日米捕鯨論争

_アメリカの捕鯨政策を考える_

    4年 松矢俊史

序章

一:捕鯨問題の始まり

(一):ストックホルム人間環境会議 

(ニ):捕鯨問題が起こった背景

(三):商業捕鯨のモラトリアム

ニ:日米捕鯨協議

(一):アメリカによる対日制裁

(ニ):各種産業の影響力

三:環境保護団体と世論

(一):世論の比較

(ニ):環境保護団体の行動

終章

序章

牛肉、豚肉などとは異なり、鯨の肉は日本人の食習慣と縁の無いものになってしまった。私自身の記憶では、幼少の頃に鯨の缶詰を食べたことがあったというくらいで、10年以上も前から鯨の肉は普段の食生活には縁の無いものとなっていた。それもそのはず、1982年にイギリスのブライトンで開かれた国際捕鯨委員会(以下、IWC)の年次総会において「1986年からの商業捕鯨のモラトリアム」が可決されたためである。現在のところ世界で行われている捕鯨は、_原住民の生存のための捕鯨_IWCの管轄外にある小型鯨類(ツチ鯨、ゴンドウ鯨など)の捕鯨_IWC非加盟国の捕鯨_科学調査とその目的のための捕鯨であり、日本が行っているのは2番目と4番目である。商業捕鯨のモラトリアムに関しては、1990年の段階で一度再開が再検討される決定がなされていたが、実際にはそれは行われておらず、10年以上経った現在においても未だに商業捕鯨は禁止されたままの状態である。
 捕鯨を推進している国の代表は言うまでもなく日本であり、反捕鯨国の代表としてIWCにおいて大きな権限をもっている国がアメリカである。そもそも、捕鯨禁止を世界に提案した国がアメリカであり、国際舞台においてはIWCの力を借りて捕鯨禁止を進めると共に、様々な国内法によっても捕鯨禁止の政策を推し進めてきた。そして、このようなアメリカ政府による反捕鯨政策と歩調を合わせて、数々の環境保護団体も反捕鯨の立場を訴え続けてきたのである。

鯨に限らず、世界では数多くの動物愛護運動が起こっている。有名なところでは、アザラシ、象牙、タイマイなどである。このような動物愛護の運動が起こり始めたのは、20世紀半ば頃からである。20世紀の国際社会は主として科学技術を向上させ、工業発展を成し遂げることに価値が置かれていたといってよいであろう。しかしながら、1970年代頃からその弊害としての公害問題や環境汚染が深刻化し、社会問題となっていたのは周知の通りである。そうした時期に、地球環境に注意を払っていこうという国際的な動きが出てきたことは当然といえば当然である。この環境保護の運動に付随して、人間中心の考え方を見直し、動物資源の乱獲に対しても再考しなければならないとして、動物愛護の運動が起こり始めたのである。もちろん、人間中心の考え方を改めて絶滅に瀕している動物を保護するということ自体は否定しない。というよりもむしろ歓迎すべきことだと思う。鯨が絶滅に瀕しているのであればそれを保護するべきであろう。しかしながら、鯨といっても約80もの種類があり、最近の研究では、ミンク鯨やコク鯨など、種によっては鯨が絶滅に瀕しているどころか逆に増えていることが分かってきている。

捕鯨問題が国際問題として浮上してから約30年近くが経過した。しかしながら、捕鯨国と反捕鯨国はその間、各々の立場を変えることはなく、歩み寄りの姿勢は見られないのが現状である。そして、捕鯨に関する議論には様々な主張が飛び交っている。第一に、科学的側面からの議論である。鯨の頭数を種類別に計算し、資源が回復しているのであれば捕獲は認められるべきではないか、というものである。第二に、文化的な側面からの議論がある。反捕鯨を主張する側は、日本人は鯨に頼らなくとも他にいくらでも動物性タンパク質を摂取できるのであり、敢えて鯨のような神聖な動物を殺さなくても良いのではないかと言う。鯨を殺すことは倫理的にも間違った行為であるとも主張している。一方で、捕鯨の継続を支持する側は、捕鯨は長年にわたり続けられてきた日本の文化であり、捕鯨を否定することは日本の文化を否定することにつながるとしている。そして、鯨だけを他の動物と区別して特別視することは誤っており、倫理的に批判される根拠はないと主張している。第三に、最近になって起こってきた議論であるが「動物の権利」の面を考慮した議論があげられる。「動物の権利」とは人間中心的なものの見方を改めて、動物の権利を考慮していこうとする考え方である。このように捕鯨問題に関しては様々な議論があり、そしてその議論も問題が長期化しているためか、やや感情に走りすぎている面があることも否定できない。先行研究に関しても、捕鯨に対して賛成、反対のどちらかの立場に立って書かれているものが多い。代表的なものとしては、まず第一に小松正之編著の「くじら紛争の真実」があげられる。本書は捕鯨問題に関する様々な議論を一冊にまとめた総合書であるといえる。著者は捕鯨推進の立場に立って執筆している。第二に、鯨の頭数を科学的に分析し、その観点から捕鯨問題を考察している書として、北原武編著の「クジラに学ぶ_水産資源を巡る国際情勢」があげられるだろう。第三には、 Peter J. Stoett著の「The International Politics of Whaling」があげられる。本書は主として、IWCに基づく国際的な捕鯨政策について、政治的、法的な側面から書かれている。

以上のような先行研究をふまえて、本論文では特に、国際社会に反捕鯨の風潮が起こり始めた1970年代から現在に到るまで、捕鯨問題に対してアメリカがどのような政策を取り、そしてそのバックグラウンドにはどのような要因があるのかに焦点を当てていく。そのことが、様々な議論が交錯している捕鯨問題において、本論文のオリジナリティーにつながると考えている。以下第一章では、1970年代から80年代にかけて、アメリカが捕鯨禁止を提案し、そしてそれを実行に移すまでの過程をみていく。第二章では、80年代中頃から現在に到るまでのアメリカの反捕鯨政策を、アメリカの国内法を中心として述べていく。そして第三章では、反捕鯨政策を推し進める上で強力なバックボーンとなった環境保護団体の行動について述べていこうと思う。

