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Notes on the Sand....or a Critique of Cultural Politics.  by Hiroshi Kobayashi


2004年1月に、bk1「人文レジ前」で取り上げた書目は以下の通りです。

[2004年1月5日]

■「政治」の概念を再定義する、社会学者の現在的な試みが光る

政治 政治学から「政治界」の科学へ
ピエール・ブルデュー〔著〕 藤本一勇訳 加藤晴久訳
\2,200 藤原書店 四六判 / 186p
ISBN:4-89434-366-5 発行年月:2003.12

1999年にリュミエール・リヨン第二大学で行われた講演「政治界」を中心に編まれた小著。ブルデューによればこの場合の「界」とは、「社会的マクロコスモスの内部の自律的なミクロコスモス」を指す。宗教界や文学界という表現があるように、政治にも固有の価値観や行動原理、暗黙のルールに基づいた領域がある。「界」は力関係を変えるための闘争の場でもある。国民の代表者たる政治家のみでなく、こんにちではマスコミもこの闘争の場としての「政治界」に関わっている。

「階級闘争と言われるものは実は分類闘争なのです」と著者は述べる。分類原理を変えることは単なる知的行為ではなく、政治的行為なのだ、と。分類原理を独占すること、それが政治ゲームの本質であり、知識人は政治家であることなしにそうしたゲームにいかに介入していくかという難問を抱えている。著者は、現代世界には「批判的審級で集団的に作業する特殊的知識人たちのインターナショナルを創造する必要がある」と主張する。

閉鎖的でありながら、なおかつ公共的と称される空間でもある、この奇妙な「政治界」について考察することは、政治を政治的にではなく社会学的に捉え直す試みである。ものの考え方や見方を独占的に固定しようとする政治ゲームの詐術からいかに逃れるか。毎日のニュース番組で政治の話を現代人は耳にする。しかしそれはむしろ政治を知るための最大の障害になっており、現代人は政治へのそうした盲目的な親密さから手を切るべきだ、と本書は教える。

難しい言い回しはともかく、ブルデューが示唆する政治の再発見はこんにち私たちが獲得すべき常識に適っている。政治界という公共空間の仕組みを知ることは、脱権力の視点を探究することでもある。著者が政治界と宗教界のアナロジーを繰り返し指摘している点も興味深い。日本における「政教分離」をめぐる政治家たちの議論はしばしば浅はかな政争論に堕しがちだが、「政治界」の概念は分離ではなく相互作用の観点からこの問題を再審することを可能にするだろう。


■ソヴィエト連邦の74年間をスターリン時代を中心に俯瞰する意欲作

熱狂とユーフォリア スターリン学のための序章
亀山郁夫著 \4,200 平凡社
A5判 / 529p ISBN:4-582-83190-7 2003.11

80年代末から2003年にかけて、雑誌、紀要、新聞、論文集などで発表されてきたテクスト30篇に6篇の書き下ろしを加え、一冊としたもの。副題にある通り、すべて「スターリノロジー(スターリン学)」のための序章となる文書群であり、質量ともに圧巻である。スターリン没後50周年となった2003年に発表された文章で、著者はこう述べている。「自由がみずからの可能性の境界にたどり着くとき、スターリン時代は私たちが生きる現代そのものの隠喩となる。この逆説がスターリン学の出発点である」と。スターリン学とは、スターリン個人の生を伝記的に考証するものではなく、スターリン体制に象徴されるソ連の歴史を総合的に検証する試みであると言えよう。

したがってスターリン学はソヴィエト文化全般に関わるものとなり、登場人物も幅広いものになる。一部分を挙げれば、ルイセンコ、マレーヴィチ、ショスタコーヴィチ、エイゼンシュテイン、メイエルホリド、パステルナーク、タルコフスキー、ソクーロフ、プロコフィエフ、ソローキン、カバコフ、等々……。スターリン時代にその歴史的特質を顕現したソヴィエト権力は、国家規模の狂気と誇大妄想を育みながら、国民に全体主義的な「熱狂」を強いるとともに、その熱狂を宗教的「ユーフォリア(至福感)」にすりかえるべく演出し続けていた、と著者は指摘する。それは、恐怖のなかの悦びですらあった。

著者が本書でその誕生を宣言したところの、「20世紀ロシアにおける政治と文化をめぐる不条理学」としてのスターリン学は、ソヴィエト文化における「人間の超克」をめぐる係争の異様さを浮かび上がらせることに成功している。異様さと書くと否定的に聞こえるかもしれないが、そうではない。かと言って、本書がスターリニズムを肯定しようとしているわけでももちろんない。全体主義的な熱狂には確かにユーフォリアを国民に備給する機能があったが、このユーフォリアは実は「二枚舌」を持っていた。スターリンへの憧憬と言う名の弾劾と罵倒がそこには隠されているのである。たしかにこの二枚舌は不条理である。本書が濃密なテンションに満ちているのは、そうした不条理がもたらす歪みを写し撮ったことにより、独特の磁場が発生しているためだろう。


