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( ・ิω・ิ)y-~~ 消されたんですか? |
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うい、全消し(笑) |
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今のは、消されたんですか? |
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第2幕が始まったのかと思った。 |
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作れってか、作れってかw |
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遂に怨霊化? |
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あれ、消されてる… もう一度水洗(笑 |
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同じくw |
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何で消されたんダロー?( ゜ ρ ゜*)っ∩ |
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hana321 01-14 00:16 >いえいえ、見苦しいから消したんです。 |
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( ・ิω・ิ)y-~~ ここは一つ羽野晶紀で「ハダカーマン助けて~♪」 |
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担当けってー(笑) |
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( ・ิω・ิ)y-~~ リトルボーイw 探偵手帳と並んで欲しいものでしたねw |
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はっ、はだっ、ハダカーマン! そんなtko氏には「リトルボーイ」を差し上げますw |
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( ・ิω・ิ)y-~~ うをっ呼んだら来たw |
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まとめスレをご用意しました http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=thistory&nid=1928644 |
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いや、この場合の「アレ」は日曜特番スレのほうでー |
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chaos 01-14 00:21 >えぇ、ワイドショー見ないから、アレで1週間のまとめってるのに(TωT*)ウリハマケグミナンダ… |
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アレ見て判りやすいとか思った人は負け組ですよ?(笑) |
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お父さんの為のワイドショー講座!! 何てわかりやすいww |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(1)推定天皇在位年
以下の表は、私の想定する天皇在位年仮説である。
仮説は、次のような論拠によって成り立っている。
西暦107年後漢に朝貢した倭国王とは神武である。
[覇権の承認を求めた遣使奉献]
卑弥呼の兄弟建田勢命は孝霊に仕えたとされる。孝霊は卑弥呼の晩年あるいはその直後、の人である。
[丹後王権とつながる椿井大塚山古墳]
266年晋に朝貢した女王と並んで、中国爵命を受けた男王とは開化である。
[台与と並んで中国爵命を受けた男王]
神功皇后三韓征伐と称される、倭が新羅に侵攻したのは363年である。
[『三国史記新羅本紀』、倭侵攻記事の信頼性]
仲哀没年は362年で、古事記の天皇没年干支は信じられる。
[早められた新羅出兵の年次]
古事記の天皇没年と対応する倭の五王は、讃=仁徳、珍=反正、済=允恭、興=安康、武=雄略である。
[事記天皇没年干支を中国史書で検証]
公開土王碑文、辛卯年(391年)の倭侵攻。『三国史記新羅本紀』の奈勿尼師今三十八年『倭人来りて金城を囲む』(392年)。『日本書紀』応神三年、百済への出兵(391年から392年)は同じ戦役のことである。したがってこの年次が四世紀史解明の一つの定点となる。
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レスが増えると目立つから、みんなこのスレ見ますよ(笑い |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(2) 物部氏(その1)
各時代の天皇との対応関係がつかめる系譜。
『先代旧事本紀』物部氏系譜は、神武時代の人とする、宇摩志麻治(うましまじ)命から、七世紀後半の、十七世孫連公麻侶(むらじきみまろ)まで、詳細な親子関係を明示し系譜をたどる事ができる。
しかも大和王権の要職に在ったらしく、対応する歴代天皇の名前をあげる。
物部氏は六世紀の終り頃、蘇我氏と激しい権力抗争を繰り広げ、物部守屋 が、蘇我氏に
