村田暁生の証拠物件について

Evidence?Evidence?

新コンテンツ…っつーか、昔やってたのの復活かな。
…と思ったら昔やってたのも発掘しちゃったので、一緒に。

何を書くかってーと、気になった言葉とそれに関する検証を無作為全方位的にコメントしてみるっていう感じのもの。あまり期待しないでね。 ボク的なキーワードとしては、Soul of Words ってとこかな。
シャーマニズムとかアニミズムではないんだけど、言霊(ことだま)というものはなんかあるよなぁと感じてるのでした。意識することから、表現することの間にはものすごい隔たりがあって、さらに実行するという先があるわけですが、表現をした時点で実行したのとほぼ同じくらいのパワーというか破壊力を持つわけです。

とか大げさなことを考えてる割には、大したキーワードが並ぶわけではないので…。

※うひゃー、昔のコンテンツがハードディスクあさったら出てきた。追加しちゃお。はずかし。ちなみにそのときのコンテンツ名は「Evidence/証拠物件」だったのだ。

キーワード一覧(新しいものほど上)
新幹線の事故 のんきなエラい人
税金 季節柄ね…
責任者の無責任 ちーたぁ考えようよ。
100の質問 ここまで来るとかわいそう…
主体性 最低限、誰が主体性を持つかくらいは…
やったことがある 経験だけがすべてではないとは思うが
できないとやらない やれよこら
信頼と期待 どこから変わっちゃうのかなぁ
けじめ 形式的なものだけど…
無計画 それって結局無計画じゃん
ルーツ 深夜に昔の自分と対面
比較形容詞 何かと何かを比較する言葉
しあわせ? ふしあわせ? すみません。また短い。しかも駄洒落かい。
久しぶりに短い。
劣等感と優越感 表裏一体なのよね。でもどっちも不必要。ちと長いな。
弱者と強者 弱いものほど強い…けど。
子供 無邪気さは決して天使ではない。
責任 責任を取るって簡単に言うけどさ。
能力と力 能ある鷹は…。
隔世遺伝 生き方って誰かに似るのかな。
真実 12月26日のタメイキにも触れてるけど、真実ってひとつじゃないと思うのよ。
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新幹線の事故

ついに新幹線で人身事故が…。とんがった500系ののぞみに、自殺志願の郵便局員が飛び込んだそうで、先っぽにぽっかり穴が開いてる映像が映った(右の写真はニュースサイトから拝借)。

JRのエラい人は何を勘違いしたのか、「穴が空いても走行に支障はまったくない。大丈夫」とか言ってたけど、これって怖いよねぇ。爆弾抱えてたってフラフラ線路内に入れちゃうってコトを改めて証明しちゃったわけで、トラブルがあったときのエラい人たちの勘違い説明は、おかしくもあり恐ろしくもあり。

まあ、完全な安全なんてものはないんだろうけれど、ちょっと見る方向が違うんじゃないかなぁ。

 

(2004/02/11)

税金

税金…特に日本の税金っていうのは結構よくできている。たくさん稼ぐ人からたくさん取ろうという仕組みがちゃーんとできていて、富の分配の機能がうまーく働いている。

なんていえるのは税率が2割程度をうろうろしてる僕らのようなかたがたまでかも…。

まぁ、結構ビンボー人は税金のこと知らないから、ちょこっと自分の払う税金が下がると大喜びするんだよね。逆にちょこっと増えたら大騒ぎ。例えば一律で控除額が30万円上がるとどうなるか…。税金負担がなくなるぎりぎりのあたりの人は大喜びするよね。でも所得税で考えたら年間たった3万円なのよね。3万円が大きい?? だけど、もっと稼いでる人は15万円くらい税金が安くなるって分かる?

累進課税ってのをちょっと調べると分かるんだけど、控除額を上げてしまうとビンボー人よりお金持ちが得をしちゃうんだよね。ほんで、税収が足らないから消費税アップ…なんてことになったりすると、目も当てられませんなぁ。

むかしのイラク戦争で90億ドルを日本が多国籍軍に拠出…なんて話があったころ、国民一人当たりの負担が約10,000円ってな報道があった。(90億ドル×135円/ドル÷1.2億人=10,125円なのであながち嘘でもない)

これで気を良くした人が、納税者一人当たり20,000円とかまで言い出した。んで、確定申告しに行くとき見た風景で、「一人当たり2万円も出すんだから、税金を払わなくていいんだ」とごねてるおばさん。しんじらんないことに、その人は税額が2万円ないわけですよ。

間違いなくあなたの払うべき税金からは2万円も出ないわけで…。なんか、悲しくなるというかなんというか。もちっと俯瞰的に見ないと、影でお金持ちが舌出してるからねぇ。気をつけよう。

(2004/02/11)

責任者の無責任

頓に最近よく聴くようになった言葉がある。

「聞いてない」とか「見ていない」とかいうのがそれ。まぁ、大体において出てくるシチュエーションは、なーんとなく議論の流れや行動の結果が、話をしている上で雲行き怪しくなってきたときなんだよね。

例えば、会議を開催する。事前に周知して、スケジュールも押さえ、実際に始めようとすると参加してこない。どうしてもそこで必要な(立場の)人がいないまま、決定できなかったり暫定的に話を進めざるを得なくなる。

そして、何かが起こり解決策も提示したところで出るのがこのセリフ。

聞いてないのは判ったっつーの。今からでもいいから聞けばいいのに、「そのときに聞いていない」「そのときの雰囲気がわからないから判断できない」等々。だったら最初に来いっつーの。

