真実から目をそむける人々

飯嶋七生(自由主義史観研究会会報編集長)

集団自決=軍命令説を主張する人々は、自決現場をどのように記述しているのか、その著作から見ておきたい。

▼大城将保氏(沖縄県立博物館館長)
 

「……慶留間では米軍上陸と同時に一斉に自決がおこなわれた。同島に配属された海上挺進隊の舟艇壕は部落とは反対側の北海岸にあるので住民と部隊の接触はない。……最期の覚悟について防衛隊の男たちは家族の者たちに言いふくめていた。……手榴弾は配られてないので、子どもは親が手にかけて絞め殺し、殺鼠剤を奪い合って口に含み、木の枝に縄をかけて首をくくり、あるいは砲爆撃で燃え続けている炎の中にとびこんで自殺した。座間味島では敵上陸直前に役場の職員が各住民壕をまわって、『住民は男女を問わず軍の戦闘に協力し、老人子どもは忠魂碑前に集合、全員自決せよ』と伝えてあったが、砲撃が激しくて集合がかなわず、めいめいの家族壕で、手榴弾、カミソリ、鎌などで自殺を遂げた。……伊江島では前線から逃げてきた防衛隊員が住民壕に合流し、……彼らが携帯していた急造爆雷で住民もろとも自爆した。チビチリガマには141名の部落住民が避難していた。……そこへ(米)海兵隊がやってきて銃を構えて包囲した。……手榴弾と機関銃弾が集中して数名の竹槍隊は倒された。銃声が壕内にパニックをひきおこした。人びとは衣類や草木をかき集めて火をつけた。一酸化炭素ガスで自決をはかったのである。刃物を持っている者は家族ぐるみ刺し合った。たまたま救護班の婦人が医療箱を持っていてモルヒネの注射も打たれた」(大城将保『沖縄戦』高文研・153〜158頁)。

「6月22日が最後の夜になった。その夜、防衛隊にとられた部落の男たちがカミントー壕をさがしあてて来た。初子のお父さんも帰って来た。部隊が解散になったので家族のところに戻ってきたといっていた。……防衛隊の人たちが『みんないっしょに自決しよう』といった。手榴弾がくばられて、家族ごと固まった。初子のお父さんも手榴弾を取り出して発火させる用意をした」(同右47頁)

「軍の自決命令があったかどうか、が議論になったことがあったが、伊江島の場合でも慶良間諸島の場合でも軍の命令は必要ではなかった」(大城「なぜ集団自決は起きたのか」『別冊歴史読本・沖縄』新人物往来社)。

  

▼金城重明氏(集団自決体験者)

「……決して、われ先に死に赴く男性は一人もおりませんでした。愛する者を放置しておくことは、彼らを最も恐れていた『鬼畜米英』の手に委ねて惨殺させることだったからです。『集団自決』が進行するにつれ、『生き残る』ことへの恐怖心と焦燥感のボルテージが極度に高まってくるのを強烈に感じました」(金城重明『集団自決を心に刻んで』高文研・54頁)

「……自決命令が出たとか出なかったとか、隊長や軍人が何をしたかよりも『生より死を願う』異常心理に追いつめた『皇民化教育』こそが、あの残酷物語の演出家だったのであります」(同・180頁)。  


▼江口圭一氏(故人・当時 愛知大学教授)

「慶良間諸島の座間味島では、米軍が上陸した3月26日、忠魂碑の前に住民が集合していたところ、艦砲弾が忠魂碑に命中したため、集まった人たちは混乱状態におちいり、四散して家族ぐるみで、カミソリ・手榴弾・棍棒・ねこいらずなどで命を絶ちあった。……座間味村・宮里美恵子『私は校長先生に一緒に自決させてくれるようお願いしました。すると校長先生は快く引受けてくれ、身支度を調えるよういいつけました』……。元渡嘉敷村長・米田惟好『防衛隊員の持ってきた手榴弾があちこちで爆発していた。……私は防衛隊員から貰った手榴弾を持って、妻子・親戚を集め、信管を抜いた』」(江口圭一「日本軍の住民殺害と集団自決」藤原彰編『沖縄戦』青木書店)。