滅ぼされることにより、それ以降二、三世代、天皇との対応関係はとりにくいが、守屋以前であれば、歴代天皇との対応関係がつかめる。
守屋以前で、系譜の中に天皇名を見ないのは、十四代仲哀と、二十四代仁賢のみである。仲哀については『書紀』の中で八世孫物部胆咋(いぐい)宿禰が、大夫 という要職にあったことを確認でき、『書紀』側での対応がとれる。その点で物部氏系譜は、天皇系譜を検証する貴重な資料となる。
そこで物部氏系譜と、私が推定する天皇在位年との対応表を作成した。するといくつかの問題点が見えてくる。
その一つが、天皇在位順と、物部氏の世代順との間に、逆転現象が起きることである。
物部氏の七世孫から九世孫あたりで、このような矛盾が起きる。七世孫とする建諸隅を崇神時代の人とする一方、同じ七世孫の人たちを、成務時代の人とすることによる。
そこで詳細に検討すると、系譜に次のような混乱が見て取れる。
七世孫とする十市根が、八世孫建諸隅の娘を娶っている。建諸隅が十市根の義父であれば、十市根より前の世代の人である。『書紀』崇神紀の中で、武(建)諸 隅は出雲の神宝を調べに出向いた人物として登場する。『書紀』および『先代旧事本紀』は、十市根を崇神の次の垂仁時代の人とするから、建諸隅を崇神時代の 人とすることに問題はない。したがって、建諸隅を十市根より後の世代とすることに、問題がありそうである。
その原因は、十市根の一世代後、成務時代にも似た名前の大諸隅、あるいは大母隅がいることである。この人物との混同によると推測される。『書紀』でも崇神 紀の中で、武(建)諸隅を大母隅ともする別伝を記し、混乱が伺われる。建諸隅を崇神時代の人とすればその子供、多遅麻連が景行時代の人とすることに問題は ない。
しかし多遅.. |
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不整合の解決ができず、投げだしそうになっていた。ある時、漫然と物部氏系譜を読み返していると、不思議な記述に気がついた。四世孫大水口宿禰命の名前の前に『兒』をつけているのである。
先代旧事本紀は彦火明を初代として次のように書き表す。
兒、宇摩志麻治命[神武]
孫、味饒田命
弟、彦湯支命、亦名、目開足尼[綏靖]
三世孫、大禰命、湯支命子也。二命亦彦湯支命所出矣[安寧]
弟、出雲醜大臣命[懿德]
弟、出雲石心大臣命[孝昭]
四世孫、木食命、雲醜大臣之子。下二命亦出雲醜大臣子也
弟、六見宿禰命
弟、三見宿禰命[孝安]
兒、大水口宿禰命、出石心命子
弟、大矢口宿禰命[孝靈]
系譜の表し方は、火明を初代として兒、孫、三世孫、四世孫と数える。子が一世孫で、孫が二世孫、曾孫が三世孫に相当する。曾孫を三世孫として、それ以降を四世孫、五世孫と数える。
このように名前の前に、何世孫という表記を付ける。孫と表記された人物の兄弟は、並べて弟または妹と記す。さらに系譜では、誰の子であるかも明示する。
系譜は四世孫大水口宿禰命を、出石心命の子とする。出石心命の子であれば、四世孫で問題はない。
しかし四世孫大水口宿禰命の前に、兒(児)をつけるのである。兒という表記は初代火明の子、宇摩志麻治以外、見当たらない。三代以降はすべて孫、もしくは弟か妹である。大水口宿禰命のみ、兒とするのである。不思議な記述である。
もしや、大水口宿禰命は出石心命の子ではなく、前に並べて表記される、三見宿禰命の子ではないか、という考えがよぎった。
そのような前提で、私の推定天皇在位年に対応させると、ぴったりと整合性が得られるのである。
大水口宿禰命は出石心命の子ではなく、三見宿禰命の子である。大水口宿禰命を出石心命子、とする表記とは矛盾するが、大水口宿禰命の前に付けられた『兒』は、その前に列記される人物の子としか解釈しようがないのである。もし大水口宿禰命が出石心命子の子なら、名前の前は『孫』となるはずである。したがって弟の大矢口宿禰も三見宿禰命の子である。
これなら三見宿禰命が孝安時代で二世紀末、大矢口宿禰命が孝霊時代で三世紀半ばでも成り立つのである。
ここにようやく卑弥呼時代の物部氏系譜と、私の推定天皇在位年表との整合性が得られたので.. |
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ffcffc氏は、頭が変になったらしい。 |
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凶人のフリをして難を逃れるという方法も昔から良くありましたねぇ |
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閉めないで!と縋り付くひぼこタソ。zeongの一物にしゃぶりついた所で暗転(´ω`) |
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てぃひひw |
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それだ!w |
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「循環」で思い出したけど、日本語の祖が韓国語だと思いたい御方が、「古代日本語を元に古代韓国語を推定・再構成し」、その結果両者の関連性を証明した -などという頭痛のするような本を書いていたような。 |
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見事な循環参照ですね。 |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(4) 蘇我氏、紀氏、葛城氏の祖、武内宿禰
有力氏族を出した長寿の男
蘇我氏、紀氏、葛城氏、平群氏、巨勢氏などが武内宿禰から出たとされる。したがって先ず、武内宿禰の出自をさぐる。