■優れた80年代論でもある、ポストモダニズム文化批判の書

空虚の時代 現代個人主義論考(叢書・ウニベルシタス 773)
ジル・リポヴェツキー〔著〕 大谷尚文訳 佐藤竜二訳
\3,200 法政大学出版局 四六判 / 283p
ISBN:4-588-00773-4 発行年月:2003.12

著者はフランスの哲学者。1944年生まれだから、世代としては、ナンシーやラクー=ラバルトより年少で、リュック・フェリーやアラン・ルノーら「新哲学派」よりは年長ということになる。1983年に初版が刊行され、1993年にあとがきを付して文庫化された本書は、1968年の五月革命以後に顕著となったポストモダニズムという名の新たな個人主義の論理の拡大を文化批判的に論じている。

83年と言えば日本では柄谷行人の『隠喩としての建築』、浅田彰の『構造と力』、中沢新一の『チベットのモーツァルト』が刊行された年であり、いわゆる「ニューアカ」ブームが本格化し始める頃合だった。日本とフランスでは文化状況が多少異なるだろうとは言え、ニューアカ・ブームを知っている世代にとっては、本書は過ぎ去った80年代の知的熱狂と警鐘を映し出す鏡として、懐かしく読めるだろう。

一方で、本書が論じているポストモダンの社会像や個人主義の多様な現われが、ニューアカ・ブーム同様に過ぎ去ってしまったものなのかと言えば、そうではない。驚くべきことだが、本書の議論はほとんど古びていないどころか、逆説的にきわめて現代的ですらある。つまり、あらゆる流行の一過性にもかかわらず、21世紀に生きる現代人はまぎれもなく80年代の遺産やそれに対する反動を受け継いでいるのではないか。この当たり前と言えば当たり前な事実を、市場主義に毒された現代人はつい忘れてしまう。

個人主義の社会的伸長は次のような特徴をもっている。ナルシシズムと表裏一体の無関心、ブランドの台頭と広告の全盛、快楽主義、アートにおけるパロディの重要性、高度情報化、そして暴力の洪水。ある部分はこんにちますます先鋭化し、またある部分は変容を余儀なくされている。注目したいのは、著者が指摘した、社会におけるユーモアの効用というものが、21世紀においては薄れ、緊張を緩和するパロディよりも、冷酷なアイロニーが幅をきかせているということだ。

アイロニーの蔓延に呼応するかのように、暴力も変容する。著者は9.11を予見しえなかったが、別の角度から暴力の亢進を告知していた。すなわち暴力の過激化と、反体制運動の多元化である。個性化の社会においては、国家に対する反体制派の暴力が全面化すると同時に、反体制派に対する国家の暴力も全面化する、と著者は論じた。現代における反グローバリゼーション運動とアメリカ帝国主義の対立構造はまさにそれだ。著者によれば、68年の五月革命は個性化された革命である。個性化と多元化の過程は一見、何ら共通した目的も計画性もなく「空虚」なもののように見える。暴力は社会的な意味を失い、人間関係は中立的なものになる。

現代社会における暴力は著者の指摘とは正反対の方向に転じているようにも思うが、そうではないだろう。私たちは同じことを今は別の仕方で語っているに過ぎないのかもしれない。本書は確かにある側面において決定的に時代遅れである。だが本書を「時代遅れ」と思っている私たち自身がいずれ時代遅れになることもまた、必然だ。著者の言う通り、「第二の個人主義革命の大変動は、まだ始まったばかりなのである」と見るのなら、少なくとも百年の単位で変化の深層を透視せねばなるまい。80年代が別のかたちで回帰する可能性を本書は示しているだろう。

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[2004年1月13日]

■無秩序と暴力の連鎖を生み出す〈帝国〉の戦争責任を追及する

〈帝国〉と〈共和国〉
アラン・ジョクス著 逸見竜生訳
\2,400 青土社 四六判 / 293p
ISBN:4-7917-6095-6 発行年月:2003.12

ヴィリリオと並ぶ高名な軍事戦略研究家のジョクスの著書は、本書が本邦初訳となる。原題は『混沌の帝国――ポスト冷戦期における米国支配に対する共和国』。2002年にフランスで刊行されたものだ。帝国というキーワードは、昨今ではまずネグリ=ハートのベストセラーを思い起こさせる。だが、訳者が周到にも「あとがき」で紹介しているように、ジョクスは本書の英訳版に収められたシルヴェール・ロトランジェとのインタビューで、彼らの『〈帝国〉』にははっきりした留保があることを述べている。

