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2007年10月

2007年10月29日 (月)

大友克洋の絵は、3Dゲームだと考えると精神衛生上いいよ

Akira

大友克洋の絵が優れているのは、丸ペンにより綺麗な線が描かれているというのもあるし、効果的にスクリーントーンが貼られているというのもある。でもやっぱり一番重要なのは、完璧なデッサン。この寸分の狂いもないデッサンは、誰にも真似できない。
絵を描く人間なら、大友の絵を見れば誰でも絶望してしまう。こんなものは真似できる訳もなく、人間には不可能な技術である。

しかし考え方を変えてみよう。完璧なデッサンということは、すなわちコンピュータにも出来るということだ。タッチさえ無視すれば、これは3DCGで表現できる。
我々は普段から、3Dのテレビゲームで遊んでいる。あの感じだ。あれこそ完璧なデッサンであり、大友の絵だ。
では大友の脳はコンピュータと同じであり、我々一般人には到底真似できないものなのか?そうかもしれないが、少しだけ希望はある。

我々は3Dゲームを遊ぶときに、頭の中に3D空間を構築する。そうしなければ遊べない。なのでプレイ中に3D酔いをしてしまうことも多い。
そして長時間3Dゲームで遊んでいると、ゲームを遊んでいない時間、食事中などにも、頭の中で3D空間を連想してしまうことがあると思う。あれを応用すればよい。

我々は頭の中で、完璧な3D空間を作ることができるのだ。精神を集中させれば、頭の中で大友のような絵を描くことも、可能である。そしてそれを、紙とペンで実体化させればよいのだ。
ちなみに私もチャレンジしましたが、頭の中で3D空間を想像しただけで3D酔いしてしまいました。3D酔い体質は駄目ですね。

(関連)
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2007年10月27日 (土)

モノクロの絵の今後の方向性

日本では漫画の絵が隆盛で、それは諧調のない白黒の印刷によるものだ。つまり線をはっきりさせないといけない。はっきりした線じゃないと、綺麗に印刷できなくなる。その「はっきりした線」というのが、日本の漫画の絵柄を決めてきた気がする。
スクリーントーンというものもあるが、結局それも、アニメっぽい絵になるだけだ。とにかく白黒の印刷というのは、嫌でも、はっきりとした絵にならざるを得ない。雑な感じを楽しむようには、しにくい。

しかし今後は当然、電子ペーパーなどによって紙以外で読むことになり、そうすれば白黒に諧調もつき、はっきりしない、あやふやな線で描けるようになる。かすれた感じを楽しんだり、水墨画のような感じにしたり、と。
しかし疑問に思うだろう。そもそも電子ペーパーなどを使うのなら、カラーでいいのではないかと。わざわざ白黒の絵を表現する必要など、ないのではないかと。
しかし白黒の絵でしか表現できないものというのは確実にあり、あえてそれを選ぶ人間もいるはずだ。またカラーに比べて生産性が高いので、漫画などの、大量にページを消費する表現に向いている。

今までは漫画などの白黒の絵を描くには、つけペンという、特殊なペンを使うしかなかった。これは自分でペン先にインクをつけるもので、非常に煩わしい。描くスピードも遅くなる。
しかしこれからは、好きな画材で描くことができ、黒に濃淡を付けられるようになる。そうすれば、表現の幅というのは非常に広がる。
とにかく我々は一度、はっきりとした線からの脱却を図る必要があるのだ。

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浦沢直樹のストーリーの冗長性

僕は浦沢作品を、あんまり読んだことがないので想像で書く。

浦沢作品というのは、ストーリーテリングが巧みなことで有名だ。だが同時に、話が長いことでも知られている。また最初は面白いのに、後半になるにつれて話がつまらなくなると言われている。
これは連載作品なので、ミステリー風にした場合、いろいろ謎を散りばめておいてハッタリをかませることが理由だと思われる。つまり読者は、前半を読んでいる間は、後半部分を想像で補い楽しむことができる。
それなら、単に浦沢のストーリーが稚拙だということで説明がつく。このエントリでは、ストーリーの内容ではなく、なぜストーリーが長くなってしまうのかを書く。

結論から言うと、これは浦沢の絵がでかいからである。浦沢は人間を大きく描き、そのせいでコマが大きくなる。なのでページ数の割に、話が進まない。
確か、浦沢は大学生の頃まで、手塚治虫をそのまま真似た絵を描いていた。しかし大友克洋の作品に出会って、リアルな絵を描くようになった。

しかし浦沢は、大友ほどの画力はなかった。なので悪い言い方になるが、大友の劣化版にしかならなかったのだと思う。
手塚と大友は共通している。それはフルショットで勝負できることである(by 矢作俊彦)。つまり、人物を小さく描くことができ、一つのコマで全てを表現できる。もちろん手塚に比べて、大友の絵は圧倒的に写実的であり技術力が上なのだが。

浦沢には、それができなかった。人物を大きくしか描けなかったので、コマが大きくなり、ページ数が長くなる。
そしてもしかしたら、このページ数の増加、つまり連載の長期化が、彼のストーリー展開を甘やかしたのかもしれない。

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2007年10月26日 (金)

夢日記(2007年10月26日)

僕は、遠い遠い友達の家に来ていた。友達の家の裏にはセブン・イレブンがあって、更にセブン・イレブンを抜けると、彼の通っている中学校がある。
更に少し歩くと、スーパーマーケットがある。二人で入る。とにかく、この店内では屈辱的なことがあった。しばらくして、二人で店を出る。

さて一緒に帰ろうとすると、彼は後ろに女の子を乗せて、自転車で先に行ってしまった。非常に腹立たしかったが、仕方なく後を追う。僕は膝が痛いから、あまり歩きたくないのに。
セブン・イレブンを抜けて、最初のアパートに戻る。そう、親戚のアパートに。階段で自分の両親と合流。階段を登ると、四畳半に、僕の両親と僕、いとこの男性と祖母。狭い。

この、なんともいえない空間が非常に苦痛だった。祖母が、いとこに対し、僕の目を見るように言う。僕も仕方なく、いとこの目を見る。にらめっこが続く。

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2007年10月23日 (火)

僕の飯野賢治に対する正直な感情

eno:blog: 5-year anniversary

元ゲームクリエイターの飯野賢治さんのblogが5周年を迎えたそうだ。僕も、いつからだったかは分からないが、ちょくちょく読んでいた。
5年というのは長い年月だ。60ヶ月だから、1800日だ。1800日・・・。1800日という、途方もない期間、飯野さんは毎日blogを更新し続けてきたのだ。本当にすごいことだ。おめでとうございます。

告白するのは恥ずかしいが、僕は元々、飯野さんの大ファンだった。「Dの食卓」に受けた衝撃というのは、それは大きかったし、ラジオも毎週聴いていた。飯野さんが社長を務めていた株式会社ワープのWeb掲示板にも、毎日書き込んでいた。僕は他ユーザーから荒らし扱いされ、飯野さんのことを逆恨みしたっけ。

しかし、いつの間にか飯野さんは僕らの前から姿を消した。僕らファンを置いていってしまった。僕は心配し、東京中の公園、駅の構内、河原などを探した。電車の網棚に雑誌を放置しておけば、飯野さんが回収してくれるかもしれないと思い、実行した。しかし飯野さんには会えなかった。

そして何年も、毎日、飯野さんの名前をネットで検索していたが、有力な情報は得られず。しかし僕は間違っていたのだ。インフォシークで検索していたのだ。インフォシークの検索機能というのは性能が低いので、見つからないのも無理はない。グーグルに切り替えたら、あっさりblogが見つかった。

僕は飯野さんに憧れて、青春時代を過ごした。飯野さんに少しでも近づく為に、暴飲暴食して肥満体型になったり、髪を伸ばして頭が痒くなったりした。飯野さんの好きなYMOの曲を聴いたりしたが、どこが良いのか、ちっとも分からなかった。いまだによく分からない。YMOって、どこがいいの?誰かおしえてよ。

えーと、とにかく、またゲーム作ってほしいな。

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2007年10月21日 (日)

初音ミクで低い才能を集めるロングテール

くだらないよね、本当に。初音ミクだっけ?馬鹿馬鹿しいよね。オタクって気持ち悪いよね。よかった、オタクじゃなくて(笑)

あれで曲を作ってる人とか、本当にセンスないと思う。馬鹿が持ち上げてるだけだよね。馬鹿の集団。才能がない。「ミックミックにしてあげる」だったか。あれも20秒ぐらい聞いたけど、音がすごいダサかった。これからプロを目指すとかなら、やめた方がいいよ。不幸になるだけだから(笑)

で、こういう風にレベルの低い人達が集まることこそロングテールなのかもしれないな、と思った。要は数さえいればいいんだよね。世のネットユーザーの大半は馬鹿で間抜けでセンスのない人だから、そういう人が集まれば声がでかくなるしね(笑)

いや、誤解しないでほしいけど、そんなにボロクソな訳じゃないよ。全く才能がない訳じゃない。でも中の下ってとこかな。ちょうど馬鹿が喜ぶレベル。紅白まんじゅうを美味しいと思うレベルにセンスのない人たち(笑)

