先日図書館に行った折に、ふと手を取ってみたものに以下がありました。
・曽野綾子氏 沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!
前書きに聖書を引用した文章が載っていて、それについてはまったく同感でした。
「他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。」
日本軍の沖縄住民虐殺についての記述に対して、仕方なかった事として終わってしまわれているのはとても残念です。集団自決が軍命令か否かの問題よりも、むしろこちらの部分について突っ込んだ方が、リアリティがあったのではないかと感じました。
本著作の矛盾については取り上げている方が沢山いらっしゃいますので、興味のある方は検索して頂けたらと思いますが、それとは別にこの問題については以下が参考になるかもしれません。
・沖縄タイムス 【連載】「集団自決」を考える(6月14日〜)
Please stop the government! Our dugong are crying !! And we are crying!!!
US government and Japanese government has a plan of the construction of the HUGE MILITURY BASE at Okinawa now. Please stop them! That plan will destroy not only the living environment of dugong, but also OUR LIVING ENVIRONMENT in Okinawa.
Will you kill us, and our dugong? Please appeal to the public and your government to stop that plan. Please help us!!!!
Save the Dugong, Stop the Airbase
2008年01月05日
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昨日、「暗殺・リトビネンコ事件」を観てきました。
プーチン、FSB(ロシア連邦保安庁)批判をした元FSB中佐リトビネンコが毒殺される前にインタヴューに答えたフィルムをドキュメンタリーにしたものです。
機会がありましたら、ぜひ観てみてください。
>他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。
これが聖書のことばとは知りませんでした。
でも、私は前半は客観的に正しく、後半は少し違うように思います。
自省することなく批判することは厳に慎まなくてはいけませんが、批判そのものは、必要だと思います。
自分自身が批判されることを承知で、誰かを批判しなければならないことは、残念ながら現実世界にいくらでもあるからです。
現実に悪がある以上、批判されることを恐れて、他者の批判を控えるとしたら、悪を見過ごすことにしかなりません。
「人を裁け、裁かれんがため」ということばがあります。
これは、自分自身をよりきびしい批判に置くためにこそ批判をするべきだという言葉です。
リトビネンコのような結果にならないためにも、悪を憎むのであれば、自身の存在をかけて、批判するべきであり、それは、私、あなた、彼、彼女に関わることなく、悪を批判することでしかないと、映画をみて思いました。
ご指摘の点ですが「批判とは建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」という理解に基づいています。
悪に批判で対峙するのは、それだけでは改善もできませんし、やっていることが同じになっているのではないかという反省もあります。批判することだけが方策ではありませんし、それに頼る必要ははないと思っています。
批判を展開するよりも、問題点のご指摘と、よりよい方策の提案、を選択する方が、次につながると思うんですね。
でも、これは単に用いる辞書の違いや、特定の問題に対峙するときの姿勢の違いであって、おっしゃることとの差異はあまりないとも思います。
ただ、「人を裁け、裁かれんがため」については反対です。それが罪に当たるかの判断は非常に難しいので、冤罪を避けるためにも、憎しみ合いによる報復の連鎖を避けるためにも「誰も裁いてはいけない」を支持しています。
って、結局私は甘いという指摘をこちらでも頂いてしまうのかもしれませんが...