アメリカが主導するグローバルな軍事戦略への批判から、ジョクスは〈帝国〉の戦争責任を問う。戦争論から見たアメリカ帝国と、その〈帝国〉に抗する共和国のありようを問うのが本書の先鋭的な特徴だ。「はじめに」と「結論」にはさまれて6つの章が立てられており、前半では〈帝国〉が引き起こす混沌と無秩序の拡大をまっこうから批判し、一方でホッブズの活きいきとした再読解を経て〈共和国〉の理念を再審しつつ、グローバルな〈帝国〉的暴力の正体を抉り出す。

後半ではクリントンからブッシュ・ジュニアにいたる米国の世界戦略を具体例を次々と列記して分析し、〈帝国〉に対する例外としてのフランスと欧州の政治的可能性の核心を拾い出そうとしている。日本の立場に対しても多くはないがコメントを出しており、非常に興味深い。中国と日本との間の距離感を分析する際の彼はきわめて冷静であるように思える。他方、欧州に対する日本の連帯を期待する時の彼は、当の日本人にとってはやや楽観的に映らなくもない。

「複数的な共和国論理を堅持する、今日の欧州は、容赦なきグローバル化に対する経済、文化、政治・軍事面での唯一の地理的抵抗の突堤である。日本もきっと欧州に連帯するだろう」と彼は書いている。日本政府の実情を見る限り、たしかに現実的には欧州への連帯は果たせそうもないものの、アメリカ〈帝国〉の磁場からいかに離脱するかが日本の未来を左右することを考えれば、ジョクスの期待はあながち空論ではなく、むしろリアルかつ積極的な意義を有していると言える。

彼は〈帝国〉の平和を維持するための戦争はナンセンスであり、対テロ戦争の大義は暴力の悪循環を産むだけだとはっきり断罪する。〈帝国〉の自称人道主義がいかにエゴイスティックで歪んでいるかをあばく本書は、フランスの主要紙誌で絶賛された通り、現代人必読の価値がある。〈共和国〉的理念の何たるかがよくわかっていない日本人には特に勉強になる本である。月刊『現代思想』の2003年12月号「特集=ホッブズ」や、近く重版が再開される岩波文庫版『リヴァイアサン』も併せて購読されることをお奨めしたい。


■自由主義的正義論を詳細に検討し批判的に解説した好著

犠牲と羨望 自由主義社会における正義の問題 (叢書・ウニベルシタス 759)
ジャン=ピエール・デュピュイ〔著〕 米山親能訳 泉谷安規訳
\5,300 法政大学出版局 四六判 / 510p
ISBN:4-588-00759-9 発行年月:2003.10

ルネ・ジラールの思想的影響を受けたフランスの哲学者デュピュイは、1992年にフランスで刊行された本書で、自由主義的正義論の批判的検証を行っている。俎上にのせられるのは、アダム・スミス、ハイエク、ロールズ、ノージックらである。フランスの左翼知識人は、現代人の価値観を根本的に左右している「市場」という怪物を、道徳的政治的次元では十分に考えてこなかったのではないか、とデュピュイは見る。アングロ=サクソン系、なかんずくアメリカの分析哲学系自由主義思想をフランスの伝統的な自由思想と「対話させる」ことが本書の狙いである。

デュピュイが「対話させる」と言ったのは、ひとつにはフランスの左翼知識人がアングロ=サクソン系の自由主義思想に対して抱いている大きな偏見と無理解をただすためである。自由主義思想は自由競争を奨励することによって、社会正義の実現を阻害し、弱肉強食の論理を助長するだけのものだ、と考える知識人がいる。しかしそれでは自由主義思想家たちの唱える正義論の本質を見逃すことになるのだ。デュピュイの言う「対話」はロールズやノージックに代表されるような自由主義的正義論をフランスに移植することではなく、その正義論がはらむ矛盾や歪みを見極めることを意味する。

自由主義的正義論を特徴づけるのは、「犠牲の拒否」と「羨望の排除」である、と彼は論じる。これらの両立不可能性に、ロールズらの正義論の脆弱さが隠されている。自由主義は全体のための個人の犠牲を認めない。「ある人々の自由喪失が、他の人々に今まで以上の善がもたらされるからという理由で正当化されることを、正義は認めない」。しかしまた一方で、犠牲の拒否と公正の追求は、人間同士の自由な競争が生じさせる羨望や嫉妬、憎悪によって脅かされる。自由主義社会における正義をスポイルするような羨望その他は排除されなければならない。

だが、個々の競争に伴う羨望や恨み、ねたみを排除するには、個を超えた全体性への依拠が必要になってくる。正義は全体的公正において実現されるというわけだ。ところがそうしてみると全体的公正の追求は個々人のマイナーな自由に先立つ何かしらの犠牲なしには成立しえないことにもなり、自由主義的正義論は結局パラドクスを抱えざるをえない。巧妙なことに、自由主義によって是認された合理主義的市場社会はこのパラドクスを見えなくさせている。そこで、著者による正義論批判は、最終章で市場による問題の隠蔽的操作を分析することに帰着する。

