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吉田蓑助師匠
文楽・人形浄瑠璃の、人形遣い吉田蓑助。人間国宝である。 本日、国立劇場稽古場でお会いして挨拶申し上げた。最初はきょとんとしていた師匠、私が「心の旅でお手伝いさせていただいたプロデューサーです」と名乗ると、破顔一笑。このうえなく嬉しいといった表情で、私を見つめた。 今から9年前になるだろうか。私が「世界わが心の旅」を作っていた頃だ。毎回、旅人にあたるゲストを選定して、海外に送り出し、毎週のように編集、ポスト=プロダクションに追いまくられていた。およそ20人のゲストの旅番組を作ったことになる。すべてが気に入った作品とはならない。中には、単なる骨休めで海外旅行してきたといわんばかりの「駄作」もあった。その中で、吉田蓑助師匠の作品は心に残った。題して、「ギリシャ・月光に舞う鷺娘」。 当時65歳だった師匠は油が乗っていた。日本だけでなく世界各地で開かれる演劇フォーラムに招聘され、飛び回っていた。その体験の中で、一番再訪したい場所はどこかと尋ねると、すぐ「ギリシャ、パルテノン神殿」と師匠は答えた。そこで見た月夜が忘れられない、かの地で「鷺娘」を正装で演じてみたいと前から思っていたと、言うのだ。 ギリシャ政府の招請ならともかく、自主的に旅するのなら、それはプライベートなパフォーマンスにしかならないのだが、それでもいいかと念を押す。それでもいいと、師匠は言いきった。 そして、決行した。三人の人形遣いがパルテノンを望む対岸の丘に立った。吉田蓑助、ともう2人の弟子である。観客がまったくいない小さな展望台で、師匠は紋付袴の正装の出遣い、あとの二人は黒遣いで、「鷺娘」を演じたのである。無客の中、カメラが見守るなかでの無心の演技は幽玄で、この世のものとは思えない鷺の精。まさに夢のような光景であった。 後に、日本でその映像を再生して見た私たちは息を呑んだ。 この番組が放送されたときも、師匠はとても喜んだと聞いて、制作した私たちは嬉しかった。機会があれば、この番組の関係者で集まって打ち上げでもしたいですねと、スタッフ内で話し合っていた矢先、師匠が脳卒中で倒れたというニュースが飛びこんできた。病は篤く予断を許さないと聞かされたが、運良く命は取り留めた。だが後遺症が懸念された。 やはり、言葉が不自由となった。だが、懸命のリハビリの甲斐あって、今では舞台に立つことも可能となったのだ。 今回の鶴澤清治の会でも、吉田蓑助師匠は第三部、「文楽ごのみ」に出演している。そこで、私は名乗って、挨拶したのだ。 「師匠、もう一度、機会があれば、パルテノンで鷺娘をやっていただきたいですね」と声をかけると、うれしそうな顔で、言葉ともつかない歓声を上げておられた。思わず、私は熱いものを胸うちに感じた。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか 旅人、デザイナー稲葉賀恵
明日の朝5時から、衛星第2放送で私が担当した作品が再放送される。 「世界わが心の旅」で、デザイナー稲葉賀恵さんが南仏を旅するのだ。 BIGIやyoshie Inabaのブランドで知られる稲葉さん。めったにテレビに登場しないが、彼女自身の希望で南フランスを旅することとなった。ガラスの香水瓶を求めての旅である。 稲葉さんは戦災にあって家を焼失した。戦前の美しいものをすべて失くした。伯母の家だけが焼け残った。そこに伯母の鏡台があってエメロードという美しい香水の瓶があった。それは少女の憧れとなった。いつか、こういう香水をつけたい、その思いは瓶の形に秘められた。 そのガラス細工を求めての旅である。派手な出来事があるわけでもなく、美しい南フランスの町々を歩いて風に吹かれてゆく、稲葉賀恵。あの美しいテーマ曲が彼女の佇まいによく似合う。 この番組のディレクターは業界でも有名なベテランだ。力まず、さらりと仕上げた点に注目して。 その後20本近く「世界わが心の旅」を私は作ることになるが、その初期の作品だ。 この番組を作ったのは今から8年ほど前になる。当時はまったく知らなかったが、稲葉さんもわが鍼のタケ先生のクライアントで、私と同じ患者仲間だったのだ。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか アッシジへ行ったのは1998年ちょうど今頃の、秋の終わりだった。手前のラヴェルナ修道院で初雪に出会った。アッシジの城砦都市では底冷えする日が幾日か続いた。 モンテ・スバーシオの中腹、標高500メートルにアッシジの町がある。 町は夜ともなれば中世のままの闇が広がっていた。石畳をコツンコツーンと響かせながら歩くと、寒さが地の底から浮き上がってくるような気がした。 ロケの本隊と離れて、私は上の町をだらだらと歩いた。