本当に才能のある人なら、自分で歌うか誰かに歌わせるしね。そういう手段を持っていないから、ああいう平坦な声のクソボーカロイドに手を出すしかなくなるんだろうね。可哀想な人たち。傍観する分には楽しいけど(笑)

Web2.0だかCGMだか知らないけど、よく分かったよ。君たちは低いレベルで安定するってことが。僕は才能のある人間だけに、こういう人たちのせいでウェブが汚されるのは気分が悪いね。死んでほしいな。顔もキモいんだろうな。よかった、僕はイケメンで(笑)

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2007年10月20日 (土)

夢日記(2007年10月20日)

アマゾンで初音ミクを買った。最近は売れているらしく、大量生産した為か箱が従来のものよりも小さくなっているらしい。
やはり初音ミクというオタク向けの製品を買ったので、家族に見られるのは恥ずかしい。洗濯物を取り込みにくる母親にバレないように、初音ミクの箱を雑誌の下に隠す。

初音ミクというのは、カメラと薄型マイクのセットになっている。これらを組み合わせるのだ。しかし僕はカメラを持っていたので、以前から持っていたカメラに薄型マイクを装着する。この作業が、なかなか難しい。とくに、白い小さな輪ゴムみたいなやつが取れやがる。ちなみに、他のカメラを流用可能というのは、佐々木俊尚が言っていたことだ。

せっかく組み立てたのだが、僕がいたのはキッチンなので、意味がなかった。パソコンに繋げない。テレビで関西の若手お笑いコンビが「ごきげんよう」に出たときの愚痴を「ごきげんよう」内でこぼしていた。

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2007年10月19日 (金)

ブロガーのキモさは見た目の問題だよね

Midnight_face

ブロガーは自分のキモさとどう向き合っているの? | 住 太陽のブログ

いくら自己表現とか高尚な言い訳をしたって、ブロガーが気持ち悪いかどうかは、完全に見た目の問題。見た目が気持ち悪いブロガーは文章も気持ち悪いよ。経験的に分かる。
イケメンや美女の書くブログは、普通に読めるもん。気持ち悪い容姿の人は、ブログとか書かない方がいいと思うよ。ブログ界から出て行ってほしいな。おねがい。見たくないんで。

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Twitterを始めた

私はコミュニティというものが好きではない。いや、むしろ嫌悪している。私は人の営みが好きだ。営みにより、コミュニケーションが生まれるのはいい。しかしコミュニケーションが先にあるという考えは、受け入れられない。

だからTwitterも使うつもりはなかった。しかし、当ブログのメインテーマはウェブ論なので、潜入捜査のような感覚で使ってみることにした。使ってみなくては、批判もできない。
Twitterでは、自分の気に入ったユーザーをFollowすることができる。Followすることで、相手の書いた文章を読めるようになるのだ。なので私は、手当たり次第にFollowしてみた。知ってる人、あんまり知らない人など。全部で150人ぐらいだろうか。

しかし、いっこうに文章は流れてこない。150人分の文章が流れてこない。表示されるのは「よろしくおねがいします(^▽^)ウキウキ」という、自分の書いた挨拶だけだ。何故だろう。
一晩寝てから、また見てみることにした。布団に入る私。しかし全く眠れない。気になって眠れない。明け方に布団から出て、Twitterを開く。やはり何も表示されていない。

とりあえず文章が読みたいので、ユーザーをクリックする。すると「You are blocked by ××」の文字。ブロックされてる?確かに私は、この人と接点がない。敬遠されるのも無理はない。仕方なく他のユーザーをクリックすると、またブロックされてる。
また違うユーザーをクリックするが、これも。あれも。こいつも。全部ブロックされてる。死のうと思う。

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2007年10月18日 (木)

俺はマルクス主義を勉強するぞ!

俺は、かなり馬鹿だと思われているみたいなので、それを払拭する為にマルクス主義を勉強するぞ。俺は本気だぞ。邪魔するなよ。
やっぱり、マルクス主義を理解してるのと、理解してないのとじゃ、格が違うっていうか、言葉の重みが違うよね。文章中に「余剰価値」とか「階級闘争」とかいう単語が出てくると、一気に頭がよさそうに見えるもんね。
やっぱりさ、これからはマルクス主義だよ。ソ連が崩壊したのだって、マルクスの主張に問題があった訳じゃないらしいし。マルクス主義を理解してない奴なんて、インテリの皮をかぶったフリテンくんだね。
とにかく、表面的なことだけ書いたブロガーが多いよね。新聞の情報を横流し、みたいなやつ。俺は違うね。俺は本質のブロガーだから。本物と偽物の違いを見せてやるよ(笑)

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2007年10月17日 (水)

夢日記(2007年10月17日)

僕は高層ビルの屋上にいた。かなり複雑な方法で登ってきたので、いまさら、自力で下に戻ることはできない。どうしよう。パラシュートがあるが、駄目だ。何故なら、パラシュートで降りようとして死んだ人間が二人いるからだ。

僕の為に、レスキュー隊が小さな気球で救助に来てくれた。だが、なかなか気球に飛び乗るのは難しそうだ。そもそも、レスキュー隊が三人も乗っているので、僕が入る隙がない。
彼らは二十歳程度のアメリカ人で、英語で話しかけられた。君は、どのゲーム機を持っているのか、と。なので僕は「Gameboy Advance and Playstation 2」と答えた。どうやらプレステ2が面白かったらしい。いまさらプレステ2かよ、という感じで。
僕は「Not 3, not 3」と言った。そしたら「ノッスリー、ノッスリー」と言われ、爆笑された。俺の英語の発音が、そんなにおかしいか。

突如、地震が発生。アナウンスによると、あと10分で大変な地震が起き、僕のいる高層ビルも崩壊するらしい。僕を置いて逃げるレスキュー隊の人達。
僕は仕方なくパラシュートで降りることにする。なんとか無事に、随分離れたところに着陸する。生きている知り合いはいないかと辺りをうろつくと、ブルマがいた。

よかった、生きてたんだ。一緒にカメハウスに行く。しばらく休んだあと、俺こと悟空も天津飯も、旅に出ることに・・・。

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僕が安藤健二を好きな理由

・高学歴
・元新聞記者
・現ジャーナリスト
・ネット界の草分け
・リスクを恐れない
・広範な知識
・単著がある
・やさしい
・かわいい
・ツンデレ属性
・男にしては巨乳(弾力あり)
・むっちり系
・本名の字面がいい
・音楽に詳しい
・Perlが書ける
・Perlが難読
・茶髪が似合う

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自己出力嫌悪

俺は自分が大好きだ。その気持ちに偽りはない。いまだに自分のことを「けいちゃん」と呼ぶし、靴にも自分の名前を書く。
自分のことが、たまらなく好きで、自分以外は死ねばいいと思っている。生き残るべきは「けいちゃん」だけで「みーちゃん」とか、それ以外の人は死んでいいと思っている。
俺以外は馬鹿しかいないし、俺より賢かったのはレオナルド・ダ・ヴィンチだけだ。しかしダ・ヴィンチは死んでしまった。孤独だ。
しかし俺は嫌われる。何故か。それは気持ち悪いからだ。性格も悪く、白髪だらけだ。それは認める。俺は嫌われて然るべき人間だ。俺だって、こんな奴が歩いていたら蹴り殺すだろう。
しかし、それは俺のせいじゃない。俺のせいにするな。俺だって生きてるんだ。俺は自分の正しいと思ったことしかしてないのに、出てくる行動は、それは嫌悪すべき事柄だ。
俺は俺が好きだが、俺以外は俺の行動や見た目が嫌いなはずだ。そうに決まってる。そうじゃないなら友達になってくれよ。それも出来ないくせに、甘やかすな。同情するな。ら金をくれ。
とにかく俺は、もうだめだ。このブログだってクズだし。どこが面白いんですか?昨日のアクセス数だってトータルで13だし、そのうち7がBOTだ。ああ、こんな糞ブログ潰れればいいのに。
いや、ココログが潰れればいいんだよ。そうすれば更新できなくなるもん。そうしろよ。ココログのせいで心苦しいよ。

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システムを掌握するという権力

システムを管理する権限を持っていれば、自分の好きなようにシステムを調整できる。
システム利用者のモラルというのは、システムに依存する。利用者自身によるものではなく、システムによって変化する。
なのでシステム管理者は、システムを微妙に変更することで、利用者のモラルを操作することが可能になる。

利用者のモラルによって生じた問題は、あくまで利用者に責任が発生する。本当は、根本の原因はシステムにあるのだが、システム管理者は責任を問われない。
なのでシステム管理者は、自分の手を下さずとも、利用者にいろいろなことをさせることができる訳である。

しかし、そのような腐ってしまったシステムは、競争相手により淘汰されるであろう。

 

合ってるかな??

