ベトナム戦争時における韓国兵の暴虐
我が国の進歩派とか言われる人々は、支那、ソ連の暴虐を責めないように、ベトナム戦争時にベトナムを侵略したアメリカを非難することはあってもそのアメリカの傭兵として、アメリカ以外では一番多くの将兵を派遣しベトナムを侵略し、ベトナムの人々を虐殺し、強姦などでベトナムで大勢の孤児を作った韓国を非難することは少ない。
韓国はベトナムに常時五万人、十年間で延べ三一万人の兵を派遣しました。この時勇猛をもってなった「白馬師団」「猛虎師団」というのがありますが、白馬師団の連隊長はのちの大統領である全斗煥、猛虎師団の大隊長はおなじく後の大統領である廬泰愚でした。
当時派遣された韓国軍の給料はアメリカが持ちました。
つまりアメリカの傭兵としてベトナムにいったのです。このことで、「六・二十五(朝鮮戦争)は同じ民族同士の殺し合いだったが、ベトナム戦争はアメリカの傭兵として参加したもので、大義名分の弱い戦争だった」という趣旨の発言をした文教部長官(文部大臣)が金泳三大統領によって平成七年五月十二日に解任されました。
この発言の背景には、ベトナム派兵に対して当時の韓国国内の平均給与の二倍がアメリカにより支払われ、派兵しはじめた一九六五年十二月に発効した日韓基本条約に基づく日本の請求権支払い(十年間にわたり有償無償あわせて八億ドル)とベトナム特需ともいえるこの派兵で、韓国は派兵した十年間は年十%近い経済成長(当時世界一位)を続け、輸出も外貨も三十倍近くにふくれあがった現実がありました。
この発言に対して国軍、在郷軍人会などが「ベトナムに派遣された韓国軍は平和軍の十字軍であった」「ベトナム戦争は自由と平和を守るための聖戦であった」などと抗議の意見を発表したために金泳三大統領は長官更迭という処置をとりました。我国とは逆の対応です。
ベトナムでの韓国軍の残虐極まりない行為は、まだその戦争の爪痕が消え去らないベトナムにおいて生々しく伝えられています。
この項の参考文献の一つである「日韓共鳴2000年史」の編者である名越二荒之助氏が平成八年ベトナム訪問時に直接ベトナムの方から伺った話として
「第二次世界大戦後、我々はフランスとの戦争を含めて合計三十年間にわたって侵略者と戦ってきた。そのため国土は破壊され、経済成長は遅れてしまった。
その中で特に残虐で野蛮なのは韓国軍であった。村を丸ごと焼き払い、死者の耳までそいでいった。アメリカの捕虜になった方が待遇が良かった。韓国の捕虜になったら殺されるのである。
韓国兵はベトナム人を蔑み、人前で平気でビンタをとる。ベトナム人には美人が多いので、女は皆、慰安婦にさせられた。韓国との混、血児は名乗りでないので、はっきりとした数は判らないが、一万人以上はいるはずだ」
「現在韓国企業(現代自動車、大字ホテル、その他建設業等)がどんどんベトナムに進出してきているが、彼らはベトナム人を見下げ、傲慢ですぐ暴力を振るう。ベトナム女性を妻にして混、血児を作っても、サッサと帰国して責任をとらない」
名越氏が聞いたこれらの証言とは別に下記のような報道もあります。
http://www.altasia.org/hangyore/hangyore99256.htm
子供も妊婦も容赦なく…
“軍人たちがまず僧侶に向かって銃を射ちました. 続いて、助けてくれと逃げる女性や菩薩様にも銃を射ちました. そして、屍体を皆燃やしました.”ユエンハンの証言だ. 当時やっと15歳になったばかりの彼は恐ろしさで真っ青になり、叫び声もあげられずに息を潜めていたと告白する. 略)
"女性たちを強姦した後、殺害"
韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる. 前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索, 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた. 筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが, その一部をここに紹介する.
1965年 12月22日, 韓国軍作戦兵力 2個大隊がビンディンソン、クィニョン市に500余発もの大砲を撃ち込んだ後、“きれいに殺して, きれいに燃やして, きれいに破壊する”というスローガンの下、 捜索掃討作戦を繰広げた. 彼らはこの村で12歳以下の22人の子供, 22人の女性, 3名の妊産婦, 70歳以上 6名の老人を含む, 50余名を超える良民を虐殺した.
"… などは、子供を出産して二日目に銃で射たれて亡くなりました. 彼女の子供は軍靴で踏み潰され、まだ血が流れていたお母さんの胸の上に投げ捨ててありました. 妊娠8ケ月に達していた友人は銃弾が貫通して亡くなり, 子宮が外に出ていました. 韓国兵は一歳になる子供を背負っていた娘を射ち殺して, 子供の頭を切り取って地面に放り投げ, あとはいろいろな形に切り出してくぼみに捨てました.
彼らはまた、二歳の子供の首を折って殺し, ある子供のからだを持ち上げて、樹に投げつけて殺した後、焚き火に乗せました. そして、12歳の私は脚を射たれて倒れ、くぼみに捨てられたのです…" 略)
生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は, 無差別機関銃乱射, 大量殺戮, 妊産婦, 女性に対する強姦殺害, 家屋への放火などだ. 生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる.
-住民たち(大部分が女性と老人, 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する.
-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす.
-子供の頭を割ったり首をはね, 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む.
-女性を強姦した後、殺害して, 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す.
-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる.
韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた. 老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった. 恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.
ホーチミン・パンラン=ク・スジョン 通信員
ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号 .