三編 販売競争と戦争報道
 戦前の新聞報道の最大の汚点は、戦争協力に名を借りて部数拡大に利用したことである。そのことは特に東京朝日新聞と東京日日新聞(現在の毎日新聞)に顕著である。その罪悪は単に戦争という国家の重大事、国民の生命を賭けての行動を営業に利用したということに止まらない。ついには「百人斬り競争」という虚報まで生み、虚報により二人の元軍人が戦後戦犯として処刑されるという事態にまで至ったことである。

 それに止まらない。日中国交回復後、朝日新聞の本多勝一記者は「中国の旅」なる本で「百人斬り競争」を取り上げて戦闘行為であったはずの虚報を民衆の殺人にでっち上げてみせた。殺した相手が兵士であるか民衆であるかは全く違う話である。刀を使おうと戦闘中に兵士を殺すのは戦争犯罪ではないからである。当時の日日新聞は戦争犯罪ではなく、英雄的行為として報道したのだから、虚報であろうとも、戦争犯罪になることはない。


 ところが本多記者は虚報をさらに戦争犯罪にねじ曲げて恥じないのである。そして歪められた虚報は中国政府の「南京大虐殺」に政治利用されている。いわば戦争協力に名を借りた新聞営業は、現在に至るまでその汚点を引き摺っているのである。

1章 戦争協力を隠蔽する新聞
 朝日新聞OBでジャーナリストの稲垣稔氏が朝日新聞社に在職中、朝日新聞の戦争協力について、当時の記事などをもとに検証した論文を書いて公表しようとしたという。ところが、ライバルの出版社に有利な情報を提供することになるというので、上司から大幅な修正を受けて実質的に骨抜きになってしまったので結局ボツにせざるを得なかったというのである(17)。事実に反しているのならともかく、会社に都合が悪いからというのでは、ジャーナリストの本分である真実の追究より社益を優先したというより他ない。

 朝日新聞の戦争礼賛記事をテーマにした、「読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事」(リヨン社)という本が出版された。ところが、掲載した記事の著作権が切れていなかった事を口実にして、朝日新聞社に圧力をかけられて間もなく絶版になった。結局のところ大企業(朝日新聞社)の力にものを言わせて中小企業(リヨン社)を押さえ込んだのである。

 この経緯は、「正論」平成八年二月号で「『読んでびっくり朝日新聞の太平洋戦争記事』絶版の真相」に詳しい。それによればリヨン社の社長または編集長が一人で朝日新聞に呼び出されていくと、朝日側は五、六人が出てきて著作権のことで強く追求されたという。日頃の朝日新聞が行っている戦争責任追及の姿勢からは、こういう場合には逆にリヨン社に資料提供するなどして、協力し真相を究明するというのが建前のはずである。

 なお、リヨン社の本は著作権法に触れないよう再編集されて太田出版から「朝日新聞の戦争責任」として刊行されていて、現在でも入手できる。秦正流氏は朝日新聞は戦後、他の新聞にさきがけて戦争協力について反省した記事(昭和二十年十一月七日社告)を載せた(12)と自慢げに書いている。ところが、同書にはそのとき発表された村山社長以下幹部の退陣が、実は戦争末期からの「派閥抗争と責任逃れの」結果であり、昭和二十六年には臆面もなく復職しているのだという事実も書かれている。

 新聞は積極的に戦争協力した。それは単に自発的であったというのに止まらない。販売競争の道具として戦争報道を利用した側面もあったのである。その結果、満洲事変の報道で新聞が大幅に販売部数を伸ばしたことは既に述べた。問題はその内容である。満洲事変の報道で極端な報道姿勢を示したのは、東京朝日新聞と東京日日新聞である。当時の新聞の名称は現在と異なるものがあるので、「東京朝日新聞」を朝日(新聞)、「東京日日新聞」を毎日(新聞)と表記し、読売新聞は東京版である。日付は新聞掲載日を原則とし、事件があった日の場合はその旨記述する。朝夕刊の区分は表記しない。


 君が代」批判
 現在では君が代は日の丸とともに戦争に利用されていたとして忌避する傾向がある。その典型が平成十年の所沢高校の入学式拒否事件である。ところが戦前にも君が代に対する批判がある。戦争報道ではないが、昭和七年三月一日の朝日新聞の「君が代」についての投書は、当時の言論の傾向の一端を示している。

 いわく「日本には『君が代』という立派な国歌はある。併しそれは我尊厳なる国体を表してこそあれ、私が望むようなものとしては余りに静的であり、余りに単調であり、又平生口にするには余りに厳粛でありすぎる。私がここにいう国民の歌というのは…もつと親しみのある国民の精神理想をよく表わした…その曲ももっと勇壮でありたいのである」