第一章:捕鯨禁止の始まり

第一節:ストックホルム人間環境会議

第二次大戦前には、鯨の油や皮を捕るためにほとんどの国が捕鯨を行っていた。1930_1931年漁期には欧米各国で合計41船団が出漁し、大型鯨を3万4212頭捕獲している。初期資源量では全鯨種中最大であったシロナガス鯨は鯨油生産効率が最もよかったことから集中的に捕獲され、資源は激減していった。日本はまだ南氷洋へ出漁する以前であったが、欧米各国は鯨の肉は捨て、鯨油を採ることが目的であった。 南氷洋以外の海域ではセミ鯨、ホッキョク鯨などがすでに絶滅寸前と思われるまでに激減していた。これは主にアメリカの捕鯨船をはじめとする過去の乱獲によるものである。生産過剰となった鯨油価格の安定のため、1920年代から捕鯨規制のための国際会議が行われるようになった。1936年発効のジュネーブ条約は鯨資源保護をうたった初の国際条約であった。これは戦前の国際連盟の枠組み内で調印されていたが、南氷洋捕鯨の新興国である日本、パナマ、ドイツ等が参加していなかったこともあり、1937年には新たな国際捕鯨協定であるロンドン協定が捕鯨9カ国によって署名された。    

しかし第二次大戦後、シロナガス鯨をはじめとする資源量の回復は思わしくなく、戦前に行われた乱獲の反省の上に立って今後の捕鯨業への安定した資源供給を確保するために、1946年12月、ワシントンで15ヶ国の署名による国際捕鯨取締条約(以下、ICRW)が締結された。この条約の目的は「鯨資源の保存と有効な利用、捕鯨産業の秩序ある発展を図る」ことであった。この目的を守るためにIWCが発足した。日本は当初、加盟が許されていなかったが、サンフランシスコ平和条約調印1年前の1951年4月から加盟国となった。

IWCの設立により、鯨種別捕獲頭数規制の導入と、規制を順守させるための国際監視員制度の実施により、捕鯨は持続的利用可能な水産資源として、科学的に管理された最も進んだ食料生産システムの一つとなる可能性を示した。資源量と自然増加率が算出されれば資源を損なうことなく有効利用が出来る。そしてミンククジラの資源状態が非常に良好であることは反捕鯨国の科学者たちも合意していた。

しかし、1971年のIWC総会で突如としてアメリカの環境保護団体から捕鯨全面禁止の意見が出された。その提案は翌年、国際的な会議上で採決されることとなる。1972年6月、ストックホルムで開かれた国連人間環境会議は1960年代から1970年代の高度成長による環境破壊や公害問題の国際協力のもとでの対策についての協議が目的であった。しかし、会議ではベトナム戦争におけるアメリカ軍の無差別絨毯爆撃(北爆)や生態系を大規模に破壊する枯葉剤の大量散布に対する非難が集中し、即時戦争停止が求められた。この問題を巡って激しい議論の応酬が続き、また、会議全体を通じて各国、自国の権利擁護と非難回避の外交的駆け引きに終始する状況であった。開催国のパルメ首相の「環境保護問題の解決は、平和な世界、国際協力が行われる世界でおいてのみ可能である。未来に対する目と新しいインターナショナリズムに至る展望を切り開こう」との言葉とはかけ離れた会議進行となり、他国の非難と自国の擁護で紛糾する中アメリカから「商業捕鯨10年間凍結案」が提出されたのである。

ここで少しIWCについて説明しておく。IWCは加盟国政府から選出された代表一名づつを委員とし、各国平等な一票を投じた多数決による議決がなされる。具体的な規制内容はその修正に四分の三の賛成票を必要とする付表に明記されている。議決にあたっては各捕鯨国間の調整のみならず反捕鯨国との間の対立(アメリカは戦後、南氷洋捕鯨から採算性の問題から撤退し、反捕鯨国に転向していた)をも調整しなければならなかった。地理的関係から南氷洋のザトウ鯨の取り分増加をもくろむオーストラリア、ニュージーランドや北大西洋の鯨に主に関心をはらうデンマーク、アイスランド、北太平洋の鯨の捕獲継続を要求する日本やソ連、そして捕鯨撤退後、いきなり反捕鯨国に転向してしまった国々など、各国の利害関係の調整は困難を極めた。
 特に予想される混乱に対処するため、委員会の規則は緩やかで民主的な配慮がなされていた。捕鯨国が参加し易く、脱退に追い込まれにくい加盟条件(捕鯨規則第10条)や、異議申し立てなどが定められていた。 これらのことは、後に委員会の正常な運営にとって足かせとなっていった。

IWC年次総会は加盟国の一国をホスト国として開催される。総会に先立ち、世界中から約100人の科学者を集めた科学委員会が開催され、各国の報告書や論文をもとに目視調査や捕獲調査によって資源状態を評価、資源管理を構築する。 総会は科学委員会の勧告を受けて、各国政府コミッショナーによって行われる。

第二節:捕鯨問題が起こった背景

アメリカが突如として捕鯨の全面禁止を国際舞台に訴えかけたのは何故だろうか。IWCによる鯨資源の管理は、1960年代に入ってから徐々に保護の方向へと傾きだしていた。そして、この環境会議が開かれた時期には、資源量の減少した大型鯨5種がすでに捕獲禁止となっていた。そのような状況で捕鯨禁止を訴えた理由には、多分にアメリカの国内要因が絡んでいるといえる。

当時、アメリカはベトナム戦争をはじめて10年目に差し掛かっており、戦況は北側の優勢が着々と固まりつつあった。アメリカ軍は北爆をエスカレートさせる一方で、南の密林地帯に潜む解放軍兵士を一掃するため、強力な除草剤を空から撒く「枯葉剤作戦」を展開していた。この作戦に使われていた除草剤には、催奇形性と発ガン性を持つダイオキシンが含まれていた。枯葉作戦は、草木と人間を同時に破壊する最悪の戦争手段として世界中の批判をあびていたのである。

当時のスウェーデン首相のオルフ・パルメは反戦を信条とする政治家で、首相に就任した当初からベトナム戦争におけるアメリカ軍の無差別攻撃や枯葉作戦を、人道上において、そして環境破壊においても許されない行為であると訴えていた。このため、米国とスウェーデンの外交関係は冷えたものとなり、両国ともそれぞれの大使を交換することを止めるに到っている。

さらに、当時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンは1972年の大統領選挙を控えており、再選を目論んでいた。民主党側の候補であるジョージ・マクガバン上院議員は反戦主義者であり、1965年1月の上院においてこう発言している。「我々はベトナムで勝っていない。民衆を治めることの出来ない南ベトナム政府を支援するのは誤りである。ベトナム問題は軍事で解決できるものではなく、南ベトナム人の政治問題である。アメリカがいかにテコ入れしようとも、強力で人気のある指導者をつくることは出来ない。莫大な金を無駄使いしている。」反戦気分の高まってきたアメリカ社会において彼の主張は共感を呼び、1971年には「マクガバン旋風」が起こりつつあった。また、自動車の排気ガスを規制した「マスキー法」の生みの親である民主党のマスキー議員も大統領候補であった。

