科学という近代社会のイデオロギーにこびるわけではないが、実は、社会学は、自然科学よりも科学的である。社会学は科学の王である。ある一つの現象を例にとろう。
例えば、客が訪ねてきて、お茶を勧めたところ、手で茶わんを持ち上げ、お茶を飲んだとする。茶わんが持ち上がった現象の原因については、いくつもの説明ができる。 物理学者は、引力よりも強い力が手にあり、それによって茶わんという物体が持ち上がったと説明するであろう。手という物体が茶わんという物体を押し上げたことが、茶わんが空間移動した原因であるというわけである。また、生物学者は、脳内の神経反応が筋肉を動かし、茶わんを持ち上げたと説明するであろう。しかし、自然科学的説明の他にも、次のような説明が成立つ。 客にかけた「お茶でもどうぞ」という言葉が原因で、客はお茶を飲まないと失礼にあたると判断し、お茶を飲むために茶わんを持ち上げ、茶わんが移動した。この場合、この現象が起った原因は、言葉の意味を受けた客の目的意思である。つまり、原因結果という図式は、目的ー手段という図式に変換されて説明される。客は失礼に思われては困ると思って、その手段として、茶わんを持ち上げてお茶を飲んだ。社会学的には、この現象は行為やコミュニケーションと呼ばれる社会現象である。社会学は、人間の行動を原因と結果ではなく、目的ー手段(プラス規範の場合もある)で解釈し、行為として説明するのである。ウェーバーは、これを理解社会学と呼び、立派な科学とした。 このように、茶わんが空間移動した現象の原因は、物理学や生物学だけではなく、社会学からでも説明がつく。それでは、どの原因が本当の原因なのか? どれも原因と言えるであろう。どれを欠いても、茶わんが空間移動した現象は成立たないからである。その意味で、どの学問からの説明も科学的真理である。社会学的説明も物理学的説明や生物学的説明も、同等の真理性をもつことになる。 それに、理解社会学の説明は、現象を起した対象に直接聞くことができる。人間の行為だからその行為者たる人間に尋ねることができる。この点、他の科学よりも有利である。他の科学は外からの観察にしかすぎず、本当にそれが原因かと対象に尋ねることはできない。行為を対象とする社会学は、行為がどんな目的で選択されたか当の行為者に聞くことで、行為の原因を確定できる。これは、ある意味、まさしく対象と認識の完全一致であり、もっとも科学的であるのである。科学の本質が対象と認識の一致にあるのなら、自然科学以上に、社会学こそが完全な科学である。先の例で言うと、ある調査者が客に「相手に失礼だと思ってお茶を飲んだのですね」と聞いたら、「まさしくそうです。よく私の気持ちをわかっている。」と答えるであろう。 また、日本社会においては、お茶を勧められた客がお茶を飲むという現象は、反復性、法則性もあるだろう。同じような場面をつくると、大方、別の人でもお茶を飲むであろう。つまり、行動の予測ができるのである。さらに、もし客がお茶を飲まなかったとしても、その理由を聞くことで、そのようなことがなぜ起ったのか説明できる。例えば、客に聞くと、「お茶を勧められて飲まなかったのは、お茶が熱そうに見えたから後から飲もうと思った」と答えたりするわけである。例外が起った時の説明もできるわけであり、またこれも至極科学的である。 究極的にいうと、物理学や自然科学のほうがむしろ不確かである。外からしか観察できないわけであるから、複雑な現象になると、隠されていた別の原因や要因が後からよく発見されたりする。しかし、行為を対象とする社会学には、調査対象が虚偽を申告しないかぎり、それは起こり得ない。 外的観察しかできない自然科学よりも、内的観察ができる社会学や人間科学のほうが、対象と認識の一致という点において、より科学的である。 疑似科学として社会学を非難する論客たちがいるが、きちんとした手続を踏んだ社会学ほど科学的な学問はないのである。 あとになるが、本当は、数学こそが最大の疑似科学であることを明かしたい。 参考・・・議論反射ブログ http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_8010.html Tracked from 全裸の(知性の)女神ハテナ at 2007-03-25 17:15 先日はコメントありがとうございました。気になる記事なのでコメントさせてください。社会学の科学性や非科学性について説明するということは、あらかじめ一般に「科学とはなんであるか」ということに一定の合意があるわけですよね。どうも僕は世の中のいわゆる「科学的」というフレーズがインチキくさいと感じていたのですが、どういったものを指すとお考えでしょうか。こう、「科学的」ときくと、「学問の中心部にいる偉い人が言っている学説」であり、学問間で言えば科学が政治学や社会学に優越することが自明であるといった、学者と大衆、自然科学とその他、中心と周辺という構図がイメージできます。科学なんて結局はその時の「正しいこと」なんじゃないかと。 長々と要領を得ないコメントですみません。しかももしかしたら見当はずれなコメントかもしれませんよね^^;; ogawaraさん 論宅です。コメントありがとうございます。実は、この記事は下のブログに触発されて書きました。 http://feliscatus.blog77.fc2.com/ 自然科学を相対化するために、皮肉を込めて、対象と認識の一致という素朴実在論的な真理観(物理的リアリティ)に準拠して、あえて社会学のほうが科学的であると主張したわけです。 「科学なんて結局はその時の「正しいこと」なんじゃないかと。」という ogawara さんの思考は、極めて社会学的であります。その時々の社会や文化によって正しいとされる知識体系は異なるということだと思います。ある社会では、迷信や宗教的観念が真理であると、人々に受容されます。そして、近代社会という種類の社会では、科学という知識体系が真理として見なされます。一般に社会によって真理が異なるという立場は、イデオロギー論や文化相対主義と呼ばれます。このような社会学的思考(社会的リアリティ)から、自然科学そのものを相対化することは簡単です。しかし、上記ブログでは、イデオロギー論や文化相対主義による安易な科学の相対化を批判しています。 科学とは何であるかという合意は、厳密にはないと思います。何をもって科学とするかは、論者によってかなり異なります。それ自体が科学哲学と言われ、一つの議論の対象になっています。従って、疑似科学批判をする人たちも、普遍的な定義があるわけではなく、自然科学をモデルとして、科学と呼んでいるにすぎないわけです。自然科学を模範として、それ以外の方法をとる学問に非科学的というレッテルを貼っているわけです。自然科学のほうが社会科学よりも、より科学的であると考えるわけです。これは、科学と呼ばれる学問にさらに(科学/非科学)という区別を再参入したことになります。わざわざこのような差別的な操作をしないと科学の概念は成立たないこと自体、何が科学であるかという合意は曖昧であるという証拠です。自然科学の脱中心化の試みとして、イデオロギー論による相対化を使用せず、上記、記事を書きました。
物理的リアリティと社会的リアリティという真理観の区別から、(科学/非科学)の区別を観察し、もう少し整理してみたいと思います。
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