東京福祉大学創立者・総長 教育学博士中島恒雄の教育理念とその背景
〜東京の4畳半のアパートから始めました〜


東京福祉大学校章


1 校章の茶屋船にたくして

 東京福祉大学ならびにグループの専門学校の校章に古典的な船がデザインされていることにお気付きでしょうか。これは「茶屋船交趾渡航(ちゃやぶねこうちとこう)貿易絵巻」(愛知県指定文化財)にある、大海を渡る茶屋船――つまり、徳川家康より朱印状を頂戴し江戸時代初期に海外貿易で活躍した「朱印船(しゅいんせん)」を模写したものです。この時代の御朱印船貿易は、日本と海外を結ぶ公式な貿易経路であり、日本の国際化の一翼を担っていました。この御朱印船貿易に従事したのが、後に京都の三長者として栄えた豪商、茶屋中島氏でした。東京福祉大学の創立者で、総長を務める中島恒雄は、この茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろじろうきよのぶ)の第17代目の直孫(じきそん)にあたり、尾州(びしゅう)(名古屋)茶屋家の当主です。初代茶屋四郎次郎清延は、徳川家康の側近としても知られ、御朱印船貿易は三代・茶屋四郎次郎清次(きよつぐ)の時に始まり、その渡航範囲は当時の交趾国(こうちこく)(現在のベトナム中部)をはじめ東南アジア各地に広がっています。
 校章の茶屋船は、日本の教育とハーバード大学やフォーダム大学といったアメリカの一流大学の教育学大学院の効果的な教育方法学それぞれの長所を融合させ、世界にはばたき、国際社会でも活躍でき、新たな時代にも対応できる優秀な人材育成を目指す、本学の象徴となっているのです。


