先日図書館に行った折に、ふと手を取ってみたものに以下がありました。
・曽野綾子氏 沖縄戦・渡嘉敷島「集団自決」の真実―日本軍の住民自決命令はなかった!
前書きに聖書を引用した文章が載っていて、それについてはまったく同感でした。
「他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。」
日本軍の沖縄住民虐殺についての記述に対して、仕方なかった事として終わってしまわれているのはとても残念です。集団自決が軍命令か否かの問題よりも、むしろこちらの部分について突っ込んだ方が、リアリティがあったのではないかと感じました。
本著作の矛盾については取り上げている方が沢山いらっしゃいますので、興味のある方は検索して頂けたらと思いますが、それとは別にこの問題については以下が参考になるかもしれません。
・沖縄タイムス 【連載】「集団自決」を考える(6月14日〜)
Please stop the government! Our dugong are crying !! And we are crying!!!
US government and Japanese government has a plan of the construction of the HUGE MILITURY BASE at Okinawa now. Please stop them! That plan will destroy not only the living environment of dugong, but also OUR LIVING ENVIRONMENT in Okinawa.
Will you kill us, and our dugong? Please appeal to the public and your government to stop that plan. Please help us!!!!
Save the Dugong, Stop the Airbase
2008年01月05日
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昨日、「暗殺・リトビネンコ事件」を観てきました。
プーチン、FSB(ロシア連邦保安庁)批判をした元FSB中佐リトビネンコが毒殺される前にインタヴューに答えたフィルムをドキュメンタリーにしたものです。
機会がありましたら、ぜひ観てみてください。
>他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。
これが聖書のことばとは知りませんでした。
でも、私は前半は客観的に正しく、後半は少し違うように思います。
自省することなく批判することは厳に慎まなくてはいけませんが、批判そのものは、必要だと思います。
自分自身が批判されることを承知で、誰かを批判しなければならないことは、残念ながら現実世界にいくらでもあるからです。
現実に悪がある以上、批判されることを恐れて、他者の批判を控えるとしたら、悪を見過ごすことにしかなりません。
「人を裁け、裁かれんがため」ということばがあります。
これは、自分自身をよりきびしい批判に置くためにこそ批判をするべきだという言葉です。
リトビネンコのような結果にならないためにも、悪を憎むのであれば、自身の存在をかけて、批判するべきであり、それは、私、あなた、彼、彼女に関わることなく、悪を批判することでしかないと、映画をみて思いました。
ご指摘の点ですが「批判とは建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」という理解に基づいています。
悪に批判で対峙するのは、それだけでは改善もできませんし、やっていることが同じになっているのではないかという反省もあります。批判することだけが方策ではありませんし、それに頼る必要ははないと思っています。
批判を展開するよりも、問題点のご指摘と、よりよい方策の提案、を選択する方が、次につながると思うんですね。
でも、これは単に用いる辞書の違いや、特定の問題に対峙するときの姿勢の違いであって、おっしゃることとの差異はあまりないとも思います。
ただ、「人を裁け、裁かれんがため」については反対です。それが罪に当たるかの判断は非常に難しいので、冤罪を避けるためにも、憎しみ合いによる報復の連鎖を避けるためにも「誰も裁いてはいけない」を支持しています。
って、結局私は甘いという指摘をこちらでも頂いてしまうのかもしれませんが...