大城氏は、慶留間の例を引きながら「住民と部隊の接触はな」く、集団自決が行われたこと、座間味では「役場の職員が各住民壕をまわって」自決を命令したことを明らかにし、また「防衛隊」が主導したことを知っている。  

金城氏は、「鬼畜米英」による惨殺を恐れた当時の心境を吐露し、江口氏は「混乱状態におちい」った住民が家族ぐるみで自決におよんだと明言した。また、校長先生や村長が防衛隊の持ってきた手榴弾で自決を幇助したことも明らかである。

  

ここでいう防衛隊とは「初子のお父さん」たちなど、部落の住民から成る組織であるのだが、多くの人が事情を知らないのをいいことに、彼らと正規軍とを混同させるトリックがしばしば使われる。藤岡信勝本会代表の説明を引こう。  

「米軍来襲時、島には(一)陸軍の正規部隊たる将兵 (二)防衛隊 (三)一般住民の三種類の人々がいた。防衛隊とは、……村長などの顔役が隊長をかねて行政と一体化し、日常の生活は家族と起居をともにしていた。手榴弾は防衛隊に米軍上陸の際の戦闘用に支給したものであり、自決用に一般住民に配布したのではない。集団自決を主導したのは防衛隊で、時には手榴弾を軍陣地から持ち出して住民に配布した。『兵隊さんから手榴弾を渡された』という住民の証言は、防衛隊を日本軍と混同しているのだが、マスコミはこの事実をよく知りながらイメージ操作のため確信犯的にこの混乱を利用しているのである」(産経新聞「正論」2007・10・24日付

メディアの歴史の中でも、特筆すべき汚点として残る「11万人大会」では、男女高校生が声を揃えて「真実を学びたい」と言っていたが、真実から目をそむけているのは誰なのか?
 

【虜囚はやはり辱められた】

「日本軍は、米軍の捕虜になると、女は辱められ、男は惨殺されると宣伝して住民に投降させなかったため、住民は自決の道を選んだのだ」

隊長命令はなくとも、日本軍の流した、こうした「デマ」が、「自決の強制」にあたるというが、本当にこれは「デマ」なのだろうか?  

・本部町備瀬…米兵が壕に隠れていた男たちにタバコを与えて油断させておきながら背後から射殺。穴から飛び出した国民学校の生徒も射殺され、多くの女性は強姦された。

・本部町健堅…住民の照屋松助が妻子に乱暴しようとした米兵をいさめて射殺。

・宮城島…食糧を調達する娘が強姦、射殺。

・ 中城村島袋…収容場所に移動させられたのち、若い娘らは米兵に引っ張られ強姦。助けに入ろうとした男は射殺された。(『沖縄県史10 沖縄戦記録』)  

前出、大城将保氏も、沖縄戦の戦時強姦について、「本部半島のある部落では、米海兵隊が上陸した直後に、部落じゅうの婦人が手当たり次第に米兵の毒牙にかかっ」た事例を紹介している。(大城前掲書172頁)  

朝日新聞は、サイパン島陥落の際には、「従容 婦女子も自決」と見出しを掲げ、「非戦闘員たる婦女子もまた生きて鬼畜のごとき米軍に捕はれの恥辱を受くるより」潔く死を選んだ女性を讃えていた。(朝日新聞1944・8・19日付)  

実際に、晴れ着で身を整えて自決した婦女が多かった事実から考えれば、当時は敵兵の慰み者にされるよりは美しいまま死にたいと願う風潮があったことは否定できない。沖縄だけでなく、満州や樺太でも悲劇はくり返された。

一方、リンドバーグは、米兵が日本人捕虜をとりたがらず、手を上げて投降してきても皆殺しにしていたことを克明に記している。たとえば、「一旦捕虜にしても英語が分かる者は尋問のため連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。すなわち殺された」例や、豪軍兵士が「捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、ジャップは途中でハラキリをやっちまったと報告」する例等々、枚挙に暇がないほどだ。(藤岡信勝「あのリンドバーグ日記が語る米兵のすさまじい日本軍捕虜虐待」『正論』2000年5月号)

米軍に捕まると、男は虐殺され、女は辱められるというのは、決してデマなどではなかったことが分かる。

日本軍だけを糾弾するのはもうやめにしないか。

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