>批判を展開するよりも、問題点のご指摘と、よりよい方策の提案、を選択する
というJitohさんの意見賛成です。
甘いと言われるのは 私も一緒です。
誰でも人から意見をされたり、批判されることは辛いもの・・・がんばって反論しても思うことの半分もいえないときは自己嫌悪にさえ陥ってしまいます。
一方で、あざみ子さんの言われる
>批判そのものは、必要だと思います。
とも思います。
批判されることで、自分が成長できるという前向きな考えが持てるときには、自分を批判している人の人間観察すら楽しめたりします。
なかなか 人間的にそこまで成長できないのですが・・・
彫金の世界でも人のことをこき下ろす人がいます。聞くに堪えないときもあるのも事実です。そういう時は、逃げ出してしまいます^^
人に意見をするということは非常に難しいことですが、言わないとなかなかわかってもらえなかったりすることも多いこの頃で、立場上、人に意見をする場面も多く・・・
ただ、自分の言葉によくよく注意せねば・・と自分に言い聞かせております。
極端に人を批判しないように・・・
怖っ〜〜〜〜って言われないように・・^^
総じて同感です。あざみ子さんの書き込みでも触れましたが、単に辞書の違い、手法の違いなんだと感じます。
私も「(ネガティブな)批判」は避けますが、問題があれば警告を行うことに躊躇ありません。批判をしない分、非常に厳格な対応になっていると思います:)
|ただ、自分の言葉によくよく注意せねば・・と自分に言い聞かせております。
極端に人を批判しないように・・・
ええ、子供に対する教育などでは、物事の重大さを理解してもらうために時に厳しい表現を使わざる得ないときはありますね。ただ、相手を思う意思がある限り、それは批判ではないと思います。
私も厳しくなりすぎないように気をつけなくてはいけないですlol
おふたりの日頃の批判ということに対しての姿勢と私もかわらないのですが、
本来、批判は純粋理性批判というように、誹謗中傷とは違うものであり、客観的に捉えなおす契機にするべきもの、「問題点の指摘」というのは、つまりは「批判」ということです。
なぜ、私が批判という言葉にひっかかったかというと、 曽野綾子が、
「他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。」
という言葉をなぜ前書きに引用したのか、という疑問です。
本書を読んでいないので、よくは分かりませんが、曾野綾子が大江健三郎の『沖縄ノート』を批判するのは、大江健三郎が、軍や国を批判するから、自分も批判するということを言いたいのではないでしょうか。
あるいは、沖縄県民が戦中の軍や国を批判するのは、慎まなければならない。
ということを言いたいがためではないのでしょうか。
本来、批判は理性的に、しなくてはいけないからするべきものであり、誰かが批判したから批判するとか、批判しないとかいうものではないはずです。
> ただ、「人を裁け、裁かれんがため」については反対です。それが罪に当たるかの判断は非常に難しいので、冤罪を避けるためにも、憎しみ合いによる報復の連鎖を避けるためにも「誰も裁いてはいけない」を支持しています。(>Jitohさん)
上記の言葉の「裁く」というのは、批判するということです。
批判(誹謗中傷ではなく、問題点の指摘等)をすれば、相手からも批判が返ってくるので、自分のためでもある。という意味です。
ですから、冤罪を生むような裁判のことをいっているのではありません。
私も死刑制度には反対なのですが、
>「誰も裁いてはいけない」を支持しています。
と、書かれていますが、Jitoh さんの個人的なお気持ちは分かりますが、現実的に法治国家であれば不可能です。
自分は手を汚していなくても、法によって「誰か」が裁いているわけです。
繰り返しになってしまうかもしれませんが、批判の意味については、残念ながらネガティブな意味で用いられるのが現在では多数だと認識しています。なので、私は使わないことにしています。
「批判の応酬によって切磋琢磨する」ということを仰りたいのでしょうけれど、私はそういう社会を好みません。それよりは「尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する」の方が望ましいのです。
法治国家の下り、手を汚していなくても、の下りは正しい解釈だと私は思いません。
法の目的は「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」そのための仕組みであって、それが物事の善悪を決めるわけではありませんから。
曽野綾子氏のこの著作についてのご指摘の点について、大きな矛盾があることについては、私も同感です。その目的については、一定の考察できるのですが、想像にすぎないのでここでは言及を避けさせてください。
あ、それと申し上げ忘れましたすみません、リトビネンコ事件については存じていますが、その映画も注意してみたいと思います。ご紹介ありがとうございました(__)
「批判も必要」ということの主旨が十分に伝わっていないようなので、ふたたび。
> 繰り返しになってしまうかもしれませんが、批判の意味については、残念ながらネガティブな意味で用いられるのが現在では多数だと認識しています。なので、私は使わないことにしています。
批判が物事の否定的側面を語る、ということはたしかですが、多数かどうかで、批判を排除するのではなく、批判の内容を検討する必要があるだろうと思います。
批判はジャーナリズムの根幹をなすものであり、Jitohさんが言われるように、
「批判とは建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
