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えこまの部屋 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-01-17

コミュニケーションと「老親」

会話って不思議だ。

とにかく何か話さないと場がもたいなから何かを適当に話すというシーンもあれば(お天気の話題とか^^)、この人にこの件に関して聴きたい、あるいは聞いて欲しいと思って切実に会話することや、いろいろなパターンがある。


話し下手という言葉を書いてみてふと考えなおしてみた。


朝の10時から夕方の5時まで長丁場の講演をして、その後さらにコアな参加者と共に夕方6時から10時まで夕食後に班別ワークショップをし、さらに希望者とともに10時以降から深夜まで質疑応答に答えるというは超人スケジュールエネルギーメッセージを伝えている某カリスマ運動家イベントに参加したことがある(こう書くと宗教団体?と誤解されそうですがNGO団体です)。


私はその人のことを本当になんて話題と知識が豊富で楽しませながら与える「語り手」なのだろうと心底感心していた。

ある人が「自分はあなたのように話し上手ではないから....」と言われた時にその運動家が「自分は話し上手だと思って喋っているひとに限って、まわりの聞き手は、実は辟易としていたり、うんざりしているものです。むしろ上手い話法など身につけていなくても、たどたどしく言葉足らずでも、例えボキャブラリーが少なく専門知識がなくても、それでも『伝えたい』メッセージを持っている人の言葉は相手に届けられるものです。」と答えられた。


そんなことをおぼろげに思い出しながら、でもなかなかメッセージが届かないことがあると思いなおす。



それはこちらが意図的に無視されていることもあるだろう。

こちらがいくら必要な切実な伝えいたいメッセージを持っていても、相手にとってそれが「自己否定的」にとらえられるものであったり、ライフスタイル価値観や行動様式を根本的に変えねばならないもの、都合の悪い耳障りわるいもの、自分の現状を否定されるものに対して人はシャットアウトするものだ。



そうなってくると「話し上手」や「話し下手」などは、コミュニケーションの本質とはなんら関係ないものであることに気づく。

対話や会話や談話や歓談に必要な要素とはなんなのだろうか。

あほみたいに端的にいえば「好かれているか嫌われているか」ただそれだけのことのように思えて来た今日この頃。(え?気づくのが遅いてってか?)


単純に「あなたの話が聞きたい」「わたしの話をあなたに聞いて欲しい」から「あなたとおしゃベリするとなんだか私は元気になるし、あなたも私との時間を楽しんでくれているみたいで私も嬉しい」になり、「あなたの声、表情、動作所作を見ていたい」「あなたと同じ時間、同じ場で、同じ空気を吸っていたい」「あなたと居たい」「あなたを感じていたい」とまぁいろんな方向に広がっていく。

なんにせよ、そこに話上手とか下手とか何か関与しているだろうか。

そりゃ話下手より話上手の人との方があきらかに過ごしている時間は明るく軽快で楽しい


だけど会話の表層的な楽しそうさと、対話の深み、相手に出会えた本質的な?根源的な喜びとはあまり比例関係がないように思える。

言葉を交わさなくても同じ景色を一緒に見ているだけで幸せになれる相手がいる。

コミュニケーション潜在意識間での交流でしかない気がする。

顕在意識でなく、根っこの方で相手とどう本当は交流したがっているのか、その本心が互いにうまくとりかわされている時にだけ、コミュニケーションはうまく成立する。そんなもんに思えて来た。(たぶん当たってない?)



私は私を嫌う人に敏感だ。もう瞬間瞬息で分ってしまう。(もちろんそこに居続けたい時は気づいていないような気にしていないような心で泣いて大人のふるまいをしてみせているが)何も言ってこなくても直接イジワルをしてこなくても、「私が此処に居ることを心から歓迎しない、嫌がっている」という感情が私にはちゃんと伝わっている。相手を嫌がらせるのなんて簡単。相手の存在を嫌がればいい。ただそれだけだ。そういう意味で私はずっと先方から先にイヤガラセを受けて来たにも関わらず先方は「私の態度が気にくわない」らしい。(私を嫌ったのはあなたが先で、だから私の態度はどんどん硬直して行ったのだけど)


目の表情ひとつで、瞬間の立ち居振る舞い以前に空気で分る。

「おまえはこっちに来るな!シッシッ!絶対に仲間になんかいれてやらない(あたいが時間をかけて築き上げたこの地位、ポジションをとられてなるものか!的心情がまるまる稚拙なほどに赤ら様にコチラには手に取るように伝わって来るし、他の同胞も同じことに気づいていた。爆^^;)


私がどれだけ礼をつくそうが、相手は私の存在を許せない(らしい)。

そういう強烈な(性根の弱い)人がいることを知った。

いちいち威張ってくる、威張りたがる人って、結局「劣等感の強さ」の表れなんだなと対象を見ていてつくづく思う。

チ○デ○ブ○で年齢がそのまま彼氏いない歴になっている人ってそのぐらい吐け口のない性エネルギーグロテスクに根性歪ませる方に使っているのだなと同情して諦めることにした(人の助言で、どうやら妬まれているらしいと気づいた。これに関して私に非があるわけでもなく本人の資質(心)の問題だから仕方ない)。


そう、当初は、私が話下手(相手をすぐに喜ばせるような気の利いた言葉が瞬時に出てこない)だからか?とか、礼儀正しくわきまえているか見直したりして、いろいろ試して改善してみても結果が同じなので、そういうときは自分を責めずに相手の方に問題があるのだとこの頃は思うことにしている。