町の中心と思しき広場に異教の神殿ミネルヴァがあった。一説によれば、エトルリアの遺構ともいう。両脇を住宅で挟まれた、ささやかな社であった。 さらに石段を登って行くと、オリーブの精製工場があって、夜中でも忙しそうに働いていた。おりしもオリーブの収穫の季節だった。絞りたてのオリーブオイルを安い料金で分けてもらった。新鮮なオイルというのは本当に香ばしいものだ。 さらにロッカ・マジョーレの頂まで行くと、城の砦が築かれていた。急斜面の台地には芝が生えていて寝転ぶと気持ちがよかった。眼下にはウンブリアの平原が広がっていた。目の前の石垣は白い岩石が組み合わされていた。スバーシオ山で採れる石で、うっすらとピンクが混じった白い石だ。表面を剥がすとぽろりと石の塊りがとれた。 記念にと、その一個を日本へ持ち帰った。今、私の書棚の隅にある。1998・11・10とボールペンで採取の日付が書かれてある。 この石片を眺めていると、アッシジのひんやりした秋の空気を思い出す。 須賀敦子が「ベネツィアの宿」で、父がヨーロッパを恋しがっていることを記している。父豊治郎は生涯に一度だけ半年にわたって西欧を旅した。その思い出を口癖のように須賀に語ったと書いている。 《ウィーンだけは、もういちど行きたい。あの都(まち)だけでいい。ほとんどせつなそうに、そうくりかえしていた。》 ほとんどせつなそう、か。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか 再放送が続々
今月から来月にかけて、私がかつて制作した番組が4本再放送される。ごらんいただきたい。一本一本の作品については、これから順に案内していこうと思うが、取り急ぎ、全体の放送計画を紹介する。 1、来週の日曜日、「NHKアーカイブス」の時間に放送される。 「私は虫である」・・・昆虫画家、熊田千佳慕さんのヒューマンドキュメンタリー。 2、11月14日(火)衛星第2放送、午前5時から44分 世界わが心の旅「南フランス」デザイナーの稲葉賀恵さんが旅人。 3、11月16日(木) 衛星第2放送、午前5時から44分 世界わが心の旅「モロッコ」 モデルの山口小夜子さんが旅人。 4、12月14日(木) 衛星第2放送、午前5時から44分 世界わが心の旅「アメリカ、ナバホ」 河合隼雄さんが旅人。 1は20年ほど前の作品だが今も忘れがたい。熊田さんはこの番組に出て以来、超有名人になられて、最近では黒柳徹子さんといっしょにコマーシャルにも出演している。 2,3,4、はすべて4年ほど前に作った「世界わが心の旅」だ。私の好きな番組枠だ。テーマ曲を聴くと、胸がきゅんとなる。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか 北国の祈りの木
オノヨーコさんとノルウェーに行ったことがある。 ベルゲンという古い港町だ。そこで、1999年夏にオノさんの大回顧展が開かれた。 その記念式典に参加するオノさんに同行して、私は「世界わが心の旅、北国の祈りの木」 というドキュメンタリーを作った。 オノさんは元来前衛アーティストとして、戦後早くから注目されていた人だ。 そのアート作品を一同に集めて展覧会が開かれる。今までになく規模の大きいものだという触れ込みだ。 ベルゲン市の美術館館長がオノさんの古くからの友人で、オノさんの仕事を早くから 評価していたこともあって、オノさんはこの展覧会に応じたのだ。 このノルウェー行きの話は私の元に、突然飛び込んできた。 ひょっとすると、オノヨーコの素顔が撮れるかもしれないという情報だ。 すぐ私はニューヨーク、ダコダハウスにオノさんを訪ね出演交渉し、了解を得ることに成功した。 この交渉についてはいずれ稿を改めて書こう。とにかく伝説のダコタハウスに私は足を踏み入れたのだ。 北国のベルゲンは、夏とはいえ雨がふれば肌寒い気候となる。空は限りなく高く 海はどこまでも青かった。そこの美術館には異例の数の客が詰め掛けた。 ヨーコの一環した主題は「愛と平和(LOVE and PEACE)」だ。 作品のひとつに「虫かごの部屋」があった。白い何もない部屋に上から無数の虫かごが ぶら下がっているだけ。かごの中はからっぽだ。かごの底を見ると、「1914・セルビア」 「1945.広島」とある。歴史的事件の地で悲劇が起きる直前まで鳴いていた虫を入れたかごなのだ。その悲劇のため虫も殺され、かごの主は不在となっていることを、その 沢山のかごは示している、彼女は私にそう説明した。口調はやさしいが目は鋭い。 かごの一つに「1980・12・8 ジョン」というのがあった。ジョン・レノンの 虫かごだ。彼女は旅の途中折に触れて、ジョンのこと、その思い出を語っていた。 まさにベターハーフなのだ。 この虫かごでも分かるように、日本的なことがヨーコの心を深く捉えている。 