>批判を展開するよりも、問題点のご指摘と、よりよい方策の提案、を選択する
というJitohさんの意見賛成です。
甘いと言われるのは 私も一緒です。
誰でも人から意見をされたり、批判されることは辛いもの・・・がんばって反論しても思うことの半分もいえないときは自己嫌悪にさえ陥ってしまいます。
一方で、あざみ子さんの言われる
>批判そのものは、必要だと思います。
とも思います。
批判されることで、自分が成長できるという前向きな考えが持てるときには、自分を批判している人の人間観察すら楽しめたりします。
なかなか 人間的にそこまで成長できないのですが・・・
彫金の世界でも人のことをこき下ろす人がいます。聞くに堪えないときもあるのも事実です。そういう時は、逃げ出してしまいます^^
人に意見をするということは非常に難しいことですが、言わないとなかなかわかってもらえなかったりすることも多いこの頃で、立場上、人に意見をする場面も多く・・・
ただ、自分の言葉によくよく注意せねば・・と自分に言い聞かせております。
極端に人を批判しないように・・・
怖っ〜〜〜〜って言われないように・・^^
総じて同感です。あざみ子さんの書き込みでも触れましたが、単に辞書の違い、手法の違いなんだと感じます。
私も「(ネガティブな)批判」は避けますが、問題があれば警告を行うことに躊躇ありません。批判をしない分、非常に厳格な対応になっていると思います:)
|ただ、自分の言葉によくよく注意せねば・・と自分に言い聞かせております。
極端に人を批判しないように・・・
ええ、子供に対する教育などでは、物事の重大さを理解してもらうために時に厳しい表現を使わざる得ないときはありますね。ただ、相手を思う意思がある限り、それは批判ではないと思います。
私も厳しくなりすぎないように気をつけなくてはいけないですlol
おふたりの日頃の批判ということに対しての姿勢と私もかわらないのですが、
本来、批判は純粋理性批判というように、誹謗中傷とは違うものであり、客観的に捉えなおす契機にするべきもの、「問題点の指摘」というのは、つまりは「批判」ということです。
なぜ、私が批判という言葉にひっかかったかというと、 曽野綾子が、
「他者の批判を行うことは、自分自身が批判されること。他者に対して批判を行うことは、厳に慎まなければならない。」
という言葉をなぜ前書きに引用したのか、という疑問です。
本書を読んでいないので、よくは分かりませんが、曾野綾子が大江健三郎の『沖縄ノート』を批判するのは、大江健三郎が、軍や国を批判するから、自分も批判するということを言いたいのではないでしょうか。
あるいは、沖縄県民が戦中の軍や国を批判するのは、慎まなければならない。
ということを言いたいがためではないのでしょうか。
本来、批判は理性的に、しなくてはいけないからするべきものであり、誰かが批判したから批判するとか、批判しないとかいうものではないはずです。
> ただ、「人を裁け、裁かれんがため」については反対です。それが罪に当たるかの判断は非常に難しいので、冤罪を避けるためにも、憎しみ合いによる報復の連鎖を避けるためにも「誰も裁いてはいけない」を支持しています。(>Jitohさん)
上記の言葉の「裁く」というのは、批判するということです。
批判(誹謗中傷ではなく、問題点の指摘等)をすれば、相手からも批判が返ってくるので、自分のためでもある。という意味です。
ですから、冤罪を生むような裁判のことをいっているのではありません。
私も死刑制度には反対なのですが、
>「誰も裁いてはいけない」を支持しています。
と、書かれていますが、Jitoh さんの個人的なお気持ちは分かりますが、現実的に法治国家であれば不可能です。
自分は手を汚していなくても、法によって「誰か」が裁いているわけです。
繰り返しになってしまうかもしれませんが、批判の意味については、残念ながらネガティブな意味で用いられるのが現在では多数だと認識しています。なので、私は使わないことにしています。
「批判の応酬によって切磋琢磨する」ということを仰りたいのでしょうけれど、私はそういう社会を好みません。それよりは「尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する」の方が望ましいのです。
法治国家の下り、手を汚していなくても、の下りは正しい解釈だと私は思いません。
法の目的は「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」そのための仕組みであって、それが物事の善悪を決めるわけではありませんから。
曽野綾子氏のこの著作についてのご指摘の点について、大きな矛盾があることについては、私も同感です。その目的については、一定の考察できるのですが、想像にすぎないのでここでは言及を避けさせてください。
あ、それと申し上げ忘れましたすみません、リトビネンコ事件については存じていますが、その映画も注意してみたいと思います。ご紹介ありがとうございました(__)