2 初代・茶屋四郎次郎清延と徳川時代

茶屋四郎次郎清延夫妻像


徳川家康公より拝領の直筆扇面和歌
茶屋四郎次郎清延が家康公より拝領した扇子の扇面料紙。
清延3男の新四郎長吉が譲り受け、尾州茶屋家に代々伝わる。

 茶屋は本姓を「中島」と称し、清和(せいわ)天皇の流れをくむ武家の名門・小笠原源氏(げんじ)の末流です。茶屋四郎次郎清延の祖父にあたる宗延(むねのぶ)の代に、山城国(やましろのくに)(今の京都府)中島郡に領地を持っていたことから、「中島」姓を名乗るようになりました。室町幕府の将軍・足利義輝(あしかがよしてる)が、しばしば中島氏の屋敷を訪れ、千利休(せんのりきゅう)と並んで茶人であった茶屋四郎次郎明延(あきのぶ)より茶の接待を受けたことにちなんで「茶屋」の屋号(店の呼び名)が使われるようになったと言われています。現在も、尾州茶屋家には江戸時代に徳川幕府に提出されていた代々の「由緒書(ゆいしょがき)」(出身及び経歴書)が残されています。
 茶屋家は、後藤家や角倉(すみのくら)家と並んで、江戸初期の京都の三大長者の一つに数えられ、豪商としても知られていますが、前述のように、そのルーツは清和天皇の流れをくむ源氏の末流で、武士の血が脈々と流れていたようです。初代・茶屋四郎次郎清延は、若い頃から徳川家康の側近として仕え、家康の天下統一を助けるために重要な働きをしました。家康は京都に来られると、茶屋四郎次郎清延の邸(やしき)に泊まるのが常でした。清延は徳川家康とともに数十回合戦(かっせん)(戦争)に出陣(しゅつじん)したという記録からも、商人であると同時に、勇敢な武士としての側面が浮かび上がってきます。そして、こうした茶屋家と徳川家の深いつながりは、何代にもわたって続いていくのです。
清延の功績のうち、最も広く知られているのは、家康の生涯最大の危機といわれる「伊賀越(いがご)え」を助けたことです。天正101582)年、本能寺の変(明智光秀(あけちみつひで)が織田信長に謀反(むほん)を起こした事件)で信長が自害するという大事件がありましたが、当時、堺に遊びにきていた徳川家康にこの事件の情報をいち早く伝え、危機を知らせたのが茶屋四郎次郎清延でした。
 堺に鉄砲の買い付けに来た帰りで、十分な軍備もなく、側近数名を連()れただけだった徳川家康は、三河岡崎(愛知県)の自分の城に帰らねばなりませんでしたが、そのためには、山賊(さんぞく)や忍者が出没(しゅつぼつ)する伊賀(三重県)の山道を通らねばなりませんでした。これが、家康生涯最大の危機とされる「伊賀越え」です。当時の伊賀には、「本能寺の変」の情報がすでに伝わり、極めて危険な状態でした。十分な武装もなく、少人数だった家康一行にとっては命がけの旅でしたが、茶屋四郎次郎清延は、山賊、盗賊と化した伊賀の落武者や村人たちに「家康様のお通りである」といって、あるときは銀貨(ぎんか)を配って話しをつけ、またあるときは脅(おど)して道を開けさせるなど、あらゆる手段で道中の安全を確保してまわり、おかげで家康は無傷(むきず)で三重県の白子の浜より船で岡崎城(愛知県)にたどりつくことができました。この功績により、清延は家康の命の恩人といわれています。もし、清延の助けがなく、家康が殺されていたら、その後の徳川幕府創設もありえず、日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
 織田信長が亡くなって、豊臣秀吉の天下になると、茶屋四郎次郎清延は豊臣秀吉と家康の間を取り持ち、京都の情報を収集して家康に伝える役目を果たしました。このように、清延は、その情報収集能力、分析力、問題を発見し解決する能力によって、家康の天下統一を陰で支えていったのです。
 茶屋家の二代目にあたる茶屋四郎次郎清忠(きよただ)も、家康に仕え、京都において町人の掌握(しょうあく)に努めるなど、国内の治安維持に尽力(じんりょく)していました。そして、三代茶屋四郎次郎清次(きよつぐ)は家康の許しを得て御朱印船貿易を始め、安南国(ベトナム)との交易を行うなど、江戸時代初期の日本の国際化の一翼を担いました。尾州茶屋家により同家の菩提寺(ぼだいじ)である情妙寺(名古屋市)に寄進された前述の「茶屋船交趾渡航(ちゃやぶねこうちとこう)貿易絵巻」は、当時の海外貿易の様子を知るための貴重な文化遺産として、愛知県の指定文化財となっています。この絵巻から、茶屋船の乗組員は総員三百余人。尾州茶屋家二代目の茶屋新六郎(しんろくろう)が、交趾国の国王に貢物(みつぎもの)を献上するところが描かれています。
 その後、茶屋家は京都の本家、尾州(名古屋)の新四郎家(しんしろうけ)、紀伊の小四郎家(こしろうけ)に分家をしました。尾州、紀伊でもそれぞれのお側役と出入商人として徳川家につかえ、江戸(東京)にも屋敷を持ち(茶屋家の江戸屋敷跡地は、現在の日本銀行本店の所在地附近です)、公儀(こうぎ)(幕府)呉服師として将軍の側近御用なども務めました。また、尾州(名古屋)の茶屋新四郎長吉(ちゃやしんしろうながよし)は、尾張徳川家に仕え、さまざまな事業に携わりました。御朱印船貿易も手掛けていましたが、鎖国後、海外貿易ができなくなってからは国内の新田開発も行いました。名古屋市港区には茶屋新田・後新田(ごしんでん)という地名が今日まで残っており、その広さは64万5千坪(212850平方メートル)という、名古屋市の1つの「区」が丸ごと入るほどの巨大な規模のものでした。
 現在、名古屋城近くの尾州茶屋家の屋敷跡には、学校法人茶屋四郎次郎記念学園名古屋福祉保育柔整専門学校が創立され、このような先祖の偉業が称(たた)えられています。


茶屋船交趾渡航(ちゃやぶねこうちとこう)貿易絵巻(愛知県指定文化財 名古屋市 情妙寺蔵 71.8cm×511.7cm)