「聞いてないけど、その話から判断すれば…」という話になることを期待するわけだが、いくらサマリーを伝えても、「それはキミの個人的意見だろう」ってなことになる。

ほんで仕方ないから、再度会議開催・全員召集。一通り話をして、ほらね言ったとおりでしょう??で終わってしまうわけですな。

…とまあ愚痴っても仕方がないのだが、結局「考える」「推測する」ということを妙に・かつ極端にリスキーに感じている人たちがいるってことなんだよね。価値観の多様化を逆説的に捉えれば、自分の感性(理性ではない)に必要以上の価値を感じてしまうってことなのかしら。

仮設を立て、実行し、検証する。たったこれだけのことを、大人になるまでに経験しないでいると、本当につまらない責任者が生まれる。前例をあたるのも大事。賢者に聞くのも大事。でも、それで集めた情報は結局自分がジャッジするしかないんだよね。

ちょこっと前に見たテレビで、イランに派兵される自衛隊員の訓練をやってた。検問を敷いて職質(?)をして、そこで自分や民間人に銃を突きつけられたときどうするか…という訓練。「上長に確認します」と走り出した若い兵隊さんが映っていた。…恐ろしいことですね。

ビジネスの世界ではさすがに命に関わることはないかもしれないけれど、瞬間瞬間の判断が必要とされるわけで、お客様を目の前に「聞いてません」なんていえるものなら言って欲しいものだ。

…でも言っちゃいそうなのが、笑えないところ。はぁ。
人は人・自分は自分で割り切るしかないのかねぇ。

(2004/01/02)

100の質問

バカじゃないかと思うけど、「100の質問」って言葉で検索してみると恐ろしい数のサイトやページがヒットする。ちらちら見てみると、どれもこれも「読むであろう誰か」に向けた妙な楽屋落ちやおどけた台詞が並ぶ。

誰がはじめたのか知らないけど、なんとなく後髪にまとわりつく感じをたどってみると、むかーしアイドル雑誌とかで、決まった質問が10個くらいあって、それに回答をさせるような企画がよくあったようなことを思い出した。決まって「お風呂に入るとどこから洗いますか…」ってのが入ってたアレですよ。アレ

勝手な思いかも知れないけれど、インタビュアーが質問して回答を載せてもらうのは、読者の代弁として聞いてくれているわけで、大前提がその人を知りたいから質問があるわけだよね。それでもサイトを立ち上げたり、ウェブページを作ったりで、それ以前から例え小さくても「その人を知りたい」という気持ちを持つ人がいるならば、まだ分かる。

もう目に付くのが、他のサイトの掲示板のようなところに「自分もやってみたくて」とか抜かしていきなり100の質問とそれに対する回答をずらずら並べ始めているやつらまで出てくる。大体、コミュニケーションってのは一人では成り立たない。ところが、誰でも回答するだけで、なーんとなく誰かとコミュニケートした気になれる「100の質問」は、作る側にとって見れば何もない(聞いてくれる人も居ない)自分に取って、情報提供をする(っつーかした気になる)にはとっても便利なもんなんだろうね。

質問の塊に著作権を主張するのもどうかと思うが、これまた作った人のエゴと偏見と差別が思いっきり入ってて、ひどいものです。

自分から提供する話題がないなら、無理して提供する必要はないし、自分にも簡単にできそうっていう時点で、不特定多数の人間にとって誰も欲しくないモノだということを、早く分かって欲しい。話す相手もいないのに掲示板を作ったり、載せることもないのに日記を見せたり、目的と手段の逆転の見苦しさって、気付かないもんなのかしらねぇ。

…と、ふと気に入ってるサイトのキーワードに「主婦の100の質問」とかバカなのを載せてくれる方がおられたものでついいろいろと考えてしまった。

(2003/07/01)

主体性

ほーんとこのところいらつかせられる人物がいる。

何様のつもりか知らないけど、自分が関わってるプロジェクトの進捗報告に、「利用者の立場に立った提案になっているか疑問を感じる」とかコメントしてるのよね。だけど、そのプロジェクト進めてるのは、お前じゃん!!

疑問を感じるなら、疑問を感じない提案を自分が出せばいいわけで、かつ自分がそれをできる立場というか、アイデア出しもしなくちゃいけないはずなのに、その場では何も言わず何も提案せず黙ってるだけ。それでいながら人が出した提案にケチだけこっそり報告してる。

いったいなんなんだろう。関わっていないものの、おかしすぎるんで、つい横から「そう思ったということをなぜあなたはその場で言わないんですか?」と聞いても、「いやぁ」とか言ってニヤニヤしてる。僕には関わりのないことなんで、それ以上突っ込んじゃいないけど。

見かねて、かるーくアイデアを出して、「こんなのってどうでしょう」とか聞いてみれば、「おみごと」とかふざけた感想を抜かしてくれる。

人をなめるのもいい加減にしてほしい。とにかく、生きてるんだか死んでるんだ分からないその目線なんとかしてくれよ。目が合っただけでビクッと反応するのやめろよ。ほんと、吉田戦車の漫画に出てきそう…。

はぁ…。で、結局思ったのは「主体性」をもつことって、ある一部の人にとってはどうにも越えられないハードルなんだろうなと。いったい人生のどのタイミングで、そうなってしまうのか分からないけど、きっとどこかで何かを選んじゃって、結果もう二度と越えることができなくなっちゃうのかもしれない。

真剣に生きないでも生きていける日本って、なんか平和というか素敵な国よね。

(2003/07/01)