人はみな自分を嫌う人を判別するし、鶏か卵が先か?の世界だが、どちらから始まったのか分らないくらいに嫌いの感情はちゃんと伝搬し、結局お互いに嫌い合う。コミュニケ−ションとは面白い世界だ。言葉をまともにかわす前から、何か事件が起るよりも以前にすでにそれは始まっているのだから。



「あいつが私にああ言ったから(あるいは気に食わない態度をとったから)私はあいつを嫌いになった」という人は、実は無意識の裡に先に自分が相手の足(心)を踏んでいる事実を知らないし認めようとしない。

これを前世療法みたいに「あなたと相手とは実は過去に仇同士で....」と、しょうもない「物語」に着地させて人をマインドコントロールする霊能バカも世の中にはいるが、結局このようにして「良好な?コミュニケーション」や「人間関係」は成り立ってしまう陥穽が常にある。


つまり良好なコミュニケーションにあるということは、浅くは「私の言って欲しいことを言ってくれる人の傍に行く」ことなのか?はぁ?という疑問を私は持ち始めている。


そのコミュニケーションコミュニケーションの真価があるかどうかはたして疑問だが。

でも人との交流とは結局そういうものなのか、と愕然とくる。


だから私は自分を含めて話下手な人を愛おしくも感じる時もあるし(それは誠実さの表れにも思えるのだ)、やたら饒舌な人が無神経な厚顔無恥に見えることもある。



ちょっと男と女のほうに話が逸れるが、「君とこれ以上一緒にいても僕にとっては楽しい話題提供がのぞめない」と判断してすっと去っていくひと(男性)を経験した女性は少なくないのではないか。


女はこんな経験を通して「男目線(男性の心情を中心にすることを前提とした話題やふるまい)」を学習するし、男に心底、絶望もする。あとはどうやって対象(男)の中にある自分にとって有限有効なファクターリソースから幻想を紡ぎだし、再編集し譲歩し納得できそうな妥協のできそうな「物語(接点)」を作り、『現実』に自分を迎合させていくか、しか、女には術(生存戦略)がない。

男性ロマンチスト女性リアリストであるのが一般的な現象なのは「構造」によって産み出された文化(現象)に過ぎない、と私などは思うのだ。



そういう現実ゲーム)から「やめた!おりた!」ときっぱり言った女がフェミニストである。

(だからヘタレな私はフェミニストになんかなれやしないのだ。)


メッセージとは、「あなたの話を聞きたい」と思った相手にしか届かない。

どれだけ話上手だろうが、政治力があろうが、相手の核に届くのは相手が私を好いていない限り、届きはしないのだ。


悲しいのは、相手が私を好いていると勘違いしている時だ。

あなたが好きなのは私ではない。

あなたは私という「媒介」に幻想幻影を映し出し、あなたはその理想の幻影(女)が好きなのであって、私はそれに与せない。



そういうことを本気で意思表示した瞬間から分かれの手続きが始まるのだろう。

現代の離婚率が高まったのは、なんだかんだいって「女がトシをとってもなんとか1人で生きて行ける」ほどに世の中の経済基盤や女性雇用機会が豊かになったせいもある。だけどその前に言っておかなきゃならないのは、「ずっと女性には不都合に不条理の受容を強いて運ばれてきたシステム」が、ただ「離婚」という形で顕在化しただけのことで、実質的には何も溝は埋まっていないということだ。


先日はBS2萬田久子主演の「老親」という映画を観た。

地方の長男の嫁に課せられた周りからの重圧が前半には見事に浮き彫りに去れていた。また母親が姑にいびられてその吐け口として子どに当たり、娘の心を傷つけ母娘関係もこじれていく親子の虐待の連鎖など見事に浮き彫りにしていた。私にとって前半は特に臨場感ありすぎる映画だった(こんな負の連鎖も、そろそろ世代が変わって終わりそうだが)。

萬田久子が我が子には絶対に精神虐待を連鎖させず自分の代で断ち切ったところにも強く共感を覚えた。もちろん連鎖を断ち切った本人の霊性の高さや勇気を高く評価するし、それだけでなく、それができたのは、時代の集合無意識、風潮、認識の背景の「助け」もあると私は冷静に判断している。そういう意味主人公の母(草笛光子)もまた可哀想な時代の人なのだ。



萬田久子はいう。

おじいちゃん(離婚した夫の父)の介護に関して息子に意見された時のこと、

「女がする日常の家庭の中での穴埋め作業、生きて行く上での生活基盤の行いに対して、自分(男)は殆ど手を貸さず、せいぜい「お手伝い」程度の「協力」レベルの立場で、女のやることをすべて当たり前の前提にした上で理想論を言う男にはなるな。」と息子を斬る。


「老親」という映画は老いた配偶者実家の親の両方の面倒を順に看る女性物語だった。

婚家では常に「長男の嫁のくせに」と義務と責任を課され、親元では実母に「総領娘のくせに親孝行しない、あてにならない娘だ」となじられ続けるヒロイン介護を軸にした話だ。


男性には思い切り身をつまされて見ていただきたい。

萬田久子がとても好演していて、ヒロインの明るさ前向きさが救いで、重いテーマなのに映画全体の雰囲気をほがらかに和らげてくれていて、最後まで見ることができた。