ドーキンスの利己的遺伝子説を、誤解している専門家が多い。
彼らは「素人はドーキンスを誤解している」とだけ主張して、自分たちがドーキンスの説を誤解していることを理解できない。
そこで、彼らがどういう勘違いをしているかを、指摘しておこう。
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ドーキンスの利己的遺伝子説は、世間で広く知られているとおりだ。「個体は遺伝子の乗り物である」というドーキンスの(擬人的な)表現で示されているとおりである。
世間で理解されていることは、おおむね、本質を突いていると考えていい。というのは、人々は、ドーキンスを読むよりは、その解説書を読んでいて、その解説書を書いた人は、ドーキンスを正しく読み取っているからだ。
ドーキンス → 正しい理解者による解説 → 一般人
という経路があり、これでおおむね、正しく理解されている。
しかしながら、一部の専門家は、ドーキンスの原著(和訳)を読んだとき、その意図を誤読してしまう。ドーキンスの原著はやたらと分量が多くて、論旨もごちゃごちゃと入り組んでいるせいで、そこに書いてある全貌を理解するより、そこに書いてある逐次的な語句ばかりを読んでしまうのだ。そのせいで、局所的な理解しかできなくなる。(虫瞰的とも言える。鳥のように全体像を理解できず、目先しか理解できなくなる。)
つまり、専門家であるほど、物事の本質を理解できない、というふうになる。
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専門家の誤解の最たるものは、次の解釈である。
「ドーキンスの学説は、集団遺伝学を言い換えただけだ。ただの比喩にすぎない」
具体的な例を引用しよう。(専門家の言葉。)
第一に、利己的遺伝子という考え方は比喩であり、仮説でも理論でもない。第二に、遺伝子にとって有利な性質が進化する考え方は、ドーキンスが初めて提唱したわけではない。利己的遺伝子という言葉は、ドーキンスが自然選択(自然淘汰)の働き方を理解しやくするために考え出した比喩であり、一つの物の見方なのである。これはれっきとした専門家の見解である。
しかし、現在日本ではこの比喩のみが強調され、遺伝子そのものが利己的な意思をもち、人間の行動も遺伝子の利己的なふるまいに操られているといったように、誤って伝わっている。
( 河田雅圭・東北大助教授 ──「Newton ニュートン」 1999年 3月号 86-91 ページ )( → 該当サイト )
この主張に従えば、次のような評価が出る。
・ ドーキンスの学問的な意味は、集団遺伝学と等価である。
・ ドーキンスの独特の価値は、比喩だけにある。
・ ゆえに、ドーキンスの学問的な成果は、ゼロに等しい。
このことは、要約すると、次のように言える。
「ドーキンスの言っていることは、まったく正しいが、彼独自の学問的成果はゼロである。」
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以上が専門家のあいだでかなり広く支持されている見解だ。(特に、遺伝子関係や分子生物学の研究者。)
しかし以上の解釈は、まったくの誤解である。それはドーキンスを過小評価している。ドーキンスはそれほど愚かではない。彼はまさしく偉大なる独自の業績をなしたのだ。非常に偉大な業績を。
それがどんな業績であるかを、本項では示そう。
( ※ 直感的に言えば、「それまでは説明できなかったことを見事に説明した」という業績がある。)
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まず、大事なことを示そう。ドーキンスの業績は、集団遺伝学ではない、ということだ。ドーキンスの業績を評するとき、集団遺伝学ふうに解釈して、
「『増えるものは増える』ということを、比喩で言い換えただけだ」
と述べる専門家もいる。しかし、それはひどい勘違いだ。なるほど、ドーキンスは、そういうことも述べている。つまり、集団遺伝学のことを話している。しかし、それは、彼の主張ではない。彼の主張の根拠として、集団遺伝学を利用しているだけだ。
( ※ 比喩的に言うと、物理学者は微分学を利用するが、単に利用しているだけであって、微分学を主張しているのではない。そこのところを勘違いしないように。)
ドーキンスは、集団遺伝学を利用しながら、別のことを主張している。では、何を?