武内宿禰は景行、成務、仲哀、応神、仁徳に仕えたとされ、『書紀』年次をもとに数えると、280年以上も生きた事になる。したがって実在の人物とすることに否定的な説が多い。しかし私の推定天皇在位年との対応関係では、推定存命期間は80年から90年くらいで、長寿であったと考えればありえないことではない。
出自について『紀氏家牒(きしかちょう)』にもとづいて概観する。
家牒曰(かちょういわく)、紀武内宿祢(きたけのうちすくね)者、人皇第八代孝安天皇曽孫(孝元の誤り)、屋主忍武雄心命(やぬしおしたけおごころのみこと)の嫡男。母、紀伊国造菟道彦(うじひこ)の女、山下影媛という。ゆえに、名を紀武内宿祢という。あるいは紀伊国に産まれるゆえの名。 (中略)六代の君に歴事(つかえへる)、おおよそ春秋二百八十余歳。家大倭国葛城県(おおやまとかつらぎのあがた)五処理(ごかしょのさと)。今葛城里、玉手里、博多里、賀茂里、室里等これなり。墓彼処に在り。
系譜を示すと八代孝元天皇―彦太忍信命(ひこふとおしまのみこと)―屋主忍武雄心命―紀武内宿祢となる。
『古事記』は武内宿禰を、彦太忍信命の子、『書紀』は屋主忍武雄心命の子とする違いがある。『紀氏家牒(きしかちょう)』は八代孝元の曾孫とする。私の推定天皇在位年表との対応は、屋主忍武雄心命の子でなければ整合性が得られない。したがって屋主忍武雄心命の子であろう。
彦太忍信命は孝元と物部氏の伊香色謎命との子である。また彦太忍信命の子の、屋主忍武雄心命は、紀州の紀国造菟道彦(うじひこ)の女、山下影媛との間に武内宿禰を、尾張氏の意富那毘の妹、葛城之高千那毘売との間に甘美内宿禰命(うましうちすくね)をもうける。甘美内宿禰命の妹、忍比売は中臣連祖烏賊津使主(いかつおみ)の妻で、大小橋命の母である。また武内宿禰に替わって自害したとされる、壱岐真根子の母でもある。
この武内宿禰の系譜は、物部氏、紀州紀氏、中臣氏さらには尾張氏の系譜とも密接にからむ。武内宿禰が架空の人物でない事を、確信する理由の一つである。.. |
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( ・ิω・ิ)y-~~ 痛いって言うから馬鹿にされるだけなんですがねぇw |
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ええ、馬鹿ですよねえ、つくづくw |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(5) 蘇我氏
蘇我馬子、蝦夷、入鹿の有力豪族を輩出する。
『紀氏家牒(きしかちょう)』は次のように記す。
蘇我稲目(いなめ)宿祢者、蘇我石河(いしかわ)宿祢の玄孫、満智(まち)宿祢の曽孫、韓(からこ)宿祢の孫、馬背(うませ)宿祢またいわく高麗(こま)の子。宣化(せんか)、欽明(きんめい)両朝に歴事(つかえへて)大臣(おおみ)になる。
蘇我石河宿祢家、大倭国高市県(おおやまとのくにたかいちのあがた)蘇我里。ゆえに名、蘇我石河宿祢という。
蘇我氏の系譜は武内宿禰―蘇我石川禰―蘇我満智―蘇我韓子―蘇我高麗(馬背宿祢)―蘇我稲目―蘇我馬子―蘇我蝦夷―蘇我入鹿と続く。
確な事は解らないが、蘇我韓子はその名前から、蘇我満智が、韓半島の女を娶って生んだ子ではないかとされる。蘇我高麗もそのような出自によるかもしれない。同じ武内宿禰を先祖とする、紀角宿禰や葛城襲津彦の系譜と比較すると、蘇我石川から稲目の間にもう一世代くらい欲しいところである。
蘇我稲目の時代になって、王権の表舞台に登場する。次の蘇我馬子は、自分の子女を天皇の妃に嫁がせ、天皇家の外戚として権力を手中に収める。対立する物部守屋を討ち、蘇我氏の権勢は絶大となる。その後馬子の孫、入鹿が、中臣鎌足と中大兄皇子(後の天武)に暗殺され、父の蝦夷(えみし)も、屋敷に火を放ち自害する。ここに、権力をほしいままにした蘇我氏も滅ぶ。645年に起きた乙巳の変である。
蘇我氏は物部氏と激しく対立するが親戚関係も持っている。馬子の妻は物部守屋の妹、太媛(紀氏家牒)布都姫(先代旧事本紀)である。蝦夷の妻は、物部守屋の弟、物部贄古の子、鎌足媛大刀自(かまたりひめおおとじ)である。
一般に流布する解説書では、鎌足媛大刀自を馬子の妻とする。そのため、このあたりの系譜に混乱をきたしている。鎌足媛大刀自は、蝦夷の妻であって馬子の妻ではない。なぜなら『先代旧事本紀』は、『妹物部鎌足媛大刀自連公。宗我島大臣為妻。生豊浦大臣、名曰入鹿連公。』として、鎌足媛大刀自が、入鹿を生んだとする。入鹿の父は蝦夷に他ならない。
ではなぜこのような誤りが生まれたか。それは鎌足媛大刀自を、宗我島大臣(そがしまおおみ・蘇我島大臣)の妻とすることによる。一般的に宗我島大臣は、馬子の事と.. |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(6) 倭、紀氏
朝鮮半島と深くかわった氏族
紀氏家牒は次のように記す。
武内宿祢。姿娶(二)紀伊国造宇豆彦、菟道彦男也、女宇乃媛(一)。生(二)角宿祢(一)
ちょっと解りにうい表現であるが、菟道彦の子が、宇豆彦でその娘が、宇乃媛である。宇乃媛は武内宿祢の妻となって、角宿禰を生んだのである。武内宿禰の母は菟道彦の子、影姫であるから、従妹を妻としている。
紀氏家牒では武内宿祢―紀角宿禰―白城宿禰―小弓宿禰―大磐宿禰とする。
紀州(和歌山県)紀氏にもつながりがあるが、本拠地は倭であり、紀州の紀氏とは別の系譜である。
紀角宿禰は他の兄弟達とともに391年から392年にかけて百済と新羅に出兵している。『日本書紀』の応神三年の事である。これが西暦392年である。
小弓宿禰は雄略の時代、新羅を攻めた人物で、『三国史記』の年次との対比から、463年前後と推測される。この時一緒に、戦いに臨んだのは蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)、大伴談連(おおとものかたりのむらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)である。大伴談連は討ち死に、小弓宿禰は戦いの中で病没する。総大将の小弓宿禰が病死ししたことにより、指揮系統が混乱する。父の死を聞いた大磐宿禰は半島に渡るが、蘇我韓子等と仲違いして帰国する。
