以前、大型冷蔵庫で納豆を整理するアルバイトをしていた息子が、余剰在庫が無残に廃棄されるのをもったいながるので、もらってこさせていたことがある。賞味期限もかまわず、家族で食べていった。
わが家ときたら、どのような食べ物であれ、賞味期限というのは、参考程度にしか考えていない。見た目とか、においとか、味の変化とか、人間に連綿と備わってきた知恵や感覚を、相当程度信じているから、子どもにも教えてきたし、幸いそれで家族は一度たりとも、体に変調を来したことはない。
何も食品偽装を擁護しているわけではないし、それはそれで指弾されてしかるべきではあるが、潔癖性を求めるがあまりに、目を向けなければならない別の点がおろそかになってはいないかということだ。人間に備わった知恵や感覚しかり、賞味期限という線引きの下に行われる大量廃棄の問題しかり…。
「偽」が象徴になってしまった旧年が往(ゆ)き、さて今年はどんな字が充てられるのか。「偽」の対極は「本物」ではあるけれど、「本物」とは単にそれがありのままであればいいというのではなく、本質を備えているかどうかが問われるわけで、それを見分ける眼力こそが、「偽」の反省で求められるのだろう。
とりわけ政治家のしたり顔などには要注意で、ときの雰囲気に流されて投票し、「あれあれ、しまった」と、後悔をすることがゆめゆめないよう眼力を磨き、年内に確実視されている総選挙に備えよう。政治の腐敗は、食品ほど根が単純でないのが悩ましいけれど。
(特別編集委員・横田賢一)