ここで、結論をいきなり言う前に、その分野を示そう。分野は、こうだ。
「ドーキンスの業績は、動物行動学の分野である」
これが正解だ。彼は、動物行動学の分野で画期的な業績を上げたのだ。集団遺伝学の分野で業績を上げたのではないし、文学的な比喩の分野で業績を上げたのでもない。
ここのところを勘違いしないようにしよう。利己的遺伝子説とは何かを理解するには、それが動物行動学でどういう業績であるかを理解する必要がある。あくまで動物行動学の分野なのだ。
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こうして、分野が集団遺伝学ではなく動物行動学であることがわかった。その上で、どういう業績であるかを見よう。
まず、Wikipedia の「利己的遺伝子」の説明を、ちょっと覗いてみよう。
「利己的」とは「自己の生存率を他者よりも高めること」と定義される。「利他的」とは「自己の生存率を損なってでも他者の生存率を高めること」と定義される。つまり利己的行動とは自己の生存率を高めるような行動と定義され、利己的遺伝子とは遺伝子自身の生存率を高めるような行動を促す遺伝子であると定義される(生存率には繁殖成功率も含める)。簡単にまとめると、こうなる。
( → Wikipedia「利己的遺伝子」)
「利己的とは、自己の繁殖率を他者よりも高めることである」
なるほど、これは、間違いとは言えない。しかし、これをもって「利己的遺伝子説」の本質を示していると思ったら、大間違いである。ここには、一番肝心のことが記していない。
比喩的に言えば、「中身のない卵」である。見かけ上は、殻があるので、卵に見えるが、肝心の卵の中身がない。こんなものはまったくの無意味だ。
( ※ Wikipedia はアテにならない、としばしば言われるが、ここでも露見している。)
仮に Wikipedia の解釈を取るとしよう。だとしたら、ここでは用語が新たに定義されていることになる。だったら、用語をどういう呼び名で定義してもいいことになる。ここではたまたま「利己的」という言葉にしたが、同じ内容を、別の言葉で呼んでもいいことになる。数学の公理主義にならえば、同じ内容を「机」と呼ぼうが「直線」と呼ぼうが、何でもいいことになる。もちろん、「利他主義」と呼ぼうが構わないことになる。
しかし、そんなことはない。つまり、上記のように、いきなり冒頭で定義することは、許されないのだ。
Wikipedia の定義が成立するとしたら、それは、前述の「専門家の解釈」を取った場合だけだ。つまり、「ドーキンスの業績はゼロだ」という解釈を取った場合だけだ。
しかし、そんなことはない。したがって、Wikipedia の定義もまた許されない。(はっきり言って、間違いである。)
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ドーキンスの業績がどんなものであるかを知るために、まずは歴史的に見てみよう。次のようになる。
(1) ダーウィンの個体淘汰説
自然淘汰において、優秀な個体は子孫を多く残し、劣った個体は子孫をあまり残さない。
これで多くの場合を説明できるが、例外もある。たとえば、個体の「利他的行動」を説明できなくなる。例は、ミツバチで「自分の子でなく妹を育児すること」。このことをダーウィン説は説明できない。
(2) ハミルトンの血縁淘汰説
自然淘汰において、自分の子を残さなくても、血縁関係にある近親者を残せば、そのことが有利になる、と考える。ミツバチで言えば、自分の子を残すのが最善だろうが、自分の子を残さなくても、自分の妹を残せば、自分の血縁が残るので、有利である。特に、自分の妹は、血縁度が 75%であり、とても有利である。(自分自身は血縁度が 100% で、自分の親と子は血縁度が 50% だが、自分の妹は血縁度が 75% となる。ミツバチでは。……詳しくはネットなどで調べるといい。)
(3) ドーキンスの利己的遺伝子説
ハミルトンの血縁淘汰説と同じことを、「利己的遺伝子」という概念で簡単に統一的に説明する。ハミルトンの血縁淘汰説ではやたらと面倒臭い数式が使われているが、同様のことを簡明に説明する。しかも、適用範囲がずっと広い。簡単な概念(原理)で、広い範囲に適用できる。……それゆえ、真実としての重みがある。
まとめると、次の通り。
・ ダーウィンの説では、利他的行動を説明できなかった。
・ ハミルトンの説では、利他的行動を説明できた。
・ ドーキンスの説では、同じことを簡明に統一的に説明できた。
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以上が、動物行動学の分野における、ドーキンスの業績の説明だ。そのポイントは、「利他的行動」である。
ダーウィンの説は、「利己的行動」を原理としていた。だから、現実に利他的行動が現れると、うまく説明できなくなってしまった。こうして、ダーウィン説は壁にぶつかった。
