らぎの中での限定的なものでしかない。だから人間的な領域、たとえば文芸解釈なんかの領域では「正解が決まっているわけではない」なんて教え方をしますし、「正義」に対する多角的な懐疑という問題にもなってくるわけですよね。

その点自然科学は、一義的に何かを正しいと言えるとしたらそれはどういう限定においてであるべきか、という大枠が固まっていますから、「正しい」という場合にどういう理由でどの程度正しいのかちゃんと定義されています。だから、「正しい」とか「正しくない」と明言する場面において躊躇する必要がない。しかし、だからと言って自然科学が絶対的正しさを標榜しているわけではないということは何度も言っていますし、おそらくapj さんにとっては当たり前の大前提でしょう。

その正しさがどのようなものであるかは予め限定されているからですが、この点に対する妥当な理解がないと、人間の領域の問題性における「正しさ」の緩やかな感覚を自然科学にも求めてしまうんじゃないでしょうか。元々自然科学というのは自然哲学や方法的懐疑を通過しているので、その限定の範囲内で正しさを判定出来ない対象を扱わない方法論ですが、そこを理解していないと「何にでも正しさを断言する無神経さ」みたいな感覚で受け取られるんじゃないですかね。

ですから、自然科学が「『自然現象を相手にする、定量性や再現性を求める方法で』という限定」に則った一種不寛容な方法論だとしても、その不寛容さに対する感覚的な反撥を動機とした批判だって、それ以上に無理解に基づいた不寛容さなんだと思います。

>>ところで、黒猫亭さんは、別の所で書いておられた内容から読み取るに、文系の人ですよね。

きっぱり文系ですね。それも、数学や物理が嫌いだったバリバリの文系です(笑)。ですから、心情的には所謂文系人間の気持ちというのはよくわかるんですよ。理系の教科がスルスルと頭に入ってこない知能の在り方というのは、やっぱり間違いなくあるんだと思います。それでも文系の意地というものがありますから(笑)、理系は傲慢だとか融通が利かないとか冷たいとか、つまんないステロタイプの難癖は言いたくないですねぇ。そうでない理系の人をたくさん識っていますし。

元々理系の畑から優秀な文学者は何人も出ていますし、一時「理系ホラー」と呼ばれた瀬名秀明とか、理系ミステリの森博嗣なんてのもいますから、理系の人間が文系の教科が苦手だなんてことはないと思うんですね。ただ、apj さんが仰るように専ら相手取る対象の違いによって言葉の紡ぎ方が違うだけで。

その上で、教育訓練の面で文系/理系の二項を立てるなら、理系の人間が文系の職種に就くことはそれほどハードルが高くないけれど、文系の人間が理系の職種に就くことには大きなハードルがあって、それは単純に、理系の基礎訓練に一定の時間と労力がかかるからだと思うんですね。いろんな具体をすっ飛ばして単純化すると、大学卒業まで文系で通した人間が、いきなり何処ぞの企業の研究所の研究員になったりすることは出来ませんよね(笑)。しかしその逆に、理系の畑で通した人間が文系の職種に就く例は世の中に幾らでもありますね。

それはつまり、文系の訓練というのは価値的に等価な対象群に対する自由選択に基づく段階的な反復強化の訓練法だから習熟度の問題として顕れるが、理系の訓練というのは体系立てられた基礎的素養を規則的に習得していくというプロセスなので、そもそも一連の訓練を序列に沿って通過しないと学術研究のスタートラインにすら立てないという違いがあるのではないかと思います。

apj さんがオレの文章を評価してくださったのも、つまりapj さんが理系の基礎訓練を序列に沿って体系的に習得したプロセスと比べて、オレのほうは反復強化的な訓練と経験則に基づく直観的な微修正という文系的プロセスで、文芸の読み解きや文章構築法を訓練していたという学びのプロセスの違いがあるからかな、と思います。