その後『書紀』は顕宗紀三年の条で、『紀生磐宿禰が高句麗と通じ、三韓の王となろうとして、自らを神と称した。しかしこれに怒った百済に敗れる。』とする。 この生磐宿禰と先の、大磐宿禰は同一人物か定かでない。一般に紀角宿禰―白城宿禰―小弓宿禰―大磐宿禰―男麻呂宿禰とする系譜を見るが、野口家文書という系譜によれば、大磐宿禰と生磐宿禰は、別人で親子である。
また武内宿祢―紀角宿禰―田島―(人物名不明)―小弓宿禰―大磐宿禰確という系譜もあるようだ。同族の葛城襲津彦系譜などと比べると、もう一世代くらい在ってもよさそうで、世代数的にはこちらの方が整合性がある。
ただし紀氏家牒は、大磐宿禰の子を辛梶宿祢、次男を建日宿祢として、生磐宿禰という人物には触れない。建日宿祢は清寧の時、坂本臣を賜り改姓したとする。
確か事は解らない。
『書紀』は欽明二十三年 紀男麻呂宿禰(きのおまろのすくね)を対新羅戦に派遣したとす.. |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(7) 葛城氏
古い時代では、尾張氏、葛城氏、津守氏、和邇氏、海部氏が密接につながっている。仁徳、履中の妃を出した、有力氏族であるが雄略に滅ぼされる。
古い時代の葛城氏の系譜ははっきりしないが、神武世代に剣根という人物が葛城(葛木)国造となる。この人の娘、加奈良知姫が海部氏(尾張氏)の天忍男命の妻となり、瀛津世襲、建額赤、世襲足媛を生む。瀛津世襲は、またの名を葛木彦という。
このあたりの世代、海部氏は葛城氏の女性を多く娶り、海部氏と葛城氏は深いつながりがある。
また建額赤の後裔が津守氏となり、世襲足媛と五代孝昭との子、天足日子国押人命の後裔が和邇氏となる。
このあたりの世代では、後の尾張氏、葛城氏、津守氏、和邇氏、海部氏が密接につながっている。
四世紀前半の人と思われる、尾張氏の乎止与命(小登与)は葛城高尾張の出とされる。この人が、尾張大印岐の女真敷刀婢を娶って尾張氏となるようである。
紀氏家牒は次のように記す。(武内宿禰)葛城国造荒田彦の女、葛比売(かつらひめ)を娶り、襲津彦宿祢(そつひこすくね)を生む。家大倭国葛城県長柄(ながらえの)里。ゆえに葛城長柄襲津彦宿祢と名づく。葛城朝臣(かつらぎあそみ)、的臣(まとわのおみ)等の祖なり。
葛城国造荒田彦に至る系譜は良く解らない。一応この葛城氏は葛城襲津彦が祖とされる。
葛城襲津彦の父、武内宿禰に至る系譜は前述のとおり。
『書紀』には葛城襲津彦の記事が、神功五年、同六十二年、応神十四年、同十六年、仁徳四十一年に表れる。
同一の人物とするには伝承は矛盾する。だが大和王権の半島政策と深く関わった人物として描かれる。その点は武内宿禰の、他の子孫と共通する。
葛城襲津彦の子、磐之媛(いわのひめ)が仁徳の妃になる。
次の葦田宿禰(あしだのすくね)の子、黒媛が履中の妃となる。
次の葛城玉田宿禰は、反正の喪がりの職務を怠ったとして、允恭に討たれる。
次の葛城円(かつらぎつぶら)は、眉輪王(まよわおう)と坂合黒彦皇子をかくまったために雄略によって滅ぼされたとされる。子の韓媛は雄略の妃となる。
仁徳から雄略にいたる、『書紀』系譜との対応のつかめる系譜である。
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聞きたいことがあるなら、わざわざ乱入してこないで新しくスレ立てればいいのにw |
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( ・ิω・ิ)y-~~ コペル君みたいになってきたw |
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所詮は事大の徒花。 |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(8) 尾張氏
先代旧事本紀に詳しい系譜を残す
『先代旧事本紀』では、尾張氏は天火明命を祖とする。その子が天香語山命である。『書紀』に出てくる熊野高倉下と同一人物とする。
しかし『勘注系図』では高倉下は、天香語山の子、天村雲の弟とする。香語山と高倉下は別人で一世代の世代差がある。神代とされ時代のことでどちらが正しいか解りかねるが、私は、天香語山は神武の一世代前と考えている。
(天孫、皇孫系譜)
村雲の子が、三世孫とする天忍人命と天忍男命である。以降十八世孫の尾治乙訓與止連まで続く。
『先代旧事本紀』の尾張氏系譜はここまである。
最初に『書紀』に登場するのは五代孝昭の妃になった、世襲足姫とその兄瀛津世襲である。世襲足姫を天忍男命の子とするが、天忍男命という同名の人物が二世代に渡って出現する。この表を見る限り、二世代目の子とするほうが、他の系譜の世代数と合いそうである。
『書紀』は瀛津世襲を尾張氏の祖とするから、早くから尾張氏と称されていたと推測される。ただし、現在の尾張すなわち愛知県に住むようになるのは、十一世孫乎止興(おとよ)からである。
乎止興(おとよ)は大和国高尾張邑(奈良県)の出とされ、尾張大印岐の娘、真敷刀婢(ましきとべ)を娶り尾張に住む。その子建稲種は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に従ったとされる。
他の系譜で尾治乙訓與止連以降、栗原、多々見、大隈(おおすみ)と続ける系譜を見かけるが、大隈は壬申の乱に登場する人物で、7世紀後半の人である。乙訓與止から栗原へとは直接つながらない。二世代くらいの欠落があると思われる。したがって確実な年代から系譜をさかのぼることはできないが、尾治乙訓與止連までは、私の提示する推定天皇在位年と矛盾しない。
『先代旧事本紀』では詳細な系譜を記し、また海部(あまべ)氏などの系譜との参照が可能で、年代推定の貴重な資料であるが、残念ながら実年代を確定できる人物まではつながらない。
