二編 創られた新聞弾圧
1章 反軍という妄想

 後藤孝夫氏は著書で「反軍・大阪朝日」(1P389)、「反軍の闘将」(1P401、大阪朝日新聞の高原操を指す)などという称号を奉る。これは軍に一貫して反対したという名誉の称号である。戦前は暗黒時代で、その主役は軍部であったという戦後の風潮からはまさに軍部に反対し続けたということは賞賛されるべきことである。軍は戦前において嫌悪されるべき存在ではなかった。

 軍人志願の少年がいたように、軍人は大衆のあこがれでもあった。つまりよほど特殊なケースを除けば一般的に反軍ということは戦前ではありえない。大正の一時期、軍人が制服を着て外を歩きにくいほど、軍人が嫌われていた時期があるものの、それは例外であった。


 たしかに朝日新聞が軍部に対して反対のキャンペーンをはったことがある。それは陸軍省の場合も統帥部に対しての場合もあった。陸軍省は官僚であるから行政機関であって、その政策の是非を論じるのは当然である。朝日新聞が反対したのは個別の案件に対してである。すなわち陸軍の行動一般全てに反対したというわけではない。

 もし全てに反対したとしたら単なる軍隊の否定であり、戦前の風潮からありうるものではないし、現代においても健全なものではない。憲法九条擁護論にあるように戦争に反対することと、軍隊の存在に反対することを絶対視する風潮がまだある。しかし近代国民国家とシビリアンコントロールという観点からも軍隊一般の否定というのは正常な事ではない。


 後藤氏はそれまで陸軍に反対したことがあったのに、満洲事変になって支持したから論調が変わったと説明している。「反軍」というレッテルを貼ればこのような論理は成立する。だが実際には、朝日新聞がある政策に反対しある政策に賛成したに過ぎない、すなわち是々非々の態度をとったとすればこのような論理は成立しない。


 五・一五事件や二・二六事件でも凶行を起こした軍人たちに、世論は非難どこか同情を寄せた。支那において日貨排斥や在留邦人に対するテロ、満洲における日本利権の条約違反の手段における利権回収などの行為に対して融和的な態度を取る幣原外交に対して国民は軟弱外交と非難した。これに対して大陸での権益擁護の任にあたる軍の苦境に国民は同情を寄せたのである。

 
朝日新聞がこのことについても反対していたとしたら、朝日新聞は世論に背を向けていたことになる。それが正当であるとするならば当時の朝日新聞がこれらの日本の危機について対案があり、それが実現可能なものでなければならない。もしそれもなく軍部に全て反対していたとしたら、それは妄想に過ぎない。

1.1 民主主義社会の市民は戦争を好む
 民主主義社会の市民は戦争を好む、と言ったら皮肉に聞こえるだろうか。そうではない。ここでは民主主義を国民が自由に意見を公表でき、指導者が国民によって選ばれ、政策に国民の意向が反映する政治体制のことを言う。かく定義するのは長谷川美千子氏などの正統な民主主義の定義と異なる常識的な定義の方が分かりやすいからである。

 
民主主義の見本のように言われる米国を見るがよい。第二次欧州大戦が始まったとき、米国民は参戦に反対した。米国に参戦する利害がないと考えたからである。真珠湾が攻撃すると一転して熱狂して参戦した。湾岸戦争、ベトナム戦争など、戦争に参加する明確な理由があれば米国民は喜んで戦争する。民主主義社会は言論の自由があるがゆえに、戦争する理由さえあれば個人の意見が集中して戦争賛成の世論が盛り上がる。

 非民主主義の国家では政策は一部の指導者が国民の意向と関係なく決定するために、実はほとんどの国民はいやいや戦争に参加させられる。ノモンハン事変のロシア兵の一部は戦車に鎖でつながれ戦争させられた。コレヒドールのフィリピン人も同様であった。支那では督戦隊に追い立てられて戦争する。ロシア人が戦争に熱狂したのはモスクワ陥落の瀬戸際になってスターリンが宗教家まで動員して愛国心に訴えたからであり、それまではドイツに寝返ろうとする多くのロシア人がいた。

 戦前の日本は間違いなく民主主義国家であった。国民は満洲事変に熱狂し、支那事変に耐え、大東亜戦争に熱狂した。そうでなければあの大戦争は戦えなかったのである。今になって指導者が悪いだの国民は騙されたというのは、無知を通り越して卑劣である。

