阪神大震災が発生した日、編集局に次々と入る被害を伝えたニュースに心が揺らいだ。神戸は学生時代を過ごし、多くの友人が住む。坂の似合う街並みが好きで、卒業後もよく訪れた。なにより妹が灘区に住んでいた。
発生から二日後、神戸に向かった。二女を身ごもっていた妹一家に食料を届けるため、というのは理由の半分。記者として「行きたい」という思いが背中を押した。JRが開通していた西明石駅まで行き、そこから自転車で海岸沿いを走った。徒歩で避難する多くの市民と行き違い、救援物資を運ぶトラックの背を追った。市内では火災にも見舞われた長田区の商店街は火がくすぶり、三ノ宮駅周辺のビルは崩れ落ちていた。自衛隊のヘリコプターの旋回音が、曇天に冷たく響いていた。
妹のマンションは無事だったが、道を隔てた民家は半壊していた。荷を下ろし、カメラだけを持ち大阪方面に向かった。垂れ下がった電線、道をふさぐ屋根をよけ、開通していた阪急の西宮北口駅にたどり着いた。梅田駅の改札を抜けると、大阪は普段通りにぎやかで、別世界に来た不思議な気分になった。
その後、何度か岡山県内に移り住んだ被災者への取材に携わった。各種報道の視点は「復興」から始まり、避難先での孤独死といった課題、建築物の耐震、地震の予知…と広がっている。今年の紙面は「記憶」という言葉が目につく。震災から間もなく生まれ、中学一年になる妹の二女は当時を知らない。こうした世代に十三年前の神戸を伝えることも大切だろう。
(特別編集委員・江草明彦)