隠蔽的操作の実態は、市場による危機の包摂である。「市場社会は安定的秩序と永続的危機状態とを完全に一致させることに成功している」と彼は書く。この一致についての論証は、1979年にフランスで出版されたポール・デュムシェルとの共著『物の地獄――ルネ・ジラールと経済の論理』(法政大学出版局)でもすでになされている。デュピュイ自身の1982年の著書『秩序と無秩序』(法政大学出版局)と併せて参照されたい。

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[2004年1月19日]

■戦慄の「現代の寓話」に中学生からも反響が続々届いている

茶色の朝
フランク・パヴロフ物語 ヴィンセント・ギャロ絵 藤本一勇訳
\1,000 大月書店 四六判 / 47p
ISBN:4-272-60047-8 発行年月:2003.12

フランスではすでに50万部以上が売れたというベストセラーが、日本にも上陸した。版元によれば、すでに多くの読者から反響があるという。本書は一種の寓話である。簡潔なストーリー展開とイラストの組み合わせは、例えば『世界がもし100人の村だったら』に似ているかもしれない。けれど、『100人村』がメッセージ性に溢れた巧みな譬え話で私たちを感動させたのとは対極的に、この『茶色の朝』は何気ない小説仕立ての物語で読者を心底戦慄させる。いわゆる「ホラー」小説ばかりが読者を戦慄させるのではない。私たちが住むこの社会が、ひょっとしたら明日にでも傾斜していくかもしれない危険な状況をそれは如実に語っている。

エスカレートしていく国民統制、それが本書の描く世界だ。フランスとブルガリアの二重国籍を持つ心理学者パヴロフは、本書で極右化する政治を糾弾しようとした。印税を放棄し、より多くの読者に読んでもらおうと、わずか1ユーロでこの小さな本を売り出した。安いから売れたのではない。そこに描かれているパヴロフの警告が真の議論に値したからこそ、売れたのだ。日本語版にはオリジナル編集で、個性派俳優にして映画監督のヴィンセント・ギャロの挿絵が添えられている。執拗にグルグルと円を描く彼のイラストには独特の「動き」を感じさせる。

もしある日突然、自分が普通に暮らしている生活の一部が「違法」的行為と見なされて罰せられるとしたら。もしある日突然、テレビや新聞が規制されて、国に奉仕する以外のマスメディアがすべてなくなってしまうとしたら。確かにそうした馬鹿げたことは「突然」私たちを襲うように思えるが、本当は突然ではなく、エスカレートする過程があることを本書は教える。エスカレートになんとなく慣れてしまったり、違和感は覚えても「まあいいや」とやり過ごそうとすることの危険性が、じわじわと伝わってくる。

物語の結末は特に戦慄を呼び起こす。おそらくこの寓話は、カフカの小説『審判』へのありうべき序章の一変奏であるとも言えるかもしれない。私たちは逮捕され、不条理で不透明な審判を経て、やがて処刑されてしまうだろう。『茶色の朝』の主人公はこう述べる、最初の奇妙な法案が課された時から警戒すべきだったんだ、と。「いやだと言うべきだったんだ。抵抗すべきだったんだ。でも、どうやって? 政府の動きはすばやかったし、俺には仕事があるし、毎日やらなきゃいけないこまごまとしたことも多い。他の人たちだって、ごたごたはごめんだから、おとなしくしているんじゃないか?」――そしてすべてが「手遅れ」になる。

国や様々な権力は確かに国民を「守る」はずのものだ。いや、それどころか、民主主義においては、主権は国民にあることが明文化されている。しかし一方で様々な権力機構は国民をさじかげんひとつで「抹消」することもできる。国民は無力なのだろうか。無力なのではなく、無力であることを「選択する」こともできる、というのが真実である。「選択しない」こともできるのだ。本書巻末に収められた、哲学者の高橋哲哉によるメッセージ「やり過ごさないこと、考えつづけること」は、本書が書かれた背景と、現代的意義の一端が丁寧に語られている。「安全」という名のもとの国民支配、「統制された自由」の欺瞞――本書は単なる寓話ではなく、実はいま世界で起きていることの正確な描写であることに気付かされる。

こうして読者はまず寓話に戦慄し、さらにそれが寓話ではなく現実の一面であることに気付いて戦慄するだろう。高橋が述べる通り、これは確かに「起こらないとは限らない」ことで、まさにパヴロフが描いたようなプロセスを経て、恐怖政治(terrorism)は到来するものなのかもしれない。皆うすうすその恐怖(terror)を感じてはいても、やり過ごしてしまえると思ってしまうものだ。その油断を読者は痛烈に突かれる。物理的攻撃ばかりがテロリズムなのではない。人々のこころを圧迫し、殺していくというかたちで進行する、不可視のテロリズムもあるのだ。本書が大反響なのは当然だろう。