3 時代の変化と茶屋家の衰退

 江戸時代、代々徳川幕府の御用を勤め繁栄を築いた茶屋家でしたが、江戸時代が終わり、その後の時代の推移(すいい)とともに衰退(すいたい)の道をたどることになります。その当時、あまりに幕府に親密で特権商人として幕府とともに歩んできた茶屋家としては、しかたのないことだったかもしれませんが、それはひと言で言えば、新しい時代の流れや変化に対応できず、ついていけなかったということです。当時、同様に繁栄した商家で、なお明治維新後今日まで続いた三井家(三井銀行、三越デパート、その他)、住友家(住友銀行、住友鉱山、その他)、名古屋の伊藤家(松坂屋や東海銀行を創立)などの活躍とは対照的で、武家出身の茶屋家は、三井家、住友家、伊藤家という庶民感覚と商才に秀でた商家とは全く異なっていました。
 茶屋家は、明治になると、幕府からの禄(ろく)という収入源が途絶え、長く遺産を売って食いつないでいる状態でした。中島博士の両親は、名門茶屋家の血筋であるという誇りをもって真面目に誠実に生きておりましたが、第二次世界大戦の空襲で焼け出され、先祖伝来の遺産や土地をほぼ全部失うなどの災難が続き、中島博士の代には、歴史的な功績のある茶屋家の子孫であるという事実が残るのみでした。

 ところで、中島恒雄博士の母・中島範(のり)学校法人茶屋四郎次郎記念学園理事長の伯父にあたる八木冨三氏は、戦前の名古屋の有力な財界人でした。八木氏は、名古屋ゴルフ倶楽部和合コース(中日クラウンカップトーナメントが開かれることでも有名なチャンピオンコースであり、東海地区で最も古く由緒のある、名門のゴルフ場)の初代理事長でもありました(ちなみに同倶楽部の2代目の理事長は、松坂屋の創業者である伊藤次郎左衛門氏です)。なお、八木家はその後、後継ぎが絶えて分家が残るのみとなっており、本家は存続していません。また、中島範の父親(中島博士の母方の祖父)は、三和銀行(現UFJ銀行)系の銀行の頭取をつとめていましたが、この銀行は大正末期の経済恐慌の時につぶれてしまいました。このように、名門といえども、新たな時代の変化に対応できずついていけない家や企業は、やがてつぶれていく運命にあるのです。
 この当時の茶屋中島家は、江戸時代に比べて衰退したとはいえ、まだ名家としての名が通っていたので、先代中島修氏(中島恒雄博士の父)は、当時の名家の血すじにあたる令嬢・中島範を夫人に迎えることができたのです。


尾州茶屋家跡を示す名古屋市教育委員会作成の立て札(左)と現在その跡に立つ
名古屋福祉保育柔整専門学校(上)




4 教育が人生を切り開く


フォーダム大学で取得した教育学博士学位記

指導教授バラッタ博士とともに
(フォーダム大学教育学大学院卒業式にて)

