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共戦の旅路 |
1月12日 |
名誉会長とのきのう・きょう・あした |
「常勝の空」を仰いで 「“中之島”だね」 「そうですね」 池田名誉会長夫妻は、その建物を見上げた。青銅屋根。赤レンガと白い花崗岩。大正時代の「ネオ・ルネサンス様式」が名高い、大阪市中央公会堂だ。愛着を込めて“中之島公会堂”とも呼ばれる。 ――29歳の夏だった。 ここで、愛する同志と一緒に正義を叫んだ。ここに、青春の不屈の金字塔を打ち立てた。ここが、学会の人権闘争の発火点となった――。 昨年11月、7年ぶり258回目の関西指導。その合間を縫って、名誉会長はカメラを手にした。 車中から捉えた公会堂は、悠然と、「常勝の空」に向かって聳え立っていた。 ◇ 昭和32年(1957年)の7月3日。池田名誉会長は、公職選挙法違反の容疑をかけられ、大阪府警に出頭した。事実無根の不当逮捕である。 7月17日。激怒した関西の同志は、中央公会堂で抗議の「大阪大会」を開いた。堂島川の対岸には名誉会長を陥れた大阪地検があった。音楽隊の必死の演奏が、拘置所内の名誉会長の独房まで届いた。 炎天下の正午過ぎ、出所。「開襟シャツに髪を整え、片手に扇子を持って、堂々と出てこられました。目に焼き付いています」と、その場にいた人は語る。名誉会長は直ちに伊丹空港へ。来阪する戸田第2代会長を出迎えた。 夕方6時、場内外合わせて約2万人の「大阪大会」が始まった。諸天の怒りは豪雨、雷鳴となり、一帯を覆った。 この日、この時――中之島の公会堂は、「常勝関西」の原点の地となった。 ◇ 「当時、東京から来はった幹部は冷たかった。“ニセモノ”も多かった。せやけど、戸田先生と池田先生は、全然違った」 「信心も折伏も御書も、師匠に対する姿勢も、言葉遣いも立ち振る舞いも全部、池田先生に教わりました。先生がこの関西で、“本物の学会”を作ってくださったんです」 堺の草創の婦人部が語る。 昭和27年(1952年)8月14日の夜。名誉会長の初の関西指導は、堺市内の座談会だった。「ものの始まり 何でも堺」と言われる堺は、「関西広布の始まり」の地でもある。 「人」は自然に育たない。一対一の直接対話で育てる。この単純で明快な道理を、名誉会長から徹底的に学んだ。 昭和43年の堺本部幹部会。会場の制約で参加できない人が多かった。堺婦人部は知恵を絞り、友のもとに走った。 「行ける人も行けへん人も花飾りを作ろう。『全員参加』で先生をお迎えしよう!」 白とピンクの花を、柱や窓にちりばめた。殺風景な体育館が手作りの花園になった。 その場で名誉会長は、「永遠に栄えゆく堺たれ」と訴え、学会員の基本中の基本を語っている。 「隣近所の交際を大切にしていきたい。学会といっても、しょせん学会員一人一人の生活、行動が基本です」 「学会員の行動いかんが、社会に大きく影響を及ぼします」 「各自の職場で立派に仕事をやりぬき、信頼を勝ちえ、尊敬され、見事な勝利者になることが、信心の偉大なる証明となります。それが大きく折伏につながっていきます」 どれも当たり前のことだ。だが、当たり前のことを貫く難しさを、知る人は少ない。 名誉会長は、貫いた。 同志も、続いた。 大地を這うような、地道な実践を貫いてこそ、晴れ渡る「常勝の空」を仰ぐことができるのだ。 関西の、そして堺の同志は、この鉄則を知っている。 |
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