■著者の思想的到達点を示す、非常にテンションの高い書物

精霊の王
中沢新一著
\2,300 講談社 四六判 / 361p
ISBN:4-06-211850-5 発行年月:2003.11

論壇デビュー以来、中沢新一は現代思想の最新成果と宗教思想の古層を大胆に結びつける、哲学的で詩的な様々な言論を産み出してきた。それは西洋と東洋の概念的交叉をもたらす巧みなハイブリッドでもあった。本書は月刊文芸誌『群像』の2001年1月号から2003年3月号まで断続的に連載された論考「哲学の後戸」を改題改稿したものである。現在講談社選書メチエから第四巻まで刊行されている講義録「カイエ・ソバージュ」と並んで、著者の最も新しい思想的境位を明かすマニフェスト的重要作だ。

中沢が本書において目論んでいることは、端的に言えば、日本人の精神的創造性の回復である。それは日本人にとどまらず、環太平洋地域にも連なる人類学的広がりをも示唆する。記紀神話より古い「精霊の王」、宿神とかシャグジと呼ばれるもののヴァイブレーションを探究していく一つの旅だ。かつて民俗学者の柳田国男は『石神問答』(筑摩書房版『柳田国男全集』第1巻に収録。文庫版全集のことではないのでご注意を)で、その古き神について論じた。『精霊の王』の帯文には「『石神問答』の新たな発展がここにある!」と謳われており、さらに大きな文字で「〈魂の原日本〉を求めて縄文へと遡る思考の旅」とある。

芸能、技術、哲学の神でもあるというシャグジを語るうえで、中沢は、世阿弥の娘婿である金春禅竹(こんぱる・ぜんちく、1405-1470?)の著した難解な能楽論『明宿集(めいしゅくしゅう)』の読解を試みている。巻末付録として『明宿集』の現代語訳も収録。「私たちはこの書物をとおして、はじめて中世に宿神と呼ばれていた芸能の神=精霊の活動について、なまなましくも正確な知識を得ることができる」と中沢は絶賛する。宿神は天体の中心にして宇宙の根源である「隠された王」である、と『明宿集』には書かれている。

神々はかつて社会の外にあった。国家が成立し超越性を社会の内部に取り込んだ時、そうした神々は忘却されてしまった。宿神もそのひとつである。しかし、体制化や体系化とは相容れない荒々しい創造的なこの神、はるか昔の精霊の記憶と国家以前の野性の思考の残滓を保持しようとした人々もいた。芸能に携わる人々である。この精霊を「哲学的思考の中によみがえらせることによって、私たちの今日抱える深刻な精神的危機に、ひとつの突破口が開かれるかもしれない」と中沢は述べる。

興味深いのは、この「精霊の王」の働きがイタリアの哲学者アントニオ・ネグリが論じるところの「構成的権力」と似ていると論じられているところだ。「世界をなりたたせている『力の源泉』の秘密」は精霊の王に由来するのであり、精霊の王について知ることは、「国家と帝国の前方に出現するはずの、人間たちの新しい世界」についての未来的なヴィジョンを抱く契機となる。中沢が本書で積み重ねていく議論のテンションの高さは特筆に値する。論証的冒険と宗教的昂揚が一体となったこの書物はある意味美しすぎる。到達点でもあり、序説でもある本書から出発して、彼はさらにどこへ旅立つのだろうか。


■ガタリの「最後の著書」が十二星霜を経てついに日本語訳された

カオスモーズ
フェリックス・ガタリ〔著〕 宮林寛訳 小沢秋広訳
\2,800 河出書房新社 四六判 / 222p
ISBN:4-309-24300-2 発行年月:2004.1

1992年8月の突然すぎる死のわずか半年前に刊行された書物が本書である。当時から予告されていた日本語訳がここにきてようやく出た。長かった。これまでドゥルーズ=ガタリの著作の装丁を数多く手がけてきた戸田ツトムによる華麗なデザインがカバーを飾る。戸田にとっても特別な書物であることが伝わってくる。「美しい遺著」と帯文にあるが、まさに内容だけでなく外見も美しい仕上がりで、現代思想系の本を読んだことのない読者にもジャケ買いされるかもしれない。いや、ジャケ買いでもいい、買ってほしい。それだけの価値はある本だ。

カオスモーズとは、カオス(混沌)、コスモス(秩序)、オスモシス(浸透)を合わせた造語である。晩年の彼の生態哲学(エコゾフィー)と、年来の分裂病分析(スキゾアナリーズ)を貫く、ガタリらしい創意にあふれたキーワードだ。本書を構成する全七章のところどころに合言葉のように使われ、明確に定義されているわけではないので、解説が難しいのだが、それはオートポイエーシスや複雑系の科学と、精神医学の両方にまたがる概念である。