このように環境保護の風潮がアメリカ社会に起こっていた時期での大統領選挙を控えて、ニクソン自身も環境保護を重視していることをアピールしたかったのかもしれない。大統領選挙の前年である、1971年4月にニクソンは「海洋哺乳動物保護法」を制定した。これに基づき、1972年からアメリカ国内における捕鯨を全て禁止した。さらに、ニクソンと環境保護団体との結びつきもみられる。二ヵ月後の6月には世界的自然保護組織「地球の友」のカリフォルニア支部が、反捕鯨運動を展開するためだけの別働隊組織として「プロジェクト・ヨナ」を設立し、ジョン・マッキンタイアーを会長にしている。ちなみに、ニクソンの地元はカリフォルニアであり、大統領選挙の当選を大きく左右する州である。このプロジェクト・ヨナが設立されたと同時期に開かれたIWCのワシントン会議において、オブザーバーとして参加したマッキンタイアーは、民間団体としては初めて発言の機会が与えられたのである。

以上のように、アメリカが突如として捕鯨の10年間モラトリアムを提案した背景には、対外的にはベトナム戦争での枯葉作戦に対する国際世論の批判、そして対内的には大統領選挙を控えたニクソン大統領による環境保護政策の推進といった事実があり、これらのことが反捕鯨運動のきっかけとなったことは十分に考えうることである。

第三節:商業捕鯨のモラトリアム

1972年の国連人間環境会議以降、アメリカ主導の反捕鯨の動きは、まず鯨の資源量についての評価から始まった。しかし、過去にIWCが行ってきた捕獲頭数規制と違い、1974年の新管理方式導入後は「持続的利用のための捕獲頭数算出」ではなく、「鯨は絶滅に瀕しているのに違いないからそれを証明する」姿勢であった。だが、ミンク鯨やニタリ鯨のような良好な資源状態を持つ種についてはどのようなトリックを駆使しても資源保護の側面から捕獲禁止の根拠を出すことは出来なかった。
 次に、捕鯨条約第10条の不備を突いた非捕鯨・新興独立国の大量加盟の工作による議決票数獲得と「捕鯨の倫理」などの理屈や過激な環境保護運動家の演出による、日本人の捕鯨への非難誘導という作戦を進めてきたのだが、国連人間環境会議以降10年目にして悲願の成る日が来た。
 1982年7月、イギリスのブライトンで開かれたIWC年次総会の開催時までに反捕鯨陣営が集めた票は27に達し、モラトリアムを通過させる必要数、つまりは付表の修正に必要な四分の三の賛成票をクリアーしていた。 会議の3日目にはアンチグァ・バブーダが駆け込み参加し、本会議に先立って開かれた科学委員会では、ホルト、D.チャップマン(ワシントン大学教授)たち反捕鯨学者が捕鯨全面禁止に同調を求めたが、全ての鯨種を系統群ごとに管理しているのに全面禁止は不要という意見が体勢を占め、科学委員会からの勧告に取り入れることは却下された。反捕鯨国が揃えた保護主義的な学者たちでも、科学的根拠そのものがいらない、という結論の出し方を受け入れることができなかったのだろう。
 国連食料農業機関(以下、FAO)はこの頃、「モラトリアムには科学的根拠がない。また鯨の知識が不確実だと反捕鯨国は言うが、これもモラトリアムの理由にはならない。なぜならばいまの捕鯨は小規模であり、資源の動向を慎重に監視しながら捕鯨をしているからである」という異例の見解を表明している。

しかしいずれにせよ、四分の三の賛成票が得られたことにより、1982年南氷洋捕鯨の1985年漁期からの5年間全面禁止及び、日本沿岸のミンク鯨、ニタリ鯨、マッコウ鯨の1986年からの5年間捕獲禁止が決議された。 いわゆる「1986年からの商業捕鯨のモラトリアム」であるが、この後、現在に至るまでこのモラトリアムは解除されず、日本の大型鯨の商業捕鯨は全面禁止の状態にある。この間、いわゆる「捕鯨論争」が起こり、一部の急進的な環境保護団体によるキャンペーンや、欧米先進各国の政治的、民族主義的アジテーション、また、それらに歩調をあわせる国内文化人たちのアピールなど様々な活動が目立った。「鯨は絶滅の危機に瀕している。」「国際社会のなかで日本人が嫌われ者になってまで捕鯨を継続するメリットがない。」「鯨など、日頃食べていないから今後も必要ない。牛や豚で十分ではないのか。」「鯨たちは、賢く、心の優しい、清らかで聖なる動物である。汚れきった現代社会に生きる日本人がこれを殺して食べるなどもってのほかである。」などの主張が飛び交ったのである。

この「商業捕鯨の10年間モラトリアム」が成立した要因は、先ほども述べたようにアメリカによる多数派工作にある。モラトリアム案が可決される前の1980年にはモラトリアムに賛成する国は13ヶ国にすぎなかった。しかしながら1982年にはその数は28ヶ国にまで達していたのである。これは81、82年に新たに15ヶ国が加盟したためであるが、その国々が問題である。セントルシア、セントビンセント、ベリーズ、アンティグア・バブーダなど、あまりにも無名な小国が名前を連ねているのである。IWCの規則により、本会議での議題の採択は棄権を除いた四分の三以上の多数決を要することになっているが、これら小国の加盟は明らかに票を得るための多数派工作といえるであろう。実際、IWCの本会議においてもこれらの国々の代表者は、派遣されてきたアメリカ国籍の人間である。では何故こうした小国がいとも簡単に反捕鯨側につくのであろうか。ひとつには、IWCへの分担金を環境保護団体が支払うからであり、もうひとつには、国際会議の舞台に仲間入りすることができるからである。

モラトリアム決議に疑問を感じる点としてもう一つは、科学委員会の意見が全く無視されていることである。そもそもIWCの準拠している国際捕鯨取締条約は、鯨類を人類が利用すべき再生産可能な生物資源であるとの大前提に立ち、鯨資源の適切な保存と有効利用を通じ、捕鯨業の健全な発展を図ることを基本目的としているはずであり、明らかに今回の決定は本条約に違反している。IWC本来の意義が失われてしまっているといえよう。