 世界の民族のなかで、もっとも教育熱心な民族のひとつとして知られるのがユダヤ人です。ユダヤ人は歴史上、中世の頃も世界の至るところで宗教的な理由で迫害を受けてきました。第二次世界大戦前もナチスに追われ、身一つで命からがらアメリカなどへ移民あるいは亡命したユダヤ人も大勢いました。彼らユダヤ人はそうした移民先の国でも何が何でも教育だけは受けようとし、まず最初にその国の良い学校に行き、良い教育を受けることを第一に考えました。そこにはユダヤ人が生き抜くための知恵として、自分の身に付けた教育だけは「奪われることがない」という考えがあるからです。たとえその国の政権が変わって、すべての財産を没収されたとしても、受けてきた教育と知識だけは盗まれたり奪われることはありません。そういう意味では、良い教育を身につけることこそが「本物の財産」であり、人生を切り開いてくれるものなのです。
 前述の八木冨三氏はじめ母方の縁者には慶應義塾大学出身者が多く、また東京大学の出身者も少し含まれていましたが、中島修氏とその兄弟と親戚の多くは早稲田大学を卒業しています。故・中島修氏は、健在であれば92歳になりますが、現在の早稲田大学商学部を卒業しました。また、中島範理事長は大学の専攻科(現在の大学院にあたる)を卒業しています。
 中島博士は、このような教育を受けることの大切さを両親から学びました。教育熱心な家庭に育ったことが、その後中島博士が教育界で身を立てていく原動力になったようです。
 青年期にさしかかった中島博士は、「士魂商才(しこんしょうさい)」にあこがれ一橋大学の経済学部を目指していました。「士魂商才」つまり、武士としての誇りを持ちながら商人として社会的に成功する才能がある、という意味なのですが、世の中はそれほど甘くなく、実行はなかなか難しいことです。そして、大学受験に失敗して結果としてはその夢がかなわず、一時は大学進学をあきらめようと思ったこともありましたが、やはり大学を卒業しないと将来困ると周りから説得され、思い直して学習院大学法学部法学科に進学したのです。
 名門の家を何とか再興したいと願い、内心は「世が世ならば」と思いながらも世間に恥だけはさらしたくないと考えていた両親の姿を見るにつけても、中島博士にはなんとか世の中の役に立ち、奉仕しながら自己実現を図る道はないものかという焦
(あせ)りにも似た気持ちが常にありました(中島博士本人は、茶屋四郎次郎の17代目の直孫にあたることを、中学生の時に初めて知ったとのことです)。財産こそなかった中島家ですが、「継続は力なり」「身に付けた教育や知識は誰にも奪われない」という考えを持つ父親中島修氏のスパルタ式教育の下で、中島博士はあらゆるものに努力を続けました。スポーツの分野では、小・中学校の時には水泳部で活躍し、高校・大学では柔道部に所属し、柔道の技が上手であったわけではありませんが、とにかく継続は力なりとけいこを続けていましたその後柔道は32歳まで続け、最終的には講道館で四段をとるに至っています。また、勉強の分野では、ラジオでNHKの「英語会話」を毎朝6時15分から聞き続けるなど、英語を重点的に勉強しました。本当は勉強したくなかったそうですが、厳しかった父親に無理やり朝早くたたき起こされ早朝の勉強を強制されたのです。しかし、それが結果としては中島博士の米国留学、つまり、上智大学と同じキリスト教系の一流大学であるフォーダム大学教育学大学院での教育学博士号取得につながっています。中島博士は後に、自分が学校経営者として、さらに教育学博士として新しい未来を切り開けたのは、やはり、そうした父の厳しい鍛錬のおかげであり、40歳代後半になり、やっと心から感謝の気持ちを持てるようになったと述懐しています。


5 教育者としてのスタート
 1968(昭和43)年2月、21歳の中島博士は両親に借りた5万円を資本金として、自分が借りて住んでいた東京の豊島区雑司が谷の4畳半のアパートに、英会話サークル「英会話を楽しむ会」の事務所を設立しました。これが小さな学校経営者としての中島博士のスタートでした。当時の大卒初任給が3万円弱だったそうですから、まだ大学生だった当時の中島博士にとっては大きな決断でした。20歳代の若輩で、地位も後ろだてもなく、それまで目立った業績を持たず、自分が得意だった英会話以外には取りたててこれといった才能を見出せなかった中島博士は、教育の分野で身を立てるという目標を立て、自分自身他にとるべき道はないと思えたからこそ、ここまでの決断ができたのでしょうか。
 この「英会話を楽しむ会」から始まり、各種学校の設置認可、専門学校の設置認可を経て、2000年4月の東京福祉大学創立、2003年の同大学大学院修士・博士課程の開設までの道のりは、決して平坦なものではありませんでした。
 その当時、新聞のサークル欄に投稿して50名の生徒を募集したところ、最初はたったの3名しか集まらなかったこともありました。英会話サークル時代から今日に至るまで、中島博士の学校経営は苦難の道のりで、「汗と涙」の連続でした。
 東京のアパートの一室を事務所にして公民館で授業を行った時代から6年程たった27歳の時、少し進歩して、その近所の東池袋の雑居ビルへ移り、全部で11坪の教室と事務所を借りました。そのビルの窓からは、当時の日本一の高層ビルだったサンシャイン60ビルが見え、中島博士は「俺もいつかは、あのビルに入居するぞ」と決心したのです。当時は英語学校としての規模が小さく、資金もままなりませんでした。そして中島博士が31歳でサンシャイン60ビル9階に、当時貸してもらえる最低の坪数であった40坪を借りて入居するまでには、金銭的にも大変な苦労がありました。少子高齢化の現在も過去も、どの時期にも語り尽くせぬ苦労があり、それを乗り越えた時の喜び、嬉しさを楽しみとする毎日だそうです。