あとは、対象を正しく記述する為のテクストであるか、人間との意思疎通を目的としたテクストであるかで、大分書き方が違ってくるんじゃないかと思います。前者は対象の記述の正確さにおいて正確無比な機能的意思疎通を果たすわけですが、後者は人間の意思疎通という動態において、必ずしも正確性に依拠しない読み手の受け取り方をも考慮に入れ、可能な限り正確に意志が伝わることを目指す経験則的方法論に則っていると言えるんじゃないでしょうか。

>>対象によって方法論を器用に使い分けるなんてのはむしろ文系のヒトが得意とするところのはずだと思うんですけど。

ここ暫くの間ニセ科学批判の論壇を視ていて思ったのは、「多様な価値観」とか言う人に限って自然科学者よりよっぽど狭量なのは何だかな、ということでした。「多様な価値観」というのは本来「あんたは正しいかもしれないがオレも間違っていない」「オレの正しさを許容しないあんたの考えは独善だ」という話ではなく、局面や対象毎に違う価値観があるという話のはずですよね。

それなのに、現実においては結論ありきの言説を正当化する為に階層性や領域性の違う要素を恣意的に混同して、決まって「オレだって正しいんだ」的な悪しき相対主義に堕落するというのは、文系人間の一人として忸怩たるものがあります。

当ブログの表芸のトクサツ評論の分野では、特にオレが粘着しているクリエイターが一人いるんですが、この人は人間的に悪い人ではないし作る作品も試みとしては興味深い挑戦を繰り返しているんですが、思想的な発話において非論理的な詭弁を常套手段として弄するのが困りものです(笑)。

ニセ科学やフードファディズムを批判し、知的誠実性を心がけよ的な発話をする人物なんですが、どの口が言うんだこの口か的なツッコミ甲斐のある人物です(笑)。そういう発話では根本的な知的不誠実の問題は解決しないし、ニセ科学やフードファディズムやポピュリズムというのはその種の発話が立脚する不合理に根を持っている。そういう視座において粘着的にイヤガラセの批判を続けているんですが、まあこれは余談ですね。

本来文系であるということは論理性の欠如を正当化するものではないはずで、自分とは考え方の違う人間に対して意志を伝える為には、文系だろうが理系だろうが論理性が必須のはずなのですが、恣意的空想と自由な発想、多様な価値観と言ったモン勝ちを混同している人が多いことは遺憾ながら事実のようです。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時07分

>地下に眠るMさん

リンク先を読みましたが、たしかにおかしなことは書いてないですね。おかしな部分があるとすれば、地下に眠るMさんの解釈のほうではないでしょうか。オレもこの種の論旨は何処かで読んだ記憶がありますから、野村一夫氏の仰っている内容はおおむね理解出来ますが、それが何故今この場で地下に眠るMさんに引用されているのかが理解出来ないわけですね。

>>また、自由民主主義社会のタテマエにおいては、私的領域における価値自由というものがありますにゃ。直接的には思想・良心・宗教の自由として憲法で直接に保護されているものですにゃ。したがって、自由民主主義社会における政治の仕事は、タテマエ上は価値中立であることが望ましいわけですにゃ。そして、自然科学というものも価値から中立ということになっていますよにゃ。

私的/公的という領域の分け方は、自然現象においては最初から立てようのない二軸なのですから、それが人間の現実に関する領域性であることを示しているわけです。だから「思想・良心・宗教」という心的現実のレベルの事柄に対して自由を保証しているわけですね。そして、これらの事柄を総体的に取り扱うのは社会的現実の次元の領域性だということになります。

そして、何度も何度も何度も何度も何度も繰り返し申しあげているように、自然科学が相手取るのはこれらの領域とは別の物理的実体の世界だということで、たとえば人間でいうなら、その物理的実体としての領域にしか言及しないということです。心の内容の次元ではなく、人体や生理という観点でしか人間を量らないということです。

たとえば社会科学の分野で自然科学の方法論を採り入れるというような議論が某所で交わされていますから、いずれは社会科学の領域で心的現実のレベルと物理的実体のレベルという新たな線引き問題が生じるかもしれませんが、少なくとも自然科学というのはそういう対象を相手取るものではありません。