1.2 白虹貫日事件は言論弾圧か
 山中恒氏は日本に言論の自由がなかった例証として「白虹貫日事件」をあげる(*2)。米騒動の報道を禁じられた時期、大正7825日に大阪で行われた関西新聞記者大会の当日の夕刊の報道に「金甌無欠の誇りを持つ大日本帝国は今や恐ろしい最後の審判の日に近づいているのではなかろうか。」と書いた上に「白虹日を貫けり」という字句があったのが問題になったというのだ。

 どういう手法なのか不明だが、多数の右翼団体が大阪朝日新聞に群がって恫喝をかけたというから、現在で言う街宣車が群がるように右翼が新聞社前に多数集結して騒いだのだろう。社長が右翼に殴打されて石灯籠に縛り付けられた。記事を書いた大西記者が禁固二ヶ月、署名者の山口記者が三ヶ月となった。寺内内閣が大阪朝日のとりつぶしを命じたとあるが、根拠は不明である。事実は社長などの幹部が辞職し、後継の原内閣に嘆願してとりつぶしは免れたのである。

 氏はこの文章がなぜ新聞社をとりつぶさなければならぬほどの重罪だったのかと問うが、重罪に問われたかは起きたことで判断すべきであろう。朝日新聞は不敬罪で、記者二名が2、3ヶ月程度の禁固のこそ泥なみの罪に処されたのが事実である。現在でも「サンゴ事件」のような捏造記事を書いただけで朝日新聞社長は退任するのだから、幹部の退任は重罪によるものではない。


 白虹日を貫けりとは、「革命の兆し」と説明するが、「白虹は兵の象(かたち)、日は君なり、国君の兵を被る兆しなり」だそうだから、革命兵士により天皇が殺される兆行の意味であろう。すなわち天皇が兵士に殺されると予告しているのである。日を貫くは、刺し殺すのようなどぎつい語感さえある。現在でも、天皇以外でも実在する特定の個人が気に入らないから殺されるなどと予告すれば名誉毀損ものである。

 まして国体が重視される時代に、報道が制限されたから革命で天皇が殺される最後の審判が近づいているなどは名誉毀損の上に、身勝手が過ぎる。筆者の山中氏ですら週刊誌あたりに、お前は気に入らぬから最後の審判で殺される運命にあるなどと書かれれば、名誉毀損で訴えたとしてもおかしくはない。そんな名誉毀損が、相手が天皇ならば言論の自由の名の下に許されるべきだというのは、天皇を一般国民以下に扱いたいという願望である。

 氏は天皇などいなくなればよいという願望を言論の自由の主張に隠れて言っているのではなかろうかとさえ思える。現在でも共産主義の独裁国家ではこの程度の言論でも2,3ヶ月の禁固どころか、裁判なしに処刑されるのだということに氏は思いを致すことはできないのだろうか。


 この事件が「日本には言論の自由はなかった」という章の事件の代表例としてあげている。だがこの事件は最大限氏に好意的にみても天皇報道に対する日本社会のタブーを証明しているのであって、この種のタブーは現在も厳として日本には存在している。今も日本には言論の自由はない、と主張するわけではあるまい。この種のタブーは米国など自由社会でもいつも存在する。


 例えば米国の黒人差別についてのタブーが存在する。なぜ黒人の水泳選手がいないのか。そんな単純な事実が追求されることはない。黒人差別を語るときは、いつでも黒人差別はいかにして克服されたかであって、今でも差別があるということが平生語られることはない。語られるのは差別による殺傷事件が起きたときなどであって、きちんと差別が実行されてトラブルがないときは表に出ないのである。

 氏は大正時代の事例を挙げながら日本に言論の自由はないと言いながら、十数年後の満州事変報道で朝日新聞は軍に抵抗したと主張する。そして満州事変以前にも軍の言動を勇敢に批判していたとして例をあげている。その後、右翼や軍部の脅迫により抵抗はなくなったと主張し、報道の自由がなくなった月日まで追及するのだから、このときまでは言論の自由はあったのではないか。その意味でも白虹貫日事件が言論の自由のなさの証明というのは自己矛盾である。

1.3 テロの被害に遭わない言論人
 ジャーナリスト以外のテロ被害
 昭和における右翼や軍によるテロやクーデターなどの事件とその被害者を見ると、誰が右翼や軍に嫌われているかわかるはずである。そこで代表的なテロ事件の被害者をいかに列挙する。