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2007年10月16日 (火)

芽を摘む議論

議論を行っていて、少しでも怪しいことを言うと、潰しにかかる人というのがいると思う。そういうのを見ると、なんだか勿体無いなー、と思ってしまう。

そのように細かい点を指摘することで、不要な言説を淘汰することができる、というメリットがあるとは思う。しかしそれは、あくまで手段であって目的ではないのではないか。
重要なのは、議論によって建設的なものを生み出すことであって、相手を打ち負かすことではないと思う。

ネットを見てると「隙の無い文章を書く人が偉い」みたいな風潮があるように思える。しかし隙があっても、内容に新規性があれば、それは優れた文章なのではないか。と個人的に思う。

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2007年10月15日 (月)

電車に乗った

電車に乗るのは二年ぶりだ。いや、三年ぶりだったか。細かい数字など、どうでもいい。二年と五ヶ月だったら四捨五入して二年。二年と六ヶ月だったら四捨五入して三年。このような数字のトリックに騙されてはいけない。全ては連続しているのだ。
連続している、といえば、電車には車両という概念がある。私の乗った電車は八両編成だった。全ては連続しているのである。山手線は円を描く。
私が驚いたのは、駅弁の進化である。私が学生の頃は、駅弁というのは日の丸弁当しかなかった。しかし今や、日の丸弁当以外もある。選択肢が増えるということは、多様性を生む。多様性こそが文化を進化させ、延命させるのだ。
つまり寿命だけ長くなって、中身は薄いものになる。私が食べた駅弁も、値段の割に内容が無かった。内容が無いよう。

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ビニール傘の捨て方

私は折りたたみ傘が好きなので、基本的にビニール傘は買わない。しかし稀に買うことがある。中には、かなりの頻度で買う人もいるだろう。そのような場合、ビニール傘を、どう処分すればいいだろうか。
ビニール傘は厄介である。金属とビニールで出来ている。なので、安易に燃えないゴミの日に出せない。大きさ的にも微妙だ。では、どうするか。

雨の日に、コンビニなどの傘立てに放置するという方法がある。そうすれば、傘がなくて困っている人の助けにもなる。一石二鳥だ。
しかし皆が、このようにビニール傘を放置したら、どうなるだろう。ビニール傘は何度も、いろんな人に使われ、やがてビニール部分が劣化してくる。穴が開き、傘として使えなくなる。
これが続くと、ビニール部分は完全に消えてしまうだろう。残るのは金属部分だけである。金属だけになった傘など、誰も欲しがるまい。いや、いる。欲しがる人間がいる。

町には一人ぐらい、工作好きの老人がいるものだ。ガラクタみたいなやつを接着剤とかでくっつけて、作品を作る人。テレビとかで、よくやってるじゃん。ああいうの。ああいうジジイに、押し付けちゃえばいいんだよ。使い物にならなくなった傘を。
あいつら馬鹿だから、ゴミを渡されてることに気付かないで喜ぶんじゃないかな。ハハハ、間抜けだよね。

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僕はトリプルスタンダードなんですが

僕の文章に対して「ダブルスタンダードだ」とかいう間抜けな指摘をする人がいます。そういう人を見ると、頭が弱いんだなあ。気の毒だなあ、と思ってしまいます。
僕はトリプルスタンダードであって、ダブルスタンダードではありません。大体、この現代に、ダブルスタンダードなんていう古臭い戦法が通用するはずがありません。

ダブルスタンダードの場合、AからBに論調を変えると「お前は、さっきまでAだっただろ」と指摘されます。なので、どうすることもできません。
しかしトリプルスタンダードなら、AからBに論調を変えて「お前は、さっきまでAだっただろ」と指摘されても、Cに論調を変えることができます。もちろん「お前は、さっきまでBだっただろ」と指摘されますが、それなら今度はAに論調を変えるまでです。それを永遠に続けられます。

世の中には「ダブルスタンダードだ」と指摘すれば、勝ったつもりになる人が多いんだなあ、と思いました。

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おはようございます

Goodmorning

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ファミ通編集部員のネーミング問題

僕がファミ通を読んでいた90年代後半。ファミ通は、読み物として大変面白かったし、人気もあった。ゲーム好きでファミ通を読んでいない人間は、いなかった。

ファミ通では、ほとんどの編集者がペンネームのようなものを持っている。風のように永田、ローリング内沢、チップス小沢、ブンブン丸、など。
当時は、そういうのが面白かった。インターネットも普及していない時代。雑誌内で、そのような呼び方をするのは斬新だったし、テレビのようなノリがあった。
しかし、どんどん時代は進む。ファミ通は凡庸なゲーム雑誌に成り下がり、ゲームファンはネットで情報を得るようになった。

しかし、それでもペンネームを使い続けるファミ通編集者達。いまだに編集部では「お嫁シンバさん、飲みに行きません?」のような会話が行われているのだろうか。だとしたら悲惨である。
そのような状態では、毎日がオフ会のようだ。一刻も早く、彼らをペンネームの呪縛から解き放ってもらいたい。

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ネットバトルに精神論を持ち込もう

最近気付いたんだけど、ネットでのバトルで精神論を持ち込むと、結構おもしろいよ。戦いが盛り上がる。
システム的な、理論的な話をすると「ああ、そうだね」とか「それは間違ってる」とかの客観的な発言しか出てこない。けど精神論を使えば、随分白熱するんだ。
精神論は結局、終わりがないから。価値観が人それぞれだから、バトルは永遠に終わらないよ。あんまり自分と異なる考えを言われるとカチンと来るしね。
あと、どうしても主観的に、感情的になるから、言葉も派手なものになるよ。まるでストリートファイトのような興奮があるんだ。みんなも、やってみようよ。

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「悪気がない」論法

彼らは「悪気がある訳じゃない」、「つるんで攻撃している訳じゃない」などと言う。ほほう。本当に悪気がなかったのかは疑問だが、仮にそうだとしよう。
しかし悪気がなかったとしても「このようにしたら、このような結果になる」ということを、彼らは経験的に理解しているはずだ。まさか、それすら知らなかったとは言うまい。
それを理解しているのに、行為をやめようとしない。それは立派な「悪気」である。わざとやっているのである。わざと、さまざまな善良一般ブロガーをリンチし、殺してきたのである。そのような奴らを、私は決して許さない。覚悟しておけよ。

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2007年10月14日 (日)

短編小説「宇宙船ガジェットソン」

荒野の中を、一台の馬車が駆け抜ける。馬は二頭、いや三頭か?とにかく数は、どうでもいい。馬車があるということが重要なのだから。

そう、こんな荒野に馬車があるということが重要なのだ。これから始まる儀式を前にして、馬車などという旧時代的な乗り物が在るということが問題であり、彼らの価値観を疑わずにはいられない理由である。
そう、今から世界が注目するエベントが始まるのだ。それには大金がかかっており、それには多くの命が犠牲になった。だから馬の三頭ばかり、どうってことない。銃殺しても構わないし、そもそも何もしなくても死ぬだろう。

馬力とは、よくいったものだ。馬の力。この宇宙船ガジェットソンの動力は、三千馬力。あの馬車が千台も必要だって訳さ。つまり、あの馬車を足せば0.1%の動力増に繋がる。
これは賭けである。我々は数字にうるさい人間だ。たかだか0.1%だろうと無視することはできない。広い宇宙では、ちょっとした角度の違いで、全然違うところに到達してしまうのだ。細かい数字だからといって見過ごす訳にはいかない。あの馬車を、宇宙船ガジェットソンに乗せよう。

これが罠じゃなければいいが。あの馬車は、敵国の情報機関が仕向けたものじゃなければいいが。もしそうだとしたら、スパイを乗せることになるからね。もし、馬車を操っているのが犬だとしたら、世界で初めて宇宙に行った犬。そう、宇宙犬の認定をプレゼントすることになる。
いや、犬だけならいい。更に馬が三頭だ。

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ネット上のネタはリアル社会に似ている

お笑いについてネットで語ると寒くなるけど、思い付いたのでメモ代わりに。

自己完結 コミュニケーション
会話 バラエティ番組 リアル社会
文章 エッセイ ネット

今まで、ネット上のネタは文章なので、紙媒体のエッセイに近いのだと思っていた。しかし、どうやら違うらしい。

ネットでは、掲示板にしろブログにしろ、コミュニケーションが求められる。情報を発信したら、そこで終わりなのではなく、情報を受け取った側の反応も含めてネタだと考えられる。
つまりこれは、リアル社会での雑談に近いものがある。雑談では、発信者の力だけでは、面白い会話は成立しない。受け手にもレベルが要求されるし、受け手に合わす必要が出てくる。

僕は2ちゃんねるは嫌いだけど、この考えを適用すると、「のまネコ騒動」なんかはネタとして随分成立しているように思える。面白いかどうかは別として、いろんな物を巻き込んで、壮大なネタに仕立て上げている。

ネット上のバトルは、よくプロレスに例えられる。プロレスと同じで、技を受ける技術というのも重要であるという意味で、よくできた例えだと思われる。

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2007年10月13日 (土)

非難されている人の主張が正当かどうかは関係ないのになあ

楽しくみんなで「悪者」退治 - Non fa niente

非難されている人の主張が正しいかどうかは、本当は関係ない。重要なのは、その記事を書いた人を批判するプロセスであって、そこには公正さがなくてはいけない。
ブログ主は正々堂々と記事を書いているのに、それに対して安全な位置から石を投げる人を、私は軽蔑する。攻撃をしたいのなら、同じ土俵に立つべきで、トラックバックで行うべきだ。