「批判も必要」ということの主旨が十分に伝わっていないようなので、ふたたび。
> 繰り返しになってしまうかもしれませんが、批判の意味については、残念ながらネガティブな意味で用いられるのが現在では多数だと認識しています。なので、私は使わないことにしています。
批判が物事の否定的側面を語る、ということはたしかですが、多数かどうかで、批判を排除するのではなく、批判の内容を検討する必要があるだろうと思います。
批判はジャーナリズムの根幹をなすものであり、Jitohさんが言われるように、
「批判とは建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
として、批判を排除、否定したら、ジャーナリズムを否定することになります。
Jitohさんが使わないようにしているのは、Jitohさんが、批判をする必要があるという切迫した現状にいないからでしょう。
やむおえず批判をせずにいられない場合も、また批判せずにいられないひともいるのですから、批判という行為も批判という言葉もないがしろにしてしまうわけにはいきません。
誹謗中傷の隠れ蓑に使われるということならば、誹謗中傷を排除すればいい。
だいぶ前のことですが、某短歌結社の主宰者に自作の短歌についての講評をいただいたことがあります。
某氏は、日頃、結社のトップにいると、なかなか批判が耳に入らない。自分のところに来る前に消えてしまうこともあるし、よほど気をつけて、自ら批判に耳を傾ける姿勢をもっていないと聞き逃してしまう、といわれていました。
講評はとても辛口なので、メンバーがどんどん減って、経済的にも大変なので、友人から加入してくれと言われたわけです。
で、自作に対する講評を得たわけですが、某氏の意見は了解したが、私は納得できないので受け入れられない言い、かなり激しいやりとりになりました。
それは某氏に対する批判でもあったからです。
某氏の添削は絶対で、今まで、そういうことはなかったというのです。
しかし、某氏は、「つい、いじりすぎてしまう」ということを漏らし、会の最後には今日は楽しかった。と言われました。
少々、手前味噌ですが、力を持つものにたいしてこそ、批判はより必要なのです。
そして、自覚的なものほど、その必要性を感じているのです。
>「批判の応酬によって切磋琢磨する」ということを仰りたいのでしょうけれど、私はそういう社会を好みません。それよりは「尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する」の方が望ましいのです。
尊敬と信頼の上の助言によって相互に成長する方が好ましいと思いますし、いつも批判が必要だとは思いません。したくないひとに批判するべきだともいいません。
人を裁け、裁かれんため、を実行しているのでもありませんし、できるとも思いません。
否定してしまいがちな批判というものを、肯定的側面から捉えなおすことを提示したいだけです。
人間は不完全な生きものです。
だからこそ、相手を批判しないのではなく、相手の否定的側面も気づいたものが率直に語る勇気を持つ。
それは、身近なひとに対するほど難しいことでもあるのですが。
批判しないようにするのではなく、必要なら、責任をもって批判し、理性的、公正に、といいたいのです。
Kariさんの言われるように「批判も必要」ということですね。
>法治国家の下り、手を汚していなくても、の下りは正しい解釈だと私は思いません。
法の目的は「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」そのための仕組みであって、それが物事の善悪を決めるわけではありませんから。
う〜む、
「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為を行うものに対し、一定の罰則を適用する」ということは法に従って、「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為」=物事の善悪を判断し、裁いているということではないのですか?
それが必ずしも絶対ではないにしても。
自分が直接関わっていないだけで、社会的生活をしていれば、人を裁く、という現実から逃れられないはずです。
そういう痛みをもつからこそ、冤罪も法律の運用も自分の問題として考えるということになるのでは。
法によるのとは別に、日々、私たちは自分の価値観で人を裁いているはずです。
口にする、しないに関わらず。
ブログを管理するということにおいても。
繰り返しになってしまいましたが、いちおう、私の言いたいことは言ったつもりですので、レスはなくていいです。
アサーティヴなコミュニケーションとして「批判」を否定、排除する傾向にあるのは知っていますが、批判の必要性についても考えていただければ幸いです。
私はもうはじめのコメントで言い尽くしてしまってますが、数点気になる部分があるのでちょっとだけ。
|ということは法に従って、「良識やモラルを失って他者に不利益を与える行為」=物事の善悪を判断し、裁いているということではないのですか?