>>だから、自由民主主義社会における公的権力の行使に際して、自然科学の知見を尊重するということは

ということが無説明で前提視されていますが、公的権力の行使に際して尊重されているのは自然科学の知見だけではないですよ(笑)。寧ろ公的権力行使において最も尊重されているのは「法」の概念でしょう。権力の行使において「自然科学の知見『だから』」という根拠が尊重されるわけではなく、法を作ったり法の執行という形で公的権力は行使されるものです。

自然科学的知見が尊重されるとすれば、化学とか工学とか医学とか建設等々、自然科学が必要とされる領域における諸問題に対してであり、それは物理的実体を相手取る問題だということです。地下に眠るMさんはこの辺の階層性乃至領域性を恣意的に混同しておられるのではないですかね。

少なくとも、私的/公的という切り分けが可能な人間的領域に関して権力が尊重するのは、自然科学的知見ではなく、こちらで技術開発者さんが何度か比喩を交えてご説明くださったような法的知見ですね。自然科学的知見は、飽くまで自然科学的領域における妥当性を量る基準として尊重されているのみです。

まさかとは思いますが、地下に眠るMさんは、たとえばニセ科学批判を巡る一連の裁判のお話で、「科学的に妥当な批判であること」という一項がガイドラインとして挙げられているからそのようにお考えになったというわけではないですよね? これは単に、言説の妥当性はその言説が占める領域の専門性において採用されている規範に則って量るというだけの話ですから、そもそも公権力の行使とは別次元のお話です。

また、リンク先の論旨によれば「自発的服従」という文脈における権力観というのは従来的な権力者という主体の権力行使という視座において権力を読み解くという観点の議論ではなく、権力関係という関係性において読み解くものですよね? ハナから「権力は悪い」「何が権力なのか」「権力を批判する」的な視座における議論ではないのに、地下に眠るMさんを通過することで、「自然科学は権力である」「科学主義は悪い」というベタな権力批判の議論になってしまうのは何故ですかね?

そもそもリンク先の野村氏自身が、こういう論旨を述べながら「科学的に」という語を多用しておられますね。

>>科学的には、権力による支配は避けられないということから出発するのが正しい。

>>社会のしくみ・メカニズムとして科学的に認識することから、すべては始まるのだ。

>>いずれにしても権力論に「正義−悪者」というコードをもちだすこと自体、あまり科学的ではない。

>>科学的には、権力による支配は避けられないということから出発するのが正しい。

このことは、野村氏のこの言説自体が科学的な妥当性を基準にして構築されたものだということですが、それはつまり地下に眠るMさんに言わせれば概念矛盾であり科学主義的であり権力的な言説だ、という話になるわけですか?

またこの例示の最後の部分を前段と続けて引用すると、

>> ひとつは、人間が社会を形成するとき「支配関係なしの社会」あるいは「権力なしの社会」は、まずありえないということだ。「ある」といいきる考え方はイデオロギーであり、現実から遊離している点でユートピアである。科学的には、権力による支配は避けられないということから出発するのが正しい。

つまり、権力なんかなくても社会は成立するんだという考え方は現実性のないイデオロギーにすぎないと言っておられるわけですし、社会というものの動態的構造を分析する場面でその必要な秩序維持機能として権力を位置附ける意味において権力を論じておられるわけです。この論旨をどう解釈しても、地下に眠るMさんの仰るよう権力批判的な論旨にはならないはずですよ。

この文脈において自然科学を権力と名指すのであれば、それは普通一般における権力批判的な射程には入らないのだし、さらに言えば、この種の権力はこの人間の現実において制度的に前提視されている規範すべてであるということになるのではないですかね。それはつまり、規範意識的な無意識的機序こそが権力関係を成立させるのだという意見として読めるだろうし、社会秩序を権力のダイナミズムに読み替える視点転換としても読めるでしょう。いずれにせよ、そもそも地下に眠るMさんの科学主義批判やイズム論とは何の関係もないように見えますね。

>>つまりこれは、もっとも洗練されたスマートな権力なのではにゃーでしょうか。

フーコー的な視座において、社会秩序を維持する機序として権力関係というものを捉え権力一般を規範というほどの意味に解釈するなら、普通に通分すると「自然科学というのは最も洗練されたスマートな『規範』だ」ということになりますから、その文脈においては何の異論もありませんよ(笑)。

