【NEWS】
★現在4日遅れで公開しています。ご意見・ご感想はMLA掲示板へどうぞ。
★12/10に文藝春秋より『STAR EGG 星の玉子さま』文庫版が発行。
★12/14にメディアファクトリーより『MORI LOG ACADEMY 8』が発行。
★12/21に角川書店より『もえない』が発行。
★1/10に講談社ノベルス『タカイ×タカイ』が発行。
★1/18に集英社より『工作少年の日々』文庫版が発行。
★2/25頃に中公文庫より『森博嗣の道具箱』が発行予定。
★3/14頃にメディアファクトリーより『MORI LOG ACADEMY 9』が発行予定。
★3/15頃に講談社文庫より『θは遊んでくれたよ』が発行予定。


2008年01月18日(金曜日)

【HR】 布教活動はいかがか

 パスカルのパン問題で険悪な空気になったが、長女M氏が教えてくれた子犬の動画で家庭は円満に戻った。パスカルの足はこれでもまだ細い、という話に問題がすり替わったせいだ。
 「クレィドゥ〜」文庫のゲラは20%まで読んだ。「別册文春」のゲラも確認して発送。終わり。カバーやその他、確認が多々あった。今日は執筆をする時間は取れず。機関車製作部の今月のレポートを書いている。

 お昼頃、スバル氏とショッピングセンタへ。本とCDを購入。
 工作は一段落したところで、今はガレージ内にもう1つ工作台を作る計画を練っている。大きな機関車を整備するためだ。スケッチを描こうかなという段階。イギリスから小さな機関車のキットも届いた。海外のものが本当に手軽に買えるようになった。素晴らしい。

 明日から暖かくなるそうなので、今日もなるべく外に出ないことにした。でも、パスカルが庭で高い声で吠えているので、見にいったら、スバル氏が水やりしていて、パスカルがそれに飛びつき、びしょ濡れになって走っていた。冬にやることか、と思ったが、パスカルは大好きなのだ。

 今日は宗教について少しだけ書こう。僕は宗教にはまったく興味がない。無宗教である。自分も墓に入るつもりはないし、葬式も含めて一切の儀式をするつもりはない。さて、それでも宗教が嫌いなわけではない。毛嫌いしているわけでもない。たとえば、観光地へ行けば、宗教がなければ作られなかったであろう造形、美術に触れる機会は多い。
 誰が何を信じようが自由である。だから、宗教の存在は自由だ。宗教がもしマイナスのイメージを僕に与えるとしたら、唯一それは、他人に対して勧誘をする行為、つまり布教活動である。これだけは眉を顰めたくなる。
 宗教に限らない。趣味でもそうだ。どんな趣味を持っていても自由だ。でも、誰彼かまわず会う人にその話ばかりして誘う人間は少し鬱陶しい。自分の子供、自分の妻、自分の夫、自分の恋人を溺愛し、また信じるのも自由だ。けれど、それを他人に理解してもらおうと熱心に語りかけることだけは控えた方が良いだろう。馬鹿だと思われるだけだ。つまり、宗教の場合もこれと同じような気がする。布教活動を目にすると、たちまちその宗教が胡散臭く感じられる。
 なにも語らなくても、信者が幸せそうにしていれば、周囲から人が集まってくるはずだ。どうして布教活動なんかするのか? どうして幸せだと訴えるのか? 黙っていれば良いではないか。それが元で戦争になったりしている歴史もある。現代の宗教は、多少はこの点を学習したように見えるが。

 今日は新人作家とメールを少しやり取り。なんか悩んでいるみたいだった。まあ、一言だけアドバイスをと頼まれたので、「人気を維持したいのなら、読者の期待をことごとく裏切ることです」と書いた。もちろん、期待どおりでいるよりも、期待を裏切り続ける方がはるかに難しいとは思うけれど。

【図工】 沢山ある道具

 同じ道具なのに沢山持っているものがある。ドライバ(ねじ回し)は50本くらい。ペンチも30丁くらいはある。ヤスリも30本はあるだろう。ノコギリも20丁以上はあるにちがいない。サイズや形状の違いもあるし、使用条件によって適材適所、いろいろなものが必要になるからだ。
 非常に限られた場面でしか使われない道具も多い。金属のパイプを切るものとか、チェーンを切るものとか。もちろん、ドリルの刃などは、0.1mm単位でサイズが決まっているから50種くらいは持っていないと仕事にならない。タップやダイス、リーマも同様だ。たとえば、特定の穴を開け、リーマで整えたり、あるピッチでネジを切ろうと思うと、その道具代だけで5000円くらいは飛んでしまう。穴1つに5000円だ。将来、同じ大きさの穴を開けることがもう1度あれば、2500円になるけれど、そうそう何度もないだろう。
 捨てるものはないので、道具はどんどん溜まっていく(なくなることもあるが)。出来上がるものよりも道具の方が総重量が多いのではないか、という状況になってしまう。僕の場合、たぶん軽く1tonは道具を持っているだろう。
 それでも、毎日の工作で、「駄目だ、ちょうど良い道具がないな」と思うことがあるのだ。モンキィレンチなんか、ほんのちょっとの形状の違いで、使えるときと使えないときがある。ドライバも、柄が長すぎてスペースに入らないときもある。こうして、また新しい道具を買ってしまうのだ。
 さて、一番よく使う道具は何だろう? それだけはまちがいない。万力(バイス)である。これを使わない日はまずないといっても良い。驚くべきことに、素晴らしい活躍をしているにもかかわらず、たった1つしかないのだ。たぶん、コストは既に1回1円以下になっているはずである。


2008年01月17日(木曜日)

【HR】 時間を多く取ること

 ここ数日が冷え込むという予報なので、外で遊ぶのを自粛。週末は暖かくなるだろうか。朝、スバル氏が自分の食べているパンをパスカルにやっているのを目撃し、ちょっとした議論になった。まえからその疑惑はあったのだが、ついに問題が表面化した。話し合いの場が持たれるだろうか。決着はいかに。