として、批判を排除、否定したら、ジャーナリズムを否定することになります。
Jitohさんが使わないようにしているのは、Jitohさんが、批判をする必要があるという切迫した現状にいないからでしょう。
やむおえず批判をせずにいられない場合も、また批判せずにいられないひともいるのですから、批判という行為も批判という言葉もないがしろにしてしまうわけにはいきません。
誹謗中傷の隠れ蓑に使われるということならば、誹謗中傷を排除すればいい。
だいぶ前のことですが、某短歌結社の主宰者に自作の短歌についての講評をいただいたことがあります。
某氏は、日頃、結社のトップにいると、なかなか批判が耳に入らない。自分のところに来る前に消えてしまうこともあるし、よほど気をつけて、自ら批判に耳を傾ける姿勢をもっていないと聞き逃してしまう、といわれていました。
講評はとても辛口なので、メンバーがどんどん減って、経済的にも大変なので、友人から加入してくれと言われたわけです。
で、自作に対する講評を得たわけですが、某氏の意見は了解したが、私は納得できないので受け入れられない言い、かなり激しいやりとりになりました。
それは某氏に対する批判でもあったからです。
某氏の添削は絶対で、今まで、そういうことはなかったというのです。
しかし、某氏は、「つい、いじりすぎてしまう」ということを漏らし、会の最後には今日は楽しかった。と言われました。
少々、手前味噌ですが、力を持つものにたいしてこそ、批判はより必要なのです。
そして、自覚的なものほど、その必要性を感じているのです。
>「批判の応酬によって切磋琢磨する」ということを仰りたいのでしょうけれど、私はそういう社会を好みません。それよりは「尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する」の方が望ましいのです。
尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する方が好ましいと思いますし、いつも批判が必要だとは思いません。したくないひとに批判するべきだともいいません。
人を裁け、裁かれんため、を実行しているのでもありませんし、できるとも思いません。
否定してしまいがちな批判というものを、肯定的側面から捉えなおすことを提示したいだけです。
人間は不完全な生きものです。
だからこそ、相手を批判しないのではなく、相手の否定的側面も気づいたものが率直に語る勇気を持つ。
それは、身近なひとに対するほど難しいことでもあるのですが。
批判しないようにするのではなく、必要なら、責任をもって批判し、理性的、公正に、といいたいのです。
Kariさんの言われるように「批判も必要」ということですね。
>法治国家の下り、手を汚していなくても、の下りは正しい解釈だと私は思いません。
法の目的は「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」そのための仕組みであって、それが物事の善悪を決めるわけではありませんから。
う〜む、
「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」ということは法に従って、「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為」=物事の善悪を判断し、裁いているということではないのですか?
それが必ずしも絶対ではないにしても。
自分が直接関わっていないだけで、社会的生活をしていれば、人を裁く、という現実から逃れられないはずです。
そういう痛みをもつからこそ、冤罪も法律の運用も自分の問題として考えるということになるのでは。
法によるのとは別に、日々、私たちは自分の価値観で人を裁いているはずです。
口にする、しないに関わらず。
ブログを管理するということにおいても。
繰り返しになってしまいましたが、いちおう、私の言いたいことは言ったつもりですので、レスはなくていいです。
アサーティヴなコミュニケーションとして「批判」を否定、排除する傾向にあるのは知っていますが、批判の必要性についても考えていただければ幸いです。
私はもうはじめのコメントで言い尽くしてしまってますが、数点気になる部分があるのでちょっとだけ。
|ということは法に従って、「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為」=物事の善悪を判断し、裁いているということではないのですか?
いえ、それでは順番が逆になってしまうのです。法に触れなければ何をしてもいいかというと、それも違いますし、法よりも前にまず、良識があるのであって、皆が自らの良識に従う社会ならば、法は不要ですから。
「それが現実なんだ」という主張もわかりますが、そこにとどまっているのではなく、より高みを目指したいんです。
それと、ジャーナリズムの否定とかまでいくと、ちょっと飛躍が過ぎると感じました。
批判は容易です。しかし、こうした安易な力を放棄することで、もっと強いものを手に入れることができますよね。
ご指摘アサーションもそうですが、これは今日の交渉術、コーチング等の基本的な考え方でもありますね。批判や裁くことを禁じた聖書等の教えは、非常に深い知恵があると、私は感じます。
って、単に辞書の問題ですね、やはり。「肯定的な批判」についてですが、それがあるとすると、私はそれを批判とは呼ばないと思いますから。
でも私も、徹底的に批判することはあります。自分自身に対してXD
なかなか、主旨が伝わらないようです・・・(−_-;
>って、単に辞書の問題ですね、やはり。「肯定的な批判」についてですが、それがあるとすると、私はそれを批判とは呼ばないと思いますから。
「肯定的な批判」?