それも出来ないくせに、某ブックマークのユーザーのように「シツケる親のような口調だったり、タメ口だったり、怒られているよう」な文章を書く人間を見ると、反吐が出る。
「当事者でもない人たちがジャッジをする」のが問題というより、ジャッジをしようとしている人達が、卑怯で、下劣で、知性の欠けらもなく、自分の行動に大して責任を負っていないことが重要なのだと思う。

大体、彼らは声が大きいだけで、民意の代表ではないのだ。特定の集団であり、自分達にとってマイナスになるような言説は、全力で潰そうとする。彼らに思考力はない。動物である。
また、彼らの主張は主観である。主観で相手を貶めるのだ。進化の過程で客観的思考力を失ったので、まるでネズミの群れのようである。
彼らは、自分のことを「正義」だと思っている。そして、気に入らない相手を吊るし上げる。そのようにして殺された人間は、いっぱいいる。「きんもー☆」事件の被害者もそうだ。

相手が、自分には太刀打ちの出来ない巨大企業や国家機関なら、そのようなゲリラ的戦法にも正当性を見出せるだろう。しかし、権力者でもなんでもない、単なるブロガーに対して、そのような卑劣な集団リンチ的暴力を行う。彼らはクズである。

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新しいタブレットを買ったぜ

Intuos

Amazon.co.jp: WACOM PTZ-631W/G0 Intuos3 グレー

ワイド液晶に合うように、ワイドサイズのやつを買ったぜ。でも、すぐ気付いたんだけど、寸法まちがってた。

僕の液晶(および世の中の大抵の液晶)は16:10なんだけど、このタブレットは何故か17:10。なんでだろう。間抜けすぎる。嫌がらせにも程がある。死ね。
金返せよワコムの糞が。死ねよ。3万円返せよ。ふざけんなよ。

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軽くてお洒落で誰でもできる

前々からFlickrに絵を描いてはアップロードしている訳ですが。そこで最近気になるのは、自分の絵がデザインっぽいなあ、ということ。
僕の使っているペンタブレットはA5サイズで、A5サイズというのは、ドラゴンボール完全版の版型と同じ。それで15.4インチの液晶をカバーしているのだ。つまり、液晶のサイズに比べてタブレットが極端に小さい。
こんな小さなタブレットで、本格的な絵が描ける訳がない。なので、どうしてもデザインっぽいものになってしまう。デッサンをするスペースがない為、色とかに頼るようになる。

正直に言うとね、こんなの誰にでもできるの。大したデッサン力いらないから、適当に、それっぽいデザインにすればいいだけ。
で、これはデザインの世界全般に言えることで、とにかくデッサンに頼らないものというのは、単に前衛っぽくしているものが多い。それっぽく、お洒落にするだけ。そういうのは、馬鹿は騙せても、すぐに飽きられる。

これは、たぶん音楽にも言える。なんかそれっぽい、お洒落なピコピコ音楽とか。ああいうの、楽器弾けなくてもできるから、誰にでもできるんだよね。それっぽく、お洒落にすればいいだけ。そうすれば、馬鹿な若者がリスペクトしてくれるよ。

あとエンジニアの世界も。マークアップエンジニアとか、そういうやつ。アホだよね。

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境界なんて要らないよ。すべて並列に扱うんだ

まず絵の話。
漫画なんかでは、人物だけ漫画家が描いて、背景はアシスタントに任せることが多い。なので絵柄が変わってしまったりする。
絵柄よりも問題なのは、人物と背景がレイヤーになってしまうこと。それぞれが独立し、セル画のようになってしまう。実は、それはすごく問題。人物と背景は溶け合わなければいけないのだ。どちらが主でも、どちらが従でもない。人間もコップも、同列に扱われなければいけない。

この文章を書いてて気付いたが、アニメに対しての漫画の優位性というのは、セル画じゃないということだ。セル画だと、人物と背景を、他のセルに分けなければいけない。しかし漫画は、そうじゃないので、入り乱れて描ける。

次に、プログラムの話。
テレビゲームでは、人物と建物が全く別物として扱われる。建物は、CGデザイナーがモデリングしたもので、そこに立っているだけ。壊したりできない。それはよくない。
本当に優れたゲームプログラムというのは、人物だろうとアイテムだろうと建物だろうと、同列に扱わなければいけないのだ。建物だから、簡素なプログラムで表現していい訳ではないのだ。
石も岩も、岩山も、ぜんぶ一緒じゃなきゃいけないのだ。しかし、それをうまくやっているゲームというのを私は見たことがない。あのGTAですら、駄目だ。

GTAでは、敵キャラも通行人も味方も、区別はない。つまり、人物のプログラムにおいては、境界をなくすことができた。しかし人物、乗り物、建物を同列にすることはできなかった。
新しいGTA4のムービーを見たが、おそらく画面がきれいになっただけで、根本的な部分は変わっていないだろう。

そして、この「境界をなくす」という考え方が、アナーキズム(無政府主義)に繋がるのだ。私は、このままだと左翼思想を持ってしまいそうだ。

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ネットのバトルは、あたかも物体が動いてるかのように見えるぜ

サイバースペースには、二次元や三次元的な空間がある訳ではない。ただサイトとか文章があるだけ。しかし我々は、そのサイトが実在しているかのように感じたり、ユーザーがサイバースペース内を移動しているように錯覚する。
X座標やY座標がある訳ではないのに、頭の中では空間を連想する。一方、MMORPGやFPS、RTSのネット対戦では、座標軸がある。その空間を、プレイヤーキャラは動く。
しかし掲示板やブログなどには、座標がない。しかし、あたかも二次元や三次元空間をユーザーが移動しているように空想する。座標は、私たちの頭の中にある。

ときには彼らは戦う。文章により、アバター同士が殺し合う。もちろん殺し合ったところで、物理的にダメージを受ける訳ではないのだが、心に深い傷を負う。脳とコンピュータが直結されており、マトリックスだ。
そういう意味では、没入感や感情移入度では、ネットゲームなんかよりもリアルで、よっぽどゲーム的である。そう、これはゲームなのだ。座標は存在しないが、頭の中に描かれている。頭の中でバトルを繰り広げるのだ。

ネットゲームなどに惑わされてはいけない。あれは子供騙しだ。本当のゲームは、掲示板やブログにある。このネットバトルこそが、現代のテレビゲームなのだ。

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2007年10月12日 (金)

亀田を批判している奴は単なる嫉妬

俺は昨日の試合を見てないけど、大体分かった。亀田は強いよ。それに対して文句を言う奴は、どうかしてるよ。亀田は強いよ。

大体、世界チャンピオンに対して試合を申し込めるってだけで凄いじゃないか。更に、KOにならずに判定にまで持ち込むなんて。俺だったら、5ラウンドぐらいでKOされてるね。
大体、今回戦った亀田は、まだ18歳だろ?相手は36歳。倍も違うんだよ。亀田はボクシング暦18年だけど、相手は36年。そりゃ、敵わないのも無理ないよ。

亀田は、これから大学に入り、就職し社会人ボクシングに精を出し、それからプロボクシング界に移籍するんだ。まだまだ高校も卒業していないような若者なんだ。それが、プロボクシングを36年間やってるようなベテランに勝てる訳ないじゃん。みんな、そんな簡単な計算もできないの?36÷18=2だよ。二倍も年齢が違うんだよ。

大体、まだ成長期だからな。亀田も年齢が倍になれば、パンチの威力やフットワークの身軽さも倍になるはずだよ。それを待てないで「切腹しろ」とかいうのは三島由紀夫ファンだけだ。

とにかく、今回のファンの反応には見損なったよ。ボクシングなんて所詮、子供のケンカだな。

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2007年10月11日 (木)

コメント欄で議論を展開することで、議論を混乱させる高等テクニック

さっき、某ブログを読んでいて気付いた。

そのブログの記事ではA氏が批判されていた。そしてA氏は、その記事のコメント欄で反論する。ブログ主も、それに反論し、コメント欄が議論の場と化す。
そして数日後の記事では、前記事のコメント欄での議論が話題となる。そしてまた、その記事のコメント欄でも熱い議論が交わされる。

でもこれって、部外者には何のことかサッパリ分からないよね。当事者は議論を追えるんだろうけど、見てるだけの観客には、何が何だかサッパリ分からない。
だから多分、外野は盛り上がらない。結局、ブログ主のブログは混乱するだけ。そしてA氏は、批判をかわせる訳だ。

わざとやったのか、偶然そうなったのかは知らないが、非常に有効な作戦だ。このように混乱させれば、議論を滅茶苦茶にすることができるのである。

だから、僕は前から言ってるんだけど、ブログのコメント欄って意味ないんだよ。全然対等じゃないから。議論は全部、トラックバックでやればいいんだよ。

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僕は躁鬱じゃないよ

最近気付いたけど、僕は躁鬱じゃないよ。躁鬱って、躁と欝が交互に来ることでしょ?僕は、そういうのじゃないよ。

僕は、いつもテンション高いし、いつも憂鬱だよ。さっきも風呂場で奇声をあげながら「俺、こんな奇声あげててキチガイじゃないかな。死んじまえばいいのに。だからネットで嫌われるんだよ」と落ち込んでいた。

人間って、たぶんポジティブとネガティブがバランス取れてればいいんだよね。そういう意味では、僕は大変健康的だよ。

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作品を楽しむのに必要な前提

Daats2

この写真は、一目見れば面白さが分かると思う。目隠しをされた人が、ダーツの標的になる。ウィリアム・テル状態。
では何故これが面白いのか分かるかというと、僕らがダーツのルールを知っているから。尖ったものを投げることを知っているから。危険だということを理解してるから。
でもダーツのルールを知らない人には伝わらないし、もしかしたら戦前の日本人はダーツなんて知らないから、この写真の意味を理解できなかったかもしれない。

このように、作品を楽しむ為には、前提となる知識が必要になる。そしてそれは、国や文化や地域や民族、時代に依存するもの。もっと言うと、人間と犬でも違うし、哺乳類と鳥類でも違う。僕ら、人間や犬に理解できる感情を、鳥類や爬虫類は理解できない。
なので、作品を鑑賞させる対象によって、そこを使い分けなければいけない。海外の人に見せるのに、ローカルな知識を盛り込んではならない。海外の映画を見ていると、そういう理解できないローカルジョークがよくある。

普遍的なものとローカルなもの、どちらがいいという訳ではないけど、これらの違いを意識することが必要なんだと思う。

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議論に勝つのに必要なのは、うっちゃりだ!

