2008年1月20日 (日曜日)

昨夜は札幌まで行き、「新年会」でした!

朝の5時まで飲んでJRで帰り、「お坊さん」に戻り、今日は忙しい日曜日を勤めました・・・・。

だから、ねむーい。

でもね・・・、

僕が(みんなが)会いたい「あの方」も突然にサプライズに登場されたりして、笑ったり歌ったり、朝まで最高にハッピーな「宴」でした。

早くも2008年の「私的重大ニュース」にノミネート決定のひとときでした♪

昨晩は皆さん、ありがとうございました!

また楽しく呑みましょうねぇp(^-^)q

今日は寝まーす(^^;)

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2008年1月19日 (土曜日)

時のいたずら

昨日、隣街のショッピングセンターへ買い物に行った時のこと。

レジをしていた若い女の子の顔を見た瞬間、なぜか昔からの知り合いのような気がしたのだ。
誰だっけ?
胸にネームをつけていたので確認したら間違いなかった。

毎年7月末、近隣のお寺のお坊さんで主催・引率して開催している「ちびっ子キャンプ」に小2から中3まで毎年欠かさず参加してくれてた女の子だった。
僕は毎年パソコンで「参加者名簿」を作る係なので、常連で参加してくれた名前は忘れないし、その子はいつも僕にまとわりついては騒いでいた子なので、顔も忘れなかったので、すぐに思い出した。
でもなんとなく声をかけずらくて、気づかないフリをしてしまった。
もしかしたら向こうもサングラスの俺に気づいたかもしれない。

僕の買った商品を一生懸命に包装している彼女の姿をサングラス越しに見つめながら
「ガキンチョと思っていたらもう社会人になって働いてるんだなぁ。はやいなぁ…」
と心でつぶやいた。

そっか、中3(15才)でも四年過ぎれば高校卒業して19才になってるんだもんなー。

十代の彼女の4年、
そして
三十代の僕の4年。

同じ時間でもエラく違うもんだな…。

「こちら商品でございます。ありがとうございました。またお越しくださいませ。」
その「声」にも、あのキャンプの頃の面影が残っていた。
僕はなんか、たまらなく恥ずかしくなりながら、商品を受け取り店を出た。

♪時のいたずらだね〜〜苦笑いだね〜〜〜♪

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2008年1月18日 (金曜日)

再起動

ちょいとしなきゃならない事が次々に続くと、動作がにぶく「不安定」になり、「メモリ不足デス…」だの「ビジー状態デス…」という言い訳をし、やる気ゼロになる。
一回電源切って休ませてやれば、機嫌を直し、何事もなかったようにケロッと再起動。

私のパソコンは、
まるで
「私そのもの」
だャー(笑)


さ、再起動しよう(^_^;)

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2008年1月17日 (木曜日)

無言で雄弁な死から

「こんなことってあるんですねぇ…」
って勝手に納得しないでほしいなぁって思う場面に出会った。

  

去年の末に亡くなった七十代の男性。定年後も毎日元気で、病気知らず。健康診断も異常ナシ。ところが、昨年11月に手術不可能な場所に病気が見つかり「年内もたない」とお医者さんから宣告。本人に自覚も痛みもないまま12月になり、家族も「ホントに病気なんだろか?」と思うくらい病室でも元気にしてらしたが、医者の見立て通り、次第に容体が悪化し、末日に亡くなった。わずか2ヶ月…。

その方は、去年7月にワタシの「新住職就任祝賀会」の案内状をご覧になって、いつもは「お寺」に縁遠い方だったが、「祝賀会」に出席してくださっていた。

その事で、奥さんが冒頭の言葉を呟いたのである。

「こんなことってあるんですねぇ…」

「何がですか?」とワタシ。

「主人が七月にお寺サンの祝賀会に行ったでしょう?お寺とかには全く感知しない人だったのに、なぜか出席するなんて言い出して……」

「あぁそうだったんですか。僕も祝賀会の席で各テーブルにご挨拶に歩いたとき、しばらくの間、ご主人様と初めてお話させていただきました。お元気でしたのに、亡くなったお知らせにびっくりしました」とワタシ。

「そうなんですよ。だから、なんかね、あるんでしょうかね。亡くなる事が暗示されてたっていうか……こんなことってあるんですねぇ…」

はじめは奥さんの話す真意が分からなくて戸惑ったが、どうやら

(1)今思えば、年末に亡くなってしまう命だからこそ、最後の元気なうちに、お寺(先祖?)に呼ばれたのではないか。

(2)今まで興味のなかったお寺に珍しく行ったりなんかするもんだから、亡くなったのだ。

どちらかの意味合いに取れてしまうのだ。

元気だった大切なご主人を突然失った奥様の気持ちは私の想像を超えた世界だ。またその突然の不幸の原因のホコサキを見つけたい、そして少しでも納得できるものならそうしたい、というのは人情である。