やったことがある

当てにならないんだよね。本人の言うこのセリフ。

たまたま,ある打ち合わせ(…というより飲み会?)で,ちょこっと話題になった。

仕事柄,プロジェクトがスタートする前に,いろんな人と会って初対面の人と一緒のチームを組むことが多い。当然,いい意味でも悪い意味でもお互いにスキルチェックも兼ねた「どんなことを…」という会話になるわけだ。

当然,たくさん関わってきたそれぞれの仕事が,そんな端々の会話で全部理解できるわけじゃないんだけど,「やってきたこと」よりも「それに関わった際の立場とか役割」の方が絶対重要。

100人のプロジェクトがあれば,まあ実際には5人程度が大まかな「役割」を持って,その他の95人くらいは実際の作業に当たったり,指示通り動くことが役割だったりする。

それはもちろんプロジェクトを進める上でとっても大事だし,欠かせない要員であることは間違いないけれど,その立場と回す側の立場はぜんぜん違うんだわ。

当然プロジェクト立ち上げ時のお互いの紹介なんだから,面接でもなんでもないわけで,下手に自分を大きく見せる必要はないと思うのよね…。

…なんだけど,「なにそれに関わってきました」「どれそれはやったことがあります」…,もーほーんと当てにならないことを言う人が多くてやんなっちゃう。やらしてみたら,ぜんぜん知らないし,動けない。気付けよそれぐらい!!ってことが平気でおろそかになる。っつーかさ,日本語通じてる? とか 実際に客になってみたことある?みたいなレベルでつらい人が多い。ちょっと考えれば分かることなのに,「なるほど,それは気付きませんでした」って,お前やったことあるゆうたやんか!?

聞いてみれば,その辺は先輩が…モゴモゴ,その辺はリーダーが…モゴモゴ,そのモゴモゴ言うのをやめろーー。

すこーしだけ大きく言うことは,より大きなチャンスやフィールドを手に入れて試すためには必要だと思うんだけど,もう少しばかり謙虚に表現してくれてもいいんじゃないかなぁ。

「こんにちは」が言えるだけで,堂々と「私は日本語がしゃべれる」というのはどうかと思うぞ。

(2003/06/08)

できないとやらない

前にも書いた気がするけど、ほーんといらいらさせられるのが「できないんですよ」という言い訳。

あるいは、「できるからいいですよね」とかいう、わけのわからん持ち上げ。

こっちだって最初からできた訳じゃないやい! やってきたからできるようになったんだろ!! できないと嘆く前にまずやれよっ。わーん(/_;)(なぜなく)

(2003/05/21)

信頼と期待

かなり悲しいことがあると、それに対して考える。結構、堂々巡りになっちまうんだが…。

考え方生き方振舞い方しぐさセンス…、なんでもいいんだけど「いいなぁ(はぁと)と思うと、その人に対して結構カンタンに信頼する自分がいる。ほんでもって、信頼する相手がよりよい状態になって欲しいと思い、ついできる範囲だけど手助けする。

適度な時間(堪忍袋?)というものがあると思うんだが、しばらくはそれだけで幸せ。ある種、盲目にエールを送るしパワーを使っちゃう。ところが、次第に時間が経つにつれて、自分の中で「あれ?」と思うようなことが出てくる。

あれ? それじゃ、なんかずいぶんそっちだけ都合よくない?

ん? ボクものすごく犠牲払ったけど、これからも犠牲を払えっていってる?

げ? せっかく用意したリソースがそれじゃ無駄になっちゃうけど、いいの?

えぇ? これまでつぎ込んだお金はチャラってこと?

おいおい? まだつぎ込めっていってる?

…あのさぁ、いいたかぁないんだけどね…

最初はちょっとしたボタンの掛け違いかもしれないんだけど、次第に疑念が沸いてきちゃう。でも、信頼したのは自分だから…決定したのは自分だから…、と自分を騙していると…。やっぱだめだわ。

なんつーのかな、どっかタイミングで「よしよし」して欲しいのよ。お金とはいわないし、モノともいわない。地位がほしいわけでも、肩書きが欲しいわけでもない。

ただね…。そういうこっちの気持ちが「当たり前」ってされちゃうとさぁ、急に「もったいなく」なってきちゃうんだよね。「当たり前」=「今後も当然の要求になる」ってことで。そうなると、もう何かを期待している自分を見つけちゃって、ダメ。

それまでのような無償の愛が消え去って、労力を回収したくなってくる。正当な評価がほしくなってくる。でさぁ、もうこの気持ちがダメダメじゃん。ぜんぜん。

最後に自分を慰める言葉は、「信じた俺がバカだった」…いつまでもバカから成長できないのが悲しいんだけど、そういいつつ信じちゃうバカな自分を辞める気もないってのが、またバカたるゆえんだな。

バカは死ななきゃなおらねぇ…といったのは、誰だったっけ。

(2003/05/21)

けじめ

というわけで、無事に娘も小学校を卒業したわけだが、ふと思った言葉が「けじめ」だったりする。なにごとにも始まりがあり、継続中や経過中には気付かないが、いつか終わりがある。

けじめがない終わり方ってのは感覚的には、経過や過程さえも無にしてしまいかねない。ちょっと言い方を変えると「くぎり」かな。なーんとなく終わっていって、気付けば意識にもあがらなくなっていく…なーんてやつは、やっぱりその程度のものだったりするんだろう。

ことさら仕事や人付き合いにおいては、いつ終わるか分からないからこそ、毎度毎度けじめをつけて、いつどうなってもいいようにしておくようにしている。というかそういうのが好き。時間を区切る忘年会や新年会もそうだし、人員構成で区切る壮行会や歓送迎会なんかもそうだよね。

ただ、実はけじめなんてものがなくても、心のどこかで「終わった寂寞感」とか「続いてる熱さ」とかってのは自然と感じているもので、結構結果としては正しかったりする。例えば、男女の仲なんかもそうで、ボク自身は言葉に出した始まりとか終わりって今まであまり経験がない。より欲望っつーか衝動っつーか、心に近ければ近いほど、けじめなんてなくてもいいのかも?