矛盾しているのは、それが領域性の異なる権力批判的な文脈で語られることで、科学主義批判が権力批判的な意味合いなのだとすれば、そもそも整合していない物の見方だということです。

こうしてリンク先と地下に眠るMさんのご意見を見比べると、本当にこの文章をお読みになった上で挙げられたのか、疑問が生じてきます。前段で視てきたように、地下に眠るMさんのご意見は、階層性や領域性の異なる事柄を曖昧且つ恣意的に混同して語っておられるので論理の体を成していませんね。

最前語った通り、オレは自然科学者でも何でもない唯の文系のなり損ないですが、そういうオレでも地下に眠るMさんのご意見の恣意性や論理性の欠如には気附きます。さらに言うと、前回のコメントでは「自然科学が何かを批判するのが攻撃的に見えるのはそれが権力だからだ」と語られていましたが、それは「自発的服従」「最も洗練されたスマートな権力」という見方とは矛盾していませんか?

ぶっちゃけて言うと、オレが地下に眠るMさんのご意見を歯牙にもかけない身振りをするのは、たとえばご自身で例示されたソースにおいてすら、都合の悪い部分は無視して都合の好い部分だけ抽出し都合の好いように解釈した「美味しいとこだけつまみ食い」方式の立論だからであって、それは最初のコメントからしてプンプンそういう恣意性の臭いが漂っているからですよ。

それよりも自然科学がマシな方法論だと考えるのは、自然科学とはそういう「美味しいとこだけつまみ食い」方式を厳に忌避する方法論だからです。これは文系だの理系だのは関係なく、野村一夫という人物が論述に込めた意志を正確に汲もうとせず、自説の都合だけで恣意的に引用し立論する知的不誠実をオレが嫌うからでもあります。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時08分

えーっと、根本的に誤読をしてくださりやがっていますにゃ(ぽりぽり
そもそも僕は科学主義は批判しているけど、自然科学は批判してにゃーんだけど・・・・
もちろん、権力批判をした覚えもにゃーですよ

http://www.genpaku.org/skepticj/scientism.html
より
>科学主義は、科学的意見だ けが有意義であるとする自己欺瞞的な考えである。この主張は科学的ではないため、もし真ならば意義がないことになる。したがって、科学主義は誤り であるか、または意味がない。

科学主義はイデオロギーであり「イズム」であり、批判の対象としているけれども、自然科学を批判の対象とはしてない、という前提において、僕の投稿を頭から読み直していただけませんかにゃ?

投稿 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時23分

>>科学主義はイデオロギーであり「イズム」であり、批判の対象としているけれども、自然科学を批判の対象とはしてない、という前提において、僕の投稿を頭から読み直していただけませんかにゃ?

では、逆に提案ですが、そのような前提のご提示がないという視点で最初からご自分のコメントを読み返されてみては如何ですか?

今更「こういうつもりだった」とか言われましても、オレと地下に眠るMさんは赤の他人なのですから、お話が通じるわけはありませんよ(笑)。そういう意味で、そろそろ地下に眠るMさんと議論しても無駄なのかな、という結論に落ち着きかけています。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 03時32分

>FREEさん

どうも、はじめまして。

>>地下に眠るMさんのさす意味は「個人の内外で拘束・規律する力」ではないかと。

オレもそのような意味と解しましたが、そうだとすると無意識的な次元の社会秩序維持の動態構造を説明する論理を、何故特定のイズムや方法論を意志的に批判する言説の根拠として挙げられているのかが理解出来ないので、それは矛盾していると指摘させて戴きました。

そうすると今度は地下に眠るMさんが批判している対象に対するこちらの認識が誤っているという明後日の方角からのご反論を戴いたので、これは鼬ごっこだよな、と。そう言いたかったのなら「最初から」そう言ってくださいませんかね、という話で、自説の前提を提示し忘れたのは向こうの責任なのに、頭から読み直して認識を正せとか言われるんじゃかなわんなというのが本音のところです(笑)。