 「クレィドゥ・ザ・スカイ」文庫版のゲラがきた。4月発行予定のものだ。単行本発行の5カ月後にノベルスを出し、さらにその5カ月後にはもう文庫化、という他に例を見ないスケジュール。このシリーズは、もともとノベルス化も文庫化も通常より倍も早かったわけだが、今回は映画のためにさらに早い。ノベルスや文庫が出ても、単行本が売れなくなることはない、という証明はできた。このシリーズの単行本は、文庫が出たあとに重版している。以前に書いたことがあるけれど、単行本、ノベルス、文庫を同時に出す、というのが個人的には最良と考えている。ただ、出版社にも事情があることだろうから、強くは主張しない。
 先日送った「銀河不動産」最終話のゲラが「別册文春」から到着。こちらはスバル氏がイラストを描くので、彼女がさきに読んでいる。今日は「スカイ・イクリプス」の第6話の短編を書き始めた。完成度10%。「クレィドゥ」のゲラもさっそく読んで10%まで。

 工作は3時間ほどできた。かなり満足。毎晩寝るまえに洋雑誌を眺めながら、今後のプロジェクトの構想を練るのだが、眠ってしまって、朝起きたらたいてい忘れている。それが、翌日寝るときにはまた思い出す。そうして、だんだんアイデアが具体的になり、実現可能なほど煮詰まってくるし、そういった段階になると、ようやく朝起きたときにも覚えている。それで、そのプロジェクトに関連する、資料や部品集めの段取りをしたりする。このように、ものごとには準備期間というものが必要だ。とにかく、時間をケチること、目前になって焦ることが最も悪い。品質を落とす原因のほとんどは時間不足である。そして、ここでいう「時間」とは、考えたり作業をするトータルの時間ではない。考え始めてから実行するまでの期間の長さである。ほかのことを同時進行していてもかまわない。とにかく、早く始めることが大事だと思う。
 締切間際になって体力を消耗したことを、努力した証拠のように言いたがる人がいるが、その種の時間は完成度とは無関係であって、単なる個人の趣味だ。神輿を担いでいるようなもので、好きでやっていることだから、「楽しそうだね」と言ってあげれば良い。しかし、仕事の完成度には絶対に結びつかない。
 「やる気」というものも、仕事の完成度には無関係である。それで良い仕事をする人間もときどきいるけれど、やがて「やる気」が消えてしまって駄目になる。これも、趣味だと思われる。社員を消耗品として扱う管理者は、「やる気」を社員に持たせて、その場限りのエネルギィを搾取しようとするだろう。たとえるならば、一種の覚醒剤のようなものだ。
 良い仕事をしたかったら、余裕が必要だし、やる気を出さなければ乗り切れない事態になる以前に手を打つべきである。

【図工】 手作りは何が良いのか

 「手作り」という言葉が良い意味を持ち始めたのは、いつ頃だったか。30年くらいまえだっただろうか。手作りと聞いただけで高品質なもの、と感じてしまう人が多いみたいだ。考えてみたら、根拠のない期待である。
 言葉は古い。江戸時代には、地主が自分のために耕作することだったらしい。また、陶器などを型を用いないで作ること、手で造形されたものも示す。「自分で作る」という意味で使われていた言葉で、人に売るために作ったものではない、というイメージが込められていた。「手料理」などもこれに近い。
 必ずしも手で触れて作る場合だけではない。道具や機械を使っている場合でも手作りというようだし、また、必ずしも大量生産しているものを除くわけでもない。ケーキ職人は一度に大量のケーキを手作りしている。境界は曖昧だ。
 また、機械で作ったものよりも人間が手で作ったものの方が品質が高い、という保障はまったくない。たとえば、「手作りの飛行機」や「手作りの鉄橋」を想像してみよう。ちょっと不安になるのでは? 手作りには「まごころ」が籠もっている、という付加価値はあるかもしれないけれど、「まごころの籠もったパソコン」は、発売されてもきっと売れないにちがいない。
 実は、手作りが有利な点はほとんどない。人件費がかかって高くなるし、ばらつきが大きくなり品質が安定しない。作る人間が交代すると同じものができなくなる。
 手作りの有利さとして、一つだけいえることは、作っているときにフィードバックがあることだ。作り手にそれを受け止める才能があれば、さらに良いものが作られる可能性が生まれる。したがって、手作りされた製品それ自体の価値というよりは、将来の製品への期待が持てる。


2008年01月16日(水曜日)

【HR】 文字系と映像系

 晴天。気温は10℃くらいまでしか上がらなかったが、風は弱く寒くない。午前中に、パスカルも一緒に書店とホームセンタへ行く。花の苗を30個くらい買ってきて、スバル氏が植えた。元気だ。マックにも寄ってハンバーガなどを購入。これも庭で食べた。それくらい日差しが暖かかったということ。

 午後は工作をしつつ、小説の仕事。今日の一番の作業は、「編集会議」のゲラの確認。インタビュー記事は8ページもある。けっこう詳しい特集だった。ゲラが2つ、明日届く予定。
 「工作少年の日々」文庫版の見本が届いた。18日くらいに書店に並ぶらしい。解説は萩尾望都先生である。昨年の「悠悠おもちゃライフ」に続き、エッセィ集の文庫の2冊め。2月には、さらに「森博嗣の工具箱」が出る。たぶん、これらが森博嗣の3大エッセィ本になる。僕が人にあげたりすることがあるのは、この3冊にくわえて、絵本くらいだ。3冊はいずれも「工作系」と紹介されることが多いが、分類をすると、「悠悠」は趣味系、「工作少年」は文芸系、「道具箱」は工学系である。つまり、それぞれ「ラピタ」「小説すばる」「日経パソコン」に連載したものだから、当然そういった方面の読者を想定して書かれている。別の表現をすれば、「中派」「軟派」「硬派」になるだろうか。

 話は変わって……。読者が、「文字」を認識しているのか、それとも「映像」を認識しているのか、ということがわかるときがある。たとえば、何度か「芥子色」と書いておいて、あるとき「黄色」と一度だけ書くと、文字系の読者から「あれ、黄色だったのですか?」とメールが来る。「芥子」が読めなかったのかもしれないが、それでも文字で認識しているのだな、と理解できる。
 一方、映像で認識している人は、「芥子」が読めない場合は、イメージに色がつけられないから、そのさきへ読み進めない。
 「右手でカップを取り、コーヒーを飲んだ」とあり、その数行後で「カップを持ったまま、メモを書いた」と書かれていると、この時点で間違いなく左利きだと映像系の人には伝わるが、文字系の人には、「左利き」とか「左手で字を書いた」という文字がないかぎり認識されにくい。
 そもそも、「左利きの人」が必ず左手でなんでもすると考えるところが文字的思考ともいえる。一般に、右利きの人よりも、左利きの人の方が利き手でない方の手も利く。探偵の前で容疑者が左手でペンを持った。探偵が「ほら、これが動かぬ証拠だ。貴方が犯人です!」と指摘したら、犯人はこう言えば良いだろう。「あ、たまにはちょっと左で書いてみようかなって……」