@大正十年九月二十八日 安田善次郎暗殺事件
 被害者 安田善次郎、安田銀行設立、金融財閥、日銀監事

 加害者 右翼の青年朝日平吾

A大正十年十一月四日 原敬暗殺
 被害者 原敬、新聞記者から若くして官僚に転じ、その後政治家となり総理大臣。

B昭和五年十一年十四日 浜口首相暗殺
 死亡・浜口雄幸(首相、大蔵官僚から政治家に転身)

C昭和七年二月〜三月 血盟団事件
 被害者 井上準之助(民政党総裁、前大蔵大臣、日本銀行入社、総裁から政治家に転身)・死亡
      団琢磨(三井合名会社理事長、財界人)・死亡

D昭和七年五月十五日 五・一五事件
 死亡・犬養毅(首相、党人政治家)

E昭和十一年二月二十六日 二・二六事件
 被害者
   岡田啓介(首相、予備役海軍大将)・襲撃されるが脱出
   斉藤実(前首相、予備役海軍大将)・死亡
  高橋是清(大蔵大臣、元首相)・死亡
  渡辺錠太郎(陸軍大将)・死亡
  鈴木貫太郎(侍従長、予備役海軍大将)・重傷
  牧野伸顕(元内大臣) ・襲撃されるが脱出
  松尾伝蔵(首相秘書官、予備役陸軍大佐)・岡田と誤認され死亡

 ジャーナリストのテロ被害
 これに対して朝日新聞の大正以後の戦前の軍や右翼による被害で、めぼしいものをあげよう。

@大正七年九月二十八日白虹貫日事件(2P45)・大阪朝日新聞の記事に起こった右翼のテロ
  被害・村山社長・殴打の上、石灯篭に緊縛

A昭和三年
  右翼編集局乱入・大阪朝日新聞の皇室記事誤植が原因

B二・二六事件
 被害・活字ケース転覆、損害約三万円
 他にも事件はあるであろうが、上記以上の被害は受けていない。二・二六事件の際に反乱軍は朝日新聞は自由主義を標榜し、重臣を擁護しているとして占拠したという。これに対して、国民新聞、報知新聞、東京日日新聞も襲われたが被害はない。相対的に最も嫌われている朝日新聞でこの程度の被害である(7P48)。上記の事件を比較すれば、新聞とそれ以外で被害の差は歴然としているのは明白である。

 テロの被殺害者は軍人、政治家、財界人、金融人など多数に及んでいるのに比べ、新聞人ではただの一人の死亡者、重傷者もいない。朝日新聞OBの五十嵐氏は自著(8)で「朝日新聞への軍部・右翼の攻撃」(P174)と項を立てて特筆する。しかしそこに書かれているのは、過大な軍事費を批判する朝日新聞に怒った青年将校が編輯局長緒方竹虎に決闘を申し込まれて断ったという話と、大阪朝日の編輯局長高原操がある陸軍大将に会って自説で説得したという話なのだ。これが軍部右翼の攻撃なのだ。羊頭狗肉と言うより他はあるまい。その次の項目が「右翼、浜口首相を襲う」というのだから、ますます軍部右翼の朝日新聞の攻撃なるものが軽微かを強調する皮肉な結果になっている。

 このように新聞人が右翼や軍人から嫌われていたとしても、その程度は軍人(!)、政治家、財界人などに比べれば桁違いに少ないものである。いや満洲事変について事前に相談があったところからすれば、信頼されていたとさえ言える。舌鋒鋭く軍縮問題を追及していた朝日新聞などは、その誠意を信頼されていたとさえ言えるのではないか。すなわち新聞人は世論をよく代表していたと言える。

 人間必ずしも批判されたとしても、その勇気その誠意ゆえにかえって信頼するということはある。人に媚びる人間は絶対に信頼するに足らないのである。批判されていたから嫌われていたとだけしか考えられないとしたら、その人は人間の信頼関係というのはその程度の浅薄なものとしか考えられない人であろう。現代日本で中国政府に媚びる政治家財界人は心の底で軽蔑されていたとしても信頼されていることはないのと同じである。

