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小山高生 が日々感じていること、その想いを不定期に綴っていきます。
●2008年01月18日
鳥海尽三氏逝去! |
新年早々悲しいお知らせをしなければならない。
昨17日朝8時45分に鳥海尽三氏が肝臓癌のために亡くなったという知らせが入った。2月1日に79歳になるはずだったが……。
1972(昭和47)年3月1日、竜の子プロダクションの企画文芸部に出社した私は、企画文芸部長であった鳥海氏に挨拶をした。
介添えをしてくれたのは高校時代の悪友、森 忠明(現・少年小説作家)だった。当時鳥海氏は43歳になったばかりだったが、今思えばかなりのオジサンのイメージだった。こちらも24歳直前の身の上だったのだから当然かもしれない。あの年も子年だったのか……あれから月日は巡って36年か。
「会社のために働かなくていいから。会社に下足を預けたつもりで脚本家としての腕を磨き、独立する時に下足札を出して戻してもらえばいい」
出社早々に言われた言葉が忘れられない。
とにかく当時の鳥海氏はよく食べ、よく飲み、化け物のようなスタミナでよく働かれた。脚本を書きまくっていた。スケジュールが詰まった作品を一晩で脱稿してきてくれ、文芸担当としては大いに助かったものだ。
「すげえ」と何度も驚かされた。
その年の暮れ、竜の子の忘年会というか創立何周年かのパーティーの前夜、交通事故にあい、それ以来めっきり体力が落ちてしまったのをよく覚えている。
初めての30分シナリオ「けろっこデメタン」は鬼の酒井あきよし氏の指導で3ヶ月間改訂に継ぐ改訂で結局ボツになり、部長(いつも部長と呼んでいた)が退院後、新たなプロットを上げ、それはほとんど初稿でOKになった。それが30分物のデビュー作となった。
翌年「新造人間キャシャーン」の第4話「MF銃に怒りを込めろ」は8稿まで改訂させられたが、有り難い事に根気よく6週間付き合って戴いた。大いに学べたものだ。これはかのガンダム・富野喜幸(当時)さんが演出をしてくれた。
竜の子の第2作「マッハGoGoGo」から「ヤッターマン」まで竜の子作品の第1話は必ず鳥海尽三氏の脚本だった。
鳥海チックなカラーが竜の子アニメのカラーだった。主人公を究極まで追い込み、そこからいかに脱出するか、そこにドラマを必ず盛り込んだ。「ハッチ」も「ガッチャマン」も「キャシャーン」も第1話は必ず嵐のシーンから始まった。ドラマチックの「チック」が足りない脚本は必ず直しをさせられた。
当時の竜の子作品は良いも悪いも鳥海カラーに満ち満ちていた。それが嫌で新しい企画を考えても、最後に部長の筆が入ると鳥海チックになってしまった。竜の子をやめるしかなかった。その後部長が陶山&酒井先輩と鳥プロを設立した時も誘われたが、生意気にも鳥海カラーにそれ以上染まりたくなくて、お断りした。
部長は旧作の「ヤッターマン」の第1話も執筆されている。今話題沸騰のリメイク版「ヤッターマン」を果たして病床でご覧になれたのだろうか?
リメイク版スタートと共に日本のアニメ界を代表する脚本家のひとり鳥海尽三氏が逝かれた……なんとも時代をしみじみと感じさせる巡り合わせだな…と感慨一入ののっぽであった。
書きたいことは山ほどあるが、それは後日に譲りたい。
ご冥福をお祈りするばかりだ。
部長、いろいろと有難うございました。
通夜・告別式は以下の通り執り行われる予定だ。
通夜 1月19日18時〜
葬儀・告別式 1月20日12時〜
葬儀式場 江古田斎場大悲堂
練馬区小竹町1-61-1
п@03-3958-1192
喪主 鳥海和代(夫人)
会場は故人の母校である日本大学芸術学部のすぐそばである。合掌。
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