そもそもそういうふうな前提に立っても、フーコーとか持ち出して来た意味がサッパリわかんなくなりますし、この人は自身の言説の一貫性というのをどういうふうにお考えなんだろうと、謎は深まるばかりですね。

まあ、一般的に言えばお話にならない議論の姿勢だとオレ個人は思います。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 04時27分

うん、やっぱり僕が最初から意識して使い分けていた「科学主義」と「自然科学」の用語の区別ができていなかったみたいですにゃ。
いいかい?
科学主義はScientismの和訳で、科学万能主義などと訳されることもある語だにゃ。それほど一般的なタームではにゃーのだが(それでもScientismはGoogleで265000ヒットする)、ニセ科学批判とか疑似科学批判の文脈においては共有を前提としてもおかしくにゃータームだよ。なんなら、信頼できるヒトに聞いてご覧?
ちなみにNATROMも科学主義について注意を喚起しているにゃ
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/scientism.html

科学主義と自然科学の使い分けが、僕の私的な用法でもなければ後付けでもなんでもにゃーことは、リンクを張ることで示したはずなんだけど、
>今更「こういうつもりだった」とか言われましても
などといういいがかりをつけられるとは思いませんでしたにゃ。

繰り返すが、チミのハズカチイ誤読だ。
僕は最初から権力批判も自然科学批判もしていにゃー。
問われているのはチミの知的誠実さだよ、マジに。

投稿 地下に眠るM | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 04時54分

>地下に眠るMさん

まあ、一応続けられる意志があるのであればお附き合い致しますが、その前にもう一度だけ確認させて戴きます。

第一に、大前提としてオレは地下に眠るMさんを説き伏せるとか論破することになど何の興味もありませんし、そちらがご自分の思いたいように思う自由にまでとやかく言う動機などはありませんが、オレが書いた意見に対して附けられたコメントとしてオレが間違っていると考える意見を言われたら、その意見が一定範囲内に流布することを阻止するという責任において反論せざるを得ないわけだし、その責任においてはどうしても地下に眠るMさんのお気持ちを斟酌するという話にはなりません。

そちらとの対人的な交流を目的とした対話ではなく、そちらの意見が間違っているということを第三者に対して最大限効果的に論証することが最優先の目的になりますので、日頃のコメント姿勢とは違って手加減一切抜きで反論させて戴きますから、かなり手厳しくなりますが、それでもよろしければお相手させて戴きます。

また第二点として、オレの視たところ、地下に眠るMさんの主張の論理構造は決定的な破綻を抱えていますので、どれだけ鼬ごっこを繰り返してパッチを充てても矛盾なく自説を説明可能な意見には成り得ないと視ています。つまり、以前申しあげたようにそちらの主張は一種筋の悪い「説」の構造なのですから、どう言い繕っても必ず他人からは丸見えの綻びがあるのです。オレ個人の見立てでは、そちらのほうが圧倒的に不利な状況にあるのですが、そうお考えにならないのならお相手させて戴きます。

第三に、これは一種の注意喚起ということになりますが、これまで地下に眠るMさんは理系畑の論客を専ら仮想敵と見做しておられたのでしょうから、相手に対して有効な抗弁が出来なくても、その事実自体を「科学者は科学主義に陥っている」と意味附ける苦しい逃げ口上が可能だったでしょうが、オレは自然科学者でないどころか事実において理系畑の人間ですらありませんので、この場でそちらのご意見が論破されたら、それは如何なる意味においても正当化の余地はありません。

どこで同じような話をしても、ここでの議論を識っている人からは「あいつは同じ文系人間の黒猫亭何某にさえちゃんと反論出来なかった奴だ」という目で視られることになりますが、そういうリスクを踏まえておられるのであればお相手します。

ナメたご忠告だと憤慨されるかもしれませんが、多分今あなたはご自身が理解されていないだけで、下手を打ったら自分だけが致命的な損をするかなり危ない腐ったドブ板を踏んでおられるのですよ。