私の言っているのは「批判の肯定的側面」です。
また、しばしば言葉を遺棄してしまうということがありますが、それは放送禁止用語と同じで、ことばの本質の問題を隠蔽してしまうことになります。
「ただ、単に辞書の違い」をお話していたのでしょうか?
一面的な固定観念ではなく、批判という言葉を多面的に、もう少し丁寧に検討してみてください。ということをお話してきたはずなのですが。
批判という言葉を辞書で引くと
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ)Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。
と、なります。
「批判を仰ぐ」とか、「批判に耳を傾ける」というのは、批判の必要性、批判を大切に考える一般的なことばですが、Jitoh さんの言われる
「批判は建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
という認識からは、こうした批判のもつ大切な役割がそぎ落とされています。
> ご指摘アサーションもそうですが、これは今日の交渉術、コーチング等の基本的な考え方でもありますね。批判や裁くことを禁じた聖書等の教えは、非常に深い知恵があると、私は感じます。
Jitohさんの言われる上記のことについては、社会生活をする上での知恵として分かりますが、批判や裁くことを禁じている社会がパラダイスかということそうではなく、ブッシュ政権を支える基盤になっているのはご存知のはずですね。
Jitohさんが批判をネガティヴにしか捉えていないことが心配なので、再考してみてください。と言っているのです。
コミュニケーションは言葉を介してしているわけですから、ご自分の辞書にこだわっているだけでは、会話は成立しません。
特に、考えの違うひとと会話をする場合には、すれ違ったまま徒労に終わってしまいます。
少なくとも「皆が自ら良識に従う社会を目指したい」「そこにとどまっているのではなく、より高みを目指したい」と思われているわけですから。
>批判は容易です。しかし、こうした安易な力を放棄することで、もっと強いものを手に入れることができますよね。
「批判は容易」と言われていますが、それは容易な批判しかご存じないからではありませんか。
容易にできる批判なら、どんどん放棄しましょう。
本質を見失ってしまいませんものね。
問題は批判は容易で、批判を放棄すれば、もっと強いものを手に入れることができるというふうに、批判そのものを容易な力によるものだと言っているところです。
批判は、本来容易な力でできるものではありません。
アンナ・ポリトコスカヤに批判を放棄させて手に入れるもっと強いものとは?
こうして、Jitohさんを批判している私も「うるさい人」「コワイ人」と言われるのがオチなのです。
主観的、情緒的なきれいごとになってしまわないように、老婆心ながら。
レスは、お気になさらずに。
多くの方には理解が難しい事柄なのだとおもいますし、これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから。
広辞苑4版では批判は以下のように説明されています。
1.批評し判定すること。ひばん。
2.人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。「強い―を浴びる」
3.マルクスの用語としては、イデオロギーの論理的批判に止まらず、それを生みだす物質的条件・階級的基礎を明らかにすることによって、それを克服すること。
こんにちは。
残念な返信ですね。
レスはお気になさらずに、と書いたのはゆっくり考えて戴きたかったからなのです。
レスはいつでもいいのですから。
>多くの方には理解が難しい事柄なのだとおもいますし、これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから。
「多くの方には理解が難しい事柄」なのだと思われるのならば、より以上に理解できるように説明するべきなのです。
十分な説明を欠いて、「理解が難しい事柄」「これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから」と言うのでは、あなたには理解できないでしょうし、する気もないでしょう。という相手に対する誹謗です。
言葉は丁寧でも、慇懃無礼です。
私は批判の必要性、その肯定的側面について、思うところを書いてきました。
それに対する自分を問うた十分な返信はありませんでした。
高みを目指したいというJitohさんが言われるような「それが現実なんだ」ということを言ってきたのではないのですが。
知識や考えは自分の中だけにあると絶対なものとなりがちです。
ときどき、ひとに語って相対化する必要があると思いますが、いかがでしょう。
残念ながら、私たちはことばによって、説得的に語るということ以外、理解しあう道はありません。
ことばを放棄したら、力に訴えるしかなくなってしまうのです。
そして、それが悲しい現実だからこそ、ことばを大切に語らなければいけないのです。
言葉を放棄するのは、厳に慎んで戴きたい。
ひとりの人を細かく分析、評価、また批判するのではなく、トータルな個人としての存在としてみる必要があると思いますし、企業などでの評価、個人に対する批判が、精神を冒すという事実は無視できない現実です。