ということで、形式的なものであればあるほど、盛大な「けじめ」をアピールするんじゃないかと思ってしまったのであった。卒業式とか入学式とか、結婚式とかお葬式とか。

うーむ、テーマの中で矛盾したことに突き当たるのはまだ踏み込みがあまいな。でも、けじめを大事にする人って好きだな。後腐れがない分、改めて、その人と躊躇なく別のテーマで始める事ができるってのは、お互いにいいことだと思ったりする。

きっちり終わってないと、次が始められないんだよね。

(2003/03/23)

無計画

コンテンツサービスが充実してくる中で、当然ながら広告するってことが重要になってくる。このキャッチフレーズというか、キーワードってすごく変だよね。

「パパって無計画ね!」なんてもう言わせないぞ。

と、まあこれは、車で出たままいろんな観光情報やグルメ情報、スポット情報が検索できるサービスのキャッチなんだけど、こういうのに頼るその神経が無計画っつーの。

(2003/02/17)

ルーツ

いやー、なんか今日はいろいろ検索してしまったんですが、ネットにはまる大きなきっかけになったのが、ボクはASCII-NETの実験サービスでした。青本世代です。緑本ってのもありました。

んで、いろいろあって、渋谷にできた「パソコン通信喫茶」というのの立ち上げに関っていくんですが、ふと検索して出てきたのが以下の記事。

■Internet略小史 '80s後半

ここに
1985年 アスキーネット実験運用
1986年 パソコン喫茶シティロード開店
ってな記述が。ちなみにシティロードというのは当時「ぴあ」に対抗する唯一のタウン誌でした。すでに廃刊されていますが…。

あと、
■谷山浩子のオールナイトニッポンですのよ、1986年2月20日

これ谷山浩子さんというシンガーソングライターが、そのシティロードに遊びに来たときの放送。笑っちゃうのが以下の記述、
『おしまいのトーク:
「最近、パソコン通信を知った。喫茶店でやっているところがある。
渋谷の『シティロード』。パソコンの使い方としては明るい方だと
思います。かわいい男の子いっぱいいますからね。」』
この取材のときに対応してたの当時18歳のボクなんですよねぇ。

インターネットにはフロー情報ばかりでストック情報がないとはいうものの、こんなところで過去の自分に対面するとは、ちょっと叙情的になってしまった午前3時でございました。

当時関ったメンバーのひとりと昨年、ほんとうに偶然再会し、一緒に仕事をすることになってしまったのも不思議な縁です。

(2003/01/30)

比較形容詞

ちとグチっぽい内容だけど…。

「高い⇔安い」、「早い⇔遅い」、「多い⇔少ない」、「重い⇔軽い」

モノ同士を比較する形容詞ってもんにはいろいろあるし、上に挙げたように対義語になっているものもたくさんあるんだけど、これがコンピュータのことになると突然「形容詞」だけで通じると思う人が多くなるような気がする。ついつい、役に立ちたいと思ってはまるんだよね。

「○○ってヤスイ?」ってな感じで聞かれるんだけど、いつも「何が?」とか「何と比べて?」と聞き返すことになる。けど聞いたほうも「何がって何?」「何とって何?」ってな状態。要は質問が漠然としていることに自体に気付いていないから、これを聞きだすのはお互い消耗戦になる。必死に聞きだしてみれば、「最初からそのことを言ってることがお前には分からないのか」といった口調や表情になったりするんだよね。まあそうなる気持ちも分からないでもないけれど…。

で、大体において、知りたいことはその質問に対する回答のにあって、その前提条件を知りたくて聞いてきているケースがほとんど。そういうのはさぁ、先に「何がしたくてその質問をしているのか」ということを先に言ってくれたほうが、理解も説明もしやすいんだけどなぁ。聞きたいことはその先なんで最初の質問が漠然とするのも仕方ないんだなぁ。

結局、こういうのって相手がどこまで本気で知りたいかは気にせず、まずは適当に流しておいたほうがいいんだなあと思うことが多くなってきた。適当なレベルで聞いている人は中途半端な答えでも「ふーん、なるほどね」で終わるし、本気で知りたい人はモノ足りないから食い下がってくる。親切心を出して、あんまり先回りして、ああだこうだいってると、結局、聞きたいほうも役に立ちたいと思うほうもだんだんと不快な気持ちになってきたりする。

親切もやりすぎればでっけぇお世話になるわけで、過ぎたるは及ばざるが如しってところでしょうかね。あら、テーマのタイトルとそれてしまった。

(2003/01/25)

しあわせ? ふしあわせ?

