『インスタント・ヒストリー』から41年の歴史を誇るわが国のテレビアニメーション。一体これまでどのくらいの数の作品が制作されたのかと思い、世界一のジャパニメーションのデータ収集管理人であるデータ原口氏にメールで質問したら、すぐに答えが届いた。
彼は日本が世界に誇っていいプロフェッショナル中のプロフェッショナルで、そのデータ収集ぶりは狂気ともいえるほど徹底している。凄い、偉いとは彼のデータ収集の形容詞かもしれない。
で、肝腎の答えだ。2002年11月時点で、約1770本だという。
その内、私は80本余りに参加する機会を得たわけだから、22分の1ということだよね。これも偉いじゃん。誰も言ってくれないから自分で言ってしまう。
ところで、この1770本の作品の中でもっとも早く放送が終了してしまった作品を知っているだろうか? つまり、テレビアニメ史上、最短で放送が打ちきられてしまった作品は何かということ。
これは業界で一つの伝説になっているからご存知かもしれないが、もう20年前の珍事・椿事なので、案外わからないかも。
なんと4話で終わってしまった作品があるんですなあ。たった4話ですよ、4話。放送が始まって、たった1ヶ月で終了しちゃうなんて(九州地区だけは8話、2ヶ月放送している)、信じられないでしょう?
若者たちよ、世の中にはこんな不可思議な、理不尽なことがパパじゃないママあるのだよ。
1982(昭和57)年4月5日にテレビ東京系列で放送を開始し、4月26日の第4話で終了してしまった作品が本当にあるのだ。
打ちきりを知らずに5月3日、チャンネルを12に合わせた人は驚いたにちがいない。
視聴率は4パーセントほどだったが、それでも何10万人かはいたことだろう。なんと7時の時報とともに竜の子プロ制作の『けろっこデメタン』の再放送が9年ぶりに始まってしまったのだから。こちらも私の30分ものの脚本の第一作だから、縁があるといえば縁があるのだが、いきなり堀江美都子さんが高校二年生の時に歌った主題歌が流れてきたのだから、こんな人騒がせなことはないだろう。
で、問題のタイトルは? 原作は手塚治虫先生である。
その悲劇のヒーローの名はドン・ドラキュラ。番組タイトルは『手塚治虫のドン・ドラキュラ』。「週刊少年チャンピオン」で連載されていた作品だった。
これがたった4話で終わってしまったのです、たった4話で。第21話まで脚本がアップしていたにもかかわらず。
デビュー前の照井啓司、園田英樹、中 弘子の三君がのっぽ組として書いた「もしもドラキュラが……」(仮題)は3人がドラキュラの3変化を1つずつオムニバス形式でまとめたものだったが、不幸にもこれはお蔵入りとなってしまった。
園田君が書いたもう1本の作品が、確か第8話までに入り、九州地区だけで放送されたはずだ。佐賀県鳥栖市出身の彼は故郷に錦を飾った、のかなぁ?
彼は森 忠明氏(竜の子OBの童話作家。高校時代の私の悪友)の紹介で明治大学在学中に、わが家へ出入りするようになっていた。
照井啓司はそのころ、この作品を企画した制作会社の社員で文芸担当のような仕事をしていた。その後、この縁がきっかけで私が『Dr.スランプ アラレちゃん』に参加したとき、七條敬三プロデューサーに紹介し、脚本家生活を送ることになる。
中 弘子は中学生の時に竜の子プロの見学に来た際、私が案内したのが縁となって、その後交友が続き、女子大卒業と同時に私に弟子入り。ほぼ毎日、自宅から2時間掛けてわが家まで通い始めることになる。幸か不幸か、彼女は私の弟子第1号という看板を背負うことになった。
彼女を受け入れるにあたって、彼女の居場所が必要になり、仕事場を増築したことを覚えている。増築工事の期間中、ホテルニュージャパンの火事や日航機のK機長逆噴射事故があったりした。また間もなく成人式を迎える長男がこのころ、わが妻の胎内で生命の炎を宿し始め、この年の10月に産声を上げることになるのだが、この時はまったく判らなかった。
さて、いきなり番組を打ちきられてしまった理由が問題だ。
なんと広告代理店のS企画が5月放送分の電波料金を4月末までにテレ東へ支払えなかったのが主たる原因だとか。5月末にしてほしいという要望が聞き入れられなかっただと。そんなのモハメド・アリかよなどと当時ぼやいた覚えがある。なんたるおそまつ君だろうと。しかし、実状は放送の半年以上前から制作が始まっていたために、放送による収入が全く入らず、支出だけが雪だるま式に増えてしまっていたのだ。