第二章:日米捕鯨協議

第一節:アメリカによる対日制裁

1977年、国連の海洋法会議でケニアの提唱した「排他的経済水域」は、領海とは異なり、水域内の天然資源に限る支配権を設定するということであった。この提案は沿岸国の漁獲能力を超える許容漁獲量の余剰分は、他国にも権利を与えるという趣旨であった。この提案は国際法として採択される前に、アメリカ等、各国が相次いで先取りする形での設定を宣言し始めた。日本はこのような国際情勢に対応するために、暫定措置として、この年「漁業水域に関する暫定措置法」を定めた。しかし、既存の日韓漁業協定や日中漁業協定に対して、これを一方的な宣言をもって主張することは漁業秩序を脅かすことになるという配慮から、設定区域を限定し、また、韓国、中国に対しては規制しないという緩やかなものであった。この措置は1994年発効の「海洋法に関する国際連合条約」を日本も批准するまで効力を持った。

アメリカはケニア提案の審議中に、いち早く「漁業保存管理法」という国内法によって200海里水域を決定し、さらに「パックウッド・マグナソン修正法」(以下、PM法)「ペリー修正法」、「ブロー法」を次々に成立させた。 ブロー法はアメリカ200海里水域内で段階的に外国漁船を締め出し、入漁料を引き上げて取締を強化するとともに、漁獲割り当てを水産貿易に連動させるもので、ケニア提案の経済水域案とは大きく異なっている。 PM法とペリー修正法は、捕鯨国に対する制裁を目的としたアメリカの国内法である。

1984年、ブエノスアイレスで開かれたIWC第36回総会において、日本は国際捕鯨取締条約の規定に基づいて、まずは日本沿岸のマッコウ鯨捕獲枠ゼロに対する「異議申し立て」を行った。この年は自主規制として、400頭の捕獲を計画した。 しかし、南氷洋捕鯨に関して、82年総会で決定していたモラトリアム決議に異議申し立てを行えば、アメリカはPM法を発動して日本を制裁することが目に見えていた。

8月中旬、ワシントンで行われていた日米捕鯨会議においてアメリカは「日本がIWCに異議申し立てをして、このまま捕鯨を続けるのなら、アメリカは制裁措置として対日漁獲割り当てを、一年後に半減、二年後にゼロとする」という、強硬な態度に出た。この当時、日本の外国での水産物漁獲高は約200万トンであり、このうち110万トン、1300億円がアメリカ200海里内での水揚げである。捕鯨による生産高は沿岸と南氷洋をあわせて年間137億円あったが、日本の遠洋漁業が壊滅的打撃を受ける米国200海里内全面漁獲禁止をカードに出されては、いよいよ追いつめられた感が強かった。

8月下旬、水産庁は南氷洋ミンククジラ捕鯨のモラトリアム決議に対する異議申し立てのための準備を始めていた。日本政府はソ連やブラジルの異議申し立ての動きを見ながら慎重に準備を進めた。この年の11月にはアメリカで大統領選挙が行われる予定となっており、日米貿易摩擦やそれに関連する制裁法、スーパー301条の発動に関する動きや、FSX(時期支援戦闘機)選定などの問題と相まって、日米関係は緊張が続いていた。レーガン大統領の態度は終始強硬で、中曽根康弘首相の下、水産庁や捕鯨業界は孤立無援に奮闘していた。 レーガン大統領は確固として反捕鯨の立場であり、1981年7月に開かれた第33回IWC総会へ宛てたメッセージで「人類の歴史を通じて鯨は畏敬と恐怖の対象になってきた。鯨はこの地球上にこれまで生き続けてきた生物の中で最大の存在であり、また最も神秘的な生物である。我々が効果的な捕鯨規制政策を取らなければならないと考えるのも、鯨の持つこの神秘的な特性のためである」と述べている。

魚を取るか鯨を取るかの二者択一を迫られた形になった日本だが、この時点で、まだ闘おうとすれば対抗措置は考えられた。国際捕鯨取締条約のもと、IWCで話し合われるべき問題をアメリカが国内法を行使することによって押しつぶそうとすることは本来、国際的信義に違反することであるが、アメリカがPM法を発動させた場合、日本が、他の経済、軍事、その他の場面ですでに譲歩していたカードをもって全面対決に入るのならば、闘う力はあったのである。そしてペリー修正法に対しては、対抗措置として日本も同じような規制策を取った場合、水産物貿易は圧倒的に日本の輸入超過(貿易赤字)なのであるから、アメリカは痛手を負うはずであった。さらに言えば、ペリー修正法はガット(関税貿易一般協定)違反の疑いが強く、国際機関に提訴した場合アメリカ敗訴は濃厚で、そうなればガットでのアメリカの指導的立場は揺らぐこととなり、日米関係での主導権にも影響したはずであったのだ。 実際、対抗手段については、社会党及び、賛同した自民党の一部からも国会提出の動きが出ていたのだが、寸前になって中曽根首相の近辺からの鶴の一声で潰されてしまった。

この年の沿岸マッコウ鯨捕鯨は、IWCの決定した捕獲枠はモラトリアム発動期限の前にしてすでに「ゼロ」であった。これに対し日本は異議申し立て(沿岸マッコウクジラ捕獲枠について)をすでにしているので、例年通り10月1日からの出漁が可能であった。しかし、これを見越してアメリカ政府は、9月半ば過ぎから「沿岸のマッコウ捕鯨船が操業すれば、アメリカ200海里内で制裁措置をとる」と警告していた。 9月終わりにブラジルが、続いて10月2日にはソ連が南氷洋ミンククジラ捕獲枠について異議申し立てを行った。日本政府は外務省を中心に慎重に協議を行い、申し立ての時期を検討していた。 沿岸マッコウクジラ漁については日本はIWC決定に拘束されないのだが、 すでに漁期にはいっているこの時点でも、まだ出漁を見合わせていた。水産庁は頭数を明記していない操業許可証を準備していたが、10月半ば過ぎ、ついに神奈川県の三崎港と和歌山県の那智勝浦港から出漁した。当然の権利を行使したまでであったが、アメリカは「一頭でも捕獲すれば、その時点でPM法により制裁を加える」と声明を出していた。日本政府は、PM法が発動され、効力が生じるまでには二週間ほどかかるとみて、最後の日米協議を行うこととした。