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(9) 和邇氏(和珥氏)
多くの氏族を輩出する
和邇氏は孝昭の子、天足彦国押人命を祖とする。天足彦国押の母親は尾張氏の世襲足姫であるから、尾張氏と同族となる。和邇氏は春日氏、小野氏、 柿本氏などの十六氏族を輩出したとされる。
その一つ、石上神宮祠官家となる布留日向に至る系譜を採録した。
書紀に出てくる代表的人物の一人は、崇神の時代、武埴安と戦う彦国葺(ひこくにふく)である。この人は垂仁時代の、大夫(まえつきみ)という要職の一人でもある。
次の時代に登場するのが難波根子建振熊で、神功の新羅出兵に加わり、仲哀後の皇位継承の争いで、神功側の将として活躍する。神功、応神朝成立に大きな役割を果たす。
次の時代には春日市河(かすがいちかわ)という人物を見る。
現在の奈良県天理市に、石上神宮という神社がある。この神社は、大和王権の軍事集団である物部氏の氏神として奉祭されてきた。垂仁の皇子、五十瓊敷命 (いにしきみこと)が剣一千口を作り石上神宮に保管する。大和王権の武器庫の役割を果たしたと推測される。その神官職に春日市河が任じられ、和邇氏は祠官(しかん)家として後世に続く。
石上神宮の奉祭者である物部氏は、物部守屋の時代蘇我氏に滅ぼされ、物部本流は消滅する。その結果物部氏の資財の多くを守屋の妹で、蘇我馬子の妻である太媛(布都姫)を介して、蘇我氏が手中にしたとされる。石上神宮の管掌は、太媛に託される。祠官家は蘇我氏の配下になるが、権勢を誇った蘇我氏も乙巳(いっし)の変で滅亡し、天武時代に日向が神社の地名をもとに、布留日向(ふるひゅうが)に改姓する。
日向の曾孫、邑智(むらとも)にいたり布留宿禰を名乗る。布留日向は天武朝の人で、670年ころの人と推測される。布留日向の父を武蔵とするものと、額田とするものがある。正確なところは不明。
この系譜について『新撰姓氏録』は次のように記す。
『布留宿禰(ふるのすくね)。
柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命(たがねつきのおほおみのみこと)の後なり。男(こ)、木ゴト命(こごとのみこと)の男、市川臣(いちかはのおみ)、大鷦鷯天皇(おおさざきのすめらみこと)の御世、倭(やまと)に達(い)でまして、布都努斯(ふつぬし)神社を石上(.. |
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まったりをっちんぐしよ。 |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(10) 津守氏
尾張氏と同祖
津守氏は天忍男命―建額赤命―建筒草命―建真咋―諸石宿禰(大諸日宿禰)と続く。
海部氏系譜の建諸隅命、すなわち私が開化の妃になった、竹野媛の父親とする由碁理は、大諸見足尼の娘、諸見己姫を娶っている。『先代旧事本紀』はこの大諸見足尼を葛木直の祖とする。
私はこの大諸日宿禰(おおもろひすくね)と、大諸見足尼(おおもろみすくね)は同一人物ではなかろうかと考えている。
建筒草命までは『勘注系図』と同じ系譜である。したがって火明を祖とする、海部氏とは同祖である。
『書紀』の中では、田裳見宿禰が神功九年の条に現れる。私は神功の新羅出兵を363年のこととするから四世紀半ばの人と推測する。その子ども豊吾田が摂津住吉大社の奉祭者となり、住吉大社の社家は、その子孫とされる。
書紀によると、皇極元年(642年)津守大海(つもりおおみ)を高麗(こうらい)に國勝水鶏(くにかつくいな)を百濟(くだら)に、草壁真跡(くさかべのまと)を新羅(しらぎ)に、坂本長兄(さかもとのながえ)を任那(みまな)に遣すとする。また大海の子 津守吉祥(つもりきっしょう)は、659~661年に遣唐使として唐に渡った。
津守氏の天忍男命と、中臣氏の天種子は同じ神武時代の人である。 津守氏の天忍男命から数えて、九代目の水吹宿禰命の妹、度美媛命は、中臣氏の臣狭山命の妻である。臣狭山命も、天種子から数えて九代目である。世代数は完全に一致する。
尾張氏と同祖の彦火明までさかのぼることができること。田裳見宿禰が神功皇后と対応が取れること。600年代中ごろの人物の実年代が確認できること。世代数的にも問題が少ないと思われる事から、中臣氏の系譜などと共に、年代を検証するには極めて興味深い系譜である。
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( ・ิω・ิ)y-~~ で?反対投票誰よw |
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チャックの人、張り付きですか! |
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多分、チャック開いてる人w |
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あら不思議。 「ハングル表示」をすると見やすくなっている。 |
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概念無い倭寇には改行が無いことで分かってます(´ω`) |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(11) 海部氏
信頼性に欠けるが尾張氏系譜との対応がある。
海部(あまべ)氏は火明を祖とする。系譜は、天香語山―天村雲―倭宿禰―笠水彦命―笠津彦命―建田勢命とつづく。ここから『先代旧事本紀』の尾張氏系譜とよく似た系譜が出現する。またここまででも、傍系の系譜は尾張氏と共通部分がある。
『勘注系図』は近い氏族の系譜のつなぎあわせで、系譜の連続性には疑問が多い。倭得玉彦までは尾張氏とほぼ同じ系譜を伝える。『先代旧事本紀』の尾張氏は、倭得玉彦―弟彦―淡夜別―乎止興―建稲種―尾綱根と続く。