 テロ事件ではないが、軍部による言論弾圧事件として有名な、戦時中の竹槍報道事件がある(8P266)。東京日日新聞昭和十九年二月二十三日の朝刊一面に「勝利か滅亡か 政局はここまで来た 竹槍では間に合わぬ 飛行機だ海洋航空機だ」という見出しの記事が載った。東條首相が激怒し内務省が発売禁止とし、書いた新名記者の退社を要求したが、新聞は配達済で新名記者の退社を拒否したが、編集総長、編集局長、編集部長が辞任した。そして陸軍は新名記者が兵役免除となっていたにもかかわらず、懲罰召集したというものである。しかしその結末は新名記者は三ヵ月後に除隊し編集局長以下二人は復帰したというのだ。なんとほとんどが結局無事でわずか一人が社をやめたに過ぎない。

 現在でも独裁国中共や北朝鮮で国策批判が行われたらどうなるか想像してみるがよい。北朝鮮では即刻命はあるまい。中共でも西欧に知られていない者なら人知ぬうちに処刑されているであろう。そもそもたいていの独裁国に政府批判の記事を書けるマスコミはない。このようなことを特筆して戦時中の言論弾圧として書かなければ話題にならないほど日本は自由な国なのである。そのことに気づかないにほんのマスコミも能天気というより他ない。

1.4 朝日新聞擁護で翼賛する左翼

 かつては江口圭一氏や掛川トミ子氏のように朝日新聞の戦前の戦争協力を批判する左翼もいた。立場からすれば当然であろう。掛川氏などは緒方竹虎が戦争協力したことについて、多くの社員を養うためには仕方なかったと弁解しているのに対し、なさけない言動と一刀両断している(10)。当然であろう。ところが現在ではそのような言説は聞かれなくなった。全て戦前は軍部の弾圧が厳しかったですましている。

 これはマスコミの規模が大きくなり、朝日新聞などに取り上げられることが仲間内のステータスになるからであろう。とすれば掛川氏のように、生活のためと笑っている側が笑われる側になったというべきであろうか。だがそれ故に左翼同士の言動は互いに批判しない。すなわち翼賛していくのである。


1.5 朝日新聞と軍部の対立とは何か
 朝日新聞は軍関係者に嫌われた時期があったのは事実である。だがそれは満洲事変や支那事変などの戦争に関する報道についてではない。軍人や右翼関係者に嫌われたことがあったとしても深刻なものではない。その状況証拠としては、井上準之助殺害などの右翼による暗殺事件や五一五事件などのクーデター事件で、政界や財界の関係者が何人も殺されているにもかかわらず、新聞などマスコミ関係者はかすり傷ひとつ負ってはいない。

 
言論の自由がなかったの、新聞は弾圧されたのと強調されるわりには、これは実に奇妙なことではないのか。また財界は軍部と結託して大陸侵略に協力したなどといわれているにしては実に変である。殺害されたことから考えれば、政界財界は軍部右翼に一貫して嫌われていたのであり、新聞は一時期の例外を除いて軍部右翼関係者と仲が良かったとしか言いようがないではないか。

 この明白単純な事実について、言及されることがないのはやはりマスコミ自体の意見の発表手段が強いことによるものであろう。すなわち自ら被害者であると宣伝して回った結果、多くの言論人がこれに乗せられたのに違いない。朝日新聞が軍関係者に嫌われた唯一の事件は昭和6年の軍縮政策と軍人恩給削減政策である。

 このときの朝日新聞のキャンペーンはすさまじいものがある。
新聞は軍縮を唱えただけではない。新聞を通して当時の政治状況を見ると興味深いことが分かる。財政が苦しい中で当時最も重要な政治課題とは「行政整理」すなわち今で言う行財政改革である。実は軍縮というのはその一環である。多くの新聞は行政整理を支持した。その中で軍縮を支持したのであって、反軍の立場から軍縮を支持したのである。

 従って新聞は軍縮を主張したばかりではない。他の政府機関の人員整理や給与削減も主張したのである。行政整理という観点を閑却して軍部に対する主張だけ切り離して論ずるからあたかも新聞が反軍であったかのように思わされる。反軍という言葉は現在の反戦平和主義と混同される。だが朝日新聞が当時反戦平和主義のために軍部の主張に反対したのではない。

 
当時の苦しい財政事情から、公務員全体の経費を減らせと主張したのである。そして当面戦争の危険がないから過大な軍備は不要であると主張したのである。だから軍縮問題と満洲事変への対応は全く別個の問題である。朝日新聞が満洲問題、いわゆる満蒙権益について同論じたかについては別項で検討した。