 スバル氏が「AirMacが出たよ!」と教えてくれた。薄いノートが出ることは知っていたが、名前が「MacBook Air」だとは知らなかった。紛らわしいぞ。そりゃあ、間違えるだろう、みんな(注:AirMacは無線LANの名称)。ま、とりあえず1台は買うけれど。

【社会】 今思うと……

 今思うと、なんだね、モンゴルへ雲隠れしたの、あれが最善の策だったわけだね。
 今思うと、なんだね、酒を飲んで酔っ払って御輿を担ぐのは、どうなんだろうか?
 今思うと、なんだね、郵政民営化に命をかけて反対した人、みんなまだいるんだ。
 今思うと、なんだね、ネットで株を買って大儲けって話、いったいどうなったの?
 今思うと、なんだね、耐震偽装問題、あれは、あそこだけのことで終わったわけ?
 今思うと、なんだね、愛知万博って、いつやったんだっけ? もう終わったよね。
 今思うと、なんだね、日本の場合、結局、良い政治は好景気にすることなんだな。
 今思うと、なんだね、安倍総理が辞めたのは自民党には起死回生だったのかもね。


2008年01月15日(火曜日)

【HR】 オビについて念のため

 この寒さがこの時期の平均らしい。今朝は氷が張るほど冷え込んだものの、日差しは暖かく、日中はぽかぽかとした陽気だった。パスカルと庭で遊んだし、久しぶりにバキュームで掃除もできた。ホームセンタへ行き、また鉢や苗を買い込んだ。

 この頃、工作に没頭できて幸せだが、このようになにかを作っているときは、それに関連する本を読みたくなる。一度読んだ古い文献でも、再読すると新しい発見ができる(小説では情報量的にこういったことがまずない)。興味がそちらへ集中し、役に立つものはないかと探す、自分がそちらへアンテナを向けている姿勢が、このような発見につながるのだろう。ただ考えているだけではこうは絶対にならない。手を使って作っていると、それだけ長い間ずっとそこに集中していられる。結局、もの作りの面白さはこんな「無心」にあるみたいだ。

 修理をした機関車の水タンクの試験をした。まだ走らせてはいない。アルコールで走る小さい機関車で遊んだ。今日も工作室ではしこしこ金属工作。そういえば昨日、左手に怪我をした(笑)。音楽もばんばん聴いている。
 小説の仕事は、「スカイ・イクリプス」の第6話のタイトルを昨日から考えているが、まだ決められない。そのほか、細かいチェックなどが多数。

 先日書いた「オビがいらない」という話だが、自分の本でも、小説では今までこれを強く主張したことがない。何故かというと、自分の小説を手にすることが僕の場合まずないからだ。人にあげることも滅多にない。こんな言い方はどうかと思うけれど、僕には「どうでも良い(関係性が薄い)」本なのだ。それらは、読者のために生産されるものであって、僕のものではない。読者がオビがあった方が良い(あるいは、あっても良い)と感じているのなら、それで問題はないと思う。
 ただ例外として、たまに「これだけは」と思う渾身の一冊があるわけで、そうなると、自分でも多少愛着がわく。そんな例外的な本が「スカイ・クロラ」だったということ。また、エッセィや絵本は、小説よりはずっと大切な本だと感じているし、自分でも手にすることも多いし、また友達にプレゼントする機会もあるわけで、できれば気に入った装丁であってほしい、と思う。
 念のために繰り返すが、オビが悪いのではない。オビのためにカバーデザインが影響を受けることが悪い。だから、たとえオビに隠れてしまって見えなくなっても、オビを外した状態で正常に見えるデザインがなされれば、基本的に問題はない。その場合、オビ付きで新刊を買う人たちには、一番良い見せ方ができない(したがって売れないかもしれない)だけだ。オビの煽り文句で本が売れる効果があるのかどうかは、僕にはまったく興味がない。そんな微々たるもののために経費や頭を使うのが惜しいと感じるだけである。ビジネスだからやむを得ないとは思うので、その点に関しては強い意見はない。

【理科】 Oリング

 Oリング(オーリングと読む)を知っている人はどれくらいの割合だろうか。工学系の人、ちょっとDIY系の人なら普通に知っているはずだ。黒いゴムのシール用パーツ(パッキング)である。多くの機械、特に液体や気体を扱うような機械では、まずまちがいなく使われているパーツだ。ホームセンタでもハンズでも売っている。消耗品なので、ときどき取り替えることになる。そういえば、スペースシャトルの悲劇的な大事故が、このOリングのせいだったと報道されていたように記憶する。
 Oリングの「O」は、リングの形のことではない。ゴムの部分の断面が円形であるため、この名前がついている。つまり円形ではない形の断面のリング材と区別しているわけだ。
 耐圧、耐熱、また耐油性などがパッキング材には要求され、その条件を越えては使えない。不具合があってOリングを交換するときは、たいていゴムが劣化して、切れていたりする。隙間ができて用をなさなくなるまえに交換しなければならない。
 ゴムではない材質のものあって、僕はシリコンのリングをよく使う。黒いゴムでないものまでOリングと呼ぶのかどうかは知らない。耐久性はシリコンの方が優れていると思う。ただ、摩擦が大きくなるのでピストンのリングなどには使いにくいようだ。工作室には、よく用いるサイズを20種類くらいは常備している。
 最新鋭の機械でも、このOリングが1つのウィークポイントになっているものが多い。かなり頻繁に交換しなければならないほど劣化の早い材料なのに、これを使わなければならないことが、である。


2008年01月14日(月曜日)

【HR】 発見と理解とネタばれ

 今日はまた少し冷え込んだ。天気は良い。午前中から、機関車の整備。それから工作もけっこう重いものを。
 この頃、昔に読んだ模型工作の名著を読み直しているのだが、当時は理解できなかったことが、今はわかる、という発見が多い。小説などの物語で生じる新しい感覚ではなく、あるかないかの顕著な違いだ。情報量と精密さの差ということだろうか。