ここで、ハミルトンは、「血縁淘汰説」という説を導入した。なるほど、その説によって、ミツバチの利他的行動を説明できた。しかし、それは、ミツバチの利他的行動を説明できても、一般的な原理とはならなかった。なぜなら、普通の利己的な行動を説明できないからだ。利他的行動に限定された、局所的な理論であり、一般性がなかった。
そこで、ドーキンスが「利己的遺伝子説」という説を導入した。これによって初めて、すべてを体系的に説明できるようになった。個体の利己的行動も、ミツバチの利他的行動も、すべては「遺伝子の利己的行動」ということで、統一的・体系的に説明できるようになった。
だから、ドーキンスの業績は、次のようにまとめることができる。
「利他的行動を含めて、生物の行動を、統一的・科学的に説明したこと」
こういう科学的な業績があるのだ。それまでの学問では科学的に表現できなかったことを、見事に科学的に表現できるようになった、という業績が。
こうして、わかっただろう。彼の業績は決して、文学的な業績ではなく、科学的な業績だ。また、その業績は、集団遺伝学の業績ではなく、動物行動学の業績だ。特に、動物の「利他的行動」における業績だ。
これがドーキンスの業績である。
( ※ その業績は、いわば、古代における「天動説」の提出に等しい。それまで、「空はなぜ動くのだろう」と不思議に思っていた人々に対して、「空は地球を中心にして回転しているのだ」という説(天動説)が現れた。この説によって、ほとんどすべてのことが見事に説明されるようになった。また、将来の予想もできるようになった。「二時間後にはこうなるだろう」というふうな。……こういうふうに、体系的な科学的な理論を構築したわけだ。)
( ※ ハミルトンの位置づけは、「相対性理論に対する、ローレンツ変換」である。それは、のちに出現する統一的・体系的な理論の一部分にすぎない。ただし、局所的に見れば、先んじて同等の結論を出したように見える。)
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ドーキンスの業績の本質は、「科学的な説明」にある。
では、どういう点で「科学的」なのか? そのことを詳しく見よう。以下では、歴史的に見るのでなく、本質的に見ることにしよう。
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科学的な発想とは何か? ここでは、私の見解は述べない。しかし、歴史的には、次のような発想が主流であった。
「利己的にふるまうことが有利である」
これは「利己主義」を原理とする発想である。その発想は、至るところに見られる。
最も有名なのは、経済学における、アダム・スミスの「(神の)見えざる手」という概念だ。「市場の各人が利己的にふるまうと、そのことで市場は最適化される」という発想だ。
現代の経済学も、これを基本として理論を構築するのが普通だ。特に、(ケインズは別だが)古典派ないし新古典派と呼ばれる学派はそうだ。具体的には、マネタリズムやサプライサイドなど。
生物学においても、ダーウィン説や利己的遺伝子説はそうだ。ここでは、「個体の利己主義」「遺伝子の利己主義」という違いはあるが、あくまで利己主義が基本としてある。そして、利己主義を基本とすることで、科学的な説明が可能となった。
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生物学においては、「利己主義」という概念は、もともとその言葉の字義通りに解釈される。決して Wikipedia のように、新語として定義されるわけではない。あらかじめ「利己主義」という用語があって、それに合わせて、生物学における用語を微修正しているだけだ。
では、ドーキンスの独自の業績は、どこにあるのか? 次のことだ。
「(遺伝子の)自己複製を利益だと見なす」
ここでは「自己複製」という概念が出る。このことに着目しよう。
ドーキンスは原著において、「自己複製」という言葉を口がすっぱくなるほど繰り返し強調している。なぜなら、そこに彼の業績の独自性があるからだ。
彼の業績の独自性は、集団遺伝学なんかではない。「自己複製」という概念を基本概念として導入したことだ。その上で、「自己複製」を、「利益」と同一視した。……ここに彼の独自性がある。
( ※ さらに、「遺伝子」を主語にしたことも。)
「自己複製」を(自己の)「利益」と見なす、というのは、一つの仮説である。それが正しいかどうかは、それ自体では何とも言えない。あらゆる仮説がそうであるように。
ただし、その仮説を採ると、さまざまなことが体系的に統一的に説明できて、事実に合致するのであれば、その仮説は真実と見なされる。それが科学的な態度だ。ドーキンスもまたそういう立場を取った。
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自己複製を利益だと見なしたら、そのあと、どうするか?