「お手々の皺と皺をあわせて、しあわせ…なーむー」

どっかの仏壇のコマーシャルで、妙に老け顔の女の子が言ってた。

「お手々の節と節をあわせて、ふしあわせ…なーむー」

これは誰も言ってないか。同じ行為でも見るところ、気にするところによって、受け取り方は正反対。アホでもいいから、幸せに感じてるほうがいいや。

(2003/01/16)


自信のないときは、守秘事項でもないのに声が小さいね。
聞こえるように話せよ。聞かせる気があるならさ。
自信がないなら黙っときな。聞き取っても、検証すんの面倒だから。

(2003/01/13)

劣等感と優越感

仕事の中でたまたま面白そうな実験(というと失礼かなぁ)が出来そうだったので早速やってみた。

専門家にはいろいろいる。ある人は、相手の言動の細かな言い回しや表情から、自分の知識や知恵を総動員して何に問題があるのかを探り出す。これに対して、ある人は、知識や知恵を相手が十分な前提条件を出さない限り使おうとしない。まあ言ってしまえば、後者の人たちはレベルが低い方たちで、常に自分の知識や知恵のなさが露見することを非常に恐れているわけだね。このレベルの差ってなんだろうと思うと、突き詰めると自分を常に主体的に捉えるか、他人との比較で捉えるかってことなんだよね。

これは強者と弱者の中でも触れたことかな。で、専門家を使うときは、その専門家がどういうタイプかを見極めると同時に、その人にあった情報の提供を行なうことが結構重要になってくる。

さて、実験の内容だが、特に仕事柄「技術者」と呼ばれている人たちとのやり取りが多いため、またもやその話になってしまって申し訳ない。

ある技術者に、何度か状況に対する意見を求めていたことがある。結局、その技術者は問題点の把握をしようという努力を怠るため、彼の思考で解決すべき部分まで面倒を見るのが面倒になって、いつもボクのほうから「ボクは説明が下手だから」と意見を求めるのをやめていた。こういう、目の前にすべて下ごしらえした食材と、調理器具と、分かりやすいレシピがない限り動けない人との議論は得るものがない。食材の下ごしらえの仕方から、違いをお互い見ることで、いつもと違うよりおいしい料理にたどり着けるということが彼らにはわからないから、出てくる料理はどこかで食べたようなものばかり。

ま、それはさておき、あるとき、関連するネット上のサーバーがどうやら踏み台にされて、別の場所への過大なアクセスが行なわれていた。ふとここで実験心がむくむくとわいてしまったのだ。

あまりボクもその道を極めているわけではないのだが、とりあえずドメインの所有者の確認と払い出しIPアドレスの所有者の確認を行なうのが基本になる。簡単に言えば、誰の名義でどこにあるサーバーなのかっていうことだね。で、件(くだん)の技術者に、あえて片方の確認の結果だけを伝えてみた。

これが案の定、すばやくその情報を開示されたことからか彼の劣等感を刺激し、ついでより正確な情報を見つけようという気持ちに火をつけてあげられたようで、必死に調べてがんばってくれた。結果、原因が分かり状況を特定することが出来たわけだが、この瞬間にこの人の中で劣等感が優越感に変わってくれたことと思う。

この不十分な情報での結論を目の前で伝えようとするという行為は、若干諸刃の剣になる危険性があるので使うタイミングには注意が必要だが、職域を侵される危険性や優越感を持たせる余地を与えるという方法で、こういった人でも利用(?)が可能で、また効果が出せるなあと思った次第。いっちゃぁなんだけど「バカとハサミは使いよう」と昔の人も言ってるしね。

ところで、この結果を見てハタと立ち戻り、冒頭に述べたレベルの違いってなんだろうと考えてみると、この劣等感や優越感の根源がそれなのかもしれないとの考えになった。

れっとう-かん 【劣等感】
自分が他より劣っているという感情。⇔優越感
ゆうえつ-かん いうゑつ― 【優越感】
自分が他人よりすぐれているという感情。⇔劣等感「―に浸る」
大辞林第二版より

まあ、あえて辞書を引くまでもないものの、この赤くした部分「他人との比較」というのが、レベルを変えてしまう大きな要因ではないかとの考えにいたった。

レベルとか言っちゃうとなんか偉そうで聞こえは悪いんだけど、つまりは自分の立ち位置を人との比較(あいつよりすごい、あいつに勝てないなど)でしか捉えられないでいると、いつまでもその程度になっちゃうわけ。

これは年齢や経験ではなんともしがたい部分らしく、この観点で人を見てみると大体において一目置いている人たち・尊敬している人たちは、他人との比較を感じさせることがほとんどない。自分の立ち位置を自分で知っているので他人と比較する必要がないのだ。ついでに言うと、この方たちは他人の成功を賞賛し、他人の失敗を我がの経験にしようとする。ちなみに、レベルの低い人は、他人の成功を妬み、他人の失敗を嘲笑する。うーん、大きな違いだ。レベルだけでなく対象物への距離感や好意も関係してるけどね。

で、まあ、そんなわけで突き詰めれば自分に自信を持てることってのが一番大事なんだなぁと当たり前のありきたりな結論になってしまった。

人は人、自分は自分、まずそれが大事。つい他人と比較したくなる心が自分にもどこかにはあるのは確か。そのときに、自分だったらどうだったかという観点で考えるようにしないと、気付けばいつの間にか、ずるずるレベルが落ちていく。気をつけないとね。

(2003/01/11)

弱者と強者

ちろっと前にも書いたけど、強者と弱者、どっちが強いかっていうと、弱者なんだよね。捨て身の弱者ほど手に負えないものはない。

強者が強者然とするとかっこ悪い。というか偉ぶってると偉く見えないし、強がってるのも強く見えない。まあ、「…ぶってる」とか「…がってる」という表現自体が、パチモンの表現なんだけどね。

ただ、弱者が弱者であることを盾に強者に食って掛かる姿も、はっきり言って醜い

「私はこんなにひどい目にあったんだ!!」とか、「私はこんなに情けないんだ!!」とか、惜しげもなくカミングアウトされてもさぁ、確かに同情はするんだけど、何とかしてあげようとは思えないし思わない。つい、「これ笑うところですか?」という確認したくなってしまうのよね。ましてや、確かに「それ」が原因で起きた悲劇だとしても、「それ」以外に要因があるのに「それ」だけのせいにして食って掛かる姿は…ヽ(´ー`)ノ(やれやれ)…って感じ。

結局のところ「弱いからといって弱ぶらない」「強いからといって強ぶらない」ってことなんじゃないかなって思う。身の丈にあった自然体が一番よ。っつーか、「人にどう見られるか」を過剰に意識した行動が醜いのかなぁ。

どうして、弱者のほうが強いかっていうと、やっぱり弱者って強者より捨てるものが少ないじゃない。捨て身の人は強いと思うよ。でもね、勝ち負けを決した結果、お互いに多くのものを失うのは悲しいと思わない?