会社や、社会、国、学校というような個人を取り巻く、より大きな力からの分析、評価、また批判は、力が均衡でないだけに個人の存在を歪めてしまいかねませんし、私も否定的です。
しかし、一対一、あるいは信頼関係における論理的な批判は、ときに必要ですし、言葉によって論じている学問や学説にとっては重要です。
だからこそ、「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉があり、あえて、否定的な内容である批判を歓迎するということになるわけですし、歴史的にも学問や学説を進める上でも必要なものだったはずです。
また、より巨大な力に対するジャーナリズムは、権力のチェック機能として、批判というものがなくては成立しません。
以上、繰り返しですが。
Jitohさんも徹底的に自分を批判すると言われていましたが、その必要があったからこそ、自身を批判されたのではないのですか。
言葉の安易な理解と扱いは安易な思考と言動に繋がります。気をつけましょう。自戒を込めて。
批判は、物事の解決、克服のためにこそされるべきであり、批判をどのように生かすかはひとにかかっています。
批判という言葉に責任はありません。
>「批判は建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
これは、一般的見解でもありますが、論争や反目を生むことはありますが、論争は生んだ方がいいと思います。
ときにまともではない論が入ることはありますが、それは仕方がないことなのです。
また、解決に結びつかないことはたしかにありますが、その時点での解決にはならなくとも、長いスパンで見れば批判が有効であったということはよくあります。
批判から反目が生まれるとしたら、人間の弱さだとしかいいようがありません。
それは無視できない事実ですが、そのことは、むしろ内在している自らの弱さに気づく契機になるということもあります。
そのときにはただ、相手を憎んでいたことが、時間の中で冷静に客観的に見ることができるようになり、受け入れることができるということもあり、それは決してマイナスではないのです。
それもまた、人間の力ですね。
批判は誹謗・中傷とは違い、本来反目し合うものではないのですが。
人間はそれほど強い生きものではありません。
それでも、人間は強くなれる生きものなのです。
自分を含めて、批判されて、そのことに耐えられる人は多くはありませんし、たいがい、感情的になって、関係は壊れることの方が多く、たとえその批判内容が正しくてもいい結果にはならないとお考えなのでしょう。
たしかに、一般的にはそうなのですが、十分に議論、やりとりをした結果、批判に相応の正当性があるのならば、批判を受け入れるということはできないものだろうかと思います。
「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉が示すように。
それは、容易なことではありませんし、なかなかできることではないのですが、それがより強いものを手に入れることであり、高みを目指すことだろうと私は思います。
済みません、ちょっと厳しく受け取られてしまったみたいで、私の申し上げ方がよくなかったと反省しております。
持っている価値観や常識が異なるように、言葉の意味やその解釈は人それぞれ違うものですが、そのことを私は「辞書の違い」と表現させて頂きました。
また、批判が必ずしも悪手ではないというのはもちろん存じています。立場上、批判を能動的にアピールしたいというのも存じています。この点では申し訳ないです。
ただ、もっとよい方策があるのです。また、信条としてそのスタンスを取ることは私は、極力避けています。
しかし批判をしないというのは、大変な困難を伴います。すべての方にこれが可能だとは私も思いません。その意味で、批判を用いざる得ないシチュエーションもあると思いますし、それを否定するものでもありません。
一方、もしも可能なら、どうして様々な教えとして、批判や裁くことを禁じているのか、この点についても考察していただけましたらとてもありがたいのです。
私はこれら価値観を理解して10年以上になりますが、今さら後戻りする気にはなれないのです。
意に添えず、大変申し訳ないです(__)
コメントを最初から読んでいただければ、私が一般的な、また、曾野綾子の本からの引用だと言うJitohさんの引用されたことばについて、私なりに考えた上で書いているということはお分かりいただけるはずです。
言葉の意味やその解釈は人それぞれですが、言葉をどのように理解するかは思考や言動と密接な繋がりがあります。
私からみるとJitohさんは批判もし、人を裁いておられるのですが、Jitohさんはそうお考えではないようです。
批判は本来、するべくしてするものであり、止むに止まれぬ気持ちでするものでなくてはいけません。
少なくとも、私が何がしかの批判めいたことを書く時には、そうありたいとつねに思っています。
辺野古での基地建設反対も、日本の軍事政策に対する明解な批判なくしてありえません。
http://www.ne.jp/asahi/teori/suzume/natume.htm
もっと、よい方策があるといわれるのならば、それを語るべきなのです。
私には、批判ということばを、非難や攻撃ということばと同一に捉えておられるように思えてしかたがありません。
いちいち揚げ足とって突っかかってくるなぁ。
人それぞれの考えを絶対認めないの?