 君が代は国歌として奉っておくが、歌いやすい「国民の歌」を別に作って普段はそれを歌えば良いという、言うなれば君が代棚上げ案である。更に「昨今出征兵士の見送りに、どこに行っても『ここはお国を三百里』ばかり聞かせられる。…その歌詞といいその調子といい、あれはあまりに哀しくさみしい。どうしても勇壮なるべき見送りの場合に適さない」と続ける。日本の軍歌は曲が暗くて、欧米人には反戦歌のように聞こえるという話を聞いたことがあるが、当時の日本人にもそう感じていた人はいたのである。君が代が戦前絶対視されていたわけではなく、軍国時代の歌としては不景気であると思われていたのであり、戦争に利用されたとする事自体見当違いである。軍歌を一律に好戦的としてタブーとするのも実態を見ていない。

 意外なことに、当時と現在の朝日新聞の日の丸、君が代に対する態度には共通点がある。投書や著名人の意見を使って否定的な事を示唆したり、何だかんだと難癖をつけるが、国旗国歌としての明瞭な否定はしないというやり方である。この投書欄で奇妙なのは「ここはお国を」の歌が出征見送りに適せぬという意見が他に3氏よりあったと姓名を記載しているのに、たった1通選ばれた肝心の投書の主を「M子寄」と匿名にしたことである。記者の創作投書と考えるのは邪推にすぎるだろうか。

2章 作られた銃後の美談
 同一の事件でも記者自身の思いこみに合わせて記事を書き、事実関係まで変えることがある。毎日新聞は昭和七年三月二日に「入営の息子励まし母親自殺」との見出しで、息子が徴兵にとられたため「病人の老親はじめ貧しい家族を遺して若し心残りでもあっては済まないと息子の心をはげますため」母親が自殺したと報じた。一種の軍国美談である。ところが、読売は「『銃後』にこの悲惨、働き人に出征されて困窮の一家、老母井戸に投身自殺」と、大きく報じた。詳細に読むと

 「伜正雄の勇気をにぶらせ」と書いて、息子の出征に後顧の憂いがないようにしたとも取れる一節も入れてあるが、全体的には徴兵による生活苦で母親が自殺したという論旨で、毎日とはかなり異なる。

 毎日新聞のように書いておけば無難なのだから、読売の記者は隣近所に一家の様子を聞いて回ってこの記事を書いたのだろう。同日の朝日にはこの記事は見当たらない。四日の毎日には「中尉の妻死の激励、出征中の夫に遺書」とあり、夫が上海事変に出征して遺された新婚の妻が夫の「後顧の憂いを絶たしめ激励するための自殺と判明した」と遺書を引用して顔写真入りで報じた。扱いは小さいが、朝日も同趣旨で事件を報道している。

 ところが、読売は「舅の話と違う悔いの遺書」と副題を付け、朝日毎日と同趣旨の舅の談話を書くと同時に、従妹を取材して「愛子さん(自殺した妻…筆者注)は性質は内気な方で余り稔さん(夫…筆者注)が大切になさるので何か些細なことを深く気にとがめたのかも知れません」との談話を書き、別な原因があることをにおわせ単なる美談としていない。十日の読売は「松葉杖姿も哀れ、戦傷の七十名着京」と題し「松葉杖など悲壮な情景が人々の感情を一層たかぶらせて涙と感激のうずまくなかを東京駅から直ちに戦傷者一同は衛戊病院に向かった」と写真入りで報じた。

 連日派手な戦意高揚記事の多い中で戦争の悲惨さを伝えた記事である。朝日も写真入りで「傷病兵七十名帰る、傷ましい姿で」と書くが、毎日は小さな扱いで事実関係だけを報じた。現在の我々には戦前の日本で戦争による悲劇を伝える言論の自由は一切なかったかのような先入観がある。前掲の3つの事件の記事はそれが正しくないことを証明している。

 3社の記事を比較すれば事件を軍国美談調にしたのは新聞社ないし記者の考え方であったことがわかる。秦正流氏は「…小説、映画にも干渉が加わり、軍国の母、軍国の妻が称揚された」@と、全てが軍に強制されたかのように言うが、この事実をふまえれば、新聞は頼まれもしないのに自ら軍国の母、軍国の妻を造ったのである。

3章「百人斬り競争」報道の前哨戦
 ここで時代は昭和十二年の南京攻略に飛ぶ。「百人斬り競争」とは毎日新聞が南京攻略の際に数回にわたって報道したもので、現在では「南京大虐殺」の一つのエピソードとして有名になっている。要するに、野田、向井の両少尉が南京に進撃する間に、百人以上の支那兵を斬る競争をしたというものである。署名入り記事で、浅海、光本、安田、鈴木の特派員名があるが、一連の記事で共通するのは浅海記者一人である。