いえ、それでは順番が逆になってしまうのです。法に触れなければ何をしてもいいかというと、それも違いますし、法よりも前にまず、良識があるのであって、皆が自らの良識に従う社会ならば、法は不要ですから。
「それが現実なんだ」という主張もわかりますが、そこにとどまっているのではなく、より高みを目指したいんです。
それと、ジャーナリズムの否定とかまでいくと、ちょっと飛躍が過ぎると感じました。
批判は容易です。しかし、こうした安易な力を放棄することで、もっと強いものを手に入れることができますよね。
ご指摘アサーションもそうですが、これは今日の交渉術、コーチング等の基本的な考え方でもありますね。批判や裁くことを禁じた聖書等の教えは、非常に深い知恵があると、私は感じます。
って、単に辞書の問題ですね、やはり。「肯定的な批判」についてですが、それがあるとすると、私はそれを批判とは呼ばないと思いますから。
でも私も、徹底的に批判することはあります。自分自身に対してXD
なかなか、主旨が伝わらないようです・・・(−_-;
>って、単に辞書の問題ですね、やはり。「肯定的な批判」についてですが、それがあるとすると、私はそれを批判とは呼ばないと思いますから。
「肯定的な批判」?
私の言っているのは「批判の肯定的側面」です。
また、しばしば言葉を遺棄してしまうということがありますが、それは放送禁止用語と同じで、ことばの本質の問題を隠蔽してしまうことになります。
「ただ、単に辞書の違い」をお話していたのでしょうか?
一面的な固定観念ではなく、批判という言葉を多面的に、もう少し丁寧に検討してみてください。ということをお話してきたはずなのですが。
批判という言葉を辞書で引くと
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと。
「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ)Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。
と、なります。
「批判を仰ぐ」とか、「批判に耳を傾ける」というのは、批判の必要性、批判を大切に考える一般的なことばですが、Jitoh さんの言われる
「批判は建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
という認識からは、こうした批判のもつ大切な役割がそぎ落とされています。
> ご指摘アサーションもそうですが、これは今日の交渉術、コーチング等の基本的な考え方でもありますね。批判や裁くことを禁じた聖書等の教えは、非常に深い知恵があると、私は感じます。
Jitohさんの言われる上記のことについては、社会生活をする上での知恵として分かりますが、批判や裁くことを禁じている社会がパラダイスかということそうではなく、ブッシュ政権を支える基盤になっているのはご存知のはずですね。
Jitohさんが批判をネガティヴにしか捉えていないことが心配なので、再考してみてください。と言っているのです。
コミュニケーションは言葉を介してしているわけですから、ご自分の辞書にこだわっているだけでは、会話は成立しません。
特に、考えの違うひとと会話をする場合には、すれ違ったまま徒労に終わってしまいます。
少なくとも「皆が自ら良識に従う社会を目指したい」「そこにとどまっているのではなく、より高みを目指したい」と思われているわけですから。
>批判は容易です。しかし、こうした安易な力を放棄することで、もっと強いものを手に入れることができますよね。
「批判は容易」と言われていますが、それは容易な批判しかご存じないからではありませんか。
容易にできる批判なら、どんどん放棄しましょう。
本質を見失ってしまいませんものね。
問題は批判は容易で、批判を放棄すれば、もっと強いものを手に入れることができるというふうに、批判そのものを容易な力によるものだと言っているところです。
批判は、本来容易な力でできるものではありません。
アンナ・ポリトコスカヤに批判を放棄させて手に入れるもっと強いものとは?