まぁ、それは置いておきまして、この件に口出さない事もちょっと我慢できなくなったので、少々失礼します。
とりあえずROMerさん、「どちらも」それぞれの考えを認めていません。僕も人の事はそれほど言えませんがね。
さて、僕はこの場合、azamikoさん側の考え方を肯定します。当事者らはその点に関してのみ、よくご存知であると思われますが、その点は置いておきまして、本題に入りましょうか。
さて、批判に関して、『突き詰めて言えば「批判はしない」事は無理であること』はさすがにJitohさんでもおわかりであろうと考えます。「極力しない」とおっしゃっている事からそれが予想されます。故に突き詰めた部分は省略します。
たしかに批判というものそれ自体が、対応する者がしている「言動」、「行動」、「考え」の否定または方向の転換を促すモノに他ならないでしょう。しかし、人間はROMerさんが言うように人それぞれの考えがあるからこそ摩擦がある代わりに、さらにより効率的な考え、より道徳的な考え、より論理的な考えという、ものが考えられるのです。それは複数の人間による云わば「考えの個人差」と言えるモノによって磨かれます。これは特に物理化学分野から政治、経済にまで、よくあることでしょう。
さて、僕が言いたいことは主にazamikoさんが言っている中にあるので、上記はその部分を自己流に、一例を交えて話しました。
書き方から「みんながやっているから良い」とも読めなくはありませんが、逆であること、つまり「その方法が有効であるからこそよく使われる」事をまず申します。簡単な方法であるとおっしゃられておりますが、それはよく練られた対案あってこそという点をお忘れなく。
さて、僕の考えは以上ですが、最大の疑問、つまり、Jitohさんは「批判」ではなく、何をもって他者と共により良い考えを生み出そうとするのですか?
方法論を論じて明確に反対側の意見を否定する以上、具体的な「他者とのやり取りに何を用いるか」の提示ができると考えられますが、どのようなものでしょう?
さて、最後に一言。今回もべつだん、荒らすために書き込んでいる分けではありませんので。結局は「何が」、「何を」、「どんな」という相手の考えのみに集約されている事をお伝え申し上げます。
人それぞれの考えを認めないのではなく、ひとそれぞれの考えを認めるためには、話しを聞く必要があるということなのですよ。
聞いた話が自分の意見と違った場合に「そういう考え方もあるのか」と終われないのでしょうか?
考え方が違うという風に他人の思考を認めて議論せず、複数の意見があるという事でよいのでは?
自分と違う考えを「間違い」とか「わかってない」と指摘して、必ず自分と同意見にしないと納得いけないような感じです。
世の中は色んな人がいて色んな思考回路があって当然なのです。自分が全てではないのです。
自分に合わない人を認めなくては喧嘩の原因、さらにはそういう行動が戦争の元になるのです。
一般常識的に見て、攻撃的で揚げ足取り見えるのを自覚してらっしゃるなら、それは世間一般で攻撃で揚げ足とりなのです。
わかっていて喧嘩を売る行為ではないですか?
あざみ子さんが色々考えている事はわかります。
知識や思考はいいのですが、議論の仕方を学ばないと騒動屋になってしまいますよ。
あざみ子さんに限らないのですが、このような行動を取られる方々が諍いや対立を生み出し、しいては戦争を産んでいるというのは、私も感じます。
今後ともよろしくお願いします。
あざみ子さん、おはようございます。
多くの方はこのテーマをについて、お金を払ってセミナーに行ったりして勉強されています。ここで私がある程度詳しくお話しすることはやぶさかではありません。
あざみ子さんにご理解頂けないのは、説明が下手な私の問題もあるかと思います、その点申し訳ないです。でもその内容が理解できないのは、本当に他者の責任なのでしょうか?
申し訳ありませんが、説明を強要されてしまうのは、それでは私としても、話をさせていただくモチベーションも維持できなくなってしまうというのが、正直なところなのです(__)
すこし落ち着いてご自身が書かれた内容について、読み返していただけたらと願ってやみません。
一方、このようなことをされるのは、よっぽどのことがあったのかと、心配しています。
>あざみ子さんに限らないのですが、このような行動を取られる方々が諍いや対立を生み出し、しいては戦争を産んでいるというのは、私も感じます。
つまり、あざみ子女史も諍いや対立、しいては戦争を産みだすような行動をとっている、と思っていると。
>内容が理解できないのは、本当に他者の責任なのでしょうか?