議論をしていて、細かい部分の言い合いをしていると、どうしても水掛け論になってしまう。そうすると泥沼になり、数の多い方が有利になったりする。
そういうときに事態を打開する為には、前提を疑うことだ。相手の主張の根拠になっている前提を覆すのだ。そうすれば、一気に形勢は逆転する。

たとえば、あなたが、友人の両親の人格を批判したとする。それに対し、友人は当然、反論してくる。うちの親は、いい親だと。そこで、あなたは戸籍を調べるのだ。そして彼が、彼の両親の本当の子供ではないことを突き止めるのだ。彼が、彼の両親の子だという前提を覆すのだ。

嘘でもいいのだ。バレなければいい、勝てばいいのだ。たとえば、あなたがネット右翼だとレッテルを張られたとする。そのとき、あなたは「ワタシはUSAから書き込んでいるアメリカジンです」と答えればよい。そうすれば、論争の相手が無知だという証明になる。

これは相撲でいう、うっちゃりだ。土俵際で、事態を反転させるのである。

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2007年10月10日 (水)

書評サイトは共和党の手先

僕は本を一切買わない。まず、お金を使いたくないから。僕がお金を使うということは、それだけ一万円札が刷られる。紙の無駄であり、環境に優しくない。

あと本は、縦書きだというのも気に入らない。縦書きは、縦社会の模倣であり、卑劣な上下関係を奨励している。僕が好きなのは、みんなが平等な社会であり、搾取のない社会。
今の世界は、一部の先進国だけが得をし、残りの国の人間は、ひもじい思いをしている。なんでかって?地球が温暖化しているからだよ。

地球が温暖化するのは、車に乗る人が多いから。先進国の排気ガスが、地球を覆う。車に乗る人が多いのは、電車が満員だからで、電車が満員なのは、車内で書評サイトを見ている人が肘を曲げるから。
排気ガス以外で問題なのは、森林の伐採であり、砂漠化。それを推し進めているのは、明らかに出版物の大量生産であり、書評サイトのせい。amazonがアマゾンを殺すとは皮肉だ。

なぜ彼らは書評サイトを運営するのか。それは単に、本を紹介したいとか、純粋な動機ではない。彼らは地球を温暖化させたいのだ。何故なら民主党が憎いから。アル・ゴアに恥をかかせたいから。
彼らは共和党の手先であり、イラク戦争の支持者だ。彼らが、911陰謀論を唱える人間を嘲笑するのも、それが理由。

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ブログでアイデアを書くと、あとで恥ずかしくなるよ

ということを学んだよ。特にメタブログ的なやつ。システムに対する改善案とか。うひゃー、っていう気分になる。

でも、はてなアイデアなんかは割りとうまく機能しているみたい。うーん、難しいな。でもとにかく、ブログで書くと、なーんか恥ずかしくなるよ。物理的に何か問題が発生する訳じゃなくて。中二病的な雰囲気。

僕は数年前にゲームを作ってネットで公開してたんだけど、それに対して細かい改善案を出してくる人がいて、正直うざかったね。作り手は僕なんだから、いちいち指図するなと。
でもウェブサービスの場合は、ユーザーが金払ってたりするし、社会に与える影響というのもあるから、ゲームとは異なるけど。

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夢日記(2007年10月10日)

僕は、なんとなく思い付きで田んぼを耕していた。その最中に「ライブドアってヤクザみたいな会社だよな~」と愚痴をこぼしていた。

僕が手作業で、ゆっくりと仕事をしていると、それを見かねた小飼弾が「そんなんじゃ全然ダメだよ」と、しかめっ面で言ってきた。少し怒っているらしい。
どうやら、手作業ではなくて機械を使わなくてはいけないようだ。そのことも知らない僕。小飼は、僕の学校の先生でもあったので「この二年間、何を聞いていたの?」と言われた。
しかし僕は小飼の授業の中でも、農業に関することは関心がなかったので「正直、あんまり興味がなくて・・・」と告白した。

なんだか恥ずかしい気分だ。自分でやれると思って始めた農作業が、いきなりダメ出しされるなんて。始める前に、本やネットで調べておけばよかった。まあ、僕は金に余裕があるから、別にいいんだけどね。

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2007年10月 9日 (火)

格闘技シミュレータ早く出ないかな

大雑把に言うと、レースゲームでは「マリオカート」があって「リッジレーサー」があって「グランツーリスモ」が出た。つまり漫画→リアル→シミュレータ、という流れ。
格闘ゲームでは「ストリートファイターII」が漫画、「バーチャファイター」がリアル。でも、その先がない。ストIIが出たのは91年、バーチャは93年。この間、たかだか二年ですよ。なんていう進化の速度ですか。しかし、それから何もない。14年も経つのに、何もない。

格闘ゲームでもシミュレータやろうよ。今はCPUも速いしHavocとかもあるし簡単だろう。モーションキャプチャーなんか要らないよ。モーションキャプチャーのゲームなんて遊んでも、ちっとも面白くない。人間の挙動もプログラム的に生成しようよ。そうしようよ。
今の「バーチャファイター5」なんて、遊んだことないけど、基本的には一作目と変わらないだろ。グラフィックが綺麗になって、モーションが綺麗になって、技が増えただけ。そんなの意味ないよ。

ポリゴン数とか、どうでもいいし、動きがぎこちなくてもいいから、挙動をシミュレーションしようよ。俺がアイデア出してるんだから、セガはパチンコなんか作らないで、こっちを作るべき。

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日本人が低いレベルに合わそうとする理由が分かったよ!

仮説。

最近、考えてたこと。なんで日本社会って、低いレベルに合わそうとし、出る杭を打ち、変わり者を排除するんだろう。

・日本は島国である
・日本人は(基本的には)単一民族である
・日本人は皆、日本語を使う

日本が他の国と比べて特徴的な点は、この三つぐらいだろうか。
島国である、っていうのは、日本社会全体で考えれば使える考え方だと思う。けど、地域とかの小さなコミュニティでも村社会化しているので、これは排除すべきである。
それなら単一民族である、という考え方がある。しかしネットのコミュニティも村社会化している。ネットでは顔が見えないので、相手が何者か分からない。在日韓国人かもしれない。なのでこれも排除すべきである。

最後に残ったのが、日本語という要素。日本語って、難しいことを言おうとすると、すごい熟語になるじゃん。門外漢には理解不能な熟語。それが原因だと思うんだよね。
英語だったら、難しいことを言おうとしても、簡潔な単語で表現できる。なので基本的には、みんな同じ土俵に立てる。
でも日本語は違う。難しい熟語を言おうものなら、外人扱いだ。なので、平易な日本語で表現する人間が慕われるのだ。皆、そういう人間に合わそうとするのだ。だから、誰にでも分かる、理解しやすい言説が広まるのだ。だから全体のレベルが低くなるのだ。

これが真実です。

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絵を塗るようにコードを書きたい

最近、趣味のプログラミングを再開した。僕はローグライクが好きなので、ローグライクの弱点を克服したゲームを作ろうと思っていた。
なるべくシンプルにし、無駄なものは一切入れないようにしようと思っていた。頭の中に大体のイメージがあって、それに合うようにコードを書いていく。
でも駄目だった。なんていうか、モチベーションが上がらない。作業的になるというか、全然楽しくない。

なので方針転換することにする。シンプルさなど忘れて、好きな機能をバンバン入れることにする。バグがあっても関係ない。ひたすらコーディングを楽しむことにする。
ここで重要なのは、今までは、出来上がったソフトを主体と考えていた。しかしこれからは、コーディング作業を主体と考えるようにした。出来上がったものは副産物に過ぎない。

たぶん人間は、はじめからシンプルなものを作るのは無理なんだと思う。とりあえず好きなものをバンバン作る。そして、要らないものを削る。それが、いいんだと思う。
そうすることで多様性を確保できるのだ。シンプルな発想では出てこないアイデアを盛り込めるのだ。