海部氏の本流は、この倭得玉彦から意富那比(おうなび)と続くようである。しかし系図は倭得玉彦の弟かあるいは意富那比の子と推測される川上眞稚を、倭得玉彦から五世代後の、志理都彦(しりつひこ)につなげ、志理都彦―川上眞稚―丹波大矢田彦―大倉岐―明国彦―建振熊宿禰(たけふるくまのすくね)とする。
だがこの志理都彦の弟尻綱根(しりつなね)が、『先代旧事本紀』尾張氏の系譜に出てくる尾綱根(尾は尻の誤り)である。『勘注系図』でも、この尻綱根を尾張連の祖とする。
淡夜別がどこに住んでいたかはっきりしないが、乎止興(おとよ)は大和国高尾張邑(奈良県)の出とされ、尾張大印岐(おおいき)の娘、真敷刀婢(ましきとべ)を娶り尾張に住む。 その子建稲種(たけいなだね)は日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に従った人物とされる。日本武尊の妃になったとされる、妹の宮簀姫(媛)(みやずひめ)と共に明らかに、尾張地方の住人である。したがって、『勘注系図』のこのあたりは、尾張氏に分流した後の系譜が混在する。しかし倭得玉彦以前を尾張氏とするのか、海部氏とするのかはよくわからない。
また神功に従って新羅に出兵したとされる、難波根子建振熊を明国彦の子とするが、建振熊は和邇(わに)氏の系譜に出自を見る。『書紀』においても建振熊は和珥(和邇)の祖とする。したがって和邇氏の人物であろう。だが『勘注系図』によれば新羅出兵に際し、建振熊が率いた集団は丹波、但馬、若狭の海人で、丹波とは無縁ではない。しかもその新羅出兵の功績により若狭木津高向宮を定め海部直を賜うとする。若狭木津高向とは、古くは木津の庄と呼ばれる、現在の福井県大飯郡高浜町であろうから丹波の住人と.. |
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10get(´ω`)y-~ |
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推薦資料行きで晒し上げですかw |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(12) 中臣、鹿嶋氏
神代までさかのぼる系譜
鹿嶋氏と中臣氏は祖神を天児屋根命とする。その子が天押雲命、孫が天多禰伎命(天種子)である。
天多禰伎命(天種子)は神武時代の人とされる。『日本書紀』によれば、天種子は東征の折、筑紫宇佐(ちくしうさ)の菟狭津彦(うさつひこ)の娘を娶ったとする。また中臣氏の遠祖ともする。したがってその子が宇佐津臣命と呼ばれることは納得できる。
この子孫は上記の中臣氏(後の藤原氏)と鹿島神宮家の鹿嶋氏へ続く。
書紀に登場する人物は、四世紀初めの国摩大鹿島(くにうづおおかしま)命である。垂仁時代、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)、和 迩臣(わにおみ)の遠祖彦國葺(ひこくにふく)、中臣連の遠祖大鹿嶋(おおしかしま)、物部連の遠祖十千根(とおちね)と共に、厚く神祇を祭祀したとされる。
中臣氏と鹿嶋氏が分かれるのは、四世紀半ばの臣狭山命(おみさやまのみこと)の子、狭山彦(さやまひこ)と跨耳命(はこみみのみこと)からである。跨耳命は、雷大臣(いかつおおみ)、烏賊津使主(いかつおみ)、伊香刀美(いかとみ)ともされ、『書紀』によると、この烏賊津使主は、大三輪大友主君(おおみわおおともぬしのきみ)、物部胆咋連(もののべいぐいのむらじ)大伴武以連(おおともたけもつむらじ)とともに仲哀時代の四大夫(まえつきみ)の一人として、仲哀の死を隠して葬儀を行ったとされる。この子孫が中臣氏につながる。また狭山彦は鹿嶋神宮宮司家につながる。いづれもそれ以降の詳しい系譜を残す。
また熊野本宮大社宮司家である、九鬼(くかみ)家なども同一の出自とする。
鹿島神宮司家の系譜は信頼できる系譜の一つと考える。しかし実年代を確認できるのは、26代武主の天平十八年(746年)しかない。途中での書紀との対応が取れないのが難点である。また系譜は、多くの場合代位を記す。兄弟継承などが含まれると、代位数は世代数より多くなる。この系譜の中にも1、2世代の兄弟継承などが含まれる可能性を考える。
中臣氏は中臣鎌足(後の藤原氏を名乗る)(614~669)あたりでその実年代が確認できる。
一般に私の、推定天皇在位年表と付き合わせると、系譜の欠落を感じさせる物が出現する。中臣鎌足に至る系譜もそんな経験をした一.. |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(13) 大伴氏
書紀系譜と比較的多くの対応がとれる系譜
大伴氏は神代の人物を祖神とする。ここでは神代には踏み込まない。
大和王権の初代とされる神武時代の人として、日臣命(ひのおみのみこと)が登場する。神武東征の折、久米部を率い活躍する。その功により、道臣(みちのおみ)の名前を賜ったとする。『先代旧事本紀』が『道臣命は来目部を率いて、杖を帯びて門の開閉をつかさどり、宮門の護衛を行った。』と伝えるように近衛兵的な性格がうかがわれる。
諸氏の系譜の中で、神武と崇神の間、いわゆる欠史八代といわれる天皇に対応する、伝承を持つのは、物部氏を除いて極めて少ない。そのような中で、貴重な情報として、道臣から数えて四代目、大日命が孝昭時代の人、五代目、角日を孝安時代、六代目、豊日命が孝霊、開化時代とする。
しかしこの欠史八代あたりは、私の推定天皇在位年との間で不整合をきたす。
大伴氏の系譜は神武時代の日臣命から、孝霊、開化時代の人とする豊日命までが、六世代目である。その次の垂仁時代の武日が七世代目である。おおよそ他の系譜と比較して、世代数的には問題ない。
しかし私の推定天皇在位年との間では、角日と豊日の年代幅が大きくなりすぎ、日臣から角日までの間隔が狭くなりすぎる。
