goo

田代有三選手

― 小学生時代(石丸少年サッカークラブ)

サッカーを始めたのは小学校1年生の時です。4年生と5年生の兄が二人いて、二人ともサッカー部だったので、僕も一緒について行っていたんです。でも3年生からしか入れなかったので、見ているだけだったんですが、毎回見ているうちにどうしてもやりたくなって、入れて欲しいって頼んだら、監督が「家でテレビゲームに熱中せずに練習にきちんと来るんだったら、毎週来ているんだし、特別にいれてあげるよ」と言ってくれたので、「じゃあ、頑張ります」と入れてもらいました。当時、サッカーがあまり普及していなくて、僕が入った時には、小学校全体で部員は30人くらいしかいませんでした。4年生でJリーグが開幕してからは急に100人を超えて驚きましたけどね。僕はトップ下が中心でしたが、センターバックもやったし、ボランチもやったし、いろいろなポジションを小学校時代は経験しました。指導者の方たちは、厳しい面もありましたけど、暖かくて、親しみやすくて、家族のような方でした。チームは最初はそんなに強くなかったんですが、徐々に力をあげていって、僕が6年生の頃には福岡市西区で一番強いチームにはなっていました。ただ、市大会に出ると途中で負けていましたので、県大会には出たことがありません。個人としては福岡市選抜に選ばれていました。
― 中学生時代(下山門中学校)
近くにブルックス(アビスパ福岡の前身)があったので、そこの下部組織に行く人もいたのですが、6年生の頃、下山門中学校とよく練習試合をしていたので、中学校の先生から「ぜひ、入ってくれ」と言われていたんです。サッカーだけを考えれば、ブルックスの方が良かったのかも知れませんが、そこまで言ってもらったので、中学校のサッカー部に行くことを決めました。

中学校もあまり強くなくて、1年の頃は西区でも勝てなかったのですが、2年、3年と西区では優勝できるようになって、3年の時には市大会でも優勝しました。でも、県大会では初戦負けしてしまいました。指導者の先生はとてもいい人でしたし、サッカーも良く知っていて指導者としてもよかったんですが、2年の時に転任してしまったんですね。それからはテニス部の先生が試合の時だけ来てくれるというような、監督不在のチームになりました。なので、練習メニューは小学校の時のコーチに組んでもらって、キャプテンだった僕がそれをみんなにやらせるような形で練習に取り組んでいました。でも、責任が重くて重くて。もう今後キャプテンだけはやりたくない…って思いましたよ。(笑)特に、練習に来ない下級生に、どうしたの、とか話を聞きに行ったりしなければならないじゃないですか。そういうことをやるのがすごく嫌でしたね。個人としては、市の選抜に入っていました。結局、監督がいなかったから推薦してもらえるわけでもなかったですし、そんなに実力があったわけでもなかったので、区の選抜に入った時にものすごく頑張ってようやく市の選抜に入れてもらったような感じでした。当時は中盤で7番でした。
― 高校への進学
その頃は、プロとかまったく考えてなくて、大学に進学することだけを考えていたんです。中でも福岡大学が自宅から近かったので、自然とそこに目が向きました。大濠高校はその付属高校で、進学校でしたし、サッカーも強かったんですよ。僕が中学校3年の時は、東福岡高校が3冠した年で、本当は東福岡に行きたかったんですが、県外から推薦を20人に特待生を10人取るという話を聞いていたんですね。その中に入っていって、潰れたくなかったんです。大濠高校はその年、県大会で唯一東福岡にいい試合をした高校なんですね。その試合では大濠が最初は2-0で勝っていて、最後の最後で東福岡が逆転して、県大会で優勝したんです。それで全国でも優勝したんですね。これだったら、大濠も強いんじゃないかって思って。誘いも来ていたし、自転車で行ける距離だったので、進学することを決めました。
― 高校生時代(福岡大附属大濠高校)
高校のレベルは高かったので、最初は試合には絡めませんでした。そんな中、福岡市で1年生大会があったんですけど、1年生にボランチが沢山いたので、じゃあ俺フォワードやりたいってコンバートして、その大会で5試合で7得点くらいあげて、得点王になったんですね。それで「フォワードの方がいいじゃないか」ということになって、それまでメンバーにも入れなかったのに、スーパーサブ的な立場で試合に出られるようになったんです。1年生の選手権の県大会予選でもスーパーサブで出ていましたよ。県大会のベスト8で敗退しましたけど。フォワードになったことによって、サッカーに対する心境の変化はありましたね。それまではパスをすることの方が好きだったんですが、得点をする喜びというのを知ったんですね。それがすごくプラスだったと思います。2年生になってからは学校ではスタメンで出られるようになりました。個人的には、2年の時に国体の候補になり、3年になって国体メンバーとして福岡選抜に選ばれました。ここが大きなターニングポイントだったと思います。国体のメンバーは東福岡と東海大五が中心でした。大濠高校からは僕一人だったんですね。そんなこともあって、当初は全然ボールが回って来なくて。呼んでも来ないし、ミスしたら「なにやってんだよ!」ってみんなから怒られるし。ずっと練習試合で点が取れなくて。それでも使ってもらえていたんです。そんな中、選抜チームで大阪に遠征をして、中国のチームと練習試合をしたんですね。その時、選抜チームで初めて得点をあげたんです。それから面白いようにボールが来るようになり、みんなとも仲良くなりました。元々、上手い選手ばかりのチームでしたし、ボールは回って来るようになったし、それからは本当に面白くなり、このチームが好きになりました。それからすぐ国体があって、全国で3位になりました。準決勝で負けた相手は国見です。…いや、長崎です。(笑)まあ、背番号も同じだったから、ほぼ国見でしたけど。大久保や松橋、徳永、徳重という名だたる選手たちがいて。長崎は強かったですよ。九州大会でも準決勝で負けてしまったし、全国でも準決勝で長崎に負けました。この時期に高いレベルでの試合や経験をしたことによって、いろいろなことを吸収して、視野が広くなり、目標が明確となりました。この頃から、プロを意識したと思います。