とにかく、そういう方針でやることにする。

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OSにもリバタリアニズムやアナーキズムを適用できないかな

昔は、文明が発達してない頃は、集落とか村とか、その程度のものしかなかった。けど時代が進むにつれて、そういうのが統合されて国とか政府ができた。それで、政府の力が大きくなりすぎたからリバタリアニズムやアナーキズムが出てきたって流れだよね?(違ってたらごめん)

これってコンピュータのOSにも言えるんじゃないかな、って思ったんだ。昔のパソコンは、OSとか無しで、BASICをシェル代わりにしてソフトを起動していた。DOSとかが出てからも、メモリが保護されていなかった為、ユーザープログラムが簡単にOSのメモリを改ざんすることができた。
それでコンピュータが進化するにつれ、OSは機能強化され安全性も増すようになった。今やWindowsがブルースクリーンで落ちることもなくなったし、OSの権限たるや凄まじいものである。

だから、そんな時代だからこそ「OSなんて必要ない」、「OSの呪縛から解放されよ」みたいな考えが出てきても、おかしくないんじゃないかって思い付いたんだけど、どうだろう。
リバタリアンが「健康保険なんて企業に任せろ」と言うように「メモリの保護なんてユーザープログラムやプログラム言語に任せろ」と言ったりして。
そしてOSの無いコンピュータが誕生するんだ。プログラム同士が互いに助け合い、ときには戦い合う、そんなコンピュータが誕生するんだ。

完全に夜中のノリで書いた妄想記事なので、次の日になったら恥ずかしくなるかも。でも別にいいや。

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2007年10月 8日 (月)

テキストレスのゲーム

僕は今、ちょっと趣味でゲームプログラミングをしている。そこで悩んでいるのが、テキストを表示するかどうか。
画面の左上なんかに、ライフを表示する、というのは簡単。すごく簡単に実装できる。でも、それはカッコ悪いので、やりたくない。
なるべくシンプルにしたい。なのでテキストは邪道だという考え方。なるべくシンプルにし、本筋と関係のないソースコードは廃除したい。本筋以外は要らない。

今までに出たゲームで、テキストレスの作品というと何があるだろう。プレステの「ブシドーブレード」なんかがあった。ライフゲージの無い格闘ゲームで、斬られると一発で死ぬ。そういうのもアリだと思う。本質的には「スーパーマリオブラザーズ」でマリオがクリボーに当たると死ぬのと変わらないかな。
あと囲碁な。囲碁は白と黒のコマだけで成立している。これは凄い。将棋のように、手持ちゴマもない。コマ同士に優劣はなく、すべて並列。つまりコマの能力が重要なんじゃなくて、コマの位地が重要。
ただマリオや格闘ゲームのように、プレイヤーがキャラクターを操作するものと、囲碁などのようなボードゲームは明確に区別すべきだとも思う。ここら辺は難しい。

「テキストレスにしよう」という考えは決して新しいものではなく、僕の知っている限りでは2000年に、西健一がドリームキャストで「L.O.L ~Lack of Love~」というゲームを出していた。当時のインタビューを読んだ覚えがあるが、かなり意識的にテキストを廃除したらしい。

考え中のことを書いたので、散らかった文章になってしまった。

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ネット上のコミュニティって暴走族に似てる!

ということを、なんとなく思い付いたので、両者の類似点を箇条書きにしてみる。

・メインの生活ではなく、あくまでサブ。影のような存在。でも、メインよりも重視してしまう
・技術に詳しい奴が一目置かれる。バイクの解体ができる奴と、サーバーの管理ができる奴
・お洒落じゃない
・もはや理解不能なスラングを使う
・あんまり派手にやると、命の危険がある
・ノーヘルとノープロクシ
・グループ同士で争う。
・全体的に、名前が変
・車には勝てない⇔サーバーには勝てない
・靴をちゃんと履かない
・頭(かしら)みたいな奴がいる
・スピード自慢
・髪型が変
・伝説が好き
・殴り合うと友達になる

なお俺の暴走族に対する知識は、ヤンキー漫画によるものなので、間違っている可能性があります。

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当事者になる方がいい

ブログを書いたり歌を歌ったり笛を吹いたり自転車を倒したりして思うのは、人間にはアウトプットが必要だということ。インプットを繰り返すだけでは、あまり効果がない。というか、インプットは放っておいても蓄積される。でもアウトプットは、意識的にやらないと、できない。

勉強では、本を読むことがインプット。でも本を読んでいるだけじゃ、知識が増えるだけで、頭の中が複雑になる。むしろ逆効果になることもあると思う。なので意識的に、頭の中身をアウトプットすることが重要なんだと思う。そうすることで頭の中が整理される。あと他人に見られてるので、適当なことができない。

サイコロでもアイウエオ順でもとにかく投票してから選挙速報を見ると、どうしても自分が投票した候補の得票が気になってくる。

短期的には、その晩の選挙速報がより楽しめるというライフハックになります。
アンカテ(Uncategorizable Blog) - 「投票することで主観的認知を変える」というライフハック

そのような考えに至ったのは、このエントリを読んでから発想したところが結構ある。やはり当事者になることで、中に入ることで得られるものというのは大きい。
「百聞は一見にしかず」というが、見るだけではなく、更に中に入って行動することが重要だと思った。

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2007年10月 7日 (日)

オブジェクト指向に意識を持たせようぜ

C言語の頃は、構造体と関数がバラバラだった。実体と行動がバラバラ。これは人形を、人間が動かして遊ぶのに似ている。
C++などのオブジェクト指向になると、両者が一体となりクラスになった。これはブリキの人形に例えられる。ぜんまいを巻けば、勝手に動き出す。

そうすると、次に求められるのは人工知能だ。ロボットだ。AIBOのようなものが欲しい。それならば、現行のオブジェクト指向に、意識の概念を取り入れねばなるまい。クラスに意思を持たせるのだ。
今のクラスは、メソッドにより、簡潔に行動を決定する。しかし、それでは駄目だ。より高度な行動を取らせるには、人工知能が必要だ。人工知能により、自分の行動を自分で判断し、決定を下させるのだ。そうすれば、アホな人間のプログラマーが書いたメソッドなんかよりも、よっぽど安全性の高いソフトウェアが誕生するのだ。

そうすると、やはり懸念されるのが、彼らによる支配である。金融機関とかのシステムに組み込まれた彼らが、我々人類をあざむくのではないか。そう考えると夜も眠れない。

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シムシティとローグライクは親戚である

シムシティもローグライクも、一定の面積のフィールドがあり、その中でゲームをする。しかし決定的な違いがある。それは、シムシティは時間の概念があるのに対し、ローグライクは高低差の概念があるということ。

両者ともに、まず面積がある。つまり幅と高さ。シムシティは、その箱庭の中で時間が経過する。時間とともに町並みは変わる。ローグライクも同じように、ダンジョン深くへ潜る。高低差の概念があり、レイヤーが連なっている。

シムシティは、面積と時間で、三つの次元がある。ローグライクも、面積と高低差で三つの次元がある。なので、実はすごく近い存在である。

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ヤバすぎるぞdeviantART

僕がFlickrに絵を載せていて、それに対してj0hnさんという人が「debiantARTの方がいいんじゃない?」ということを言っていて、なんだかよく分からないけど検索してみて、ブックマークに入れておいたんだけど、なんかよく分かんないサイトだから放っておいて、さっきなんとなく見返してみたら、ちょっとヤバすぎる。何がヤバいって、こんな絵が普通に置いてある。
Hage
ちょっと、これはヤバい、ヤバ過ぎる!僕は外人の描く絵というと、せいぜい19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパの絵しか知らなかったんだけど、そんなのより全然すごい。ゴッホとかルノワールとか、どうでもいい。すごすぎ。頭おかしすぎ。
特にすごいと思った人を挙げてみる。
http://padlamoij.deviantart.com/gallery/
http://stupiddoor.deviantart.com/gallery/
http://benjelter.deviantart.com/gallery/
http://pah.deviantart.com/gallery/
興奮して頭から尿が出てきそうだ。とりあえず僕もユーザー登録してみた。Flickrに載せてるやつで、出来のいいやつを転載する予定。
http://greatjap.deviantart.com/

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2007年10月 5日 (金)

日本ではYoutubeよりもニコニコ動画な理由

日本でYoutubeよりもニコニコ動画が流行ってるのって、全てがニコニコ動画のサイト内で完結してるからじゃないだろうか。他のサイトを一切使わずに、ニコニコ動画内でコミュニケーションができる。

Youtubeが他の動画サイトに比べて人気が出たのは、ブログとかに簡単に動画を貼れる、というのが重要だったんだと思う。でも日本の場合は、複数のサービスを組み合わせて使うよりも、一つのサイトだけで終わらせるのが向いてたんじゃないかな。
英語圏では比較的、各種サービスを組み合わせて利用する傾向がある気がする。Flickrとかいろいろ。でも日本の場合は、一つの会社のサービスだけで済まそうとする人が多いと思う。

これはUNIXとWindowsの関係に似ている。UNIXでは、いろいろな所で作られているソフトウェアを組み合わせて、一つのOSを作る。それに対しWindowsは、全部マイクロソフトの作ったもので構成される。