 古い機関車には、外見だけではどうしても機構が充分に理解ができない部分がある。動かしてみても、その意図が見えないものもある。だが、いずれも気まぐれでそうなったものではなく、なんらかの理由が必ずある。それが思わぬところからわかったとき、実に面白い。つまり、自分の思考がそこへ回らなかったことが愉快なのだ。
 たとえば簡単でわかりやすい一例を挙げよう。真っ直ぐに作れば良いところが、少し斜めになっている。力学的に考えれば有利なことはない。工作もむしろ面倒だ。きっと風変わりなデザインにしたのだな、とその場は解釈する。修理をする段になって、そこにスパナを入れると、ボルトを締め付けるときのストロークがぎりぎりだ。当の部分が斜めになっているおかげで、やっとスパナが使える、ということに気づく。なるほど、人間というのは頭が良いな。簡単に作り直せる部分ではないので、設計図面の段階でここまで思い至ったのだ。これは凄いぞ、と感心する。

 別の話題。10年くらいまえに、このインターネットが普及し始めたとき、本を読むことが好きな人たちが書評なるものをアップして、本の案内をするようになった。しかし、ミステリィの場合「ネタばれ」がある。これが非常に警戒され、うっかり書評を読んでしまい、ネタばれ部分を知ってしまった人が怒って抗議をする、なんてトラブルが方々であった。だから、みんなとても神経質になって、ネタばれがあるときは警告をし、別ページにするなどの工夫をしたものだ。
 ブログが一般化した現在では、この「ネタばれ」という概念さえ知らないと思われる人が、感想をアップしている。あらすじを後半まで丁寧に書いてしまう人も多い。「自分の日記に何を書こうが勝手だ」と考えているのだろう(これは明らかな思い違いだが)。
 それでも、トラブルの話はあまり聞かなくなった。僕も、この頃は腹も立たない。どうせ個人の書評なんか一般の人は誰も読まないのだ。みんながせっせと自分のブログを書いて、友達のページはタイトルと写真だけざっと眺めて適当にコメントする。そのほかは検索結果の関連する数行だけ読む。今のネットは、噂はもの凄くゆっくりとしか伝達しないし、ほとんどの情報は広まらなくなった。ようするに、ネタばれの実害は、昔のネットに比べればはるかに小さくなった、といえるだろう。良いか悪いかの意見ではない。

 さて、繰り返すが、ネタばれとは、狭義ではトリックや犯人やオチを語ってしまうことだが、僕はもっと広義に捉えていて、誰が登場するのか、何が起こるのか、どの場所なのか、とにかく読まなければ語れないものを明かすことは、すべてネタばれだと考えている。
 この仕事を11年してきて知ったことは、読者の過半数はネタばれを望んでいて、内容を知った方がその本を読みたくなり、したがってネタばれをした方が本が売れる、という事実である。繰り返すが、良いか悪いかの意見ではない。

【算数】 考えるか考えないか

 1/6の【算数】に、大きな素数について書いた。そのとき、400000001が素数か否か、という問題を出した。電卓を使わないで考えたら素敵だとも書いた。(珍しく、掲示板やメールの書き込みを禁止しなかったので)メールを沢山いただいたが、実際に自分の頭で考えて解いた方が10人ほどいた。解けなかった人がその6倍くらいだった。そして、考えもしなかった人はもっと何十倍もいただろう。
 まともに考えていったら、とんでもなく時間がかかる。事実上無理である。最初から「考えるだけ時間の無駄だ」と思った人が多かったことと思う。
 以下に、解法を示す。こういった解法があるからこそ、「素敵だ」と書いたのである。気づいた人は、ちょっとした素敵な幸せを感じただろう。
 400000000(0が8つ)は、20000(0が4つ)の2乗である。また、20001の2乗は、(x+1)2=x2+2x+1の公式から明らかなように、400040001であり、これは問題の400000001よりちょうど40000大きい。
 さて、この40000もまた200の2乗だ。したがって、400000001=200012-2002と書ける。これに思い至れば、もう簡単。因数分解で一番有名なa2-b2=(a+b)(a-b)の公式を思い浮かべればわかるとおり、2つの数の積となるので、400000001は素数ではないと判断できる。
 蛇足だが、400000001=(20001+200)(20001-200)=20201×19801となる。20201と19801はともに素数だが、その判断はまた時間がかかるだろう。
 思考は、「駄目だもう考えられない」と思うところまで、及ぶ。そこが思考の限界である。人は無意識のうちに、「それは自分にはできない」と諦め、自分の限界を決めている。


2008年01月13日(日曜日)

【HR】 元来が短気だから

 スバル氏が出かけるときはたいてい雨だ。もの凄い雨女で、嵐を呼ぶ女とも自称している。台風になったり、雪になったりする。新幹線がストップして、車内で数時間待たされたことも一度や二度ではない。僕が一緒のときは、一度もそういった被害に遭わないのだが。
 今日は、日曜日の晴天。数日まえにスバル氏が今日出かけることに決めた。珍しく晴だな、と思っていたら、もの凄い強風だ。でも、電車は動いたみたい。

 朝から小説の仕事を片づける。「銀河不動産」は完成。編集部へメールで送った。この作品は6月に単行本になる予定。文藝春秋では小説は2冊めになる。「θ」文庫の手直しも終了。こちらは3月刊。ゆっくりやっていたつもりだが、予定よりいずれも1日早いし、締切よりは数週間早い。

 工作は機関車(サファイア)の改造の続き。今日でほぼ完了した。コーキング材が乾いてからテストをすることになる。楽しみだ。次は、レディ・マドキャップにポンプを取り付ける改造工事になる。その次もその次も、そのまた次ももう決めてある。やりたいことがいっぱいだ。こんなことではなかなか死ねない。

 工作をしていて気づくことは、その日の最初に行う工程が一番慎重で丁寧だ、ということ。時間が経って調子に乗ってくるほど雑になりやすい。全般を見ても同じ傾向で、初めは丁寧にやっていたのに、どんどん近道を思いついたり、早く完成させようとしてしまう。ゴールが見えてくるほど、ラストスパートしようとするわけだ。注意が必要である。もっと職人のように、心静かに目の前の作業だけに没頭した方が、良い仕事ができると思う。僕の場合はであるが……。

 一方では、この反対のことが世間で多く観察される。もっと先を見て、合理化したらどうなのか、いつまでもこつこつ同じ作業を続けて、それで満足している。仕事をしているのだ、努力しているのだ、というつもりになっている、と思われことが多々ある。元来、僕がそういう短気な人間なのだろう。
 昨日の【社会】で書いた「罪と罰」の件でもそうだ。僕はたぶん、悪人に対しては徹底的に仕返しをしてしまう短気な人間なのだ。だから、冷静にならなければならない、といつも考えてしまう。自分を律する道理がないか、といつも探しているのだと思う。