ハーバード大学


フォーダム大学大学院(ニューヨーク市)

 それまで効果的な語学教育方法を模索してきた中島博士ですが、やっと小さな専門学校を東池袋に創設した36歳の時に、大きな決断をします。それは、今まで学んで来た英語の力を本場でさらに磨きつつ、効果的な教育方法を大学院で研究し本物の教育者となるために、米国留学をすることでした。日本では、37歳にもなった事業家が、さらに42歳までの5年間も外国の大学院で高等教育を受けることなど、ほとんどなかったと言っていいでしょう。中島博士と同様に塾や専門学校などを経営される立場の学校経営者の方からみれば、この行動はおどろくべき突飛なものだったに違いありません。 中島博士は、「良い教師は良い学生」でなくてはならないと常に考えています。良質の授業を提供する学校を経営することに専念していた当時の中島博士は、教員に学び続けろといいながら、自分は十分に勉強ができているのか、どうなのだと自問を続ける日が続いたといいます。当時、中島博士は大学は卒業していたものの、大学に通って自分の能力が伸びたとはあまり実感できませんでしたし、その頃の日本の大学はレジャーランドと化しており、学生の能力を伸ばす教育方法など、ほとんど考えられていなかったのです。
 そこで、効果的な教育法を研究するために、上智大学と同じローマ・カトリックイエズス会系でニューヨーク市にある、名門フォーダム大学教育学大学院の修士課程へ留学しました。 そこでの一外国人留学生としての体験は、いかにアメリカの大学院教育が、徹底した努力を学生に要求し、人間の学問的な能力を鍛え上げるかということを実証する場だったといいます。修士課程のコースワークは慣れないながらも1年というかなりハードなスケジュールで無事修了したものの、博士課程は入学するところから最後の口頭試問にパスするまで、それこそ毎日教授たちから、いじめとも思えるほど寄ってたかって厳しく指導され、そのシゴキにも似た勉強に汗水たらして堪(た)え抜いて、心底疲れきった経験だったようです。42歳でついに博士課程を修了し、教育学の博士号を取得した時、様々な異なった教授の考え方や基準に適応できる、成長した自分を感じると同時に、「学んだら、自ら変化して良くならなければならない。それが教育である」ということを学んだといいます。(『新版できなかった子をできる子にするのが教育』ミネルヴァ書房刊、第W章私の信念「勉強のできない生徒はいない」参照)
 その後は、47歳の時にハーバード大学の招聘学者としてさらに「効果的な教育方法」について研究を深めるなどして、学生の見方、つまり学ぶ側の視点やレベルを常に忘れないようにしながら学生が学びやすい学校作りを目指した結果、運にもめぐまれ近年では、52歳で東京福祉大学を創立し、さらに55歳のときには大学院の博士課程まで創りあげることができたのです。通信教育によって働きながら「いつでも、どこでも、誰でも」学士や修士課程を修めることができる東京福祉大学と大学院は、現実の問題と現場の問題を学生が教授と共に学びながら考えることができる、理想の教育研究環境だといえるでしょう。

6 社会の役に立つ学問を目指して
 中島博士が口癖(くちぐせ)のように東京福祉大学及びグループ校の教職員に言って聞かせていることの一つに、「学問は、現実社会の問題を発見し解決する、応用が利(き)くものでなければならない」ということがあります。アカデミックでプラクティカル、つまり学問的で実践的な知識を提供することが高等教育機関の使命であり、そこで学んだ者はその学問的で実践的な知識を実社会に生かすことこそ当然の使命であるということです。これは中島博士がアメリカのハーバード大学等で研究し、自ら学んで身につけたことです。
もともと学問や理論は、現実におこる問題点とその解決方針を系統立てたものでなくてはならないはずですし、理論を良く学んだ上で日本国民が幸せになれるように現実の問題を解決する手段にしようという姿勢に疑問の余地はないはずです。ところが、米国留学から日本に戻った中島博士があらためて気がついたのは、日本では「学問」という言葉には、何か難しくて一般の人にはわからず、難解な専門用語だらけで学生にとってはわかりにくい、あたかも現実には何の役にもたたないものが高級な学問であるという誤解がつきまとっていることです。
 中島博士は初めからアメリカの優れた教育を受けていたわけではなく、修士・博士はアメリカで取りましたが学士は日本の学習院大学法学部法学科で取得しています。日本の大学でもっぱら教えられている、なぜだか複雑でわかりにくい学問上の理論は、説明している教授ですら自分の言っている意味がわかっていないのではないかと思われるようなものがほとんどでした。もちろん、身近な法律の知識などについては、役立ちそうだと実感ができたようです。そうしたなかで、学問は現実をより良く変えるための手段であり、実用的なものでなくてはならないのだとアメリカで初めて学んだのです。