こうして、Jitohさんを批判している私も「うるさい人」「コワイ人」と言われるのがオチなのです。
主観的、情緒的なきれいごとになってしまわないように、老婆心ながら。
レスは、お気になさらずに。
多くの方には理解が難しい事柄なのだとおもいますし、これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから。
広辞苑4版では批判は以下のように説明されています。
1.批評し判定すること。ひばん。
2.人物・行為・判断・学説・作品などの価値・能力・正当性・妥当性などを評価すること。否定的内容のものをいう場合が多い。「強い―を浴びる」
3.マルクスの用語としては、イデオロギーの論理的批判に止まらず、それを生みだす物質的条件・階級的基礎を明らかにすることによって、それを克服すること。
こんにちは。
残念な返信ですね。
レスはお気になさらずに、と書いたのはゆっくり考えて戴きたかったからなのです。
レスはいつでもいいのですから。
>多くの方には理解が難しい事柄なのだとおもいますし、これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから。
「多くの方には理解が難しい事柄」なのだと思われるのならば、より以上に理解できるように説明するべきなのです。
十分な説明を欠いて、「理解が難しい事柄」「これを判ろうとされるか否かは、ご自身のご自由ですから」と言うのでは、あなたには理解できないでしょうし、する気もないでしょう。という相手に対する誹謗です。
言葉は丁寧でも、慇懃無礼です。
私は批判の必要性、その肯定的側面について、思うところを書いてきました。
それに対する自分を問うた十分な返信はありませんでした。
高みを目指したいというJitohさんが言われるような「それが現実なんだ」ということを言ってきたのではないのですが。
知識や考えは自分の中だけにあると絶対なものとなりがちです。
ときどき、ひとに語って相対化する必要があると思いますが、いかがでしょう。
残念ながら、私たちはことばによって、説得的に語るということ以外、理解しあう道はありません。
ことばを放棄したら、力に訴えるしかなくなってしまうのです。
そして、それが悲しい現実だからこそ、ことばを大切に語らなければいけないのです。
言葉を放棄するのは、厳に慎んで戴きたい。
ひとりの人を細かく分析、評価、また批判するのではなく、トータルな個人としての存在としてみる必要があると思いますし、企業などでの評価、個人に対する批判が、精神を冒すという事実は無視できない現実です。
会社や、社会、国、学校というような個人を取り巻く、より大きな力からの分析、評価、また批判は、力が均衡でないだけに個人の存在を歪めてしまいかねませんし、私も否定的です。
しかし、一対一、あるいは信頼関係における論理的な批判は、ときに必要ですし、言葉によって論じている学問や学説にとっては重要です。
だからこそ、「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉があり、あえて、否定的な内容である批判を歓迎するということになるわけですし、歴史的にも学問や学説を進める上でも必要なものだったはずです。
また、より巨大な力に対するジャーナリズムは、権力のチェック機能として、批判というものがなくては成立しません。
以上、繰り返しですが。
Jitohさんも徹底的に自分を批判すると言われていましたが、その必要があったからこそ、自身を批判されたのではないのですか。
言葉の安易な理解と扱いは安易な思考と言動に繋がります。気をつけましょう。自戒を込めて。
批判は、物事の解決、克服のためにこそされるべきであり、批判をどのように生かすかはひとにかかっています。
批判という言葉に責任はありません。
>「批判は建設的な結果をもたらすものではなく、他者攻撃の目的のため、誹謗中傷の隠れ蓑に使われる、ネガティブなもの。論争と反目を生むだけで物事の解決には結びつかない。」
これは、一般的見解でもありますが、論争や反目を生むことはありますが、論争は生んだ方がいいと思います。
ときにまともではない論が入ることはありますが、それは仕方がないことなのです。
また、解決に結びつかないことはたしかにありますが、その時点での解決にはならなくとも、長いスパンで見れば批判が有効であったということはよくあります。
批判から反目が生まれるとしたら、人間の弱さだとしかいいようがありません。
それは無視できない事実ですが、そのことは、むしろ内在している自らの弱さに気づく契機になるということもあります。
そのときにはただ、相手を憎んでいたことが、時間の中で冷静に客観的に見ることができるようになり、受け入れることができるということもあり、それは決してマイナスではないのです。
それもまた、人間の力ですね。
批判は誹謗・中傷とは違い、本来反目し合うものではないのですが。
人間はそれほど強い生きものではありません。
それでも、人間は強くなれる生きものなのです。
自分を含めて、批判されて、そのことに耐えられる人は多くはありませんし、たいがい、感情的になって、関係は壊れることの方が多く、たとえその批判内容が正しくてもいい結果にはならないとお考えなのでしょう。
たしかに、一般的にはそうなのですが、十分に議論、やりとりをした結果、批判に相応の正当性があるのならば、批判を受け入れるということはできないものだろうかと思います。
「批判を仰ぐ」「批判に耳を傾ける」という言葉が示すように。
それは、容易なことではありませんし、なかなかできることではないのですが、それがより強いものを手に入れることであり、高みを目指すことだろうと私は思います。