脳内会話
テーマ:日記今日、某駅前のミスドで、不思議な会話を聞いた。
「お召し上がりですか?」
「帰ります」
シチュエーションやら、そこで通常、交わされる定型会話を考えれば、意味はわかる。
「店内でお召し上がりですか?」
「持ち帰ります」
しかし、略すにもほどがあるだろうと。
ほどというか、
「店内でお召し上がりですか?」
で大事な部分って、「店内で」なのに、そこを略してどうすんの? と。
しかも、
「帰ります」って、「持ち」を略しただけじゃん、と。
たぶん、店員は、「カウンターの前にいるのは、うちの客で、当然シチュエーションやらがわかっているから、疑問の部分、つまり「ですか?」あたりが伝われば、相手にすべて伝わる」ということを、無意識でも前提にしているのだろうし、客も「相手は店員で、当然シチュエーションやらは心得ているから、「帰る」の部分が伝われば、相手にすべて伝わる」ということを前提にしているのだろう。
何が言いたいのか、って言うと、この会話では、相手を一人の人間として意識しているんではなく、「客」「店員」という「カテゴリ」で対応しているんだ、ということ。
人間の脳みそって、情報処理量が多くなっていくと、当然のように、「端折る」ようになっていく。
他人を「カテゴリ」に区分して、「××な人」と十把一絡げに対応を流用するようになっていく。
この「××な人」ってのは、実在の人物じゃなく、その人の脳内に作り上げた、「仮想的な存在」なわけですよ。
で、たいていの人は、その「仮想的な存在」と会話をしちゃっている。
つまり、「自分の分身と会話している」んですよ。
うちは、たまたま演技の勉強をするようになって、「実在の存在との会話」との違い、ってのが意識できるようになった。
んでね、思ったんですよ。
確かに、一時期は「キモい」とか言われてたですよ。
でもね、それは子供のころ、お互いに自分の存在を確立しようと必死になっていた時期だったからなんだ、って気づいた。
だって、今、うちのことを「キモい」って言う人はいない。
少し前まで「キモいって言われてる」気がしていた。
その声は、自分の声だった。
自分で自分のことを「キモい」と思ってたわけ。
実際は、慕ってくれる人もいるし、才能を買ってくれる人もいる。
「どうせ、××って言われるんだ」と思っていた人に、思ってもみなかった声をかけてもらうこともある。
表を整えても、自分の分身と会話している限り、外部との和解はあり得ない。
外の人間に拒絶されてるんじゃなく、自分で自分を拒絶し、自分が外の人間を拒絶しているんよ。
愛されていないんじゃなく、自分で自分を愛していないだけの話。自分が外の人間を愛していないだけの話。
「ペニスついてる自分なんて、愛せない!」
そーか?
自分のことを「イグアナ」だと思ってるだけじゃないの?(>萩尾望都さんの「イグアナの娘」ね)
きついことをたくさん書いているけど、最近の若年GIDの子たちには、すごく同情しているんだ。
気づくことができない、ってことに。
大部分の人に必要なのは、女性ホルモンでもSRSでも、戸籍変更でもない。
人間関係の構築方法を学んで、再構築すること。
栗本薫さんの言う「コミュニケーション不全症候群」の治療だと思う。
そのために、うちは演技の勉強をすることを勧めたい(ってか、そういう治療法は実在するしね)。
あるいは、育ちなおし(だっけ? ロールプレイとして、赤ん坊のころから、やり直すというやつ)。
Juneを必要としていた人たちは、小説を書くことで自分たちを癒していたんだよね。
文章を書くということも、そういった事柄を昇華させるには有効な方法。
そりゃ、「薬を飲んでらくらくダイエット」みたいなのの方が、お手軽だよ。
だけど、それで問題が解決すると思う?
って話。
どうすれば自分を好きになれるか、って?
簡単だよ、笑顔で「おはようございます」って、周りの人に言い続けることさ。