出会いの原因が悲劇だったり、出会った結果が悲劇だったりしたとしても、なんていうのか最終的な評価が決まるのは「自分自身が決めたとき」なんだよね。相手のためにではなく、自分のためにも、悲劇でない最終評価をたくさん持ちたいと思う。

不満ばかり言ってる人ってたまにいるんだけど、相手が違ってもトラブるってことは、やっぱさぁ、本人に問題があるってことじゃないのかしら。

「負けて勝つ」人ってかっこいいと思うなぁ。そうありたいです。

(2003/01/07)

子供

自己紹介にも書いていることなんだけど、小さな頃から子供好き

どのサイズでも構わないんだけど、得意分野は3歳〜6歳くらいの自我を言葉で表せるようになった頃。どうなんだろう。いわゆる反抗期とかいう頃になるのかしら。

子供を称する言葉として「天使」とか言うことが多いよね。ま、これもよく言われることですが、知ってる人なら口をそろえて「ンなこたァない!」と合唱になることでしょう。ボクもそう思うひとり。

子供ってなんていうのか、無邪気なわけです。自分の欲望にめちゃめちゃ正直無邪気。他人がどうあるとか、自分がどう思われるとか、あまり関係がない。とにかくストレート。

自分の娘が小さかったとき、エスカレーターですれ違う反対側に、なんというか…、ちょっと他の人と違う顔の人が乗っていました。って、たいしたことではないんだけど、顔半分ほどの大きな痣というか、真っ黒なアト(ホクロ?)があったのよね。娘は不思議に思い(いや、ボクも思うんだけどさ)、反対側のその人に突然「どうして顔が半分黒いの?」と訊いてくれちゃったわけだ。でも、悲しいかなエスカレーターは進み、その方はこちらをしばらくにらんで降りていってしまい、娘は遠くなる相手を不思議そうに眺めるだけ。

無邪気だわ。ほんと。知りたいという欲求に対して、余計な邪まな心がないからストレートに訊ねる。一緒にいたこっちは、非常にバツが悪い思いをしつつも、「いやボクも知りたいわ、それ」とひとり妙な納得の仕方をしてしまっていた。

勝手な推測や、間違った思いやりで「訊いちゃいけないよなぁ」とか「これはまずいよなぁ」といって、独りよがりに自粛してみたり、避けてみたりするけれど、結果的に相手はそんなことを思っていないばかりか、そういう自粛をするということ自体が、かえって失礼になってしまうこともある。そう思うと、疑問は少々相手に不躾になっても確認して、解消してしまうほうが結果としては両者にとって不愉快な思いをする可能性は少ない…なーんて思ってしまうわけであった。「人が嫌がることは止めましょう」…道徳か何かで聞く言葉だけど、どっちかていうと「その人が嫌がったことは止めましょう」の方がよいと思うのよね。嫌がることなんて人によって違うんだからさ。

そんなわけで、無邪気な子供と、その欲求がどこから生まれてくるのかを観察しながら、会話したり遊んだりするのが楽しい。

保育園に子供たちを預けているとき、父母会の会長などという役目を仰せつかり、喜んで引き受けたのも、120人の子供たちと遊べるぞーという思いだった。その年は120人すべての子供の名前が分かっていて、やつらも「××ちゃんのパパ」という認識をすべて持ってもらえた(あ、すべてはうそです。0歳児は無理でした)。

その1年間の間に本当にえらい勢いで、人間の欲望の根源のようなもの、萌芽のようなものにたくさん触れることができた。えーかっこしてるばかりが能じゃないよ。たまには「自分がなぜそうしたいのか」「自分は本当にそうしたいのか」を、ぐーっと掘り下げてみると結構面白いと思うんで、お試しあれ。

(2003/01/03)

責任

「この責任をどう考えておられるのでしょうか」

今日もなにかのニュースで、どっかのレポーターが、なんかをしてしまった人(あるいはそれを管理監督すべきであろう人)に問いかける。

10年1日のこのセリフ、こういうシーンでは「ごめんなさい」と言った上、「今後起きないように注意します」、あるいは「責任を取って辞めます」のいずれかしか選択肢はないと思われ。

はて、責任を取るというのはどういうことなんだろう。起きてしまったことを起きなかったことにすることはできないわけで、まあいっちゃって「いまさらどうしようもない」というのが、本当のところ。そんなことは聞く側も答える側も分かりきっているのに、今日も同じ質問が繰り返される。

ボクが思う責任とは、逃げずに続けることでしかないと思っていて、どういう状況になったとしても「最善の方法を考え」、「そのためにできる限りの行動をする」ことを表明し、実行することではないかと考えている。まあ、確かに「辞める」というのも責任の取り方かもしれないし、そういう形を責任だといわれてしまうと、もう追及は不可能。ただ、それって「わたしゃあとのこたぁ知らないんで聞かないでね」と言われてるようなもんだよね。

続けることは苦しい。自分のせいで間違った道に進んだかもしれない、人に迷惑をかけたかもしれない。失敗に気付いた直後は自分のジャッジに自信がもてなくなる。でも、これらのミスは全部過去の話。間違いに気付いた本人こそが、他の人よりも同じ轍にはまらないよう気をつけることができるだろう。