毎年夏に行われる、ハーバード大学・フォーダム大学キャンパス
におけるアメリカ夏期短期研修。アメリカの最新の福祉に実際に
触れ、将来に役立つ勉強ができる。

 そして、ここ数年中島博士は、学生の学問の手助けになるようにと、高度な内容でもわかりやすく明快な文章で表わした学術書の執筆に勤(いそ)しんでいます。しかしながら、この明快な文章で学問の内容を一般の方々にもわかりやすい形で本を出版するという試みが、日本の学問の世界になかなか受入れられないのはどうしてでしょうか。中島博士は、日本の大学に国際競争力が生まれにくいのは、学問に携(たずさ)わる人々が自分の“狭い村社会的な考え”や時代遅れの大学組織運営方法にしがみついてきた結果なのではないかと考えています。学問が現実社会の問題とは関係のない、深遠で特別なものであるという間違った思いこみも、そのあたりから生まれてきたのではないでしょうか。
 また、日本の高等教育機関には、学生の能力を伸ばし、優れた能力を持つ人間に生まれ変わらせる教育システムが根付いていないことも、日本社会の大きな問題です。日本の大学院は、勉強したいという学生を入学させますが、入学した後は「勉強は学生の努力次第で、本人のやる気が大切である」という考えが根底にありますし、卒業までに学問ができるようになろうがなるまいが、それは「学生が勉強しないから」と、学生の責任とされがちで、大学は責任をとらされていないのです。しかし、アメリカの大学院では、授業は全日出席が基本ですし、ただ教室に座っていればいいのではなく、活発に発言したり質問したりしなければ良い成績がもらえません。もちろん、各科目とも1学期間(3か月)にレポート3本の提出が義務付けられており、4科目を履修すれば計12本ものレポートを何回も書き直しさせられて、完璧なものに仕上げねばならず、寝る時間もなくなるほど勉強を強制されます。さらに、別の視点からみると、アメリカでは普通、大学の学部を卒業してから、いったん社会に出て、社会人としての経験を積んでから大学院に入ります。社会福祉学なら福祉の現場、教育学なら学校教育の現場での自らの経験を踏まえて、現実に直面した問題をどうやって理論的に解決するかを大学院で学ぶわけです。一方、日本では、学部から直接大学院に進む人が大部分なので、学生が現実社会の問題を知らない、現実離れした非常識な人間になってしまう傾向があるのではないでしょうか。
 こうして、日本の大学院では、一部のよく勉強する人はするが、それらのひとにぎりの学生を除けば平均としては勉強せず、入学時より卒業時の方がかえって学力が下がって終わるのに比べ、アメリカでは学ぶことを厳しく強制する結果、平均としては良く勉強する学生が多いということになります。1学期ごとに、1年ごとに、学力がかなり伸び、卒業証書を手にする時は、人が変わったように優秀になっているのです。


ハーバード大学学芸大学院 アート&サイエンス
院長とともに(夏期短期研修にて)