どちらかに誤りがある。私は三代目、稚日が孝昭、4代目、大日が孝安時代の人ではないかと考える。
『書紀』によると垂仁時代、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)、和迩臣(わにおみ)の遠祖彦國葺(ひこくにふく)、中臣連の遠祖大鹿嶋、物部連の遠祖十千根(とおちね)、大伴連の遠祖武日は、五大夫という要職にあったとされる。
また景行紀では、大伴武日が吉備武彦と共に、日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征に従ったとされる。
仲哀紀では、大伴武以(武持・おおとものたけもつ)が、中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)・大三輪大友主君(おおみわのおおともぬしのきみ)、物部膽咋連(もののべいぐいむらじ)と共に、四大夫の一人として名を連ねる。
ここまでの系譜では、一世代あたりの間隔がやや長いようにも感じられる。一、二世代くらいの欠落があるのかもしれない。
この武以(たけもつ)、以降『書紀』に大伴氏の人物はしばらく登場しない。
一部の系譜.. |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(14) 倭氏
倭国造(やまとのくにのみやつこ)の系譜
倭氏の出自は、はっきりとしない。なぜか海部氏の系譜にその名を見る。
『勘注系図』は天照皇大神―天押穂耳尊―彦火明命―彦火々出見命―建位起命―倭宿禰―天登目命という系譜を記す。
多く見かける系譜は、海神綿積豊玉彦―振魂―武位起―珍彦(倭宿禰・椎根津彦)である。海神綿積豊玉彦には豊玉姫、玉依姫、穂高見、振魂の4人の子があったとされる。
建位起を彦火々出見命と豊玉姫、あるいは玉依姫の子とすれば、『勘注系図』の系譜も成り立つかもしれない。しかし神代のことである。確かな事は解らない。
(天孫、皇孫の神代系譜)
『書紀』と『古事記』では、神武が珍彦(倭宿禰・椎根津彦) に出会う場所が異なる。国造本紀の伝承によれば明石国造は椎根津彦の子孫とする。このことから椎根津彦の出身地は、明石で速吸門(はやすいのと)は、明石海峡と考えている。だからこそ、大阪湾近辺に詳しく、海路の先導ができたと想像する。
倭宿禰は神武東征の際の活躍により、倭国造になる。大和王権の初期において、主要な地位にあったと思われる。
倭宿禰の後『書紀』に登場するのは、崇神の時代の市磯長尾市(いちきながおち)である。倭大国魂神(やまとのおおくにたまかみ)の祭主となったとする。
倭国造あるいは倭直(やまとのあたえ)として王権の中枢にあった倭氏であるが、仁徳没(427年)後に起きた、皇位継承の争いの中で、倭直吾子籠(やまとのあたえあごこ)は、住吉仲皇子に就き、 大兄去来穂別尊 (おおえのいざほわけ。後の履中)に敗れ断罪される。それ以降王権内での権力は衰退したと思われる。
ここでは詳細には触れないが、仁徳以前の大和王権の権力構造を知る上で、極めて興味深い系譜である。
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(15) 大神氏(おおみわし)・三輪氏
出雲王権につながる系譜
『先代旧事本紀』によれば、大己貴神―八重事代主―天日方奇日方と続く。八重事代主の子で天日方奇日方の妹が 媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、神武の妃となったとされる。
系譜は出雲王権につながる。大和王権と出雲王権との関係についてここでは触れない。
『書紀』に、その名を見るのは、崇神時代の大田々禰古(おおたたねこ)である。市磯長尾市(いちしながおち)が倭大国魂神、大田々禰古が大物主大神を祀る祭主になったとされる。この伝承でも、大田々禰古は大物主という出雲の系譜につながる。
ただしこのあたりの系譜は『先代旧事本紀』と『書紀』や『古事記』では大きく異なる。『書紀』や『古事記』に系譜の脱落があると考えられる。
次に見られるのは仲哀九年の記事に出てくる、大三輪大友主命(おおみわのおおともぬし)である。中臣烏賊津連(なかとみのいかつむらじ)、物部胆咋連(もののべのいぐいのむらじ)、大伴武以連(おおとものたけもつむらじ)と共に、仲哀の死を隠して葬儀を行なったとされる。
次は雄略の時代の身狭(むさ)である。この人物は『書紀』雄略八年『身狭村主(むさのすぐり)青と檜隈民使(ひのくまのたみつかい)博徳(はかとく)をして、呉(くれ)国に使いせしむ』とする人物で、五世紀後半の人である。身狭は朝廷の書記官である史部(ふみひと)として、雄略の寵愛を受けた人物でもある。またこの家系は大田々禰古に始まる、大神神社(三輪神社)の宮司でもあったようである。
さらに次には欽明時代の人、特牛(ことひ)が登場する。その子供が三輪君逆(みわのきみさかう)である。逆(さかう)は敏達天皇の寵臣で、敏達皇后、額田部女王(後の推古天皇)の警護に就いていたらしく、敏達が没した後の皇位継承の争いの中で、穴穂部皇子と物部守屋に討たれたとされる。584年頃の事である。雄略時代の身狭と欽明時代の、特牛(ことひ)との間には70、80年くらいの時間差があり、この間二世代くらい欠落すると考えられる。
天武朝の人高市麿は、天武八年(679)三輪君を改め、大神朝臣姓を賜ったとされる。
『新撰姓氏録』『先代旧事本紀』の分類では地祇に属す系譜で、出雲の神につながる。.. |
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まさに小劇場w |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(16) 埼玉稲荷山鉄剣の系譜
『記紀』伝承を参照することのありえない系譜
埼玉稲荷山鉄剣の系譜としての史料的価値は、銘文の辛亥年を471年とすれば、系譜の成立年代が確定できる事である。しかもその系譜の成立年は書紀の成立年代よりも、約250年も古いことである。