ビジネス書のランキングなんか見てると「成功体験の共有」ということを優先事項に置こうとする傾向がどうもあるように感じるが、そんなもんは「へぇ」「よかったねぇ」くらいの役に立ったり、感動してみた気になってみる程度の役にしか立たない。共有すべきは「失敗体験の共有」ではないかと。

誰しも痛い目に会いたいとは思わないだろう。他人が考え行動したが結果が伴わなかった。そのことの原因は、タイミングかもしれないし、手法の間違いかもしれないし、単に実行した人間がいけなかったのかもしれない。その分析が正しくできればできるほど、同じ失敗を繰り返さないですむ(違う失敗を起こす可能性はあるけどね)。

と、いうわけで、ボクは、まず継続し、原因を探り、原因を排除し、より効果を挙げるべく継続することこそが、最大の責任の取り方ではないかと思う。これを主体的に行うのが「責任を取る」、他人の主体性に従って行うのが「義務を果たす」ということかな。

あ、そうはいっても、意思もなくだらだらと自分自身の個人的な利益確保のために継続することは、ちょいと違うんでそういう人はさっさと辞めるように

(2002/12/30)

能力と力

以前、IBMのビジネスパートナーにおいて、ボクは5年ほどSI営業という役割を持っていた。なんだかよく分からない仕事ではあるが、簡単に言えば、企業の業務内容を分析し、より適切なハードウェア、より適切なネットワーク、より適切なソフトウェアを組み合わせ、総合的な提案をし、買っていただくという仕事。地方とはいえ、なぜか銀行、病院、社会福祉法人といった、分不相応に大きなお客様の業務をお手伝いさせていただいた。

※SI = System Integration 利用目的に合わせて,多種多様のハードウエア・ソフトウエア・メディア・通信ネットワークなどのなかから最適のものを選択し,組み合わせて,コンピューター-システムを構築すること。

話はそのことではなく、その際にボクの上司となっていたある方のこと。この方は身長は190cmを超え、体つきもごっつくて、そこへきて空手の使い手というもう本当になんというか、まずは身体能力において恐ろしく高い人である。そりゃ、腕力においてはちっぽけなボクなど到底かなうべくもない(腕力だけじゃないのがこの人のすごいところですが、それはさておき)。

逆から見れば、「いざとなれば何とでもなる」という余裕からか、彼が怒る姿をほとんど見たことがなかった。腕力という能力においては、非常に分かりやすいため、もし力のあるものがその力を誇示し、相手をその力で叩きのめしたところで、本人にとっては何の得にもならないばかりか、かえって周囲から評価を落とすことになりかねない。

…と・こ・ろ・が、こと知識という見えないものを持つ人間はこういったことに気付かない。知識を持たない人間を、得てして馬鹿にし、蔑み、ないがしろにする。SI営業をしていた際に感じたことだが、お客様はコンピュータのことを知らない(ことが多いし、だからお金を払ってでも改善したいと考える)。当然、ロジカルな考え方はせず、無理難題は簡単に言ってくる。このときに、薄い知識だけの人間の場合、「また、バカなことを」と鼻であしらおうとする。また、教え諭すかのごとく、薄っぺらな知識でとくとくと説明を始める。

特に、このコンピュータという世界においてはこれが顕著だ。相手がその業務において何年も手作業でこなしてきたプロであることを忘れ、WindowsとMacの区別、サーバーとクライアントの区別が付かないことを、嘲笑する。

小学校ぐらいの子供たちが、昨日のテレビ番組を見逃した子供に対し、えらっそうに「お前そんなこともしらないのか〜」と笑う姿…、よくあったよねぇ。ボクの目から見るとあれと同じ。知識なんざ辞書引けばすむし、インターネットの検索さえできるようになれば、数秒で何だって答えられる。ブラウザと1Mの回線さえあれば、知識ベースの回答はほとんど困ることはないだろう。誇示すればするほど情けない。そんなどうでもいいことを、業務のプロは自分の知識にする必要も余裕もないからしてないだけなのだ。

こんなちっぽけな知識量をよりどころに、相手を(しかもお金を払おうとしているお客様を)バカにする権利がどこにあるのだろうと感じ、技術屋のそういう感情の片鱗が見えると…一緒に仕事をする立場として萎える

日計表を見比べただけで不正や過誤を見つけ出す経理のプロ、倉庫の空気の動きで発注点を割るタイミングを言い当てる在庫管理のプロ、通勤途中の天気の様子でその日の預金増加量を予測する金融のプロ、そういった匠の技をボクらIT側の人間は持っていない。彼ら匠のその「アンテナ」をいかに「ロジック」に反映できるかが、ボクらの腕の見せ所だし、結果的に導入後のシステムの価値を決める。

相手が何に困り、どこで業務の流れが滞留しているのかを、「まず」聞き倒すのがボクらの仕事で、勝手な想像や推測は慎まなくてはいけない。いかに自分がコンピュータに詳しいのかをとうとうと述べるのはそのあとになる(つーか述べる必要はない)。この辺、単なる知識量と、問題解決をするための知恵とを履き違えた連中には分からないんだよね。

キミらがやっていることは、先にあげた見るからに腕力で負けない相手を、ボコボコ殴りつけてるのと何も変わらない。コンピュータに詳しいことは当然知ってるから、あえて誇示しなくてもいいってことに、早く気付いて欲しい。結局、キミらも会社に戻って本を開かなければ何一つ自信を持った回答はできないんだから。