 敗戦後、斬られたのが支那の民衆であるかのようにすり替えられて、戦争犯罪として両少尉は死刑になった。この報道が事実ではないことは、既に鈴木明氏の「『南京大虐殺』のまぼろし」(文春文庫)などによって論じつくされていて、結論が出ている。実はこの記事以前にも類似の記事があった(全て無署名)。最初は十一月六日の「敵兵二十八名を斬り愛刀用をなさず」と題して、今井少尉が二十八人もの支那兵を切って歯こぼれがして使い物にならなくなったので、よく斬れる刀を送って欲しいという手紙を毎日新聞社宛出したというものである。これには同郷の小之木という人が家宝の刀を送ったと言う十八日の記事で落ちがつく。

 二十八日には元日活時代劇映画監督という人を含む「四勇士」が「チャンバラそのまま五倍の敗残兵二十名を叩き切り大見得を悠々カメラに収める」とある。映画関係者が剣劇を演じて写真を撮ったというのだからよくできた話ではある。「百人斬り」の第一報が出た直後の十二月四日には「『伏せ』は『辷り込み』『兜切り少尉』殿・二つ綽名の原田少尉」として、日本刀で敵兵の頭を鉄兜ごと真二つに切ってしまったという記事がある。まさに漫画である。

 浅海記者の記事は前ふたつの記事にヒントを得て、その拡大版をねらって創作したものと推測できる。百人斬り以外の記事も余りに芝居がかっていて、創作ではなかろうか。要するに社内の特ダネ競争が過熱して創作記事まで生んだという実例であろう。

4章 過熱するイベント競争
 満洲事変で支那側は比較的容易に制圧されたが、続いて起きた上海事変では激しい戦闘が続いて、戦闘の展開が連日新聞紙面をにぎわせた。更に新聞社は各種の戦争関連「イベント」を行った。ここで言うイベントとは報道以外の新聞社による活動のことで、募金活動や講演会などのことを言うものとする。上海事変と満洲国建国が同時進行した、昭和七年三月に新聞紙上に掲載されたイベントについての報道を見る。

 最も頻繁に行われたのは映画会、講演会の類で毎日行われているといってよい状況だった。三日付で「本日の朝日講堂、朝日発声映画ニュース第二報『海陸共同上海総攻撃』公開」との広告がある。「併せてミッキイマウス漫画上映」とあるのは人集めだろう。これが「圧倒的好評」であったとして、同日2回映写を追加し、翌四日も追加するとある。六日には朝日特派員と海軍大佐を講師に、「上海総攻撃観戦報告講演会」を行うと広告した。朝日新聞はこれらの講演会で、会場整理のためとしてほぼ統一的に十銭の入場料を取っている。金額が少ないことから、確かに収益を上げるためのイベントではなかろう。

 朝日毎日の両社が継続的に行っていたのが慰問金の募集活動である。二日には「在満朝鮮同胞への同情救済金決算」として、寄付の四万円に加えて朝日新聞社自身が一万円を寄付した事を報じた。六日には「寄託金から十万円、上海の陸軍将士に送る」として上海出征の軍人に寄付された慰問金を送った事を報じたが、そのために朝日新聞社の岡野取締役を派遣した事を岡野取締役の顔写真入りで書いたのは社の宣伝である。

 上海事変の際のいわゆる爆弾三勇士について、朝日毎日が競って「爆弾(肉弾)三勇士の歌」を懸賞付きで公募した。肉弾(朝日)と爆弾(毎日)と呼称が異なるのは、○○三勇士という言葉が軍の広報担当による造語ではなく、新聞社側が作ったためだろう。公募は歌詞だけで、作曲には山田耕筰などの著名人を起用し、盛大な発表演奏会を行った。凄惨な戦死の事実に対して両社ははしゃいでいるとしか思えず、今日の目からすると異様である。

 また両社は村山(朝日)、本山(毎日)社長名による、事変に派遣されている白川軍司令官宛の祝電を送った(朝日三日、毎日四日)。情報伝達手段の乏しい当時にあって、祝電は現在では想像できない程重要な意義があった。更に朝日毎日共に満洲国執政の溥儀宛に就任の祝電を送った(朝日、毎日共に十日)。新聞社保有の飛行機、いわゆる社機も写真輸送などに活躍したと報じた。九日には溥儀が駅に向かう上空に社機を飛ばし「朝日新聞社によろしく伝えてもらいたい、どうもありがとう」という溥儀の談話を朝日の記者が得たと書いた。