11月1日からワシントンで再開した日米捕鯨協議は、日本側代表の佐野水産庁長官、アメリカ側のバーン海洋大気局長の間で始まった。交渉は、日米ともアメリカの報復措置という最悪の事態を避けるために、双方の見解の相違について予定を延長して話し合われた。 当初、アメリカ政府は歩み寄りの姿勢を持っているように見えた。交渉の経過は公表されていなかったが、グリーンピースや動物愛護国際基金などの団体がその内容について知っているようで、日米間でマッコウ鯨捕鯨継続を認める合意がなされようとしているとして、これを差し止める訴えを連邦地裁に起こすことを発表していた。
 日米協議10日目の夜、日本沿岸のマッコウ鯨捕鯨を1988年から取りやめ、その間アメリカは対日制裁をしないことに合意した。IWCでは1986年からの沿岸捕鯨禁止を決議していたことから、日米合意はこれを2年間延長することになった。この交渉で日本はマッコウ鯨の捕獲枠に対するIWCへの異議申し立てを取り下げることとし、その手続きをとった。日米合意では、沿岸マッコウ鯨捕鯨について、日本が異議申し立てを1984年12月13日までに撤回し、そしてこれによりアメリカは1984年と1985年のマッコウ鯨捕獲枠をそれぞれ400頭認めること、そしてまた、日本が商業捕鯨禁止に対する異議申し立てを1985年4月1日までに撤回すれば、さらに1986年と1987年にそれぞれ200頭の捕獲を認めるという内容であった。これにより、日本の沿岸マッコウ鯨捕鯨は1988年3月をもって終了することとなった。南氷洋ミンク鯨や他の鯨種についての交渉がこれからの難題として懸念されつつも協議は終了した。

しかしながら、さらに驚くべき事態へと進展して行く。 アメリカ200海里内漁業権に対するPM法の発動回避のため、捕鯨を切り捨てることを選択せざるを得なかった日本は、数年後、「自国漁業の保護・育成」の名の下にアメリカ200海里水域内漁獲割り当てをゼロにされてしまうのである。 後にそのような事態になるとはとても予測していなかった日本は、日米捕鯨合意の後、PM法回避のために1982年IWCのモラトリアム決議に対する異議申し立てを取り下げることを決定した

このように、アメリカは国際条約の規定として認められたはずである「異議申し立ての権利」を牽制するために、国内法の発動により日本側に圧力をかけていたのである。これでは国際条約の効力というものは無いに等しいと思うのだが、それと同時にもうひとつ疑問を感じる点がある。そもそもIWCでの異議申し立ての制度は、アメリカの提案で生れたものなのである。1946年にワシントンで開かれたICRWの制定会議において、アメリカ代表はIWCの規制措置に対する加盟国政府の異議申し立て権を認めるように提案した。その理由は第一に、捕鯨規制の修正もしくは変更が、必ずしもある政府に捕鯨条約からの脱退を強いることのないような防止策、安全弁となる。第二に、この規約があれば、どの政府も脱退の問題を考慮することなく規約を遵守することが出来るからというものである。さらに第三には、全般に渡って一貫して適用される規制を効果的に施行できる委員会を維持するうえで、異議申し立ての規約は必要だからである。このように、異議申し立ての規約を発案した当事国のアメリカが、その規約を国内法まで制定して脅かそうとしているのであり、政策に矛盾を感じる。

さて、日米捕鯨合意の内容は、1985年以降の商業捕鯨を禁じたモラトリアム決議に対する異議申し立てを日本が取り下げるかわりに1987年までの商業捕鯨を認め、その時点で日本が捕鯨から撤退すればアメリカはPM法による対日制裁をおこなわないというものであった。 しかし、これに対してアメリカの環境保護団体が、1984年11月にアメリカ政府、大日本水産会、日本捕鯨協会の三者を相手取り合意無効の訴訟を起こした。 両国が敗訴すれば、IWC決議に従い1985年漁期を最後に商業捕鯨は即時撤退することになる。勝訴した場合は日米合意に従い1987年漁期で商業捕鯨は撤退する。
 環境保護団体がアメリカ政府を訴えるなどということは、同じ反捕鯨の主張をしているだけに考えにくいが、環境保護団体側が勝訴すれば日本は商業捕鯨から即時撤退、敗訴すればいずれにせよ1987年で撤退だがアメリカ政府は日本政府に対して「最大限の譲歩を盛り込んだ合意事項を守るべくして闘った」というポーズを示せる。日本としては最大限、捕鯨を続けるためにこの裁判を闘わなければならなかった。 米国最高裁は環境保護団体の訴えを退ける形で結審した。これにより南極海捕鯨は1987年3月限り、沿岸捕鯨は1988年3月限りで終了することとなった。ソ連、ノルウェーなども捕鯨撤退を表明しているので、この日本の撤退をもって世界の商業捕鯨は終わりを告げることとなった。ノルウェーは当初、捕鯨継続を表明していたが、アメリカからの水産物輸入禁止の恫喝を受けており、これに屈したのである。

第二節:各種産業の影響力

 商業捕鯨を放棄することになった日本は、その後も捕鯨を続けるための方策として、「調査捕鯨」と「原住民生存捕鯨」への移行をきめた。「調査捕鯨」に関してはICRWの第八条で次のように規定されている。

「この条約のいかなる規定にもかかわらず、締約国政府は自国民のいずれもが科学的研究のために鯨を捕獲、処理することを認可する特別許可を与えることが出来る。この場合の捕獲は条約の適用外とする。」「母船及び鯨体処理場での生物学的資料の継続的収集と分析が、捕鯨業の健全で建設的な運営に不可欠であることを認め、締約国政府はこの資料を得るために実行可能な措置をとるものとする。」

 このようにICRWは調査の必要性を認め、締約国政府に対して積極的に奨励さえしている。

 一方「原住民生存捕鯨」については条約の付表に次のような定義がある。

「伝統的、経済的に捕鯨に依存せざるを得ない地域の原住民による生存のための捕鯨をさす。」この携帯の捕鯨が認められている民族は、アラスカエスキモー、イヌイットなどである。

 日本としては、条約で認められている「調査捕鯨」「原住民生存捕鯨」に移行することによって捕鯨を続けていく方針を示した。1987年6月に開催されたIWC年次大会で日本は南氷洋における調査捕鯨と、沿岸における生存捕鯨を実施する計画を表明した。しかしながら結果は、調査捕鯨については中止勧告、そして生存捕鯨に関しては門前払いの扱いであった。エスキモーやイヌイットの行っている捕鯨は金銭が介在しないものであり、日本の捕鯨とは異なるということが理由である。鯨が絶滅しているのかどうかという点が捕鯨の是非を考えるうえで一番大切なことだと思うのであるが、金銭が介在するか否かという視点はあまり説得力が無いように感じられる。環境保護団体のグリーンピースも「商業捕鯨」に反対することにこだわっている。彼らは捕鯨という産業はつねに拡大しうる性質をもっており、小規模にとどまることは難しいと主張している。さらに科学的に捕獲に耐えうる数が算定されたとしてもそれを管理する体制が無ければ意味がないという。