思い付きと偏見で書いたエントリなので、その辺よろしく。

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花咲アキラは幸せなのだろうか

「美味しんぼ」はの単行本は累計一億部以上売れているらしい。原作の雁屋哲と、作画の花咲アキラとで印税を半々にしても、一人辺り相当な額だろう。

しかし私は花咲アキラを心配している。初期の「美味しんぼ」は絵が荒かった。少し劇画っぽいというか、とにかく主人公の山岡士郎も荒っぽい人間だった。
それが、アニメ化の影響か知らないが、どんどんアニメっぽい類型的な絵になっていく。どこかで絵柄を進化させるのを、やめたようだ。ストーリーも、山岡が栗田さんと結婚したりと、安定したものになっていく。

雁屋哲はいい。彼は適当に、水戸黄門的なストーリーを書くだけだ。それっぽい料理うんちくを混ぜたりして。楽な仕事だ。自分の政治主張を織り込んだりして、エゴも満足させられる。しかもオーストラリアで余生を楽しんでるし。

しかし花咲アキラはどうだろう。漫画の週刊連載というのはハードワークである。自分のエゴを作品に織り込めれば、辛い仕事にも満足できるだろう。しかし彼が求められるのは、アニメ的な類型的な絵だ。おまけにストーリーも水戸黄門。こんなの、辛いに決まってる。
それを彼は二十年以上続けているのだ。恐ろしい忍耐力である。やめたくても、やめられないのだろう。ビッグコミックスピリッツの部数にも影響するだろうし。

花咲アキラは「美味しんぼ」の大ヒットで、大金を得る代わりに、大事なものを失った気がする。

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ザリガニをいっぱい殺した

小学三年生ぐらいのとき、学校からザリガニを十匹ぐらい持って帰った。確か教室でザリガニを飼っていて、夏休みに入るから世話できないので、俺がもらったんだと思う。

喜んで家にザリガニを持って帰って、バケツに入れて玄関の前に置いておいた。それで数時間経ったら、母親に「ザリガニ全部死んでるわよ」と言われた。どうやら真夏日の炎天下、高温で焼き尽くされたらしい。
俺は小学生なので、そんな事情は知らない。炎天下でザリガニを置いておいたら、死ぬなんてことは知らない。なので俺のせいじゃない。

ごめんなさい、ザリガニさん。

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富士山への憧れ

私が生まれ育ったのは静岡だ。静岡では、富士山が大きく見える。そうだな、車よりも大きく見える。地域によっても違うのだが、とにかく大きい。方位磁針などなくても方角が分かる。

静岡では地図を見る人などいない。何故なら方角が分かるので、道に迷わないから。茶の名産地なのに、茶畑の地図記号を知らない人間が沢山いる。そんな、のどかな静岡。
サッカーをするのにも、ゴールポストなどいらない。富士山に向かって蹴ればよいのだから。富士山は全てを受け止めてくれる。さながらガンジス川だ。私たちは富士山に依存して暮らしている。

ときには、富士山を困らせる。ゴミを捨ててしまうのだ、富士山に。静岡の人間には昔から、そういう習慣があるのだ。中世なら問題なかったのだが、産業革命以降は深刻な環境破壊をもたらした。富士山が世界遺産に登録されなかったのは、この為だ。

私たち静岡の人間は、富士山に対し恩を仇で返している。だから私は逃げたのだ。富士山から逃げたのだ。これから東京での暮らしが待っている。

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ネットの文章を額面通り受け取る人が信じられない

僕はネットで、よくウソをつく。それが悪いことだとは思っていない。別に僕は相手を騙そうと思っている訳でも、馬鹿にしようと思っている訳でもない。ただコミュニケーションを取りたいだけ。なのに相手はウソを真に受ける。

昔からそう。僕は、よかれと思ってウソをつくのに、相手は信じ込む。なんで分かってくれないんだろう。ウソをウソと見抜いてほしい。ちゃんと疑ってかかれよ。真実だっていう保障はないんだから。
なんで?なんで?それってリテラシーの欠如だよ。リテラシーがないとネットでは活動できないよ?リテラシーを持とうよ。
もちろん彼らに悪気がある訳ではない。むしろ善意だろう。しかしリテラシーのない善意は、かえって不幸を産む。梶原一騎も「正義なき力は無能なり。力なき正義また無能なり」と言っていた。

僕のついたウソを、みんなが広める。みんなのせいで、虚偽の事実が広まる。大抵、僕は自分にとって不都合なウソをつくから、いつも損をするのは僕。みんなのせいで不幸になる僕。責任とってよ。

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2007年10月 4日 (木)

岡田斗司夫に対する違和感

俺は岡田斗司夫が嫌いではないけど、なんか違和感を感じる。なんでだろう、と思ってたんだけど、少し分かりかけてきたかも。

岡田斗司夫は「プチクリ」という言葉を流行らせようとした。そして失敗した。

「プチ・クリエイター」の略で「自分が楽しいと思えることをちょこっとやってみて発表するクリエイター」のこと。
プチクリとは - はてなダイアリー

この言葉を岡田斗司夫は流行らせようとした。うがった見方かもしれないが「僕は著名人だけど、君らはアマチュア創作で我慢してね。プチクリっていうカタカナの言葉を使えば満足でしょ?」という風に言いたかったのかと受け取ってしまう。
わざとやってるのか知らないが、岡田斗司夫は上から降りてこない。著名人というポジションを頑なに守ろうとしているようだ。普通は「プチクリで我慢してね」という発想は出てこないだろう。

レコーディング・ダイエットのススメ

岡田斗司夫のブログのタイトルは、自著の宣伝。普通はブログ名を、宣伝に使おうとしないでしょ。上の世界からの目線だからこそ、このようにブログを扱えるのではないかと思ってしまう。

こういう風に、著名人と一般人を分けよう、という考え方は、90年代までなら通用したと思う。でも岡田斗司夫のように、同じ土俵に上がろうとしない人は、淘汰されてしまうんじゃないか。ライターって儲からなさそうな仕事だし。

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日本とアメリカのコメディとホラーについて

コメディ映画とホラー映画では、手法が共通していることが知られている。それは単に演出手法が共通しているだけではなく、国民性のようなものも絡んでくるということに気付いた。

日本では、コメディもホラーも、空気という概念を使う。具体的に何かが起こるのではなく、空気で笑わせ、空気で怖がらせる。もちろんスラップスティック的なものもあるが、それはレベルが低いと言われる。
逆にアメリカでは、物理的な概念を用いる。コメディもホラーも、物理的。アメリカのコメディは分かりやすい。分かりやすく出来事が起き、客が笑う。ホラーも「幽霊が出て、なんか怖い」というのではなく、ジェイソンがチェーンソーを持ってきたりとか、実害を伴う。

そしてこれは国民性と密接に関わるのではないか。特に挙げるとすれば、言語。日本語と英語では、言語的な特性が全然違う。日本語は、はっきり言わない。空気で分からせる。それに対し英語は、何もかもが、はっきりしている。結論が先にありき。
デザインの面でも違う。日本の文化では淡い色を好むのに対し、アメリカは原色バリバリだ。たまにアメリカのニュース番組を見るとびっくりする。

で、何が言いたいかというと、コメディとホラーの表現というのは、その国の文化を如実に表しているのではないか、ということ。

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レトリックなブログ

最近になって、他人のブログをよく読むようになった。それで目に付くのが、レトリックを駆使したブログ。特に、世の中を斜めから見た感じのやつが多いみたい。
なんか、そういうのって、かえって文章の内容がスカスカなのを露呈している気がする。笑わせたいんなら、文体じゃなくて、文章の論理構造で笑わせればいいのに。

雑誌の時代は、コラムなんかで文体を駆使した文章が多かった。あれはあれで面白かった。でもブログの時代には、あまり似合わない気がする。ハマらない。
そういうサイトを運営してる人って、テキストサイトの残党なんだろうか。それなら、雑誌に影響を受けているのも頷けると思う。雑誌やテキストサイトは、基本的に一方通行なので、レトリックを駆使しても問題にならない。でもブログは比較的インタラクティブなので、それはうまくいかないと思う。

まあ、こんな糞ブログ運営してる人間に言われたくないだろうけど。

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生まれて初めて短髪にした

Tanpatu

死相が出てるな。

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2007年10月 3日 (水)

僕がウソを好きな理由

最近エントリを書いていて、自分はウソが好きなんだということに気付いた。思い付いた理由を箇条書きにしてみる。

・現実が嫌い
・夢の世界に連れてってくれる
・本当のことを言いたくない
・本当のことを知らない
・本当のことを思い出したり考えたりするのが面倒
・突っ込んでもらえる→コミュニケーションの発生
・馬鹿にされたい→マゾ
・相手を騙して優越感に浸る
・間違っててもいいように、保険をかけておく
・想像力だけで勝負できる
・うまく騙すと得をする
・ウソを言い続けると真実になる→ゲッペルス

この中で「夢の世界に連れてってくれる」というのは、僕の大好きなシュールレアリスムと共通するので、やっぱりウソを肯定したいと思った。

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捨てることで創り出す

一応ウソは書かないようにしてるけど、本当のことだけを書いても印象の操作は可能。要は、数ある事実の内、都合のいいやつだけを書けばよい。
English training diary - はてなキーワードで情報操作