【国語】 文字の不完全性

 英語は話すことは簡単だが、書くことが難しい。発音ができても、スペルが不規則で間違いやすい。とにかく覚えるしかない、という点では、日本の漢字に近い。しかし、日本には平仮名や片仮名があるから、この点では有利だ(発音記号がこれに相当するが)。仮名さえ知っていれば、言葉の発音どおりほぼ文字にすることができる。単純な表音文字がないところでは、文字の読み方の教育は、人間(あるいは機械)が発音して聴かせるしかない。日本人は、仮名を覚えれば、あとは独学で漢字の勉強ができるし、ルビがあれば、少なくとも漢字を読むことはできる。文字の読み書きができない人の比率が、世界でも日本は圧倒的に少ないが、これは平仮名のおかげである。
 さて、しかし厳密にはこんなに簡単ではない。たとえば、「先生」「宣誓」は同じ「せんせい」だが、アクセントが違う。関東と関西でも読み方は違う。また、同一の言葉であっても、単独の「切符」と「記念切符」の「きっぷ」はアクセントが違う。前後にあるもので発音は変化するのだ。これらは、文字には表れない。アクセントを独学で習うことは日本の場合はとても難しい。
 文字は、「意味を伝える」ことが主目的であるため、その方面では分解能を高め、情報量が多い。発音された言葉よりも、書いた文章の方が意味的にはより厳密になる。「せんせい」と聞いても「宣誓」か「先生」かわからないが、漢字にすればその誤解はない。しかし、実際は、前後の関係やアクセントによって、聞き分けられている場合がほとんどである。
 アクセントは時代とともに変化している。若い人の話し方を観察していると、いつも新しいものに出会う。でも、それらを文字では表せないことが多く、残念だと思う。
 もちろん、歌をうたっていても、そのメロディは文字には表れないわけで、元来文字は不完全な記号といえる。


2008年01月12日(土曜日)

【HR】 パスカルの不思議

 雨。しかし冷え込んではいない。パスカルはシャツで着痩せして散歩に出かけていった。
 早く工作がしたいので、まずは小説の仕事を片づける。「銀河不動産」の手直しを50%。既に15000文字になっていた。それから、「θ」の手直しは90%まで。あと1日。「θ」はオビのコピィをチェックした。「道具箱」のカバーネーム(裏表紙のあらすじのこと)も確認した。「D&D」の注釈も連絡があった(親切にもエッセィ中のワードに説明を付けてくれるのだ)。「タカイ×タカイ」の感想メールがもう沢山届いている。毎度のことだが、感謝。
 JAMの事務局からバッジが届いた。機械・金属産業労働組合のことではなく、日本鉄道模型の会のこと。僕は会員ではないけれど、過去3年、コンベンションに参加しているからである。2008年のコンベンションのエントリィの案内も来た。今年は参加するかどうか、まだ迷っている。

 午後からようやく工作開始。昨日の続きで、蒸気機関車の整備作業。だんだんプロジェクトが拡大し、ほんの少しの手直しだったものが、ちょっとした改造になってしまった。まだ、2日ほどかかるだろう。「そうやって少しずついじっていくうちに本当に自分の機関車になる」とベテラン氏から言われたことが、最近よくわかる。自動車の改造なんかをする人も同じ感覚だろう。恋人や奥さんは改造できないから、なかなか自分のものにならない、なんて言わないように。その場合は心配は無用だ。知らないうちに自分が改造されているから。

 パスカルが、2階のスバル氏の部屋の前で、彼女のスリッパを守る話を書いたが、これについて、少し実験を行い、その真相に迫ってみた。
 スリッパを前にしてじっと伏せているパスカルを呼んでも、なむなむと唸ったまま来ない。そこで、僕は少し後退して3mほど下がった位置から呼んでみた。すると、尻尾を振って駆け寄ってくるのだ。とても嬉しそうだ。もう一度、3m前進して同じことをすると、また唸ってしまう。どうも僕がいる場所に原因があるらしい。
 ちょうどそこは階段を上がった場所で、僕は階段のステップに足を下ろして腰掛けている。ここでパスカルをよく抱き上げていた。もしかして、高いから恐かったのかもしれない。その場所で呼ばれると、そこで抱っこをされる。それを恐れているのかも。スリッパは単なるシンボルかもしれない。なおも、実験は続く……。

【社会】 罪と罰

 専門ではないので、どんなふうに考えたら良いものかな、とときどき一人で考える。
 罪を犯したとき、その人の責任はどのように評定されるのか。たとえば、酒を飲んで車を運転し、事故を起こす。相手の車に1人乗っていた場合と、5人乗っていた場合では、結果が異なってくる。同じ行為でも、1人を殺した場合と5人を殺した場合では、やはりその人が負うべき罰は違うのだろうか。そもそも、運良く事故を起こさなかったときは、罰を受けないのだから、問われる罪に「偶然」が介入することは事実である。
 当然ながら、ケースバイケースだからこそ、法律が定める罰にも幅があるわけだし、個々に裁判も行われる。なるべく客観的に判断すべきであるけれど、やはり判決は「意図」や「行為」だけでなく「結果」に左右される。同じことをしても、運悪く最悪の「結果」になってしまったときには刑罰も重くなる。
 たとえば殺人の場合、被害者がどれほど世間的に良い人だったかということが、加害者の罪に影響するだろうか? どんな命も価値は等しいという立場ならば、被害者に関する(加害者との関係以外の)情報は無用だ。遺族がどれだけ可哀相か、ということで犯人の刑罰が左右されるのは正しいだろうか? 
 生きているときはこうだった。死ぬ直前までこうだった。これから、こんな楽しみがあったのに、といった情報によって、「こんな幸せを奪った悪人は許せない!」と憎悪を増幅させること、それによって罪を重くしようとする行為は、「仕返し」あるいは「リンチ」の精神に近づいていないか。それ自体が罪の一種ではないのか?
 あまり自信はないけれど、裁判ではそういった人情的なものを含まない判断をすることが、法治社会として僕は正常だと感じる。陪審員(量刑を決めるから裁判員?)の制度が始まると、この点については多少心配になるところだ。


2008年01月11日(金曜日)