この系譜の上祖(かみつおや)とされる、意冨比こ(おおひこ)が『日本書紀』崇神紀に登場する 、大彦命 (おおひこのみこと)であるとすればたいへん興味深い系譜である。
大彦命 は八代孝元の皇子で、『書紀』伝承の系譜上では、崇神の叔父に当たる人物である。しかし私は孝元と開化は兄弟と考えているので、崇神の従兄弟位であろう。
大彦命は崇神の時代、四道将軍のひとりとしてその子、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)と共に関東に遠征したとされる。大和王権の関東支配と関わる人物で、後の阿部氏の系譜に続く。したがってこの系譜は阿部氏と出自を同じくすると考えられる。その鉄剣の出土場所は埼玉県行田市と関東であることも興味を引く。
この系譜には上祖、意冨比こから乎獲居臣(おわけおみ)まで八人の人物を記す。乎獲居臣は雄略に仕えたとするから、雄略と同時代の人であることは言うまでもない
私の推定天皇在位年では、大彦命は崇神時代に活躍する人物で、おおよそ280年頃の人と推定する。従って鉄剣に系譜が刻まれた時からさかのぼる190年くらい前の人であろう。この間の世代数は七世代で、一世代の平均は27年くらいになる。妥当な世代間隔と考える。
さらに興味深いことは『勘注系図』の川上眞稚命の妹、竹野媛を大彦命妃とすることである。『勘注系図』の系譜は疑問が多く、年代を確定しづらいが、川上眞稚命は雄略と同時代の人、丹波国造海部阿智(あまべあち)からさかのぼること六、七世代前の人物で、鉄剣系譜の意冨比こと、世代数的にほぼ一致する。
絶対に『記紀』伝承を参照する事のない、独自伝承であるという点で、大彦命の実在を証明する系譜と考える。
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アレですかねぇ…・朝貢のつもりのレスなんですかねぇ。昔同じ事やってレス300とか付けてた人居ましたねぇ |
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まあ、二度あることは三度あるわけですがw |
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第十三章 推定天皇在位年と氏族系譜の対応
(17) 系譜が明かす歴代天皇の実在
相互に関連する諸氏族の系譜
今日の学説の多くは、大和王権の出現を十代崇神あたりとして、それ以前の天皇の実在を否定する。しかし諸氏族の系譜には、崇神以前の天皇に対応する人物も少なくない。
一例を挙げるならば、神武紀に登場する、物部氏の宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、倭氏の倭宿禰(やまとのすくね)、大伴氏の道臣、鹿嶋、中臣氏の天種子命(あまのたねこ)、大三輪氏の媛蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずのひめのみこと)などである。これらの人物は、それぞれの系譜上にその存在を確認できるのである
また物部氏系譜には、実在を疑問視される、欠史八代天皇のすべてに対応する、系譜上の人物が存在する。
物部氏以外でも、海部(あまべ)氏の笠水彦命は綏靖、建田勢命を孝霊時代の人とする。
尾張氏系譜は世襲足姫(よそたらし)が孝昭の妃になったとする。大伴氏系譜では、大日命は孝昭時代、豊日命を孝霊、開化時代の人とする。
また八代孝元の皇子とされる大彦命は、稲荷山鉄剣系譜に上祖(かみつおや)として登場する。さらに大彦命の妃を『勘注系図』に見ることが出来る。
また崇神以降であっても、今日の文献史学は倭武尊(やまとたけるのみこと)や、十四代仲哀、その皇后、神功については実在を認めない。
しかし倭武尊の東征に従った大伴武日連を、大伴氏の系譜に、その妃になった宮簀媛(みやずひめ)を尾張氏の系譜に確認できる。
十四代仲哀についても、仲哀の死を隠し葬儀をおこなったとされる、烏賊津使主(いかつおみ)を鹿嶋氏に、大三輪大友主君を大三輪氏に、物部胆咋(いぐい)連を物部氏に、大伴武以(たけもつ)連を大伴氏の系譜に、確認できるのである。
同じように神功紀の武内宿禰を紀氏に、難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)を和邇(わに)氏、田裳見宿禰(たもみのすくね)を津守氏、伊香津臣命(烏賊津使主・いかつおみのみこと)を鹿嶋氏と、それぞれの系譜上に確認できる。
さらにこれらの系譜は、天皇以外の系譜同士で複雑な、つながりを見せる。
たとえば伝説の人物として、その実在を疑われる武内宿禰の系譜である。その祖父彦太忍信命(ひこふとおしまのみこと)の母は伊香色謎命であり、伊香色謎命は物部氏の出である.. |
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( ・ิω・ิ)y-~~ つーか第二幕考える暇があるなら日報更新しろとw |
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・・・orz |
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コピペ速度が30sec./res.しか出てなくて~ |
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都合悪いスレでコピペ?danbokkとかibmみたいなバカでもできる芸当だよなあ。( ´H`)y-~~ |
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まあ、この題名の付け方からすると、メルマガから引っ張ってきているっぽいですなぁ |
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