そういう立場に在る方の背中を積極的に押すほどオレも暇ではありませんので、何も言わずに撤収して戴ければこれ以上の追及は致しませんし、ここ以外の何処でどのように今回の議論の経緯を語られたとしてもオレ自身はわざわざ出向いてまで注釈するつもりはありませんので、そちらの自由意志と自己責任において判断してください。

投稿 黒猫亭 | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 05時23分

http://www.socius.jp/lec/19.htmlを読みました。
私に理解できたことは、権力というのはあくまでも人対人の関係において意味を持つということです。

>医薬品の許認可行政(=行政権力の行使)なんか典型的に、その時点での科学的知見に従うべきものですよにゃ。

 医薬品の許認可、もっと平たく言えば、何を医薬品として使ってよいかという話は、そもそも自然科学の知見によって決められるべきものです。ところが、自然科学の枠組みには、他人に対して権力を発揮して従わせるなどという機能はありません。科学まかせにしておいたら、インチキ薬やまともな試験をしていない薬が使われることを防げません。科学は、自然はこうだ、ということを記述できても、他人に対してその知識を使えと強制する機能はありません。そこで、権力の側が、医薬品については科学の基準に従うべし、として、それに人を従わせているということです。

 自然科学は便利なので、権力の側が必要以上に悪用するというか、濫用するということはあるかもしれません。権力を持つ者にとっては、他人に何かを強制するという方法は自由に選べるわけですから、たまたまそこで自然科学が利用されたからといって、自然科学が権力の中枢に組み込まれているという話にはならないでしょう。

投稿 apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 08時38分

黒猫亭さん、

>本来文系であるということは論理性の欠如を正当化するものではないはずで、自分とは考え方の違う人間に対して意志を伝える為には、文系だろうが理系だろうが論理性が必須のはずなのですが、恣意的空想と自由な発想、多様な価値観と言ったモン勝ちを混同している人が多いことは遺憾ながら事実のようです。

 理系の方でも、自然現象(の一部)という限定されたものしか取り扱っていないのに、対象と扱う範囲を限定したことによって得られている科学の強力さや切れ味を勘違いして、「科学的だから正しいんだだだっ!」と、科学一神教に突っ込んでしまう、理解の入り口で止まっているヒトというのもいるわけで。

 この手の勘違いというのは、あらわれ方のパターンが違うだけで、分野を問わず起きているのではないでしょうか。

投稿 apj | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 10時11分

こんばんは、黒猫亭さん


地下に眠るMさんの話をまとめると
---
①ニセ科学は科学を装うことで科学に成りすましを行っている。

②科学には科学主義の一面を社会に対して意図しなくても持っている。科学的に正しいとする言説が盲目的に信用される状況を生み出していることは、逆説的にニセ科学が機能している事より明らかだ。また社会が科学的知・科学者などのあり方を規定し科学を取り込んでいる事、人が自らが理解できない科学の成果とされる内容を盲目的に信頼する行動を自発的に行っている事からも機能されている事が読み取れる。この科学主義の一面こそが権力である。

③つまりニセ科学が科学を装うのは権力として機能するシステムを利用しているのであり、ニセであることを除けば科学主義のみ抽出したものである。

③故に科学がニセ科学を批判する事は「科学主義を内包した科学」が「抽出された科学主義」を批判している事であり内ゲバ手ある。
 ---

ここまでは良くあるメタ的分析ですが、問題はなぜ科学がニセ科学を批判する事の批判的根拠として持ち出しているのかが理解できません。apjさんのところでのコメントでも権力の話が出してきたときに、フーコーの権力かどうか確認してしまいました。

この話は科学がどうのこうのという話ではなく、「批判は他のレイヤー・構造の外からなさねばならない、「知」が権力であるとして「知」の内部で知の在り方を問うことは正しくない」という話になると思います。

まぁ、話を進めるにしてもあまり筋の良い攻め方だとは思いません。単に好き嫌いの話であるかと読めるような部分や「という話も」「も可能」という言葉もあるので撤退通路も準備済みだと思います。

投稿 FREE | 2008年1月24日 (木曜日) 午後 10時18分

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。