【HR】 オビと申請

 晴天で暖かい。夕方から雨になる。珍しく予報どおり。
 元日に来た妹G氏がお土産に持ってきたレーズンサンドと月餅が、一箱ずつある。前者は僕しか食べず、後者はスバル氏しか食べない。しかし、1日1つ食べていても、けっこう減ってくるものだ。いずれも残り少なくなった。

 午前中に小説の仕事。「銀河不動産」第8話は4000文字書いて終了。推敲は明日以降。「θ」文庫のゲラは80%まで見た。「日経パソコン」第56回の2校も終わり。
 昨夜、「森博嗣の道具箱」のカバーのデザイン案が届いた。今回僕が撮影した写真が表紙に使われることになったが、A案はその写真の一番良いところがオビで隠れる。B案は写真全体を上へずらしてオビに隠れないようにした案だった。どちらが良いかといえば、断然A案が良い。だから、「オビをやめてほしい」とお願いした。編集部や営業部で話し合われた結果、僕の要求が通った。非常に嬉しい。文庫でオビがない本を出すのは初めてのことだ。

 オビがあることで、日本の本のカバーデザインの8割は腑抜けになっている。単行本ならわかるが、いずれオビが取れ、長く書店に置かれる文庫まで、上に偏った馬鹿なカバーデザインなのだ。ちょっとデザインのわかる人が見れば、日本にはまともな装丁家はいないのか、と思うだろう。外国の本が格好良く見えるのもこの影響が大きい。事実、新刊を買わないから、オビのない文庫ばかり読んでいた僕は、ずっと「なんだ? このデザインは」と気分が悪かった。
 これほどまでオビが出版界で重要視されているなんて作家になるまで知らなかった。どんな本にもオビが絶対の必需品だなんて馬鹿なシステムになったのは何故なのか? 本を作る人は、ちょっと自問してほしい。絶対に間違っている。誤解のないように書いておくが、「オビを廃止しろ」といっているのではない。「オビを付けない選択ができるようにしてほしい」という意味だ。
 「オビをやめてほしい」という要求をして、初めてそれが受け入れられたのが、同じ中央公論新社の「スカイ・クロラ」(単行本)である。厳密にはないわけではない、透明カバーがオビなのだ。あれでもまだ僕は邪魔だと感じている。2月に発行されるこの「森博嗣の道具箱」は、単行本のとき(「森博嗣のTOOLBOX」)もオビがなかった。これ以外にオビなしの本はなく、今回の文庫が(同じ本で)2冊めになる。尊敬する平岡氏に解説をいただけたし、この本は僕にとっては大切な一冊になるだろう。

 午後は、8号機の蒸気機関車を工作台の上にのせて分解・整備をすることにした。大変なのは、そこまで持ち上げること。この機関車が一番軽いから、まだできる。自分の体力や健康も考え、機関車を持ち上げるリフト設備を整えたい、とスバル氏に今日ようやく切り出した。「やったら?」というありがたいお返事だった。
 区役所へ住民票と印鑑証明を取りにいった。1時間ほどの待ち時間。カウンタの中では職員が一所懸命働いている。公務員試験に合格した優秀な人たちが、資料を調べ、コピィを撮り、お金を受け取ったりするような作業をしているのだ。コンピュータ化すべきである。スバル氏にそう話したところ、「社保庁がそれで失敗したからねぇ」とおっしゃっていた。コメンテータとしては合格だと思うが、正論ではない。
 帰ってからも機関車。分解して整備したほか、一部配管を変更して、機能アップし、さらに運転がしやすいようにもしたい。この機関車は弁天ヶ丘線で最初に走った蒸気機関車だ。4年まえの年末年始にこれにトライしていた。そうか、たった4年しかキャリアがないのか。まだまだ初心者である。楽しみがこれからもっともっとあるだろう。

【理科】 コンクリート3

 生コン(固まるまえのコンクリート)を型枠の中に流し入れることを「打設(だせつ)する」あるいは「打ち込む」という。「流し込む」とか「注入する」とはいわない。かつては生コンが固かったので、棒で突いたり上から叩いたりして、ちょうどアスファルトみたいに締め固める作業をした名残だといわれている。
 昔は、生コンを軟らかく(流動性が高く)するためには、水を多くする必要があった。そうなると強度が落ちる。水を増したしゃぶしゃぶの生コンを「しゃぶコン」などと呼んで不良品扱いした。
 しかし、これは現在ではもう古い認識である。今のコンクリートは、微量の薬剤を混入して、生コン時の柔らかさを調整できるようになった。水を増やさず、つまり固まったあとの品質を落とさずに、軟らかい生コンが作れる時代になったのだ。
 コンクリート工事の多くは、ポンプを使って生コンを送る。高いところへも上げることができる。なんと、地上200mくらいまでも1機のポンプで上げた例があるくらいだ。高層ビルは、普通よりも強度の高い、すなわち水が少ないコンクリートを使わなければならないうえ、パイプで垂直に高所まで圧送できるような軟らかい生コンが必要になるが、この両立が可能になった。これらの技術が実用化したのはまだ最近(90年代)のことである。
 軟らかい生コンは品質が悪い、と思っている人がまだ多い(特に年輩の建築関係者に)。流動性の悪い生コンを使う方が、型枠の隅々までコンクリートが行き渡らず、むしろ欠陥となるため、この誤解を早く改めること。
 ちなみに、建築には「打ち放し」と呼ばれるコンクリート面を剥き出しにする仕上げがある。あれは経済的だと思っている人が多いが、これも間違い。打ち放しは、綺麗に作るために型枠や施工に高度な技術が必要で、むしろ大変シビアな工事になる。また、打ち放し仕上げの長所は特にない。耐久性など、短所は多々ある。あれを好んで採用するのは、単に「見た目が格好良い」とデザイナが思い込んでいるから、といっても良いだろう。そういう僕も、打ち放しが好きだが。


2008年01月10日(木曜日)

【HR】 おつかいブル公

 朝方冷え込んだものの、またも暖かい晴天。午前中からスバル氏と郊外へドライブに出かけた。
 トイザらスに寄ったら、閑散としていた。ゆっくり見たもののなにも買わず。スバル氏が食料品を買っている間、僕はホームセンタにいた。プラスティックや金属の素材を購入。お昼頃帰宅し、スバル氏は昨日買った花を植えた。僕はバキュームで庭掃除。パスカルは元気に走り回っていた。