大学は阪南大学と迷ったんですが、最終的に福岡大学に進学しました。その前にアビスパの練習に参加していたんですね。高校のチームは国体の前に終わっていたんですけど、国体のメンバーはみんな練習をしているのに、僕だけしていなかったのもあって、誘われたので練習に行っていました。でも、アビスパは大久保と田原(京都)を狙っていたんですよ。この二人がダメだったら、その次に田代…ってことになっていたんです。福岡大学の締切も国体前までだったから、そこは待てないなと思って、福岡大学の乾先生が直接獲りたいって言ってくれたこともあって、サッカーの特別推薦で入れてもらいました。
― 大学生時代(福岡大学)
福岡大はレベルが高かったですね。坪さん(坪井選手/浦和)も4年にいたし。プレーしている人たちはみんな上手かったです。試合には最初から出られました。総理大臣杯には出してもらったんですが、結果が出せなかったんです。九州大会の決勝で負けてしまって。それからリーグ戦後半には出してもらえませんでした。4年生の太田恵介さん(ミネソタ・サンダー)がすごく旬の時で。ペルージャが興味…なんて記事が出たころでしたね。それで太田さんにポジションを奪われていたんですけど、太田さんが卒業して、僕が2年になってから、出られるようになりました。その年、九州リーグでは優勝したように思います。3年生の時に、強化指定選手という制度ができて、監督から「大分から話がきているぞ。行ってみる気があるか」と聞かれて、大分には行ってみたかったのでお願いしました。けっこう遠かったんですよ。だから、授業を月火水木と固めて入れて、金土日にリュックを背負って、高速バスで行って、寮に泊めてもらって参加していました。授業も集中していたからきつかったし、練習もきつかったし、移動もきつかったし、もう大変でした。(笑)大分では同期の松橋にいろいろとよくしてもらいました。その時、学生とプロ選手の差を実感しました。いい生活をしているな…って。こっちはしっかり勉強して、教員免許まで取ってやっているのにな。でも、これが実力の違いなんだ、って。プロとする練習はプレッシャーがあって緊張しましたけど、そんなに違和感は感じませんでした。最後の方で、高松さんが警告累積で出られなかった時に、試合に出してもらえるといういい経験もできました。大学選抜には1年生から入っていて、3年ではカタール国際に出場しました。U-23韓国代表と試合をしましたね。相手には曹宰榛(チョジェジン/清水)金正友(キムジョンウ/名古屋)崔成国(チェソング/城南一和/元柏)たちがいて、みんな上手いなあ…って思っていたら、みんなJリーグに来ましたね。その頃は、引き分けはできるだろうけど、勝てないなあ、と感じながら試合をしていて、それで3-0で負けました。4年生になってから鳥栖の強化指定選手になって、10試合くらい出場しました。鳥栖はいろいろと大変な時期だったのですが、これも僕にはいい経験になりましたね。いろいろと感じました。サッカーの違いはちょっとありますけど、J1で出来ないようであれば、J2だって出来ないな…って。対戦相手に川崎がいて、ジュニーニョがすごいなって思いましたね。おかしいんじゃないか、ってくらいに。(笑)僕の出ていた試合でハットトリックされちゃったんですけど、身体のいなし方とかが全然違うんですよ。