科学的に捉えられたカオスモーズとは、「複雑性の異質な諸状態をつき合わせることを通じて実施される、相対的なカオス化」であり、無限の豊かさを秘めた創造的なポテンシャリティである。また一方でカオスモーズとは、精神分裂病の実存的様式を表す言葉でもあり、分裂病の異様さや妄想的言説はカオスモーズが有する「横断性の力」、「諸相を横断し、もろもろの壁を乗り越える能力」に由来するとされる。ただし、「精神分裂病者をポストモダンの時代の英雄にしたいわけではまったくありません」とガタリは述べている。

英雄視したいのではない。正常から病理を見るのではなく、正常から見た蔑視の論理とは別の言葉で語ることが必要なのだ。なぜならば、精神分裂病は社会の中で生まれるのだから。「カオスモーズ的な次元に対する積極的な無視」によって、正常者は分裂病者たちを社会の周辺へと追いやる。「問われているのは、精神病の英雄視ではなく、反対に、狂おしいまでに精神病が抱いているカオスモーズ的な身体[に対する、つまり言い換えれば]、伝統的な精神病院において怪物じみた花のように養われることをやめて以来、痛めつけられ打ち捨てられ、化学療法によって箔片のようにされている現在の精神病の身体に対する、媚びのない指標作り」なのだ。

それはラボルド病院の臨床現場にたずさわってきたガタリの実践的で倫理的な指標である。訳者はガタリの本領が「広い意味での政治的活動にある」と述べているが、それはまったく正しい。臨床家としても社会活動家としても、彼は常に現場に寄り添って思考を練成してきた。そして彼はいつも、その場その場に特異な主体的創造性を問うてきた。ガタリが本書で示した新しい価値観は、心理療法や複雑系科学の再審にかかわるだけでなく、美的次元や政治的次元にも問題を提起している。

そうしたガタリの柔軟な姿勢を反映するかのように、本書では「です・ます」調の訳文が選択されている。非常に適切である。本書に示されたガタリの思想的先端性は色あせることがないだろう。その意味で言えば、日本語訳されるまでの約十二年間というものもけっして無意味ではなかった。いまこそ彼を読み直すべき時である。

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[2004年1月26日]

■サドの「エス」は人外境にある教会堂の地下深くから湧出する

淫蕩学校(ホラー・ドラコニア少女小説集成 3)
マルキ・ド・サド原作 渋沢竜彦訳
\1,800 平凡社 四六判 / 123p
ISBN:4-582-83207-5 発行年月:2004.1

「ホラー・ドラコニア 少女小説集成」の第三弾は、サドの『ソドム百二十日』からの抄録だ。「淫蕩学校」というタイトルは、この『ソドム』の副題から採られている。高貴な位にある己の財力に任せて四人の大悪人が美男美女を人外境の孤城に拉致監禁し、放蕩と残虐の限りを尽くすという物語が『ソドム』の全貌だが、本書ではまさにその地獄の百二十日が始まる直前までの悪意ある周到な準備の様子が描かれている。

公爵、その弟の司教、法院長、徴税官の四人の大悪人が、「度外れた遊蕩生活」を送ってきた四人の年増女を捜し出すところから本書の物語は始まる。彼女たちに身の上話を語ってもらい、それを肴に拉致した美男美女を慰みものにしようというわけだ。四人の中でも「悪徳と淫蕩の権化」とか「まるで力つきて死にかけた罪悪そのもの」「生きた骸骨」等と描写されているラ・デグランジュは、読者に強烈な印象を残すだろう。

続いて、美男美女をフランス中から数多く誘拐し、その中から来たるべき宴の犠牲者が選抜される様子が描かれるのだが、四人の悪党どもは美少女たちよりも美少年たちにより深く執着していることが分かる。選抜過程の異様な厳密さが語られる割には、美少女たちの存在自体は驚くほど淡く描かれる。彼女たちは人間的実在というよりはサドの夢想する「モノ」なのだ(「少女」をめぐるイマージュについては、本シリーズ『菊燈台』に収められた澁澤のエッセイ「少女コレクション序説」と、同書の月報にある編集者高丘卓氏の解説「意識間移動装置」を参照されたい)。少女たちの後には少年たちが選ばれ、さらにその他に八人の巨根の男たちが選ばれる。彼らのたいへん攻撃的な男根は、美少女とは対照的に、実在的に描かれている。

次に、四人の老いた召使女が選ばれる。その醜さたるや先のラ・デグランジュを凌駕しており、戦慄せずにはいられない。「美とか瑞々しさとかは、単純な感覚を揺り動かすことしかできないが、醜とか、堕落とかは、より強烈な打撃を与えることができるので、感覚の震動はさらに大きくなり、したがって当然、興奮はさらに激しくなる」とサドは言明する。これはサドの小説全般の核となる原理でもあろう。ここまでの描写が本書の約7割を占める。道具立ての説明でここまでひっぱるのか、と読者は訝しく思うかもしれない。だがそれにはわけがある。