 結局、IWCにおいては調査捕鯨の禁止は多数決は得たものの議決には到らなかったため、日本は鯨資源の調査のためとして、1994年から調査捕鯨を開始した。これに対し、アメリカ政府は懸念を示している。アメリカの見解は以下のようなものである。

ある種の科学データを収集するためには捕獲した鯨をすべて殺さなければならないとする日本の主張は、常軌を逸している。事実、IWC科学委員会のメンバーは、日本の捕鯨の根拠を繰り返し批判している。アメリカその他の諸国の代表は、日本が求めているようなデータを鯨の捕殺なしに収集する調査計画の実施のために、日本に対して科学的支援の提供さえも提案している。

憂慮すべきもう1つの要因は、こうして捕獲された鯨の肉が、日本の魚市場やレストランに出回っていることである。日本の調査捕鯨は、1987年以来、もり打ち砲の脅威から守られてきた鯨を脅かすだけでなく、国際的な商業捕鯨禁止措置をも脅かすものである。われわれは、日本による捕鯨対象の大型鯨への拡大は、商業捕鯨の全面的再開への地ならしを目的としているとの懸念を抱いている。このような見解をクリントン・ゴア政権は示し、マッコウ鯨とニタリ鯨を調査捕鯨の対象とするという日本の最近の提案に、強く反対している。日本がこのような外交による抗議を無視する道を選択しことにより、1967年漁業保護法のペリー修正条項に基づく貿易制裁措置を含むいくつかの措置まで検討している。

また、2000年大統領選挙の際にも捕鯨に反対する声明がみられた。民主党副大統領候補であったリーバーマンは環境保護の考えが強く、環境保護団体との結びつきも強かった。そんな最中、2000年夏から日本は調査対象をマッコウ鯨などに拡大している。これに対しリーバーマンは強い懸念を示している。

現ブッシュ政権も、調査捕鯨に対しては前クリントン政権と同じ考えであり、 バウチャー報道官は「実際に捕鯨が開始されれば、(水産物の輸入禁止措置を定めた)ペリー修正法に基づき、昨年同様の手続きを検討することになる」と述べた。 さらにバウチャー報道官は「日本の国際的孤立をはっきりさせるため、他のIWC加盟国と必要な措置を検討する」と述べ、日本に対する国際的な圧力を強める考えを示した。 その結果、今年の7月にロンドンで行われたIWCの総会にて、日本の調査捕鯨の中止を求める議決が賛成多数で可決されたのである。

 このように、捕鯨問題に関しては他の外交問題とは異なり、共和党、民主党ともに捕鯨には反対の姿勢を示している。そして両党に共通して言えることは、ICRWによる規制の範囲外である行動に対しては一貫して、PM法やペリー修正法といった国内法による制裁の発動を考慮しているという点である。しかしながら、こうした国内法による制裁は商務長官によって証明こそはされるものの、これまで日本に対して制裁が発動されたことは一度もないのである。以下、整理してみる。

(ペリー修正法に関する捕鯨関係での最近の証明例)

  1. 日本の南氷洋捕獲調査開始(1987年) 1988年2月証明、制裁なし
  2. 日本の北大西洋捕獲調査開始(1994年) 証明されず
  3. 日本の第2期北大西洋捕獲調査開始(2000年) 2000年9月証明、制裁なし

 では、なぜ共和党、民主党ともに最終的には国内法の発動を控え、そして反捕鯨の姿勢を採りつづけているのであろうか。一つには、第三章で詳述するが、アメリカ国内での反捕鯨の風潮というものがあげられる。多くの環境保護団体が反捕鯨運動を繰り広げており、アメリカ全体の世論もその運動の影響を受けて捕鯨禁止に賛成の立場となっている。

 第二には、環境保護団体や食肉産業などと政府の結びつきが考えられる。環境保護団体は主として民主党と結びつきが強く、1990年代における献金の割合は民主党に対して92%であり共和党に対しては7%と、圧倒的に民主党支持であることがわかる。特に、1990年代を通して受け取った献金額が3番目に多かった議員が、民主党のアル・ゴアであり、彼が2000年大統領選挙を控えて日本の調査捕鯨拡大に対して懸念を示したことは、環境保護を擁護する彼の立場から考えると納得がいく。

 他方、共和党についてはどうか。現政権のブッシュ大統領は石油、天然ガス業界との関係が深く、環境保護を擁護する立場は取っていない。テキサス州知事時代には、汚染問題を管轄する省庁の幹部に石油や化学、不動産業界を代表する人材を充てた経緯があり、また、アラスカ州にある北極圏の国立野生動物保護区を石油開発に開放することに前向きな発言を示している。1990年代に石油、天然ガス業界から出された献金は、共和党に対して73%、民主党に対しては26%であり、環境保護団体が民主党支持の立場であることと正反対に、石油、天然ガス業界は圧倒的に共和党支持である。ちなみに90年代を通して最も献金を受け取っていたのが現ブッシュ大統領である。では、なぜ民主党に比べて環境保護団体と利害関係のない共和党が、反捕鯨の政策を取りつづけるのであろうか。その理由として、食肉産業と共和党の関係が考えられる。食肉産業からの献金を見てみると、共和党に対して75%、民主党に対しては24%であり、食肉産業は圧倒的に共和党との関係が深いことがわかる。アメリカの農業関連産業グループは、アメリカが捕鯨問題において日本に制裁を発動することによって、日本政府がアメリカの農産物の輸入を制限する可能性があることを危惧している。また、アメリカは農業大国であり、特に畜産業には大きく依存しているため、鯨などの野生動物が合理的で継続的な利用がなされることは、少なからずアメリカの畜産業に影響を及ぼすとも考えられている。特に90年代において最も献金を受けている人物は、石油、天然ガス業界と同様に現ブッシュ大統領であり、今後も日本の調査捕鯨に対して懸念を示していくことが考えられる。