 昨日のおもちゃ修理の続き。まず、リモコンのスイッチはすべて再生不可能だったので、100円ショップで4個セットで売っている7cmくらいの小さなタッパを使用して、リモコン自体を作り直した。割れていたギアは3つで、1つは同じものが偶然あったので交換し、残り2つは瞬間接着剤とエポキシで修復。一番大変だったのは、昨日の写真にもあったドラムに当たっている6本の端子。ベースのプラスティックがぼろぼろだったので新しく作り直した。そのほか、配線のハンダ付けはすべてやり直し。なんとか機能的には元どおりに修復できた。

 これは、グリコの景品だった「おつかいブル公」というおもちゃ。リモコンで自由な方向へ走らせることができ、地面にあるものを口にくわえて拾い上げ、運ぶことができる。動かしたときのギア音が煩いため、パスカルが怖がって近づかなくなったので、横に置いて記念写真を撮るのが大変だった。

 午後は小説のノルマを片づける。「銀河不動産」は3000文字書いた。100%になったが、いつも130%くらいの長さになる。明日最後まで書いて、そのあと推敲の予定。「θ」のゲラは65%まで見た。講談社ノベルスの「タカイ×タカイ」の見本が届いた。スバル氏が珍しく表紙のデザインを褒めていた。彼女のタイプなのだろう。今年の1冊めである。
 FM東京の携帯サイトの連載が今日から始まった。既に、「読みました」というメールも幾つか届いている。携帯電話が古いタイプだと見られない。僕も、まえの型では駄目だった。だから新しくした、というわけではないのだけれど。

 昨夜、ゆうパックの着払いの荷物が届いた。ゲートまで出ていくと、年輩のおじさんが、ハンディの端末を睨んだまま黙って立ち尽くしている。話しかけてもものを言わないのだ。どうやら、端末の使い方がわからなくなったらしい。しばらく待ったら、ようやく顔を上げた。お金を渡したところ、荷物と領収書をくれた。ところが、どうもまだ端末の操作ができない。そこで一度手渡した領収書を返してくれ、と言いだした。「明日、領収書を持ってくるから」と言う。そこで、「領収書が明日なら、お金も明日渡すから返してくれ」と当然の主張をしたら、「では、荷物も今日は持って帰る」と言いだした。まあ、ある意味当然の主張かもしれない。しかし荷物は「本日指定」なのだ。「端末がうまく使えないのは、そちらの事情なのだから、覚え書きの領収書を書いて下さい」と提案したが納得しない。その後、五分ほど寒いところで端末の操作をし続け、最後はうまく処理ができたので、荷物も領収書も無事に受け取ることができた。このように、「たとえシステムが新しくなっても人間(あるいは体質)が古い」というのが、今の郵便局の問題だろうか。まったく、笑いごとである。

【算数】 自然な数え方について

 地球では、数が同じ分量で増えていく数え方をするのが一般的だ。つまり、自然数は1, 2, 3, 4 ……、というように、同じ間隔で増えていく等差数列である。我々はこれが当然のことだと思っているけれど、そうでもない。たとえば、1, 10, 100, 1000 ……、のように同じ比率で増えていく数列もあって、自然界ではむしろこの方が自然だと思えるものも多々ある。
 1の次がいきなり10だったら、2や3や4はどうなるのか? それは、1の次がいきなり2だけれど、1.2や1.3や1.4はどうなるのか、という疑問と同じだ。単に半端な数になるだけのこと。もちろん、10倍というのはあまり自然ではない。2倍が最も自然な係数で、すなわち、1, 2, 4, 8, 16 ……、と増えていく数列だ。
 数が大きくなるほど、数の間隔を広くした方が、量の把握には適している場合が多い。自分の身近なものを測るときはmm単位だけれど、遠い星の測定をするときはmなんて使っていられない、といった例を想像してもらいたい。数自体が等比数列になっていれば、大きな数に対して違う単位を使ったり、「約」なんてアバウトな表現をする必要も少なくなる。大きくなるほど自然にアバウトになっていくからだ。
 たとえば、地面に沢山の銀杏が落ちているとする。我々の自然数ではとても数える気にならない。でも、等比数列なら、全体の面積を半分にして指を折り、さらに半分にしてまた指を折り、と数えていくと、そのうち銀杏が1つだけ落ちている狭い面積になる。これで、ほぼ全体の数を指で数えて把握できるのだ。
 当たり前のことが、どこまで当たり前なのか、と考えてみることが面白い。


2008年01月09日(水曜日)

【HR】 おもちゃの修理屋さん

 朝から好天でまたも暖かい。昨日も今日も14℃まで上がったらしい。春みたいだ。
 朝は、まず庭でパスカルと遊ぶ。パスカルはこの頃、散歩にいっても早く家に帰りたがる。帰って自分の庭で遊びたいのだ。
 小説は、「銀河不動産」を3000文字書いた。「θ」のゲラは50%まで。ゆったりとしたペースで好ましい。今日も契約書に3つほど捺印した。
 お昼頃にスバル氏とホームセンタへ。あまり暖かいので花の苗を買ってしまった。明日植えるとスバル氏はおっしゃっている。明日雪が降ったらどうしよう。

 昨夜から、古いおもちゃを直している。1967年3月製造とあるので、約41年まえのものだ。見たところ未使用で非常に綺麗な状態だった。当時はお菓子に入っている応募券を集めて送るとこれが当たった。つまり景品だったもの。売っていたわけではないが、売られていたら、たぶん数千円の品だろう。小学生だった僕は、これが欲しくてしかたなかったけれど、残念ながら応募券が揃わず手に入れられなかった(たいてい少ない種類が1枚あるものだ)。先日オークションで9万円で手に入れたというのはこれである。
 当時、ラジコン(無線)で動くものとリモコン(有線)で動くものがあったはず。今回手に入れたのはリモコンの方。ラジコンでは電子回路が40年もすると作動しない可能性が高く、直すことが非常に難しい。リモコンは、中を見ればメカニズムがわかり、直すことができるからだ。
 電池を入れてみたがやはり動かない。景品になるようなおもちゃはパーツも低品質で、まずスイッチが駄目になることが多い。中を開けてみると、ハンダづけは劣化して剥がれているし、絶縁の接着剤もぼろぼろ。またプラスティックのギアもオイルで劣化して割れていた。

 モータは3つ。つまり可動部は3箇所。しかし、そのうち1つは同時にオルゴールのようにドラムを回転させ、そこに接する6本の端子へのスイッチングを行う。このドラムの回転によって、3つのモータが決められたタイミングで動いたり止まったりする機構だ。