 中島博士が42歳の時米国で取得した学位は、教育行政管理学の博士号です。その研究内容は、『できなかった子をできる子にするのが教育』(ミネルヴァ書房刊)にもまとめたように、日本人への効果的な教育方法、効果的に学べる教育機関についての考察を深めたものでした。博士論文を書き上げて帰国した後の中島博士は経営者としての業務に追われていましたが、忙しい合間をぬって教育方法論や大学教育改革への提言を、わかりやすく明快な日本語で発表しました。例えば『二十一世紀の大学教育改革』(ミネルヴァ書房刊)では、中島博士は教育界への問題提起とその解決方法を明快に提示しています。それらが多くの教育者にも読まれ、また、文部科学省の推進する大学教育改革についても、いわゆる大学審議会「21世紀答申」等にその影響がみられます。さらに、提唱された教育方法が、実践的で効果的であることは、中島博士の理想に基づく教育システムの学校から、確実に優秀な人材が育っていることが証明しています。
このように、複雑で激変する今日の社会では、何が問題でそれをどう解決すればいいかを発見する能力、つまり、問題発見や解決能力が求められています。
他人の異なった考えを理解できるようにするためには、1人の教授のみに付き従って教えを乞い、恩師の学説のみが正しいと思い込むのではなく、異なった人生経験、学歴、バックグラウンドなどをもつ複数の指導教授からそれぞれの異なった考え方に基づいて教わる教育システムが大切です。今後は日本の大学・大学院にもそのような、新しい優れた教育指導体制が必要なのです。そして、教育方法をもっとわかりやすくし、学生の能力を高めるための思考力、理解力、読解力、作文力などを育成するシステムが必要です。複雑な国際社会で日本が生き残るためには、このような時代の変化についていける能力を備えた人材育成が不可欠なのです。
中島博士が総長を務める東京福祉大学やグループの専門学校では、これらの能力を伸ばすためにディスカッションを通じて学生が主体的に参加できる、まさに「ソクラテスの問答方式」の授業を学生に提供しています。日本の大学には、異なったバックグラウンドを持つ複数の人々との対話で他人の意見に耳をかたむけ、「自分が無知であること」を悟ることにより自分の考えをさらに磨くという方式があまり取り入れられていません。たいていの人は、自分の恩師の先生一人だけの学説が正しいと思い込み、他人の意見を雑音として無視したり、排除すべき異物として攻撃しようとするのではないでしょうか。しかしながら、価値観の多様化や社会変動の激しい現代の日本でこそ、他人の意見や書物の知識を新たな情報源として理解し、その中から最も良い解決方法を見出すという学習方法を身につける意義があるのです。


7 毎日の学びの中で

現在、中島博士はほとんど毎朝4時頃に起きて、勉強や執筆の時間を取るようにしています。高齢者福祉、保育福祉(『保育福祉要説』中央法規出版、2003年9月刊行予定)など、福祉に関するテーマについては、学生、そして一般の人にわかりやすい本を作るために自ら勉強して次々に執筆しているのです。現在刊行されている主な著作には、『二十一世紀の高齢者福祉と医療−日本とアメリカ−』、社会福祉の総論として『社会福祉要説』(共にミネルヴァ書房刊)が挙げられます。
元をたどれば中島博士は、中学時代に朝のラジオ英会話を聴き続けたことから始まり、37歳で米国大学院留学、そして現在は著述と学校運営の両方に邁進(まいしん)するなど、50代半ばの現在に至るまで学び続ける毎日を送っています。中島博士はその原動力について、先祖が名門であるというプライドだけで生きていくことは自分は決してしたくなかったので、と話しています。さらに、一つの難関を突破したから、たとえば「良い大学に合格したから」、「博士号を取得したから」人生すべてが良くなるわけではないと信じているので、絶えず新たな目標と努力が大切なのではないかと自分に言い聞かせていたそうです。そして、実は人一倍劣等感を抱えていたこともあったからといいます。しかし、財産のない名門という背景も、自分は要領が良くない、他人が優秀でよく見える等、人一倍抱えていた様々なコンプレックスさえも、失敗を繰り返しながらの「汗と涙」の努力でプラスに変え、結果的には大きな仕事を成し遂げていったのです。
 中島博士は、常々、学問はスポーツの訓練と同じと話し、自らの実績を培(つちか)いそれを支えた地道な一歩一歩の日頃の努力のみを誇りに思っています。そして、日本を明るく良くする道は、時代の変化に対応できるこのような21世紀型の教育だけしかないと信じており、これからもわかりやすい効果的な教育を通じて優秀な人材を養成するという社会貢献への努力を、惜しまずに続けることでしょう。

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