彼ら一行が赴く先は、スイスの山奥の、暗い森の中にたたずむ城館である。剣呑な山々に囲繞され、さらに城自体は堅牢な高い外壁に囲まれ、その内側には満々と水を湛えた深い堀を巡らせ、堀から内壁を隔てて城がある。一行が通ったあと、山間に渡された橋は切り落とされ、城にたどり着いた後はすべての城門が塗りつぶされる。世間から隔離された場所で悪事を楽しむためとはいえ、恐るべき立て籠りようである。サドは意識していなかったかもしれないが、この城塞はほかでもない、彼の頭蓋そのもののメタファーではないだろうか。

城の内部はしたがって彼の脳内を表すだろう。とりわけ興味深いのは、城内の教会堂の祭壇下から垂直に下っていく長く急な螺旋階段の果てにある、三重の鉄扉に閉ざされた拷問用の土牢だ。精神分析の用語で言うところの「エス(イドとも言う)」が、ここにあるのではないか。宴の準備は主宰者たる公爵の長広舌で締めくくられるが、それは宴の開始でもあり、無明に閉ざされた欲望の源泉としてのエスのまばゆい顕現でもある。ここは、シリーズ第一弾『ジェローム神父』における神父の独白との地続きで読める。

公爵は美男美女たちに絶対服従を言い渡す。服従は単なる受動性ではなく、公爵たち悪党に仕える積極性としても求められる。果てしない屈従は「よしんば非常に幸福ではないにしても、まったく不幸ではあるまい」から、とにかく奉仕するのだと強要される。つまり、自分たちの言うことを聞き入れて働いてさえいれば、瞬く間に殺されることは免れるかもしれないぞ、という論理である。この邪悪すぎる弁舌を間に受けて激怒し、この本を投げ捨てようものなら、サドの思うツボである。

サドを読むには忍耐と冷静さと理知を要する。経験の浅い若い読者にはなかなか難しいことかもしれないが、悪について何がしかの知識を得ようと思うなら、そして幾ばくかの免疫を自ら得ようと思うなら、サドという観念の地獄を通過することには大きな意義がある。現実世界は無菌室ではありえないからだ。ただし読者は精神を汚染されるかもしれないことを覚悟しなければならない。サドの涜神的、反宗教的、道徳破壊的言説の強烈さは、あたかも反転された絶対神学のように機能する。フォイエルバッハやマルクス、ニーチェに先んじて神を絶対的に否定するサドは、「神の存在証明」に携わってきた思想家たち、アンセルムスやトマス・アクィナス、デカルト、パスカル、スピノザ、そしてゲーデルに至るまでの系譜を強烈に逆照射するのだ。

あとがきとして巻末に収められたエッセイ「反社会性について」は、澁澤訳『悪徳の栄え』が猥褻図書としてまさに裁判にかけられようとする直前に書かれたもので、サドの思想の核心を非常に端的に解説している。さほど長くない文章だが、決定的なサド論であり、必読だ。「サドの作品には、ヒトラーを百倍にも千倍にもしたような独裁者があらわれて、おそろしい権力国家をつくることを夢想する。無実の者を監獄にぶちこんだり、大量虐殺の手段を考えたりする。ところが、権力はあくまでもサドのアリバイなのだ」と澁澤は説明している。

彼は続けてこう述べる、「つまり、こういう人物がひとりならずあらわれて、みんながみんな権力者になることを夢想する始末なので、この権力を志向する者の無政府社会では、窮極的に権力という観念が消えてしまうのだ。――サドの論理には必ず、こういう無に向かう否定の運動がある。(……)サドの無限否定は、権力を賛美する表面の論理とは裏腹に、一元的支配から多元的支配へ、多元的支配から無元的支配へと向かう存在の運動を極点まで押し進める。それは単に独裁者の死を要求するのみならず、あらゆる政治的指導者の死滅をも要求するのである」。無元的支配、とはなかなか気の利いた表現ではないだろうか。

だが、一つだけ留意しておかねばならない。『ソドム百二十日』の結末では、総勢46名のうち、30人が虐殺され、16人が生還したことになっている。具体的に誰が生き残ったのかは、佐藤晴夫による完訳版(『ソドムの百二十日』青土社)をご覧いただくとして、サドが描く世界では、たいてい都合よく悪党が生き残るようになっていることに留意したい。論理的に言えば、完全に立て籠もった悪党どもは自滅する可能性があるにもかかわらず、生き延びてしまう。互いの欲望がぶつかり合って悪党同士も殺し合って死ぬ可能性があるにもかかわらず、微妙なかたちで「共存」して生き延びるのだ。ここには澁澤が指摘することとはまた別の、サドの思想のリアルな恐ろしさがある。

