最近夜になるとテレビを見ている。年末に録画しておいた映画などである。 本当は映画館で見たかったけど、ま、時間が過ぎれば、テレビで見れるからなぁ。
まず、 「手紙」(http://www.tegami-movie.jp/) を見た。
僕は「山田孝之」という俳優の演じる「影・暗さ」が好きなのだが、それ以上に「沢尻エリカ」の関西弁が気になってしまった・・・・(「パッチギ!」の方が良かったな)。
殺人という罪を犯し服役中の兄貴と、犯罪者の身内というレッテルがつきまとい何をやっても差別されて人生が狂っていく主人公との「手紙」のやりとりを軸にストーリーは展開していく。
いつもこういう映画を見ると、「レッテル」を貼って差別する「世間」とは誰か?そんな奴どこにいるんだ?なぜ「本人」を見てあげないのか?と知らず知らずのうちに「善人」という立場に立ってイライラしている自分を見つける。いや、この映画の鑑賞者は誰しも「善人」の立場で主人公のやるせなさに同情するのだろう。
善人顔で映画を見ている人しかいない「世間」ならば、差別者は存在しないことになり、主人公はここまで苦しまなくて済むだろう。じゃあ、映画に描かれている「差別する世間」とは、いったいどこにいる誰のことを指しているのか?
僕の友人で、「結婚を決意した妹を無理矢理に別れさせた」という奴がいる。「だって、身内の問題だせ。キレイゴトじゃないんだよ!」 その言葉に僕は何も言えなかった。
つまり、善人であるはずの自分が、状況・立場の中で「差別者」になっている。イコールなのだ。さらに、差別している事実すらも「善」という立場に立っている。「キレイゴトじゃないんだよ!」と。「自分」を「善」とする立場はなかなか揺るがない。
だから、「差別している世間」、主人公・山田を差別しているのは、映画をノンキに泣きながら見ている「自分」でもあるのだ、という観点でこの映画を鑑賞したら、自分が立っている「善」というものの「構造」を垣間見れるかもしれない。
次に、「武士の一分」(http://www.ichibun.jp/)を見た。
「木村拓哉」が毒味役の下級武士で、殿の御膳の毒味中に「赤ツブ貝」の毒にあたり目が見えなくなってしまう。盲人となった主人を必死で支える妻(檀れい)は、その後の生活を守るために、上役(坂東三津五郎)を頼るも、結果だまされて手込めにされる。そんな妻を離縁したキムタクは、「武士の一分」をかけて、坂東に果たし合いを申し込む。盲目のキムタクと、使い手・坂東との息を呑む決闘・・・・。
山田洋次監督の「画面タッチ」だなぁ、と嬉しくなりながら見ていた。
でも、どうしてもトップアイドル「SMAP」のキムタクの演じる時代劇・・・という自分の「先入観」。昔みたいな「時代劇のスター」の出現を待ちこがれる自分ではありますが、そんな事よりも、キムタクの「侍ぶり」は見事でした。
そして、ラストシーンで、キムタクのところに帰ってくる妻・檀れいが、
「せば、あなたのそばにいてもいいんでがんすか・・・」
と泣きながらキムタクに許されるシーン。号泣・・・・。
「あなたのそばにいる」・・・っていい言葉だな。ホントに。
次に、映画ではないけれど、
「3年B組 金八先生 新春2時間スペシャル」(http://www.tbs.co.jp/kinpachi/)。
親に交際を反対されて「駆け落ち」したB組の彩華。そんな彩華を迎えに行った金八先生に、
「悪かった、でも、間違ってはいない」
と話す彩華の想いを尊重する金八先生。 うん、いい感じ。
フィクションの「学校ドラマ」とは分かっていても、やっぱり大好きなドラマだ。
この言葉は、「言い訳」や「開き直り」や「自己弁護」に使う言葉ではない。
胸一杯に生きているのになかなかうまくいかない人生。
涙をこらえながら、地面に足をつけて、現実の中へ歩み直す時の「覚悟」なのだと想う。
「悪かった。でも間違ってはいない」
「うん、間違っていない。でも、悪かったなぁ・・・」
頑なになったり、恥ずかしくなったり。
・・・僕もだ。
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