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「仏国寺多宝塔の遺物は日本にある」(上)

 慶州・仏国寺の釈迦塔から発見された無垢浄光陀羅尼経(以下、無垢浄経)は、高麗時代に当たる1038年に納められたものだ、という研究結果が発表された。また、「慶州南山のある塔から出土した」ということが分かっている舎利盒など仏具一揃い(東京国立博物館所蔵)について、1925年に日帝が多宝塔を補修した際、不法に持ち出されたものだ、という主張も提起された。1966年に釈迦塔で発掘された「墨書紙片」と、釈迦塔から実際に発見された遺物を詳しく分析した結果だ。

 韓国木簡学会(チュ・ボドン会長)が23日に東国大で開催する月例発表会で、木浦大のチェ・ヨンシク教授と東国大(慶州キャンパス)のハン・ジョンホ専任研究員は、墨書紙片を分析した論文をそれぞれ発表する。二人の結論と論理的根拠は、かなりの部分が合致している。

◆多宝塔は1024年、釈迦塔は1038年に修繕

 国立中央博物館は昨年10月、墨書紙片は釈迦塔の補修に関連するものだと発表した。しかし、チェ教授とハン研究員は、国立中央博物館の発表に反駁し、「墨書紙片はそれぞれ、1024年の多宝塔補修記録と1038年の釈迦塔補修の事実を示す遺物だ」と主張。

 まず、問題の墨書紙片は、4種類の記録から成っている点に注目しなければならない。1024年の記録2種類(仏国寺無垢浄光塔重修記と重修形止記)と、1038年の記録2種類(仏国寺西石塔重修形止記と仏国寺塔重修布施名公衆僧小名記)だ。

 一般的に塔を補修する際、もともと塔の中にあった遺物はその場にそのまま置いておき、新しい遺物を追加した後でその内容を記録に残した。同じ塔を補修→再補修したのであれば、1024年に記録された遺物の中で重要なものは、1038年の記録にも当然なければならない。しかし、1024年の記録と1038年の記録を比べると、石塔内で発見された遺物に関して一致する部分はほとんどない。1024年の記録には、▲銅で塗金された盒子▲舎利8個▲純金の瓶▲塗金した函▲無垢浄経1巻▲無垢浄経9編が「元来」のものとしてあり、これに追加で▲銅製の容器▲各種の香を納めたと記されている。一方1038年の記録には、▲蘭と蓮を刻み込み蓮華の台座を備えた金堂(舎利の外函を指す)▲舎利47個が安置された緑色の瑠璃瓶▲木塔15個▲香が出土したと記されている。補修後の「追加品目」は、▲銀で作った鐘2個▲各種の香▲無垢浄光陀羅尼経1巻▲宝筺(ほうきょう)印陀羅尼経など、と記録されている。さらに、1966年に釈迦塔から実際に出土した仏具は、1024年の記録より1038年の記録に描写されたものと外形上一致するように見えた。

日帝強占期に慶州のある塔から出土したことが分かっている遺物。当時、骨董界で名の知られた小倉武之助が所蔵していたが、1982年に東京国立博物館へ寄贈された。最近、これらの遺物が1925年に仏国寺の多宝塔から発見されたものだという主張がなされている。写真は、(1)金で塗金した円筒形の舎利盒(2)青銅製の盒子(3)金銅経函。/写真提供=ハン・ジョンホ研究員

慎亨浚(シン・ヒョンジュン)記者

朝鮮日報/朝鮮日報JNS
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