1.6 新聞人のエゴ
 
新聞社は社員のためにある
 朝日新聞の幹部の秦正流と緒方竹虎には共通の主張がある。なんとそれは会社は社員の生活を守るために節も曲げてもよいということである。朝日新聞大阪版では、読者の「新聞も戦争に加担した」ことにはならないかという疑問に対して元大阪本社編集局長の秦正流氏が連載で答えた(12)。そこにはこのような言葉がある。

 多数の従業員をもち、多年の伝統をもち、社会的信頼を寄せられている新聞社として
は「余程」のことがなければ玉砕は許されない。

 何のことはない、戦争に協力せずに弾圧されて倒産すれば社員が路頭に迷うので、多数の社員を抱えた大新聞としてはそんなことはできなかったということを品良く言ったのである。これは悪意ある解釈ではない。元朝日新聞副社長の緒方竹虎の証言がある(6P207)

 「これは丸腰の新聞では結局抵抗はできない。只主筆とか、編集局長が自ら潔しとする意味で、何か一文を草して投げ出すか、辞めるということは、痛快は痛快だが、朝日新聞の中におってはそういうことも出来ない。それよりもこれは何とか一つ朝日新聞が生きていかなければならないという意識の方が強くなり・・・」


 この意味するところは秦の見解と同じであろう。掛川トミ子はこの一文を捉えて「『正直』と言おうか、『無感覚』と言うか、適切な言葉を探すのに苦しむようなこの無責任極まりない自己表白」「集団エゴイズム」と酷評している。当然であろう。国会議員は地元に帰れば、ふるさとに橋を架けよう、道路を作ろう、だから私に一票をと選挙運動で叫ぶであろう。

 だがそんな彼らでもそれを自分で活字にはしまい。それを緒方はしてしまったのだから、掛川があきれるのも無理はない。そして秦の説明は緒方より露骨だからこれを読んだら掛川は再び言葉を失うに違いない。
 
それどころか秦は先の連載で更に「新聞がどうして戦争協力に走ってしまったか。」と自問して答える。

 それは新聞自体が生きのびるためであった。そのような新聞を国民が望んだことも、つまり鶏と卵の関係が生じていたことも忘れてはならぬ。鶏と卵のどちらかはともかく、新聞だけがその原因をなしたのではなく、最大の責任は軍部を抑え切れなかった政府にある。その政府を支援してきた財界にもあったということだ。今も。


 秦はついに開き直った。マスコミは正しいと信ずることを報道することが健全な政治の重大なひとつの要素であるという自負はない。恥も外聞も捨てて、他に責任を転嫁する。新聞社がつぶれたら俺たちは困る。国民が望むから戦争に協力したのだ、お前たちに非難されたくはない。そもそもの責任は政府と財界にあるのだ。露骨に言えばそう述べたのだ。

 この人の言では再び同じ状況になったらやはり戦争に協力するということでしかない。これほどエゴイスティックな弁明もなかなか聞けない。そしてその見出しが「国民とともに平和を守り抜く 過ちを再び繰り返さぬ覚悟新たに」というのだから、自らの発言に対して皮肉な見出しを付けたとしか言いようがない。

 秦の責任転嫁は更にエスカレートする。

 言論界の外でも、歌謡曲が情緒に訴えて国民の戦意を高揚した。小説、映画にも干渉が加わり、軍国の母、軍国の妻が称揚された。作家も画家も動員された。そして、この流れに乗ったのが、まず今日も現存している著名な出版社をはじめとする大小の御用出版雑誌社。

 秦は調子に乗りすぎたことに気づかないのであろうか。三編で詳述するが、東京日日新聞と競争して上海事変の際に「肉弾三勇士」なるタイトルの作詞を懸賞付で公募して競ったのは他ならぬ東京朝日新聞であった。それは到底強制といえるものではない。他社、すなわち読売新聞と大阪朝日新聞はこのときの戦争扇動イベントにはほとんど参加しておらず、比較的冷静であったからである。

 
「流れに乗った」最大のものは東京朝日新聞、東京日日新聞(現毎日新聞)であったのだ。今日も現存している著名な「新聞社」にも言及しなければならないのである。軍国の母、軍国の妻を称揚したのもこれら新聞である。その証拠は当時の縮刷版に歴然と残されている。テレビはなくラジオも影響も少ない当時のジャーナリズム、言論界に最大の地位を占めていたのは他でもない新聞である。