しかし、「お寺に行ったから」という原因究明は、ちょいとサビシイ。ゴメンね住職になって(苦笑)

お寺の祝賀会に行ったから亡くなったのではない。
また逆に言えば、祝賀会に来た他の方だって、みんないつか必ず亡くなっていかなくてはならない命なのである。

当たり前の事だけど、赤ちゃんとしてオギャーと産まれたとたんに、我々には100%「死」が決定している。そしてその後の「生」の中で色んな縁(条件・キッカケ)に遭遇していかなくてはならないという「人生ルール」。
成長という縁もある。
若いという縁もある。
挫折という縁もある。
元気という縁もあれば、病気という縁もある。
そして死という縁もある。

死は特別なものではなく、生きる全員に決まっていて、今んとこたまたま「死の縁」に未だ出逢っていないだけのこと。

私が「若い」から死なないのではないのだ。

 

だからこそ、生きている今この時が大切に思えるし、一度切り、繰り返せない、誰にも代わってもらえない人生を優しく、逞しくありたいと願うのではないか。

先立った大切な方が示してくれた「死」は「無言」のうちに、実はいろんな事を「雄弁」に語り、教えてくれている。

塩を巻こうが、お祓いをしようが、初詣で願い事をしようが、「この私に死の縁が整えば死ななくてはならない」 という一点は変わらない真実。

 

その事を正しく受け止めなければ!

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2008年1月16日 (水曜日)

朝。

朝。
朝、2階の部屋の窓から外を眺めると、下から「君」が僕を見上げていた。

ただそれだけで、元気になる瞬間。

さ、今日も頑張ろう!

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2008年1月14日 (月曜日)

ヤボケイタイ

 外出中にケイタイが鳴る。ポケットのケイタイを取り出す。

 着信中・・・・「その人」の名前が表示される。

 僕は、鳴っているケイタイを見つめる。

 ぅぅぅ・・・出たくない。今、外出中だし、なんとなく「その人」と喋る気持ちになれない。「その人」が嫌いな訳じゃない。そうだ、仕事中で気づかなかった事にすればいい、また夜に落ち着いたらこちらからかけ直せばいいさ、でも、面倒くさいな、今、電話に出ておこうかな、それなら電話代もかからないし(苦笑)・・・・、いや、やっぱり今しゃべりたくないな、ゆっくり腰を落ち着けて後からかけ直す事にしよう、でも、こんな時間、何の用だろう?急用かな?出ようかな?いや、やめよう、後からかけるからいいさ・・・・

 ・・・・・・ワンコールかツーコール鳴る「短い時間」の間に、色んな自分の「ココロ」が入れ替わる。すごいスピードだ。

 結局、僕は電話に出ないまま、またケイタイをポケットにしまい込んだ。ポケットの中のケイタイがようやく鳴りやんだ。

 

 「ま、いっか・・・・」

  

 ・・・・・・・・その後、数分したらメールが着信した。「その人」からだ。

 「何、無視してんの。車から見てたんだよ!楽しそうね!」

 

 しまった!外出先の「俺の姿」を見て、さっき電話してたのか・・・僕は思わずキョロキョロしてしまう(笑)。「かくれんぼ」で鬼に見つかったみたいな感覚。

 ってことはぁ・・「その人」は・・・、鳴っているケイタイを取り出してそのままポケットにしまい込んだ俺の姿の「一部始終」を至近距離からバッチリ・しっかり・全部見ていた訳なのね!感じワルイ~~俺。

 でも、ヤボだね・・・・「その人」。

 分かってるなら電話しなくてもいいのに。

 あぁぁぁ、めんどくさい(苦笑)

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2008年1月13日 (日曜日)

「ぶれ」

ここ何ヶ月か、
一人相撲して
しょい込みすぎて
勝手に心がヤバくなってるのかな?  

なんとなく胸あたりが苦しく、
脈拍のリズムがヘンだ。  

ま、こうしてケイタイからブログ更新してるんだから、たいしたことないんだけどね!  

でも、
早くも「次期」住職を探さなきゃ……か(爆)
いやいや、まだいける、まだまだいけるぞ!

不安定な鼓動を感じながら、回復まで独りソファーで横になっていると、
今の私が
冷静なのか、狂ってるのか分からなくなる。   

あーだこーだ言っても、お粗末な私。

あ、記憶の底から、師匠の歌が流れてくるよ。

 

  

♪♪どうすればいい?分からないほど 逃げる場所もなく追いつめられても 誰のせいにもできやしないさ 馬鹿な自分で切り抜けなければ  降り止まぬ雨はない 虹の橋が架かるまで   生きてゆくことは苦しくて たやすくなんかないけれど ささやかな幸せの為に戦うのも悪くない♪♪

みのや雅彦「遥かなる」より

  

よし!治ったよ!!!