なお、サドを現代的に読み直す作業については、月報に収録された編集者高丘卓氏の解説「蒼ざめたエロス」をご参照いただきたい。テロルとエロスが出会う契機について興味深い考察が行われている。シリーズ編纂をめぐる高丘氏の目論見は、サドや澁澤を倒錯的かつ懐古的な「お宝」として称揚することでは「ない」ことがよりはっきりと分かる。むしろ徹底して現代に耳を澄ませ、サドや澁澤を積極的に試金石として情況にぶつけていこうとするのだ。そこで、彼らの作品が試金石以上の強度を持っているということが判明する。ここにこそ本シリーズが反響を呼んでいる所以があるのではないか。

「無に向かう否定の運動」というサドの傾向性によくマッチしている町田久美の挿絵は、半数以上が描き下ろしであり、シャープな線で描かれた異形のヒトガタたちが、崇高なイコンのようにページをめくるごとに現われる。偶像の崇高さは時として不気味であることを私たちは経験的に知っているが、町田の墨絵には無を背景にして存在を主張する物体たちがまさにその崇高さと不気味さを体現している。聞けばすべて水墨画だというから驚く。町田の技法については月報で山下裕二教授が解説しているので、要チェックだ。なお、『ソドム』の映像化という問題をめぐっては、イタリアの映画監督パゾリーニの遺作『ソドムの市』(1975年)も参照しておくといいかもしれない。


■唯物論者バディウが主張する〈不死なるもの〉への権利とは

倫理 〈悪〉の意識についての試論
アラン・バディウ〔著〕 長原豊訳 松本潤一郎訳
\2,000 河出書房新社 四六判 / 192p
ISBN:4-309-24301-0 発行年月:2004.1

アラン・バディウの著作はだいぶ前から海外では評価を得ているものの、日本ではなぜか邦訳が一点しかなく、現代思想における影響力の割には紹介が不十分だった。本書は『ドゥルーズ』(河出書房新社)に続くバディウの著作の日本語訳第二弾である。藤原書店でも彼の『哲学宣言』や『存在と出来事』の翻訳出版が予告されたことがあったが、まだ刊行は先のようだ。

本書は、「倫理イデオロギー批判」の書である。人権、人道主義、道徳、民主主義、文化相対主義、等の理念型がいまや人類にとって思考を阻害していると彼は大胆に説く。奇をてらっているのではない。彼はこう言っているのだ、「倫理一般なるものは存在しない」と。「倫理があるのは複数の真理においてだけである。より精確に言えば、真理の過程以外に倫理はないのであり、それはこの世界へいくつかの真理を出来させるための辛苦に満ちた過程なのだ」。

バディウは、善悪とは自己にとって外在的なものではなく、主体的なものであると論じる。彼の主張を思い切って再翻訳すればこうなる。悪とは、反真理的行為(ここで言う真理とは「複数の真理」のこと)である。それは三つの現われ方をする。複数の真理を歪めて認識すること、利己的な利害や関心によって複数の真理に背を向けること、たったひとつの真理だけが真理のすべてだと信じること、である。

反対に善とは、複数の真理に忠実であることを意味する。それは悪の主体性に抵抗して、三つの現われ方をする。すなわち、複数の真理への歪んだ認識にとらわれないこと、複数の真理を認め、自分を自分たらしめる名づけ得ない真理の過程に勇気をもって踏みとどまること、全体主義的で絶対的なひとつだけの真理など信じないこと、である。悪に備えることというのは、複数の真理に忠実であることなのだ。

全体主義的で絶対的なひとつだけの真理は、複数の差異に満ちた真理を粉砕する愚挙を生み、万人に対するテロ行為の源泉となる。「複数の真理の倫理」から見たテロとはつまり、万人を「死に-向かう-存在」へと還元する行為である。ナチズムしかり、民族浄化運動しかり……。たしかに人間はそれ自体もともと「死に-向かう-存在」ではある。しかしバディウはこう主張するのだ、「真の人権とは、それ自体の権利においてみずからを肯定する〈不死なるもの〉への権利であり、あるいはその主権を苦痛や偶発性にたいして行使する〈無限なるもの〉への権利なのだ」。

また別の場所ではこうも言っている、「私たちの眼前に突きつけられる不可能なものの可能性が、その内実が死を決定することでしかないよく-生きることの倫理に抵抗する、複数の真理の倫理を支える唯一の原理なのだ」と。唯物論者であるバディウは人間の不死や永遠なる絶対的真理を信仰しているのではない。ただし彼は一個の抵抗者として――抵抗こそは人間らしい生の証しなのだから――、人間は塵芥に帰すだけの存在なのではないと強く主張するのだ。小著ながら濃密に組み立てられた「脱-倫理学」の好著である。巻末の訳者同士の対談「『倫理』の街頭的読み方」も多くの示唆に富んでいる。


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