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学長プロフィール

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 私はアメリカ合衆国の最北東部に位置するメイン州のオークランド(http://www.oaklandmaine.us/)という小さな田舎町で育ちました。メイン州は美しい自然に恵まれた土地で、私は畑や森に囲まれてのどかなアメリカの子供時代を過ごしました。

 1968年の高校卒業と同時にマサチューセッツ州にあるボストン大学 <Boston University> (http://www.bu.edu/)のパブリック・コミュニケーション学部に進学することになりますが、この頃はヴェトナム戦争の影響で、社会的にも政治的にも混沌とした時代でした。ボストンは大学が多く集う街として知られていますが、それゆえにこの時代には学生の反戦運動の中心ともなったのです。このような混乱の中で勉強を続けていくのが困難になり、休学を決意した私はトラックの運転手、競売人、工場の従業員、材木の伐採人など様々な仕事を3年ほど続けました。

 1972年に復学を決意し、ニューハンプシャー州キーン市のキーン州立大学 <Keen State College>(http://www.keene.edu/)で歴史の勉強を始めます。この大学では幸運なことに、私にとって人生のお手本となる素晴らしい教員の方々と巡り会い、彼らとの出会いを通して歴史と学問に対する情熱に目覚め、学問を仕事にしていきたいと思うようになりました。特に学部長であったピーター・チェン博士<Dr. Peter Chen>は、長年ハーバード大学のエドウィン・ライシャワー教授<Professor Edwin Reischauer>の助手をしていた方で、私の日本に関する研究はこのチェン博士を通して始まったのです。このキーン州立大学での非常に質の高い教育経験を通して、私はこのような小規模の公立大学も学生に多大な影響力を持つのだと痛感しました。そして質の高い公立の教育機関を維持していくことの必要性を強く認識したのです。

 キーン州立大学を卒業後、タフツ大学<Tufts University>(http://www.tufts.edu )のフレッチャー大学院<Fletcher School of Law and Diplomacy>(http://fletcher.tufts.edu/)に進みました。これはハーバード大学との共同プログラムとして実施されている、国際関係学の大学院です。ここで 2年間学んだ後、ハーバード大学院の<Harvard University Graduate School of Arts and Sciences>(http://www.gsas.harvard.edu/)で日本研究、社会心理学を専攻しました。

 私は当時、国際政治学や社会心理学、そして特に多文化コミュニケーションに興味を抱いており、フレッチャー大学と慶應義塾大学(http://www.keio.ac.jp/)との共同研究プロジェクトの中で、イメージ形成に関する研究に携わっていました。博士号の候補資格を取得した後には、この研究を続けるために慶應義塾大学の客員研究員として初めて東京を訪れました。それまで日本で仕事をすることなど考えたこともありませんでしたが、これは異文化についての見聞を深める絶好の機会だと思いました。時は1976年、おりしも日本が経済大国としての道を歩もうとしていた時期で、アメリカでも日本に関する研究が注目を集め始めていました。

 慶應義塾大学でしばらく日本語を勉強した後、同大学の新聞研究所<現メディア・コミュニケーション研究所>(http://www.mediacom.keio.ac.jp/)で研究員を務め、さらに同大学の国際センター(http://www.ic.keio.ac.jp/j-index.html)とも関わりを持つようになりました。このときに、後に慶應義塾大学湘南藤沢キャンパスの初代事務長に就任なさる孫福弘氏と出会い、一緒に仕事をする機会に恵まれたのです。

 私は当時、博士号論文のための研究も日本で進めていたのですが、このときのテーマは、ハーバード大学でデイヴィッド・マクリランド博士<Dr. David McClelland>(http://www.dushkin.com/connectext/psy/ch09/bio9b.mhtml)のもとで学んだ動機づけ社会心理学です。マクリランド博士は、達成に関する要求、権力に関する要求、そして帰属に関する要求という3つの動機付けの理論で有名で、私はこの理論を日本の女子大学生のサンプルグループに当てはめてみたのです。この研究は、ある特定の文化の中で発達した方法論が別の文化でも有効かどうかを確かめることが目的でした。研究からは有効であるという結論が導き出され、次の段階では、日本の女子大学生が伝統的もしくは伝統的でない生活のどちらかを選択する際に、その決断と3つの動機付けとの間に何らかの相関関係があるかを追求することでした。

 この研究の後、私はフレッチャー大学院に戻り2年間を過ごすことになりますが、この間に博士号論文を書いて口頭試問をしました。そして同大学院のマロー・センター<Edward R. Murrow Center for Public Diplomacy>(http://www.publicdiplomacy.org/1.htm)で働きながら、地域の様々な大学や短大でも非常勤講師として講義を担当しました。

 1980年に博士号を取得した後、慶應義塾大学の招待で再度来日を果たし5年間滞在しましたが、このときには国際センターでの講師や同大学の産業研究所(http://www.sanken.keio.ac.jp/index_j.html)での研究職を務めながら、外国人教員及び学生のサポート業務や、アジア発展史プロジェクトにも携わりました。

 1985年にマサチューセッツ州に戻り、以前非常勤講師を務めたメリマック大学<Merrimack College>(http://www.merrimack.edu/front.php)で政治科学の助教授として教鞭をとり、比較政治学、日本政治学や国際関係学などのコースで講義を担当し、5年ほど過ごしました。この頃にニューイングランド周辺の多くの大学機関で、日本研究に関するワークショップやセミナーを開催していたニューイングランド‐ジャパンセミナー<New England-Japan Seminar>のメンバーにもなり、後には理事長も務めることになります。

 1990年には新潟の国際大学(http://www.iuj.ac.jp/)で日本研究を教える准教授として再び来日し、その後、同大学の国際関係学研究科長に就任しました。この国際大学に関しては、私が日本で巡り会った真の意味での国際的な教育機関のひとつと言えるのではないでしょうか。学生は半数が日本人、残りの半数は世界30カ国以上から集まった外国人で、教員もとても国際色が豊かでした。私にとってこのような環境がとても刺激的であったことは言うまでもありませんが、大学の位置する越後三山は非常に美しい土地で、登山やスキーも心置きなく楽しむことが出来たのです。

 この国際大学での研究科長の経験を通して、私は大学運営を専門に行いたいと思うようになっていました。ここで再度アメリカに戻り、ヴァージニア大学<University of Virginia>(http://www.virginia.edu/)のダーデンスクール<Darden School>(http://www.darden.edu/)で1年間客員教授を務めた後、マサチューセッツ州ウースターにあるベッカー大学<Becker College>(http://www.beckercollege.edu/)の副学長(最高教学責任者)に就任しました。ベッカー大学は、近年に短大から4年制に移行したばかりの小規模な大学で、これに伴い教学及び運営のシステムも変える必要がありました。ここで私は最高執行責任者(COO)も務め、前学長フランクリン・ロウ氏<Dr. Franklin M. Loew>の死去に伴い、学長代行に就任したのです。

 ちょうどこの頃、前述の孫福氏から横浜市立大学の改革に彼が関わっていることを聞きました。彼と私は知り合って以来ずっと親しい関係を保っており、日米両方の大学運営についてなど、何時間も意見を交換し合う仲でした。孫福氏が横浜市立大学の理事長として任命された際、彼は私に大学改革推進本部の参与を引き受けて欲しいと言いました。こうして私と横浜市立大学との関わりが始まるのですが、2004年6月に孫福氏が急逝し、私の横浜市立大学に対する思い入れはいっそう強まったのです。その後新たに理事長に任命された宝田良一氏の勧めで同年8月に参与として来日、2005年4月には学長に就任しました。

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