以前のブログで、はてなキーワードでの情報操作の方法について書いた。要は、情報を意図的に切り捨てることで、新しい情報を創り出すということ。
これは、はてなキーワードだけではなく、人生の中のいろいろな場合に使える方法だと思った。
たとえば報道写真で、全体から一部分だけを切り出して発表するとか。このような方法は、たぶん法的には問題ないと思う。それでも、嘘情報を捏造するのと同程度の威力があるはずだ。

これは情報操作だけに言えることではなく、デザインなんかにも言えるのではないか。たとえば、フリーザが変身してシンプルな形になっちゃった、とか。
情報や資源が豊富にある場合は、新しいものを作るよりも、むしろ切り捨てる方が創造的なことができるのかもしれない。

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読みやすさと論理性を両立するのは難しい

ブログエントリという少ない文字数の文章の中で、自論の全てを誰にでも分かりやすい形で書くのは非常に難しい。当然、論点に絞って書くことになる訳だが、 そうすると書かなかった部分、省略した部分に反応する人もでてくる。中には、書いていないことを勝手に読み取ってストーリーを作り上げてしまう人も出てく る。
北の大地から送る物欲日記 - ブログで何かを批判するときに気をつけたいこと

そうそう、まったく同意です。全部説明すると長文になるし、よみにくい文章になる。なので説明を省略しているのだが、そうすると当然、誤読する人が出る。
特に、タイトルだけ見て判断したり、長い文章の一文だけを、前後の文脈を無視して取り出す人なんかは始末に終えない。
これがエッセイみたいなやつだったら、それほど問題にはならない。けど「論」みたいなやつだと、誤読が命取りになる。

個人的な経験則では、文章を書く習慣のある人というのは、そのようなことを理解してくれて、誤読で相手を批判するようなことはしない。
とはいえ、自分も文章を適当に読み流して誤読するくせがあるので、反省しなければいけないのですが。

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ブログで何かを批判するときは抽象的に書こう

ということを学んだ。そうしないと炎上しやすくなるから。特に、参入障壁の低い話題の場合は。
あんまり抽象度が上がると、読み手にとっては何が書いてあるのか分からない文章になるけどね。
具体例を挙げて何かを批判する場合に重要なことを羅列してみる。

・一部の人間にしか理解できない専門知識を駆使する
・国内政治の話題では、特定の集団の利害に関わることは書かない
・なるべく自分とは遠い立場にいる人間を批判する
・圧力団体化したコミュニティを敵にまわさない
・社会科学ではなく自然科学に関する話題なら問題ない

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深夜ラジオとしての個人ブログ

高校生ぐらいの頃は、夜中に起きて伊集院光や爆笑問題、コサキンのラジオを聴いていた。あの頃はネットも今ほど充実していなく、ネットだけでは満足できなかった。ラジオが心を満たしてくれた。
しかし今は深夜ラジオなど全く聴かない。夜中に起きるのがキツいし、ティーンネイジャー向けの番組を聴くのが辛いというのもある。でもやっぱり一番の理由は、ネットが便利になったから。ネットだけで満足できるから。

最近は、ブログをよく読む。他人の、特に、誰でもない一般人の書いたブログというのは、変な面白さというのがある。温かみがあるというか、垢抜けていないというか。
なんか自分だけの、っていうか、誰にも知られていない、っていうか。そういう感じって、昔に深夜ラジオを聴いていた感覚に似ている。ネットにより人と人との暖かいコミュニケーションがなくなったと思ったら、実は人間臭い部分がブログにはある。

自分のブログも、そんな秘密基地っぽい感じが出せたらいいと思っている。死ね。

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2007年10月 2日 (火)

今日も髪が伸びた

最近、髪が伸びるペースというのが異常に早い。散髪に行ったのは一ヶ月前だ。ベリーショートにしてもらった。なのに今や、山下達郎のような風貌だ。顔つきまで変わった。

理由を考えてみた。俺はマヨラーならぬショウラーだ。つまり、醤油好き。大抵のものには醤油をかけて食べる。
これが原因ではないか?醤油が髪の毛を作るのではないか?戦中には、大豆に髪の毛を混ぜて醤油を作っていたと聞く。しかし、もちろん今の世の中で、そのような製法は行われていない。
と言い切れるだろうか?証拠はあるのか?俺は醤油工場を見学したのか?本当に製造過程で髪の毛が混入されていないのか?最近は、食の安全性が叫ばれている。疑えるところは疑うべきだろう。

明日は醤油工場へ行く。

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二重にウソをつくという騙しテクニック

ブロガーの中で、ブログで本音を語る人というのは限られていると思う。批判を恐れて本音をオブラートに包んで書いたり、ウソを書いてアクセス増を図る人もいる。
そういう人は、サブブログやTwitterなどを使って本音を吐き出す。俺だったら、行きつけの掲示板とか。でも、そういうサブブログなんかで、本音を書いているという保証はない。
読者は、そういう場での発言を盲目的に信じがちだが、そういう心理を利用して、ウソを広めることも可能かと思われる。

テレビタレントが、深夜ラジオでは毒舌になるケースというのは多い。しかし、そのラジオの中でも、本音を語っていないのかもしれない。

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ツッコミの必要性

俺はバラエティ番組なんかを見ていて、説明過剰なものが嫌い。字幕の多様とか。
それで、ツッコミもあまり必要ないと思っていた。ツッコミは、聴衆に対して分かりやすく説明するだけで、感度の高い客に対しては必要ない。むしろ説明的になって、ボケを殺してしまうと思っていた。
でもボケをする人間からすれば、ツッコミをされると救われるものだ。ボケたのに誰も気付いてくれない、理解してくれないのでは寂しい。
そういう意味で、ボケの人間のモチベーションを上げるためにツッコミは必要なのではないかと思った。

ネットでお笑いについて語ると寒くなるので、この辺で。

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時津風親方がスイーツ本を出すとみた

第62代横綱・大乃国の全国スイーツ巡業 Book 第62代横綱・大乃国の全国スイーツ巡業

著者:芝田山 康
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2007年10月 1日 (月)

冒険小説としてのRPG

RPGにはゲーム性がない。とりあえずボタンを何回も押してて、適当にレベル上げをしてればクリアーできる。誰でも、時間さえかければクリアーできる。ゲームと呼べるかどうか。
しかし、それならゲームではないと考えればよいのではないかと思った。ゲームではなく、読み物と考えればよい。
俺は小説を読まない方だが、RPGをプレイする感覚というのは、冒険小説を読み進める感覚に似ている。RPGを冒険小説の現代版と捉えれば、ゲーム性がないのは問題ではなくなる。
冒険小説では、ページをめくり、絵を想像していた。RPGでは、ボタンを押し、絵は画面に表示される。

また、もう一つ思ったのだが、RPGというのは、これから難解なジャンルになるのではないだろうか。昔はRPGぐらいしかなかった。しかし今は、なんでもある。これは、昔は娯楽が小説ぐらいしかなかったのに似ている。
今の子供は、昔の子供に比べて、RPGという面倒なゲームをプレイできなくなっているのではないか。あくまで個人的な想像だが。
実際、現在の写実的なグラフィックでは、RPGよりもアドベンチャーの方が、ジャンルとして似合う。

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昨日は25歳の誕生日

Myface

記念写真を撮った。本当は、はてなの方でやるつもりだったんだけどね。ちょっと、いろいろあって、ココログになってしまった。

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自分の主張を広めるには

たぶん、論理的に正しいだけじゃ駄目なんだと思う。たとえばガリレオ・ガリレイがいい例だ。地球が回るという事実を、時代が受け止められなかった。
たぶん、大衆を扇動する方法を学ぶことが必要なんだと思う。集団心理を理解しなきゃいけない。
これにはナチスのヨーゼフ・ゲッペルスの方法が参考になるのではないかと思った。とりあえず、今から調べてみようと思う。

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新しいブログ

今日から新しいブログを始めることにする。前のブログでは、いささか扇動的な内容の記事が多かったせいか、面倒なことがあった。今度のブログでは、なるべく目立たないような内容にしようと思う。
そして誰にも知られないで、自分の好きなことを書けたらいいと思っている。そうだな、好きな芸術評論のこととか、暇つぶしのプログラミングのこととか。

以前のブログを書いてて気付いたのだが、論理的に正しいことを書けばいいという考えは間違っていたようだ。進化論的に考えると、生き残るのは優劣ではなく、環境に適応したかどうかで決まる。いかに環境に逆らわずに行動するかが大事なのだ。進化論は、いつだって使える考え方だ。ダーウィンは素晴らしい。

あと、ネット上でプロレスをやるというのは、あまり意味のないことだ。そうすれば一時的にアクセスが増え、定着する読者も出るかもしれない。
しかし俺がブログを書くのは、他人に見せる為ではなく、自分の頭を整理する為だ。もちろん読者が増えれば、モチベーションも上がるし、貴重な意見を頂くこともできる。しかしそれは、あくまで結果であって目的ではない。手段が目的になってはいけない。
とにかく、なるべく目立たないようにブログを書いていきたい。

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