朝鮮日報 2002/11/15 19:10
30年間続いた日本九州高校の「韓国修学旅行」
「斧蛮行事件もコレラも戒厳令も、韓国への道を止めることはできませんでした」。
15日午前11時、ソウル・上岩(サンアム)洞のワールドカップ競技場。日本・福岡市の九州産業大学付属高校の教師と生徒695人が17台のバスに乗って、競技場の正門に到着した。14日午後、仁川(インチョン)国際空港から入国した695人は、この日「30回目」の韓国修学旅行の2日目を迎えた。
佐藤俊郎(44/英語)教師は「ほとんどの生徒がこの競技場を覆った“レッドデビル”の姿をテレビで見た」とし、ワールドカップ競技場を日程に入れた理由を説明した。
九州高校の韓国修学旅行が始まったのは73年5月。76年板門店(パンムンジョム)で起きた斧蛮行事件(共同警備区域内で木の枝を切り落とす作業を監督していた米軍将校2人が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)軍人に斧で殺害された事件)、79年の朴正熙(パク・ジョンヒ)元大統領暗殺事件と戒厳令、相次ぐクーデター、コレラが流行した85年、6月抗争のあった87年…。
韓国が数多くの現代史の波を越える度、九州高校の修学旅行は幾度も中断の危機を迎えた。しかし今年3月に他界した松本俊二(56)前校長のお陰で、伝統は途切れることなく受け継がれた。
故松本校長は76年に生徒指導部長だった時代から、韓国が困難にぶつかる度に直接訪問し、事前踏査した後、「安全には何の問題もない」とし、生徒や教師を安心させたという。30年間、この学校の修学旅行を斡旋してきた 徐世鎭(チョ・セジン/70/旅行社元幹部)さんは「松本校長は韓国のことわざがとても好きだった」と話す。
笑えないエピソードも数多い。70年代は洗面所の水が出ないユースホステルやガスを使えない食堂も多かった。そんな時は生徒全員が顔も洗えず、団体で食事を抜かなければならなかった。83年にはセマウル列車を貸し切り、慶州(キョンジュ)からソウルに向かう最中、変質した弁当を食べて生徒40人が入院したこともある。
25年前、物理の教師として初めて韓国への修学旅行に参加した諸藤定良(52)校長は「昔は1つのベッドに2人を寝かせるホテルもあったが、88オリンピックの後からはそんなことはほとんどなくなった」と話した。
韓国への修学旅行はもはや九州高校の伝統となった。卒業生の挨拶の言葉にも、修学旅行での経験談が度々登場するという。
今年で21回目に修学旅行に同行するという州崎孝幸(45/国語)教師は、「W杯の際は生徒たちがテレビで韓国の街頭応援を見ながら、『私たちがバスで通った場所』と言いながら喜んだ」とした。
九州高校の生徒たちは龍仁(ヨンイン)の民俗村とソウル市内観光、ソウル世宗(セジョン)高校生徒たちとの「文化交流会」行事、水原(スウォン)・華城(ファソン)訪問などのスケジュールを終え、今月18日、日本に帰る予定だ。
世宗高校の尹相京(ユン・サンギョン/60)教頭は「初めて会った席で、生徒たちはすぐに友たちになった。それを見ると、両国の間に超えられない壁などないと思えた」と話した。
李泰勳(イ・テフン)記者
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