【IPSコラム=デズモンド・ツツ、コラムアーカイブ】
20世紀のほとんどの期間、世界の大部分の国々が死刑を採用してきた。しかし、新ミレニアムが近づく中、多くの人びとが自分の仲間である他の市民を司法制度を通じて殺すことが積極的な意味を持つのかと疑問を持ち始めたのである。
死刑が地球上からなくなりつつあることは喜ばしいことだ。赦しに基礎をおいた信条体系であるキリスト教の信者として、私は死刑を受け容れることができない。
世界すべての地域の135ヶ国が、すでに死刑を廃止あるいは執行停止している。1990年以降だけでも50ヶ国がすべての犯罪に対する死刑を廃止した。2006年に死刑を執行したのはわずか25ヶ国である(うち、6ヶ国がアフリカ)。
アメリカ合衆国・中国・シンガポールなどの著名な例を除けば、世界の死刑に対する感情はそのようなものであるから、死刑執行停止・廃止を求める決議が10月の国連総会に提出されることになったのだと思う。国際社会は、死刑の道徳性についての立場を定めることになる。
死刑に反対する者として、私自身も、処刑に近づく恐怖を味わったことがある。世界で最も高い処刑率を誇った国のひとつであるアパルトヘイト時代の南アフリカでもそうだし、その他の国に訪れたときもそうであった。
私は、当局が決して語らない死刑の被害者について知っている。それは、処刑される者の家族だ。私は、人種差別にまみれた裁判によってテキサス州で処刑された若いアフリカ系アメリカ人であるナポレオン・ビーズリーの両親のことを覚えている。彼ら自身が税金を支払っている州当局による自分の息子の殺害が近づくと、彼らの痛みは明らかなものになった。私はただ、処刑の日に息子に最後のさよならをするときに両親が感じたであろう耐え難い心の痛みを想像することしかできない。
死刑を容認する者たちは、しばしば、「自分の子供が殺されたらどうするのか」と問う。それは自然な疑問だ。親しい者が殺されたことに対して怒るのは自然な反応であり、復讐の欲望は理解できる。しかし、処刑されようとしているのが自分の息子であったなら?
自分の子供を殺人者にしようと思って育てる者は誰もいない。しかし実際には、多くの親たちが自分の子が政府の手によって殺されゆく悲しみを味わうのだ。1988年、南アフリカの死刑囚の親たちが大統領に向けて、次のような手紙を出した。
「母親あるいは父親になり、自分の子供がこの生ける地獄で苦しんでいるのを見ることは、誰も想像し得ない苦しみだ」。われわれは、われわれの仲間である息子たちや娘たち、その母親たちや父親たちを死に追いやってはいけない。それは、彼らに恐るべき、容認し得ない苦しみを与えることなのだ。
報復、怒り、復讐の感情が世界を血で染めてきた。死刑はそのプロセスの一部である。ある状況においては人を殺すことが許され、それはえてして復讐の感情を生んできた。このようなサイクルを断ち切ろうとするならば、われわれは政府による暴力をなくさなくてはいけない。
死刑を世界的に廃止すべき時が来た。死刑廃止の主張は、毎年のように説得力を強めている。死刑執行はそれに直接関わる者とそれを実行する社会を野蛮化すると経験は教えている。死刑が犯罪や政治的暴力を減らすとはどこでも証明されていない。死刑は、さまざまな国において、貧しい者や人種・民族的マイノリティに対して差別的に適用されている。それはしばしば政治的抑圧の道具となる。適用は恣意的である。死刑は取り返しのつかないものであり、いかなる犯罪に関しても無実の者を処刑してしまうことは不可避だ。死刑は、まさに基本的人権の侵害なのである。(原文へ)
翻訳=山口響/IPS Japan浅霧勝浩
(IPSJapan)
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今回のIPSコラムニストはデズモンド・ツツ。ツツ氏は、ケープタウン大主教で、1984年のノーベル平和賞受賞者。IPSコラム一覧はこちらへ(IPS Japan浅霧勝浩)
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