進路を決める頃になって、いろいろと迷いました。一番最初に大分から声をかけてもらっていたんですが、4年になるくらいから鹿島からも声をかけてもらっていたんです。何度も来てもらっていたし、アントラーズって誠意があっていいな…って思っていたんです。それで練習に行かせてください、と話をして、ほかにも話をしてくれていたセレッソと柏と鹿島の練習に参加したんです。どこも紅白戦に出してくれたんですけど、鹿島はレベルが高かったし、環境もよくて「アントラーズだな、ここでやったら上手くなれそうだな」という気持ちが固まって。それまでも大学選抜で仲良くしてもらっていた岩政さんに電話で相談していたんですね。その時はあまり政さんも試合に出ていなかったんですけど「成長している気がする」「ものすごくいいチームだし、フロントもしっかりしている」って電話で言っていて。それに僕はタカさん(鈴木隆行選手/横浜FM)が好きだったので、見てポストプレーを学びたいなって思っていて。そんな中でレギュラーを取れればって思って鹿島に行くことを決めました。大分とも悩みましたね。みんなよくしてくれたし、知っている人もいっぱいいましたから。
― プロになれた一番のポイントは?
僕はたぶん実家住まいだったからだったと思います。栄養的な面でも、ハードなスケジュールの中で洗濯もしてもらえたし、帰ったら他のことは考えずに、しっかり眠って疲れをとることができたし、朝も起こしてもらえたし。(笑)サッカーする環境がすごく良かったと思います。遊ぼうかな…と気が散る時があっても、親に「練習があるんだから早く帰ってくるんだよ」とサッカーに集中するようにいつも声をかけてもらっていたので、「やっぱり遊ばないで練習しよう」と思いとどまり、しっかりと練習できたこともよかったと思います。そういう環境が良かったんだと思います。 【取材・構成】 SHAPE 豊田 英夫

キャプテンはイヤ、FWは高校生からなど読みどころ満載である。
勝利神話継続中の田代の人間形成が見え隠れする。
兄の影響でサッカーを始めたとのこと。
となれば共に食事することもあろう。
だが、その場で唐突に 「お屋形様いよいよですね」「なら今夜は兄・弟でいこう」などと言い出してはならぬ。
急に目立っては死亡フラグである。



goo | Weblog | コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

前の記事へ 次の記事へ


 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
規約に同意の上 コメント投稿を行ってください。
※文字化け等の原因になりますので、顔文字の利用はお控えください。
 
この記事のトラックバック Ping-URL
 
http://blog.goo.ne.jp/tbinterface/52785a1940546425d1ab38f3bbafd806/a9