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共戦の旅路 |
1月6日 |
名誉会長とのきのう・きょう・あした |
日本一の歴史 日本一幸せに 全世界の祝福と賞讃に包まれて、80歳を迎えた池田名誉会長。日本を、地球を駆け巡る激励行が生んだ人間ドラマを、「共戦の旅路――名誉会長とのきのう・きょう・あした」と題して、貴重な記録写真とともに紹介していきます。 1月2日。太陽が、羽田の海を黄金に染めていった。 池田名誉会長80歳の朝である。 ここ大田で、80年のうち38年を過ごした。 香峯子夫人の出身もまた、大田の矢口である。 少年時代の思い出を刻む羽田・糀谷の界隈。友と将来を語り合った森ケ崎海岸。 呑川の近く、狭い路地を入った一角の座談会場。ここで戸田城聖第2代会長との、運命の出会いがあった。 池上通りを歩くと、青春の苦闘を刻んだ青葉荘。 昭和41年まで足かけ12年暮らした旧・小林町の家――。 時は過ぎ、街は往時とすっかり姿を変えてしまった。 しかし、心は切れない。 思い出は消せない。 大田は名誉会長の永遠の故郷であり、その縁は、大田の永遠の誉れである。 昨年11月20日、大田の堂々の新出発を祝い、名誉会長は詠んだ。 幼き日 大田が私の 全世界 あの町 この道 生涯忘れじ 日本一 誇れる大田の 歴史をば さらに築けや 永遠に残せや ◇ 「ついに大田に来たよ。あなたとの約束を守ったよ!」 昭和48年4月29日。今も当時のまま残る大田区体育館。名誉会長は、場外で一人の青年を見つけ、駆け寄った。 「森ケ崎海岸」の曲が名誉会長に初披露され、「大田の日」の淵源となった、5000人の記念撮影会。 それは、名誉会長とその青年――大田の男子部員との約束から生まれた。 前年の同じ日、羽田空港から、トインビー対談のため欧州に出発。その機中、偶然、一緒になった男子部員が撮影会を懇請する。 名誉会長は1枚の封筒を渡した。中の便箋に「来年の今日、4月29日に行いましょう」の文字。 その契りを、名誉会長は忘れなかったのである。 あの人にも、この人にも、誠実に。どこまでも誠実に。 「誠実」こそ、師弟を心に宿した人間の証しであった。 その振る舞いが、あの初陣「二月闘争」の勝利を生んだ。190カ国・地域への世界広布の歴史をつくった。 きのうからきょう、きょうからあしたへと続く「共戦の旅路」となった。 ◇ 撮影会の後も、上着を脱ぎ、袖をまくって、卓球のラケットを握った名誉会長。 次に向かった羽田会館(現・羽田平和会館)では、500人の友が待っていた。 奴凧。海苔を採る船。金魚すくい、駄菓子もある。少年時代、名誉会長の目に焼き付いたものばかり。同志の心尽くしであった。 「ありがとう、ありがとう」 名誉会長は、ところてんを押し出し、手ずからふるまった。そして語った一言を、今も同志は忘れない。 「羽田は私の故郷です。皆さんが日本一、幸せになってくだされば、私は安心して世界広布の指揮を執れます」 生を受け、師と出会い、師を守るために駆けめぐった青春の大田。 その模範の前進と勝利を、世界が見つめている。 名誉会長は、待っている。 |
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