 溥儀の満洲国執政就任式典に朝日の社機を飛ばし会場に祝賀のビラをまいた(十日)。この日に飛行機を式典上空を通過させるのは警備側の許可を得るのが困難であろうし、朝日が社機を飛ばすのは綿密なスケジュール調整などの周到な準備が必要で、満洲国や関東軍に大きなコネクションがあることの証明である。朝日が、和田画伯に委託して「皇軍錦州入城図」を社長名で、宮内大臣を通じて天皇に献上(十日)したのも同様である。見出しには「畏き辺りに献上」とある。

 朝日新聞の秦正流氏は当時の言論界を、御用出版雑誌社、御用学者、御用論客と痛罵した@。それならば、当局に周到な手配をして満洲国執政溥儀や軍司令官に、社長電報を送り、社用飛行機を飛ばして満洲国の式典を祝ったことを大々的に報道する新聞社は御用新聞と呼ばずして何と呼べばよいのだろう。これら朝日毎日のイベントは「軍部による強制」だったのだろうか。そんな筈はない。同年三月に読売新聞社が行った戦争関連イベントは十六日の「上海観戦報告講演会、本社講堂入場無料」に始まる五回の講演会に過ぎず、朝日毎日に比べれば質量ともに圧倒的に少ないからである。

 読売は予算がなかったのではない。十四日には「愛読者三千名、春色の伊豆大島へ」招待キャンペーンを、二十六日には「郷土を表現する代表民謡を募る…一等(一名)ビクトロラ蓄音器(定価八十五円)という何とものどかなイベントを行った。読売は戦争とは関係のないのんびりしたイベントをやっていながら、朝日毎日のように派手な戦意昂揚イベントをやらなくても軍から圧力をかけられることはなかったのである。朝日毎日と読売の落差が、軍の満蒙政策支持や戦争協力が自発的なものであったことを証明する。同時にこの時期以降、朝日新聞が軍の施策を全面的に支持することの表明であるとも解釈できるだろう。

 この時期の記事には、秦正流氏の言う「満蒙問題などについて軍の横暴を繰り返し批判した」という記事は見あたらない。秦氏は何を根拠にそのようなことを書いたのだろうか。日本で報道管制が本格化するのは新聞が全面的に軍部支持にまわってから数年後のことであるから強制に屈したのではない。支那事変以降報道管制が行われたのは当然で、米国のような「自由の国」ですら第二次大戦では完全な報道管制を行って成功したのはよく知られている。逆にベトナム戦争では報道管制を行わなかったために、共産側の非人道的行為は隠蔽される一方で、ソンミ事件のような米国側の非人道的行為だけが報道されて、反戦運動から米軍の撤退への動きを加速した。

5章 新聞の戦争協力と政治関与
 朝日新聞が痛烈に軍部批判を行っても何等処分のなかったことから、当時の日本には相当な言論の自由があった事がわかる。右翼による脅迫があったという事は弁解にさえならない。言論は自由だという現在ですら、従軍慰安婦について語った櫻井よしこ氏は脅迫にあい、講演会も中止された。石橋湛山が言うように「言論の自由は言論機関が自から闘いとる」もののはずである(「石橋湛山全集」東洋経済新報社)。

 繰返すが、満洲事変と上海事変の勃発に至って朝日毎日が軍に協力してイベント合戦を展開したことも新聞の戦争協力が自発的なものであることを証明している。新聞の戦争協力が弾圧強制によったものであるという認識は基本的には誤りであり、新聞関係者により意図的に作られたものであることがわかった。新聞が軍に協力していたのは必ずしも悪いことではない。しかし、現在の立場を守るために、戦争協力を強制されたもののように事実を曲げたり、新聞の軍や政府への協力を全面的な悪だと否定し去ってしまえば、戦争という巨大な対外的非常事態に際してマスコミはどうあるべきかという教訓を得られなくなってしまうのである。

 そして戦時に新聞社の行っていたイベントを見ることによって、新聞社が軍人や政治関係者に大きなコネクションを持っていた事がわかった。新聞社は報道という強い武器によって、今でも官僚や政界に対するコネクション持っているのであろう。佐藤勝巳氏によればH、朝日新聞の元ソウル特派員は、朝鮮労働党の工作員とみられる人物を外務省高官に紹介して定期的に「勉強会」を行っていたという。

 私は、新聞が反権力を装いながらその実、為政者に接近して政治を動かそうとしているのではないかという疑念を持つものである。世論を形成するに効果的な手段であるマスコミが、一方で政治関係者と結託して影響力を行使するのは、宗教団体が政治に関与するのと同様に危険である。



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