つまり『あざみ子女史自身』の理解力が足りない、と言いたいのかと。
>説明を強要されてしまうのは、それでは私としても、話をさせていただくモチベーションも維持できなくなってしまう
つまり「お前とはもう話す気も無いよ」と言いたいのかと。
ではその前に
>私がある程度詳しくお話しすることはやぶさかではありません。
と書いてるのは何なのかと。
「やぶさかではない」というのなら喜んで詳しく話をする、という意味ではないのかと。
>すこし落ち着いてご自身が書かれた内容について、読み返していただけたら
「冷静じゃない」と言いたいのかと。
自分の書いた文章を読み返すべきは、Jitoh氏本人じゃないのかと。
>考えを認める行程として話を聞くのは当然ですね。
聞いた話が自分の意見と違った場合に「そういう考え方もあるのか」と終われないのでしょうか?
「議論の仕方」といわれていますので、議論だとお考えなのでしょうが、
「そういう考え方もあるのか」ということになるには、まだ不十分だということです。
>考え方が違うという風に他人の思考を認めて議論せず、複数の意見があるという事でよいのでは?
自分と違う考えを「間違い」とか「わかってない」と指摘して、必ず自分と同意見にしないと納得いけないような感じです。
自分と同意見にしないと納得しない、などということはありません。
「・・・ような感じ」と半ば自覚されているようですが、印象ですね。
一般常識的には、分かりますが、
Jitohさんとは、ほんとうのことを言う関係になりましょう、ということを合意してきました。
また、ご自身「より高みを目指したい」、「強いものを手に入れたい」とも言われています。
批判の不十分な部分についても誠実な対応と思えないことの私の指摘に、Jitohさん自身お認めになり、反省もされています。
つまり、その必要があったということです。
私の書いたものを、読み返していただければ幸いです。
思うところ(問題点の指摘とよりよい方策の提案)を率直にお話しているだけですし、まだ核心部分については十分とは言えません。
一般常識の範疇で語れないということなのですよ。
で、残念ですが,jitohさんはここブログではなく、メールでのやりとりを希望されています。
本来でしたら、みなさんにもJitohさんのお考えを聞いて戴きたかったのですが。
ところで、ROMerさんは、私のこともご存知のようですが、どちらからお越しですか?
私に「議論の仕方を学ぶ」ように言われるのならば、責任ある発言として、やはり自ら名乗られるべきでしょう。
☆Jitohさん
私とのやりとりをメールでしたいと希望されたのではなかったのですか?
返答ありがとございます。
いきなり攻撃的な書き込みで失礼しました。
自分は、人はそれぞれの考えを持っていて、それぞれが正しいと信じて行動しているのだから、議論をあまりしない人間なのです。
「貴方の考えはわかった。でも、俺はこういう考えだから好きにやらしてもらうわ」というスタンスで生きています。
でも、人の意見を聞かないワケではなく、聞いて「そういう意見もあるんだな」と楽しんでいるだけです。
聞くだけなら損はないし、考え方が広がりますからね。
自分の確固たる信条があれば、心に余裕をもって他人の意見を聞けると思うのです。
だから、今まで何も言わず「みんな色々思想をのべているなぁ」とココを読んでいたのですが、今回あざみ子さんの書き込みが否定するだけのクレーマーに感じて意見させていただきました。
普段ここを読んでて色んな人の意見があり、自分的に賛成も反対もありましたが、何も言わずそれぞれの主張を聞いて、世の中の自分と違う見解を吸収できて参考になりました。
自分はブログの内容について意見を言うつもりはありません。理解してもらおうと思わないし、自分の考えが人と違う事もわかっていますので。
人の考え方を聞いて楽しんでいるだけです。
でも、建設的は議論は読んでて勉強になりますが、否定するだけで、代替論がない書き込みは不快になります。ただ、相手を潰したいだけの攻撃に感じたので今回書かせてもらいました。
議論は、攻めて自分の意見に同調させる為にするのではなく、複数の意見を合わせてプラスの方向に持って行くためだと思います。