無言で雄弁な死から
「こんなことってあるんですねぇ…」
って勝手に納得しないでほしいなぁって思う場面に出会った。
去年の末に亡くなった七十代の男性。定年後も毎日元気で、病気知らず。健康診断も異常ナシ。ところが、昨年11月に手術不可能な場所に病気が見つかり「年内もたない」とお医者さんから宣告。本人に自覚も痛みもないまま12月になり、家族も「ホントに病気なんだろか?」と思うくらい病室でも元気にしてらしたが、医者の見立て通り、次第に容体が悪化し、末日に亡くなった。わずか2ヶ月…。
その方は、去年7月にワタシの「新住職就任祝賀会」の案内状をご覧になって、いつもは「お寺」に縁遠い方だったが、「祝賀会」に出席してくださっていた。
その事で、奥さんが冒頭の言葉を呟いたのである。
「こんなことってあるんですねぇ…」
「何がですか?」とワタシ。
「主人が七月にお寺サンの祝賀会に行ったでしょう?お寺とかには全く感知しない人だったのに……」
「あぁそうなんですかー。僕も祝賀会の席でテーブルにご挨拶に歩いたとき、しばらくの間、ご主人様と初めてお話させていただきました。お元気でしたのに、亡くなったお知らせにびっくりしました」とワタシ。
「そうなんですよ。だから、なんかね、あるんでしょうかね。亡くなる事が暗示されてたっていうか……こんなことってあるんですねぇ…」
はじめは奥さんの話す真意が分からなくて戸惑ったが、どうやら
(1)今思えば、年末に亡くなってしまう命だからこそ、元気なうちにお寺(先祖?)に呼ばれたのではないか。
(2)今まで興味のなかったお寺に珍しく行ったりなんかするもんだから、亡くなったのだ。
どちらかの意味合いに取れてしまうのだ。
元気だった大切なご主人を突然失った奥様の気持ちは私の想像を超えた世界だ。またその突然の不幸の原因のホコサキを見つけたい、そして少しでも納得できるものならそうしたい、というのは人情である。
しかし、「お寺に行ったから」という原因究明は、ちょいとサビシイ。ゴメンね住職になって(苦笑)
お寺の祝賀会に来た方だから亡くなったのではない。
また逆に言えば、祝賀会に来た他の方だって、みんないつか必ず亡くなっていかなくてはならない命なのである。
当たり前の事だけど、赤ちゃんとしてオギャーと産まれたとたんに、我々には100%「死」が決定している。そしてその後の「生」の中で色んな縁(条件・キッカケ)に遭遇していかなくてはならないという「人生ルール」。
成長という縁もある。
若いという縁もある。
挫折という縁もある。
元気という縁もあれば、病気という縁もある。
そして死という縁もある。
死は特別なものではなく、生きる全員に決まっていて、今んとこたまたま「死の縁」に未だ出逢っていないだけのこと。私が若いから死なないのではないのだ。
だからこそ、生きている今この時が大切に思えるし、一度切り、繰り返せない、誰にも代わってもらえない人生を優しく、逞しくありたいと願うのではないか。
先立った大切な方が示してくれた「死」は「無言」のうちに、実はいろんな事を「雄弁」に語り、教えてくれている。
塩を巻こうが、お祓いをしようが、初詣で願い事をしようが、「この私に死の縁が整えば死ななくてはならない」 という一点は変わらない真実。
その事を正しく受け止めなければ!
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