バレストランドという小さな町では、会場の前に一本の木を立たせ、そこに客の 願いや祈りを書いたカードをくくりつけさせた。彼女の得意なパフォーマンスだ。 これは、まさに七夕の手法ではないか。ヨーコは日本で過ごした少女時代を とても大切にしていることを、私は感じた。 その祈りの木の前で、最後のインタビューをした。 「一人の英雄が祈るのではありません。今の時代は一人一人が英雄になって みんなで祈るのだ。そうすれば、世界は変わるのです。」 * * ヨーコは肩こりがひどい。あまりしんどそうなので、揉んであげましょうかと 私が声をかけると、ぜひと肩を差し出した。 終わった後、やはり日本人の肩揉みは違うわねえと、うれしそうに礼を言って、 首をコキコキ回した。 よかったらランキングをクリックして行ってください 人気blogランキング 世界わが心の旅
「世界わが心の旅」というシリーズを作ったことがある。番組のテーマ音楽はむせび泣くようなヴァイオリンの切ない曲で、一度聞いたら忘れられない名曲だった。今も、衛星第2の午前中に再放送しているから、「名曲だった」と過去形で語るにはまだ早いかもしれない。 著名人が世界の各地に飛び、その地にまつわる自分を語るという旅ドキュメンタリーだ。1993年に始まり2003年まであしかけ10年続いた、衛星放送の看板番組だった。私は後半の1年余りを担当した。実際に現地まで出かけて撮影し編集まで関わったものから、編集に関わっただけのものまでおよそ20本制作した。 実際に旅に立ち会った作品は、オノヨーコとノルウェー、葉祥明とアッシジ、太田治子とオランダ、檀ふみとニューヨーク、堀江謙一とサンフランシスコ、などである。 かつて海外渡航ブームで日本人が世界に出かけた頃、この番組は大いに受けた。この数年の不景気で海外熱もやや冷めた観がある。番組が終了したのも当然かもしれないが、この番組がもっていたエネルギーは、私自身にとっても大きな力を与えてくれた。作品回顧とは別に、折に触れて「世界わが心の旅」のエピソードを語っていこうと思う。 檀ふみさんとニューヨークを訪ねたのは冬だった。かの地の寒さは東京に比べて圧倒的に厳しい。ダウンタウンを数分歩いただけでも寒気が体全体を包囲する、そんなかんじだった。ふみさんの旅はお父さんの足跡を辿る旅。父、檀一雄は「火宅の人」で知られる無頼派の作家。本当は太宰治らと文学を追求する真摯な作家だ。戦後流行作家として活躍する。実生活は文字通り火宅の人だった。というよりも人生を振り返ると、それは火宅――家がドタバタで混乱すること――以外なにものでもないと自己認識したのではないだろうか。 檀はある女優と恋に落ちる。ふみさんたち家族の元から愛人宅に通いつづけついには同棲するまでとなっていた。だが、ふみさんたち兄弟姉妹にはいい父だった。 やがて檀は女と別れ、家族を残して世界旅行に旅立つ。最初がアメリカで、ニューヨークでは長い逗留となった。彼は自殺未遂を起こす。顛末は小説「火宅の人」に書いてある。番組はこの出来事をふみさんが現地でみつめる旅としたのだ。 当初、檀一雄を世話したユダヤ人の秘書が出演してくれる予定であったが、高齢で体調がはかばかしくないという理由で断られた。予定が狂った。さあ困った。大事な証言者がいないのでは番組の骨格が崩れる。あれこれ考えジタバタ動いた。ますます混乱する。 ディレクターと私は知恵を振り絞った。挙句、檀が自殺騒ぎを起こしたホテルの一室にふみさんを「押し込めて」自分と父檀一雄のことを深く見つめてくださいと、引導を渡した。ひどい話だ。さすがにふみさんも眉を少しひそめたが、わかりましたと言って「火宅の人」1冊をもって部屋に閉じこもった。 翌日、部屋を訪れてカメラを向けたとき、ふみさんは実にすっきりした顔で、父の気持ちが少し分かった気がすると話し始めた。その話は感動的だった。むろん、この朝の撮影の数日前から檀の足跡をたどってニューヨークをふみさんが歩いたこともあって檀の動きを把握したからだろうか、ふみさんは檀の当時の苦悩をよく把握した。共感を示した。そして父と太宰の関係をてがかりに檀一雄の文学と正面から切りこんだのだ。 父のことを語るふみさんの表情は懐かしさにあふれていた。この時のサブタイトルは「父よ、ニューヨークの悲しみよ」。 今も時折ブラウン管で見るふみさんはケラケラ笑う明るい女優で、ニューヨークのあの表情とは格段に違う。でも父のことを語るふみさんは凛として美しかった。 私は檀一雄の最期の句を、今頃になると思い出す。もがり笛とは木枯らしのこと。花とはむろん桜のことだろう。 もがり笛 いく夜もがらせ 花に逢わん この句の碑は、檀一雄ゆかりの福岡の能古島に立っている。 人気blogランキング
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