私は脚本21話のうち19本を書いていた。で、半分以上は脚本料もシリーズ構成料も未払いだった。その証拠をまだ持っている。不渡りとなった小切手だ。48万6千円。記念に20年も持っていたのだから、私も物持ちがいい。これ以降の分も未払いがあり、結局100数10万円余りだったろうか。しかし、原稿料を小切手でもらうこと自体普通ではなかったね。まあ所帯をもって4年目、これは痛かった。
しかし、脚本家はまだよかった。美術担当者などは一銭ももらえなかったのだから。
制作の下請けをしていた制作プロダクションのGBも、GBの前に制作を担当していたDプロダクションもその後倒産してしまったのだからお気の毒だ。
私は翌5月、1ヶ月間全く仕事ができないほど脱力感に襲われた。情けないくらい何も手につかなかった。
それだけギャラがもらえなかったら無理もない……などという声が聞こえてきそうだが、そういうことではなかった。
私はギャラがもらえないというダメージよりも、精魂込めて書き上げた脚本が日目をみない、お蔵入りということに耐えられなかったのだ。たまらなかったのである。
この時、つくづく悟ったものだ。脚本書きはお金じゃないんだなあ……と。
たとえばこういうことだ。
「脚本を書いてくれば、毎回20万ずつあげる」といわれて、次々と執筆し、脚本と交換にお金をもらうことになったとしよう。
発注者はギャラを支払う代わりに目の前で書いたばかりの脚本を破り捨ててしまう。
これを3回繰り返されたなら、私は執筆の意欲を全く失ってしまうにちがいないということだ。ギャラをもらっても作品がお蔵入りになる、日の目を見ないという仕打ちは創作意欲を完全に奪ってしまうものなのだと理解できたわけだ。
逆にいうなら、発表の場さえ与えられれば、たとえギャラがもらえなくとも創作ができる人間だということが解ったということである。といっても、絶対にもらいますよ、ボランティア以外の仕事では。断っておかないと、後が怖い、怖い。
しかし、人間は何が幸いするか判らないものだ。
この作品でチーフディレクターを務めた落合正宗さんの紹介で、それから5ヶ月後、長男が誕生したころに、私は当時東映動画の七條敬三プロデューサーに紹介され、『Dr.スランプ アラレちゃん』の脚本を執筆することになり、それがのちの『ドラゴンボール』『聖闘士星矢』へとつながるのである。
この『ドン・ドラキュラ』の失敗・ミソギがなければ、『ドラゴンボール』『聖闘士星矢』の成功へ導かれることはまずなかったわけだ。
ある日、落合さんから次のような電話があった。
「コヤマちゃん、ドラキュラやってたとき、飲み代払ってもらったじゃない。あれ、借りてたけど、今返せないから、代わりに東映紹介するよ。東映動画の仕事、やったことないでしょ? 21世紀に残ってるのは東映だけだよ」
人生にもしもはないといわれるが、もしもこの作品に関わらず、落合さんと出会っていなかったなら、『ドラゴンボール』に参加することはなかったはずなのだ。そうであったら、のちに『ドラゴンボール』の二次使用料を元手に興したぶらざあのっぽもなく、アニメ界の脚本家の勢力図も大いに変わっていたことだろう。
人生はこのようにまったく面白い。目先の失敗など、取るに足らないものなのだ。
人生塞翁が馬、禍福はあざなえる縄の如しだと、つくづく理解したのっぽであった。
まったく面白いよねえ。悪いことなどないんだね。すべて良くなるためのものなのだね。一つの現象は長いスパンで見ることが大切なのかもしれないと本心から思えた。
のちに第2回日本アニメ大賞の授賞式で手塚先生にお目にかかった際、「あれは今海外で8話だけだけど放送されているんですよ」と教えてくださった。
忸怩たる想いで聴いていたが、その後ビデオとして廉価で発売されたものの、その会社も倒産。関連した会社が四社も倒産したことになるわけで、ドラキュラ様の祟りでもあるのだろうかと思ったものだ。しかし、2002年には、DVDでまた全8話が発売された。ドラキュラ様はしぶとい。復活は十八番だが、今度は大丈夫だろうか?
しかし、私がデビュー10年目に書いたもので、中身はかなり面白いはずだと自負している作品である。ちなみに声優の坂本千夏さんがまだ『フクちゃん』を演じる前、新人として毎回録音スタジオに詰めていたことを思い出した。
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