最終回:「英日誤訳研究」の連載を終えるに当たり

いよいよ最終回となりました。
これまで訳語や表現上の問題、構文解釈上の問題などを中心に検討してきましたが、この最終回では、改めて読者の皆さんに伝えておきたい翻訳上の留意点についてまとめることにします。
その前に、これまでと同じように先ず誤訳例について考えてみましょう。

感覚的な訳は厳禁!!

最初の例は、原文を一瞥しただけで極めて安易に訳出したと思われる不正確な訳文、つまり筆者が「感覚的な訳」と称している誤訳の例です。

原文40:The past few months have also revealed that when market conditions are right, the combination of economically priced technology and an idea that either fills a market niche or defines a market behavior will be fertile ground for new entrants.
(オリジナル訳)この数カ月の間、つまり市場が正常であった間、経済的に価格の釣り合った技術と、すき間市場を満たすこと、または市場動向を決定することの組み合わせは、新規参入者にとって地味豊かな土壌であった。

(解説)オリジナル訳には細かい訳抜けおよび時制上の問題が見られ、全体として非常に不正確な訳となっています。まず、"...also revealed that..."(...は...ということも明らかにした)が無視されており、"an idea that"(という考え)も訳抜けとなっています。時制に関しては、「正常であった間」ではなく「正常であれば」とすべきであり、「...にとって...であった」ではなく「...にとって...となる」と、正確に訳す必要があります。感覚的に訳すのではなく、原文を一字一句丁寧に追いながら、正確な訳文となるよう心がける必要があります。
(試訳)過去数カ月の状況では、市況が適切であれば、ニッチ市場を満たすかまたは市場の動きを決定するような考えが経済的価格の技術と結びつくことで、新規参入企業にとっては豊かな基盤が作られるということも明らかになっている。


不正確な原文への対応

次は、「原文に忠実に」とはいっても、原文自体が不正確で、そのままでは適切に訳出することができないおそれのあるケースです。その場合は、訳出しようとしている文章(あるいはパラグラフ)以外に、ヒントとなるものがどこかにないか、大局的な見地から原文のテキスト全体を観察することです。以下にその例を挙げます。

原文41:A logon request specified the name of a logical unit that is either not an application program or is an application program in another domain but the domain is not currently accessible (for example, the-cross-domain-resource-manager is not active.)
 cf. その直後の文章:If the logical unit is not an application, the DEFLOGON entry pertaining to the logon request is in error and must be changed. In the case of an in-accessible domain, retry the request later when communications are re-established.
(オリジナル訳)適用業務プログラムではないか、あるいは別の定義域では適用業務プログラムである論理装置の名前を指定したログオン要求は、現在アクセスできません(たとえば、定義域間資源マネージャーが活動状態ではありません)。

(解説)原文が正確な構文となっていないためもあって、意味を取り違えています。主節は”A logon request specified the name ...”であり、”but the domain is not ...”は”another domain”を説明する修飾節であると解釈すべきです(つまりこれは、正しくは”... another domain that is not currently ...”とすべき文章です)。構文が不明確(あるいは不正確)な場合は、このケースのようにその近くの文章から判断材料を探すようにします。原文が必ずしも文法的に正確であるとは限らない場合もあるということを念頭に置いて、文意を正しく把握する訓練をしてください。
(試訳)適用業務プログラムでないか、あるいは現在アクセスできない(たとえば、定義域資源マネージャーが活動状態でない)別の定義域の適用業務プログラムである論理装置の名前をログオン要求が指定しました。


誤訳例文検討の旅はこれで無事ゴールインということになります。長途の旅、本当にお疲れ様でした。

では冒頭で申し上げましたように、ここでこれまでのさまざまな検討内容を振り返って、全体を総括することにします。
まず、産業翻訳で求められる三大要素は(1)原文読解力(2)訳文表現力(3)専門知識であり、そうしたスキルは一朝一夕に身につくものではなく、長い期間にわたりこつこつと絶えざる努力を重ね、研鑚を積むことではじめて我が物とすることができるという点を認識する必要があります。
産業翻訳の前提条件は「原文と訳文は等価(equivalent)でなければならない」ということであり、クライアントが求める最も重要な要件は「商品価値のある高い品質の訳文」ということです。そうした条件を満たさない訳文には必ず、誤訳、不正確な訳、不適切な訳語、不自然な表現、文法的なミス、訳抜け、入力ミスなどが含まれています。それを避けるためには、原文を最大限に尊重し、辞書やインターネットを最大限に活用し、最大限の注意を払って翻訳に臨むということです。背景や文脈を重視し、常に常識を働かせ、感覚的な訳は絶対に避け、徹底的に見直しをすることにより、レベルの高い翻訳作業を行うことができるということを改めて明確に認識することが大切です。

当ブログが「英日誤訳研究」という少々大げさな表題にふさわしい内容であったかどうかはともかく、産業翻訳の基本原則をはじめ、産業翻訳における翻訳者の基本的心構えについて筆者が皆さんに伝えたいと思っているポイントはすべて説明しつくしたと考えます。
"Traduttore, traditore"(翻訳者は裏切り者、翻訳者は反逆者)とか"Belles Infidèles"(不実の美女)などの表現は、実は文芸翻訳の世界においてすら戒めの言葉として人口に膾炙しているものです。ましてや内容の正確さを重んじる産業翻訳においては、特に心すべき名句といえるのではないでしょうか。製造/装置産業や医学・薬学の世界では、誤訳が原因で生命に関わる重大事態を招くことすらあり得ます。こうしたことから産業翻訳では、もちろん表現方法をないがしろにして良いということではありませんが、何より内容の正確さを重視する誤訳のない翻訳を心がける必要があります。原文によっては、表現が極めて曖昧であったり、文法的に不適切あると思われるケース、あるいは数字や単位、用語に明らかに誤りがあると思われるケースを最近かなり目にするようになりました。正確さよりスピードを優先するという昨今の風潮は大きな問題と思われますが、それはさておき、少なくとも原文の誤りや不適切と思われる箇所に気づいた場合には、コメント・シートなどによってそうした問題点に関してクライアントが納得するような説明を加えるのが、プロの翻訳者としての務めでもあるといえます。
翻訳者には、第11回ブログで述べましたようにさまざまな能力や資質が求められますが、それらはすべて、正確で誤訳のない優れた訳文を生み出すための条件にほかなりません。

もう一度申し上げます。「商品価値のある翻訳」、それがプロの翻訳者に課せられた使命です。

これまで20回にわたる連載を、辛抱強く最後までお読みいただいた読者の皆さんには篤く御礼申し上げます。プロの翻訳者を目指す皆さんの今後のご健闘を心より祈念して、当連載を終えることにします。ではまたいつかお会いしましょう。

Thank you and good luck!

2005年10月25日