第三章:環境保護団体と世論

第一節:世論の比較

これまで見てきたように、アメリカは一貫して反捕鯨の姿勢をとってきた。IWC科学委員会の調査では、日本側が捕獲を要求しているミンク鯨に関しては資源量が豊富であるとしている。政策決定は時には世論に左右されるということを考慮すると、第二章の二節で述べたような、各種産業と政党との関係が捕鯨問題に少なからず影響を与えているように、鯨の資源量とは別のところにもその要因があるように思われる。以下、日本リサーチセンターとギャラップ世論調査所が1991年に日本人とアメリカ人の「クジラ観」を比較調査した結果をみていきたい。

 まず、クジラ類の生態、資源調査のための商業捕鯨のモラトリアムを採択したIWC決定への支持率は、アメリカが67%、日本が46%であった。ここで注目する点は、捕鯨をなんとしても推進していこうと考えている日本側の数値が46%にものぼっている事である。日本の国民レベルではあまり捕鯨に執着していないことがわかる。

 第二に、IWCのモラトリアム決定に日本がしたがわない場合に、アメリカ政府がPM法による制裁措置をとることに関しては、アメリカの74%が支持している。ただ、IWCが捕鯨モラトリアムを決定ことを知っていると答えた人がアメリカ人の36%であり、知らないと答えた人は56%と、知らない人の方が多いことを示している。日本人でも34%の人がこの決定を知らないと答えている。74%という数字は、商業捕鯨のモラトリアムが可決されたことを知らせた上で得られた数値である。熱狂的な半捕鯨運動が起こってはいるものの、アメリカ人の捕鯨問題に対する関心は薄いといえる。

 第三に、アメリカが国内法を発動して制裁措置を行使する可能性があることに関して、日本人の19%がアメリカの制裁を無視して捕鯨を続けるべきだとし、59%の人が、アメリカ200海里内での日本の漁獲量に比べ捕鯨の価値は小さいので日本は捕鯨をやめるべきだとしている。

 このような調査から総じていえることは、特にアメリカ側の国民はあまり捕鯨問題に関心をもっていないが、アメリカ政府の半捕鯨の立場をおおむね支持しているといえる。アメリカには自然保護、動物愛護を主唱する団体が非常に多く、そのような団体が時には世論を形成することもある。しかし、なかには政治的、経済的な勢力を持っている場合が往々にして見受けられ、その主張は総論としては正論なのだが、それゆえに、えてして妥協性に乏しく寛容性に欠ける面がよく見られる。以下、そのような環境保護団体の活動に焦点を当てていく。

第二節:環境保護団体の行動

反捕鯨キャンペーンを展開している国内的・国際的NGOは何百にものぼる。そのうちオブザーバーとしてIWC年次会議に出席しているのは100程度である。これらは活動理念という点でも、キャンペーンの張り方でもまちまちである。そのため反捕鯨キャンペーンには様々な形があり、船を沈没させたり人間を標的にした嫌がらせをするといった暴力行為から、抗議文書、ワシントンやブリュッセルなどでのロビー活動に至るまでの広範囲に及んでいる。そこで使われている戦略は5つの主要なカテゴリーに分けられる。つまり、(1)鯨の捕獲を阻止する直接行動(2)鯨製品の市場の破壊を目指した活動(3)捕鯨国の製品に対するボイコットキャンペーンの実施(4)中傷行為(5)IWCにおける全面的かつ無期限のモラトリアムの実現、である。日本はこれらすべての戦略のターゲットとされている。

国際社会の注目を集めた初期の活動の中には、日本の数カ所の共同体で何世紀にもわたり行なわれてきたイルカ追い込み漁を阻止するという試みがあった。 1980年には、一人の米国人活動家が、壱岐島の勝本で捕獲されたイルカの群を囲った網を切断するという事件が起こっている。最近ではグリーンピースが、日本が1987年から実施している南氷洋での鯨類捕獲調査を妨害しようとしたが、日本は計画した通りの頭数を捕獲することができた。これらの活動には、グリーンピースの撮影班が同伴していて、抗議の旗は捕鯨者に対してよりもグリーンピースのカメラに向けられ、世界中に放映されることになった。

もう一つの戦略は、鯨製品の市場を破壊することであった。「今までに出されたもっともおぞましい食事、ジャップは鯨の肉で宴会」とは英国のデイリー・スター紙1991年5月11日版の第一面の見出しである。そして内側の第二面では、凄惨な写真とともに、「貪欲なジャップが、血まみれの食卓で行われるむかつくような宴会で、山積みされた鯨肉を貪っている」といった記述が掲載されている。このようなレトリックが駆使され、鯨肉を食することは、食人行為に近い不道徳な行為だとされてしまった。もっと直接的に被害があったのは、非加盟国からの鯨製品の輸入を禁止した1979年のIWC決議および、全鯨種がワシントン条約CITESの附属書に掲載されたことであった。

また、日本は何回かにわたりボイコットの脅しを受けてきた。例えば、1985年に、22の団体が、日本航空をボイコットするキャンペーンを展開した。このようなキャンペーンが大きなインパクトをもつことは少ないが、複数の日本の自動車製造業者が脅しを受け、NGOへの寄付を強いられたという。さらに、IWCで日本の立場を支持したという理由で、数カ国のカリブ海小島嶼国に対して観光ボイコットが行なわれた。このキャンペーンは極めて悪質であり、1994年会議ではIWC委員が加盟国への攻撃に対して抗議せざるを得ないまでになった。

このように様々な形で環境保護団体は反捕鯨運動を行ってきたが、それはどのような考え方から起こっているのであろうか。1970年代から80年代の反捕鯨運動の始まりの時期においては、環境保護団体の主張は専ら、「鯨は絶滅に瀕しているので捕鯨は禁止すべきである」といったものであった。しかしながら、冒頭でも述べたようにミンク鯨などのある特定の種類の鯨は、その資源量が十分なものであることが科学的に証明されるにつれて、彼らの主張も変化してきた。最近の環境保護団体の主張をみてみると、ICRWの規定に基づき科学の作法に従って進められなければならないことを認識しながらも、新しい科学的証拠の有効性を否定し、生態学的議論に固執するものもある。他方では、捕鯨国の科学者は十分に信用できないと訴えるところもある。これ以外にも、「鯨類は系統群毎に管理しなければならないのに、系統群の分別、特定には不明の点が多い」とか、「出生率や死亡率についてはデータが不十分」、「オゾン層破壊が鯨類に与える影響が不明である」などといった主張がなされている。こういった主張に共通して言えることは、「科学の不確実性」を問題視しているということである。鯨は牛や豚とは異なり海洋生物であり、それ故、科学では証明することの出来ない不確実な部分があるのではないか、といった点に自らの意見を裏付けようとしているのである。