 

たぶんちょっとだけ、ブレただけだ。

あーだこーだ言っても、お粗末な私。

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2008年1月12日 (土曜日)

夜、テレビ見過ぎ・・・

  最近夜になるとテレビを見ている。年末に録画しておいた映画などである。 本当は映画館で見たかったけど、ま、時間が過ぎれば、テレビで見れるからなぁ。

  

   まず、 「手紙」http://www.tegami-movie.jp/) を見た。

 僕は「山田孝之」という俳優の演じる「影・暗さ」が好きなのだが、それ以上に「沢尻エリカ」の関西弁が気になってしまった・・・・(「パッチギ!」の方が良かったな)。

  殺人という罪を犯し服役中の兄貴と、犯罪者の身内というレッテルがつきまとい何をやっても差別されて人生が狂っていく主人公との「手紙」のやりとりを軸にストーリーは展開していく。

 いつもこういう映画を見ると、「レッテル」を貼って差別する「世間」とは誰か?そんな奴どこにいるんだ?なぜ「本人」を見てあげないのか?と知らず知らずのうちに「善人」という立場に立ってイライラしている自分を見つける。いや、この映画の鑑賞者は誰しも「善人」の立場で主人公のやるせなさに同情するのだろう。

 善人顔で映画を見ている人しかいない「世間」ならば、差別者は存在しないことになり、主人公はここまで苦しまなくて済むだろう。じゃあ、映画に描かれている「差別する世間」とは、いったいどこにいる誰のことを指しているのか? 

 僕の友人で、「結婚を決意した妹を無理矢理に別れさせた」という奴がいる。「だって、身内の問題だせ。キレイゴトじゃないんだよ!」 その言葉に僕は何も言えなかった。

 つまり、善人であるはずの自分が、状況・立場の中で「差別者」になっている。イコールなのだ。さらに、差別している事実すらも「善」という立場に立っている。「キレイゴトじゃないんだよ!」と。「自分」を「善」とする立場はなかなか揺るがない。

 だから、「差別している世間」、主人公・山田を差別しているのは、映画をノンキに泣きながら見ている「自分」でもあるのだ、という観点でこの映画を鑑賞したら、自分が立っている「善」というものの「構造」を垣間見れるかもしれない。

  

  

 次に、「武士の一分」http://www.ichibun.jp/)を見た。

 「木村拓哉」が毒味役の下級武士で、殿の御膳の毒味中に「赤ツブ貝」の毒にあたり目が見えなくなってしまう。盲人となった主人を必死で支える妻(檀れい)は、その後の生活を守るために、上役(坂東三津五郎)を頼るも、結果だまされて手込めにされる。そんな妻を離縁したキムタクは、「武士の一分」をかけて、坂東に果たし合いを申し込む。盲目のキムタクと、使い手・坂東との息を呑む決闘・・・・。

 山田洋次監督の「画面タッチ」だなぁ、と嬉しくなりながら見ていた。

 でも、どうしてもトップアイドル「SMAP」のキムタクの演じる時代劇・・・という自分の「先入観」。昔みたいな「時代劇のスター」の出現を待ちこがれる自分ではありますが、そんな事よりも、キムタクの「侍ぶり」は見事でした。

 そして、ラストシーンで、キムタクのところに帰ってくる妻・檀れいが、

 「せば、あなたのそばにいてもいいんでがんすか・・・」

 と泣きながらキムタクに許されるシーン。号泣・・・・。

 「あなたのそばにいる」・・・っていい言葉だな。ホントに。

  

  

  次に、映画ではないけれど、

 「3年B組 金八先生 新春2時間スペシャル」(http://www.tbs.co.jp/kinpachi/)。 

 親に交際を反対されて「駆け落ち」したB組の彩華。そんな彩華を迎えに行った金八先生に、

 「悪かった、でも、間違ってはいない」

 と話す彩華の想いを尊重する金八先生。 うん、いい感じ。

 フィクションの「学校ドラマ」とは分かっていても、やっぱり大好きなドラマだ。

 

 この言葉は、「言い訳」や「開き直り」や「自己弁護」に使う言葉ではない。

 胸一杯に生きているのになかなかうまくいかない人生。

 涙をこらえながら、地面に足をつけて、現実の中へ歩み直す時の「覚悟」なのだと想う。

  

 「悪かった。でも間違ってはいない」

 「うん、間違っていない。でも、悪かったなぁ・・・」

 頑なになったり、恥ずかしくなったり。

 

 ・・・僕もだ。

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