 多少複雑なので、まず回路図を書いた。ハンダが取れていたところが多く、想像しながら再現。だいたい動作が理解できたので、修理を行うことにした。一番大変だったのは、最初にボディを開けて、中の機械類を取り外すとき。接着剤でプラスティックが固定されているため、簡単には分解できない。どの工程も逆戻りできないような作り方がしてあった。プラスティック自体が脆くなっているので、細心の注意が必要である。
 スイッチはすべて駄目みたいなので、リモコンは新たに自作するしかない。明日につづきます……。

【国語】 「たしか」の信頼度

 会話によく登場する「たしか」という言葉、皆さんもよく使われることと思う。
 「え、本当にそうなの?」ときかれて、「ええ、たしか、そうでした」と答えるのと、「ええ、たしかに、そうでした」と答えるのと同じだろうか。後者の方が信憑性が高いように感じる人は多いはず。
 「たしか」は、もともとは「たしかに」と同じ言葉だっただろうし、もちろん「確かに」という意味だから、「確実に」と言い換えられる意味だったはずだ。それが現在では、「たしか、このまえの日曜日じゃなかったっけ」と言ったときの「たしか」は、「たぶん」や「おそらく」と言い換えても同じくらい「不確か」である。 
 「たぶん」も、「多分」だから、「多分に」から来たものと思う。これも、もともとは「多くの場合」とか「かなりの確率で」という意味だが、今では「たぶん」はかなり頼りない感じに成り下がっている。そもそもは推量を述べる言葉ではなかったはずだ。「たいてい」や「おおかた」も似ている。「おそらく」は「恐らく」であって、もともとは「思うに」とか「心配するのは」みたいな感じの言葉だったのでは、と想像する。
 こうなると、確率が高いことを伝えるには、「きっと」になる。これは「屹度」と書いてあるものを見かけるが、当て字かもしれない。睨みつけるときにも使うけれど、そういう意味では「しっかり」とも似ていると思う。
 「明日、頼むよ」と言われたとき、返事が「たぶん」「おそらく」では叱られる。「たしかに」なら大丈夫だろうか。


2008年01月08日(火曜日)

【HR】 今日は溶接工

 雨上がりで暖かい日になった。今日はどこへも出かけず。
 小説の仕事では、まず「銀河不動産」は2000文字書いた。完成度40%。「θ」のゲラは40%まで見た。「日経パソコン」の第56回のゲラ校正もあった。散香のフィギュアのカラーリングのチェックも来た。
 外が暖かいので、森の中へ入って掃除を少しだけ。それから線路を見回って、バラスト(線路の下に敷いてある砂利)を直した。そのあと、チェックのために電気機関車を2周ほど走らせる。

 工作は、昨日のフライスに続き、今日はアーク溶接。デッキに出て火花を散らした。作業服に着替えないといけないので、少し面倒。普通の服では、火花が飛んで焦げ穴があいたりする。溶接のセットを写真に撮った。このヘルメットみたいなのを頭からすっぽり被る。従来の溶接では、真っ黒なグラスのメガネやゴーグルをかけたものだが、そういう濃い色のフィルタだと、普通の光では真っ暗でなにも見えない。溶接の閃光があって初めて見えるように設定されているからだ。したがって、火花が散る直前までは裸眼で見て、光ると同時に目をフィルタで保護する、なんて離れ業が要求された。光るところを直接見てしまうと、夜寝るとき天井に幻が見えるくらい目に焼きついてしまう。失明にもつながる危険な状況だ。最近は技術の進歩で、強い光を感知し瞬時に濃くなるフィルタがヘルメットに装備されている。これはもの凄く便利で、目にも優しい。溶接もぐっと簡単になった。少し高いけれど、これから溶接をする人は、絶対に買った方が良いアイテムの1つ。

 昨夜、寝るまえにイギリスの有名なモデラが書いた本を読んでいたら、今一つ機構が不明だったレディ・マドキャップの給油装置のことがずばり説明されていた。ちょっとした発見で嬉しい。なるほどそうだったのか、という感じ。日々発見である。
 アンプのテストも良好。次の工作にもう頭が行っているが。毎晩少しずつやっていた写真の整理も終わった。仮想空間の整理は簡単だ。現実の空間もこれくらい整理ができたら良いのに。

 夕方、とても明るくて暖かい風景だった。ちょっと日が長くなった気がする。もう芽が出ている枝も多い。まだまだ、これから寒くなるはずなのに。
 近所でまた新しい家の工事が始まった。森林が減るのは残念だが、工事そのものは、見ていて面白い。仕事にもいろいろあるけれど、「もの作っていく作業」というのは基本的な楽しさがあるように思える。幼稚なのかもしれない。

【社会】 趣味の界隈観察

 前回、新年にちなんだ社会観察を書いたが、今回は翻って、趣味の世界を見てみよう。そうしないと不公平だ。
 先日、BSで日本の蒸気機関車の紹介をしていた。スバル氏が珍しく一緒に見ていた(たぶん、ほかにすることがなかったのだろう)。彼女には、どの機関車も全部同じ形に見えるはずだ。C57はそのスマートなフォルムから、マニアの間では「貴婦人」と呼ばれている、と紹介があったら、ぷっと吹き出していた。悪い冗談に聞こえたようだ。また、C56は「高原のポニィ」と呼ばれている、と聞くと、もうあっけにとられていた。福袋を買う神経よりは、こちらの方がはるかに常軌を逸している、と言いたげであった。
 そういわれてみると、ビッグサイトに長蛇の列を成す人たちの数は、福袋に群がる人たちの比ではない。もしかして並ばない人間の方が間違っているのか、と思わせる勢いがたしかにある。
 模型の飛行場へ行くと、雪が降り積もって滑走路が使えないのに、ちゃんと趣味人が集まっていて、なにをすることもなく、携帯コンロでコーヒーなんか沸かして飲んでいるのだ。「何をしにきたんですか?」と尋ねる気にもなれない。自分も来たのだから。
 飛行機も機関車もだいたい同じであるが、若い人は、趣味の集いにガールフレンドや奥さんを連れてくる。そのうち一緒に来なくなる。子供も小さいうちは連れてくるけれど、そのうち来なくなる。こうして、一人前の趣味人ができあがる。
 このように考えると、福袋に命をかける人たちを、孤高の趣味人と讃えても良い気がしてきた。