反捕鯨運動を推進している団体の代表格がグリーンピースと世界自然保護基金(以下、WWF)で、「最後の一頭の鯨」を救うためにと称した募金活動を行ってきている。しかし、いずれも動物福祉論へと転向を見せている。 WWFは自然資源の持続的利用原則の推進に取り組む姿勢を誇示していたにもかかわらず、1992年の「捕鯨とIWCに関する立場表明」では「捕鯨操業が真に持続可能なかたちでのみ行われることをIWCが保証できるとしても、WWFは捕鯨再開に反対するという立場を変更しない」と述べ、自らの基本的姿勢とは正反対の立場をとった。グリーンピースの立場も同様である。これらと他の多くの団体は、人道的な捕鯨はあり得ない、鯨類は特別でユニークな生物であり、クジラは本質的な価値を有していると主張している。グリーンピースは「人間に自分以外の生物の種を危険に陥れる権利はないと信じる」と語っている。だがしかし、それならば何故、絶滅に瀕した動植物の中でも鯨にこだわるのであろうか。

そこには鯨を「神聖視」する思想があるように思われる。というのは、グリーンピースが反捕鯨活動をするに至った契機というのが、「鯨類の学習能力の高さに驚嘆させられた」という事があったからである。事実、クジラ、シャチなどの鯨類認知心理学の研究を見てみると、その認知機構には目を見張るものがある。「イルカは視覚、聴覚のいずれにおいてもすぐれた情報処理能力を有している。イルカは表象、学習、記憶、概念形成、般化など、事象間の関連について迅速に規則性を構築し、適用している。このことは言語を使用するうえでの極めて重要な特性である。イルカは他の個体の発する音声や行動、ヒトの動作を模倣することができる。現在のところ、この能力を持つのはオウムとチンパンジーそしてイルカだけである。また、実験的な検証からイルカは鏡やビデオに写った自分の姿を明らかに自分自身と認識している。この自己認識はチンパンジーとイルカのみに見られるものである。これらの模倣や自己認識の特性は高度な認知能力を反映したものとして、イルカの持つ複雑な情報処理機構を推測される。これら上述の認知心理学の研究はイルカを対象とされたものであるが、クジラ、イルカも鯨類である事から、多少の能力差はあるが、他の動物よりも知的特性を持っていると言う事が判る。このことを受けてか、反捕鯨の人々は「鯨は賢く愛くるしい生き物」だと主張している。そして、そのような「賢く愛くるしい生き物」を殺すような行動は野蛮で文化的に劣っていると考えているようである。

さて、このような活動は活動資金なしでは成り立たない。その財源は寄付金に頼るところが大きく、バックボーンとして利益集団が存在していることも否めない。本来、企業は資金力を生かし議会に対する最強のロビイストであり、多くの環境NGOにとっては、環境の汚染や破壊を引き起こす敵の存在である。しかし、その一方で企業は基金、寄付を通じて環境NGOの活動にも影響を与えている。アメリカでの企業側の環境戦略には(1)60年代当初から始めている環境や動物保護運動をアピールする(2)連邦、州政府の環境規制などを有利にするため議会にロビインングする(3)法律の実施段階でEPAなど行政に、有利な基準設定や緩和などを働きかける、といった三種類がある。89年のエクソンバルディーズ号事件以降、環境NGOに対する企業の寄付は年2000万ドルで、市民グループ、教会などに慈善目的で出す寄付の6%を占めている。NWF、WWFアメリカ、全米オーデュポーン協会などが企業からの寄付を受け入れている大手であり、NGOの意思決定機関である評議会のメンバーに企業の代表が入り、エクソン事件後の製品ボイコットに参加しない決定をオーデュポーン協会が下したように、企業がNGOの意思決定に影響を与え、それが政策に反映されるということもある。

終章

 以上みてきたように、捕鯨国日本と反捕鯨国アメリカの主張が相容れないものでその溝が深い要因には、政治的な工作、環境保護団体や食肉産業の影響力、そして環境保護団体による動物福祉論への転換などがあった。捕鯨禁止を初めて提案した1972年の国連人間環境会議にはじまり、さまざまな国内法発動をほのめかした制裁など、IWC設立の本来の目的である、「鯨資源の適切な保存と有効利用を通じ、捕鯨業の健全な発展を図る」という点を考慮すると、アメリカによる政策はIWCの原則からは外れてしまっているといえる。もはやIWCは当初の目的を遂行するだけの国際機関とはいえなくなっている。一方日本側は、捕獲に十分な資源量であるミンク鯨のみ捕鯨再開を求めているのであり、捕鯨そのものを全面的に禁止しようとするアメリカの対応にはやはり納得できないところがある。また、環境保護団体の多くは、最近ではクジラの資源量というよりもむしろ動物福祉論などの倫理的な側面を強調するようになってきており、捕鯨問題の争点はもはや「クジラが絶滅に瀕しているのか否か」というものを超えたところにシフトしてしまったといえるだろう。

 捕鯨問題は、環境問題というよりはむしろ政治問題として捉えるべきであろう。多数派工作や利益集団の影響力などは、外交の舞台では必然的にでてくることであり、それ自体を否定はしない。しかしながら、捕鯨問題に関して言えばそのような行動が一方的で、かつ少々行き過ぎてしまったように思われる。他の外交政策と同様に、アメリカと日本が双方の考え方を理解し、そしてそれを醸成していくという点が捕鯨問題にも求められるのではないだろうか。

参考文献

・森田勝昭『鯨と捕鯨の文化史』(名古屋大学出版会、1994)

・梅崎義人『動物保護運動の虚像』(成山堂書店、1999)

・梅崎義人『クジラと陰謀』(成山堂書店、1986)

・ジャニス・S・ヘンケ『あざらし論争_環境保護団体の内幕』(時事通信社、1987)

・岡島成行『クジラ論争』(岩波書店、1993)

・浜口尚『捕鯨の文化人類学』(新風舎)

・Ottaway,Andy『The Whale Killers』(Greenpeace、1992)

・『The Truth Behind the Whaling Dispute』

・「日本捕鯨協会」 http://www.jp-whaling-assn.com/

・「WCW(世界捕鯨者カウンシル)」http://www.worldcouncilofwhalers.com/

・「グリーンピース」 http://www.greenpeace.org/

・「WWF」 http://www.panda.org/

・「FOE」 http://www.foei.org/