江戸時代、三代将軍徳川家光のころ、福岡藩(今の福岡県の一部)で生まれました。祖父の代から藩主黒田氏に仕え、私も19歳で二代藩主に仕えました。しかし、その怒りにふれ、7年間も浪人生活を送ることになります。
三代藩主の許しをもらい、ようやく藩に戻れました。藩の援助で京都へ留学し、朱子学(江戸時代に大事にされた中国の学問)や本草学(植物を中心にした薬の学問)を学びました。
70歳で引退し、本を書くことに専念します。薬になる植物をまとめた「大和本草」を1709年に、体験に基づいた健康維持法を収めた「養生訓」を13年に書き上げました。
医は仁術なり。仁愛の心を本とし人を救ふをもって志とすべし。我が身の利養を専らに志すべからず。
「養生訓」の中の言葉です。医術は思いやりの心をもって人を救うべきものだ。自分の利欲を願うべきではない、という意味です。
「養生訓」には、長生きできるようお酒の飲み方や食べ合わせのことも書いてあります。【構成・篠口純子】
●こたえ
貝原益軒:1630~1714年。江戸時代前期の学者。幼いころから読書家で、多くの本を書き残した。