能力や力を相手より超えて大きく持っている人は、あえてそのことをことさら強調することなどしない。中途半端ほど相手の言うことを聞かず、その辺の雑誌にも書いているようなことをさも自分が見つけたかのごとく偉そうに講釈を始める。仕方なく痛みに耐えて、演説を聴いているお客様のことを考えてもらいたい。我がの持つ知識と「知恵」を総動員しながら、相手の意見を聞くこと。どんな相手にも、尊敬を持って接しない人には、信頼感を持ち合った仕事などできない。

(2002/12/29)

隔世遺伝

先日、祖父の7回忌が大阪で行なわれた。祖父は明治末期の明治42年に生まれた。西暦でいうと1909年なので、生きていればほぼ100歳。20世紀の初頭の生まれになる。ちなみにボクは昭和42年。「42年同士だ」というと喜んでいたことを思い出す。

祖父の時代では、モボ・モガという言葉があったそうで、それを地で行く人間だったと聞く。
※モボはモダンボーイ、モガはモダンガールのことらしい。

彼との思い出で最初に記憶しているのは、意外に時間が経ってからで、小学生のころに懐かしい関西弁(といってもそんなに激しい関西弁ではない)で、高い玩具を買ってくれる優しいおじいちゃん…というのがそれ。
ボクが15歳になった冬、いつものように大阪の家でテレビで映画を楽しんでいると、いつにない厳しい顔で「大人のあり方」を説いてもらった覚えもある。
そうかと思えば、「永久機関を考え付いた!」と力説し、図解を交えながら回りに説明をしていた姿もおぼろげながら覚えている。
年をとっても、目深な帽子をかぶり、ウールのコートを着こんで、ひょこっと東京に来て「遊びに来た」としばらくいついたり、まあなんというか子供の目にも、かっこいい老人だった。
晩年は残念ながら、耳が遠くな り、座ったまま寝ている時間も増え、あまり記憶がうまく取り出せなくなってしまったが、大好きなお酒を毎日飲んで、たまに遊びに行くと「たまにきてくれるその辺に住んでる酒好きのにいちゃん」という新しい記憶の一人として仲良くなれた。

若いころに、大阪毎日新聞に勤め、その後、「山脇京」という探偵小説で、サンデー毎日懸賞募集第五回「大衆文藝」乙種に入選(1929年9月15日号掲載)している()。これは大人になってから知った彼の歴史だった。その後、海軍に食品を納品する会社を始め、それなりの成功を収めたが、右腕にしていた人間に有り金を持っていかれて、とたんに路頭に迷うような生活に。ちなみに、父はこのとき当時日本国内だった満州へ遊びに行っていた。終戦の年、1945年に引揚船の航空母艦に乗って、たった10歳だった父は、たった一人で日本へ戻ってこれなければ、中国残留孤児の一人になっていたかもしれないという(最近あまり話題に上らなくなってしまったけど)。
※まあ、ボクが生まれているわけだから、帰ってこれたのだが…。

ま、そういった話は正直「大変だなぁ」と思うものの、すでにボクの世代では実感はないのだが、モノ書き実業家タバコ酒好き新し物好き考え好き、といったことごとくボクの琴線に触れるキーワードをたくさん持っている祖父とボクは比較され、よく「隔世遺伝」と周囲から言われていた。そういわれることが小さな頃から、ちょっと照れくさかったけど、ちょっと誇らしかった。

「隔世遺伝」と言われて恥じない生き方をボクはしてるかどうか、意見を聞いてみたいんだよなぁ。

(2002/12/28)

真実

言葉の定義の問題かもしれないけれど、ボクとしては、唯一無二なのは「事実(fact)」で、これはどうあっても変わらないことだと思ってる。ただ、それを事実だと思っているのは実は本人の主観に過ぎないので、これを「真実(truth)」と区分けして考えてる。

つまり、事実から真実にいたる際には、その人なりの「認識(recognition)」があり(つまり事実といってるもののどの部分を認知できたか)、それを基にした本人の過去の経験や考え方から生まれる「解釈(interpretation)」という矢印を経て、「真実」として記憶に記録される。

ほんでもって、記録された記憶は意外にあやふやなため、ここに他の外部情報からの影響を受けた、たった一つの事実から、似ても似つかないたくさんの真実がそれぞれの本人の中に残留する。

同窓生なんかで会ったときに「あれはお前だよ」「いやお前だよ」なんてやり取りあるよね。どっちも真実で、事実としては「なんとなく二人が意気投合してやっちゃった」、二人の真実はお互いに「相手がやった」。

で、何が言いたいかというと、自分が真実と思うものが、本当に事実と相違ないのか、という点については、妄信しないことが非常に大切だと感じている。自分が相手にこう思っているはずという思いは、得てして勝手な妄想に過ぎない。だったら、本人に聞いたほうが早い。それも、こちらから思い込みをせず、相手の解釈を疑わず、ただ聞く。そういうのが大事だと思う。

よく、人の話を途中でさえぎる人がいる。あれが大嫌い。ま、あまりに関係ない話や、間違った解釈を基にした話をしているなら分かるけれど…あ、これは別のキーワードにしよう。

ということで、真実はひとつではない。自分の解釈は単なる主観、相手には相手の真実がある、当たり前のことだと思うんだが、なかなかそう思ってる人が少ないらしい…。自分自身の思い込みを疑うってことは大事だと思うよ。相手の思い込みを否定しないというのも大事。

別にさ、自分にとっては他人なんだから、仲間(←これ重要!)じゃなければ、知識や生き方を正してやる必要も義務も責任もないじゃない。…なーんてことを、考えてたのであった。

(2002/12/27)