ここで、「利己主義」という概念と組み合わされる。
・ 「自己複製は利益だ」という概念。
・ 「主体は自己の利益を増すために行動する」という概念。(利己主義)
この二つの概念から、次のことが結論される。(三段論法)
「主体は自己複製のために行動する」
( ※ 主体 = 個体 ,遺伝子 )
こうして、Wikipedia の内容と同じことが結論された。
つまり、Wikipedia の内容は、天下り的に示される定義ではない。それは定義ではなくて、定理である。そして、その定理を導くための根源にあるのは、上記の二つの概念だ。
・ 「自己複製は利益だ」
・ 「主体は自己の利益を増すために行動する」
この二つのことが根本にある。
逆に言えば、この二つを根本として、利他的行動などを体系的・統一的に説明したのが、ドーキンスの業績だ。
彼はこうして、まさしく動物行動学の分野で、大きな業績をなした。それは「物事全体を科学的に表現する」という業績だ。「どこかの未解明のタコツボを一つ埋める」というような業績ではなくて、「進化論的な動物行動学全体を統一的に説明する」という業績だ。
( ※ 比喩的に言えば、「相対論を構築する」とか「量子力学を構築する」とかいうふうに、学問分野全体を統一的に示す業績だ。ケチな局所問題の解決ではない。まして、ただの文学的な比喩なんかではない。)
( ※ ただし、タコツボ的な問題を扱うような専門家に限って、ドーキンスの広範な業績を正当に理解しないまま、ドーキンスの業績を過小評価する。)
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まとめ。
・ ドーキンスの業績は、集団遺伝学の業績でもなく、文学的比喩でもない。
・ ドーキンスの業績は、動物行動学における業績である。
・ その業績は、利他的行動の説明である。
・ 彼は利他的行動も含めて、動物行動を統一的に説明した。
・ その独創性は、「自己複製を利益と見なす」ということにあった。
・ また、「自己複製の主体を遺伝子にする」ということもあった。
・ この二つのことで、個体の利己主義における矛盾を乗り越えた。
・ 利己主義による説明なので、あくまで科学的立場を守った。
[ 付記1 ]
以上のように、彼の業績は、まさしく輝かしい業績だ。それは、前にも述べたように、天動説に匹敵する業績だ。過去のまったく説明できなかった状況を、見事に統一できる状況へと、発展させた。それは実に偉大なる業績であった。(天動説同様に、根本的に間違っているとしても。)
[ 付記2 ]
ドーキンスの業績を「集団遺伝学」と「比喩」だけでとらえる認識だと、彼の主業績である「利他的行動の説明」が示せなくなってしまう。
利他的行動は、集団遺伝学では示せない。(遺伝子の増減は、個体の具体的な行動の種類を示せない。)
利他的行動は、ただの比喩ではない。ミツバチはまさしく利他的行動(らしきこと)をなしているのであり、それは決して比喩ではないのだ。
冒頭の専門家のような認識をしている限り、利他的行動については何も理解できないままとなる。ということは、ドーキンスについては何も理解していない、ということだ。
( ※ この件は、別項で詳しく論じる。)
[ 付記3 ]
「利己的」(エゴイスティック)という言葉を感情的に解釈して、「わがまま」「自分勝手」という意味合いでとらえる人もいるが、生物学的には得意そういうニュアンスは考えなくていい。
この言葉は単に字義通り、「自己の利益を増やそうとして行動する」というふうに解釈すればいい。
ただし、Wikipedia のように「自己の繁殖率を高めること」というふうに解釈するのは、結果的には間違いではないとしても、言葉の定義としては妥当ではない。
「自己の繁殖率を高めるようとすること」は、「利己的」という用語の概念と同じではない。だいたい、そのようなことを「利己的」と表現する必要もない。(どちらかと言えば「スケベ」とでも表現した方がマシだ。)
では、正しくは? 利己的であれば、自己の繁殖率を高めるようにふるまう、というだけのことだ。それは、より基礎的な概念(二つ)から論理的に得られる結論であって、用語の定義ではない。原理と定理とは異なる。ここを勘違いしないように。
[ 付記4 ]
Wikipedia の説明は、「これこれの現象を『利己的』と呼ぶことにしたから、遺伝子は利己的だ」というものだ。こんなことでは本末転倒である。定理から公理を導くようなものだ。馬鹿げた本末転倒。
仮にこんな方針が許されるとしたら、「これこれの現象を『机』と呼ぶことにしたから、遺伝子は机だ」とか、「これこれの現象を『直線』と呼ぶことにしたから、遺伝子は直線だ」とか、どのようなことでも結論できてしまう。メチャクチャの極み。
一般に、間違いを正しいと仮定した場合、あらゆる命題は成立してしまう。その典型。インチキ論理。
( ※ それというのも、「ドーキンスの説は、集団遺伝学を言い換えただけの比喩的表現にすぎない」という誤解をしたからだ。本当は「利己的」という概念こそ主なのだが、主客転倒した解釈をする。そのせいで、あとで本末転倒に結論してしまうわけだ。……こういう勘違いをするのは、一般に、「自分は利口だ」と自惚れた人々だ。)
[ 付記5 ]
本項ではあくまで、ドーキンス説を肯定的にとらえている。(科学史の一コマとして。)
ドーキンス説のどこが問題か、ということは、次項以降で示す。
→ 次項