 私は当時の新聞の縮刷版を見ることを勧める。満洲事変と上海事変にはしゃいだ東京朝日新聞、東京日日新聞と比較的冷静であった読売新聞と大阪朝日新聞と比較してみることを勧める。そして戦争にはしゃいだ新聞は見事に販売部数を格段に増やすことに成功したのである。彼らは戦士の勇気を新聞販売部数の拡張に利用したのである。そして当の新聞社の後輩の秦は自社をさておいて、「御用出版雑誌」と罵るのである。

 だが朝日新聞シンパだと見方は異なる。山中恒は満洲事変の論説において高原操が節を曲げたことについて、右翼大物の内田良平に大阪朝日新聞が脅迫を受けたと言う説を引用して「老社長は会社幹部はもちろんのこと、自分を社長にいただく朝日新聞全社員の安泰を考えたのかもしれない。」(2P104)と説明する。

 
要するに戦前の軍部を批判する立場で、当時の新聞を何とか弁護しようとすると、期せずしてこのようなエゴを表明せざるを得ないのであろう。つまり、そのような立場からは当時の新聞の言論は容易に擁護できないのである。だから当否は別として、江口や掛川のような批判的見方のほうが論理的にも整合している。

 だが新聞人のエゴはそれだけではない。朝日新聞社が発行する雑誌「論座」で「文筆者、出版社・新聞の戦争責任」なる特集を組んだことがある(13)。このタイトルを見たとき、読者はどんな記事を予想するだろうか。戦時中における雑誌や単行本、新聞など言論に携わった者が戦争に協力したことについての総合的な批判と思うであろう。

 ところが最初の「住井すゑにみる『反戦』の虚構」が約20ページにわたって、戦後反戦作家として活躍した住井という作家が実は戦中に積極的に戦争翼賛の文学を発表した変節漢であると痛烈に批判する。その後の4つの論文はそれを読んでもらって賛否を論じさせているようなのだ。最後の「ペンの戦後はこれから始まる」という元産経新聞編集局長、元朝日新聞紙面審議会委員の青木氏の論文だけが新聞について論じているだけである。要するに49ページにわたる特集のうち45ページが住井すゑという作家の戦争責任について論じているのだ。これを羊頭狗肉といわずして何と言おう。1995年の8月号という日付が示すように、朝日新聞の発行する月刊誌が戦後50年を記念して戦争責任について論じたものがこれである。

 住井という作家を楯にして、自らの責任について論じるのを逃げたと言われても仕方あるまい。この年は戦後五十年ということで、国会の謝罪決議なるものが盛んに論じられて、戦争責任についての議論が高まったことを考えれば、朝日新聞のこの態度は異様である。さらに最後の青木氏の論文が朝日新聞OBの美土路昌一の「死を賭しても堅持すべきは言論の自由である」という言葉を引用して結んでいるのは、先の二人の朝日新聞OBのエゴイスティックな言葉と比べるとパロディーとしか思われない。

 朝日が是々非々であった証拠
 昭和六年七月十六日東京朝日新聞夕刊の記事「今日の問題」なるコラムにこうある。

 陸軍や海軍は強すぎるが、農林と商工なら否応なしと思ったら、府県会議員選挙をひかえて合併反対の猛運動が起こる。弱きものよ、なんじの名は政府、与党。

 要するに朝日は陸軍を批判していたばかりではない。省庁統合に議員を使って反対運動を起こしている農林、商工の両官庁を痛烈に批判し、政権党に同情している。要するに単なる反軍、反政府ではなく、正しいと思ったものを支持し間違ったものを批判するという王道を行っているのである。

 軍部という名による誤解
 軍部とは何か。軍隊には軍政と軍令がある。軍政とは陸軍省のように官僚である。軍令が軍隊である。これはある意味別物である。陸軍省はいわば文官で武器を持たない。それにもかかわらず軍部と一羽一絡げにして軍部と呼ぶから無理がある。戦後朝日の緒方竹虎は軍部をサラリーマン呼ばわりした。そのとおりである。緒方は言う。(6のP206)

 軍というものは、日本が崩壊した後に考えて見て、大して偉いものでも何でもない。一種の月給取りにしか過ぎない。サーベルを提げて団結していることが、一つの力のように見えておったが、軍の方からいうと、新聞が一緒になって抵抗しないかということが、終始大きな脅威であった。

 これがリベラルジャーナリストとして朝日新聞が誇る、緒方竹虎の言である。人を馬鹿にするのもいい加減にしてほしい。いずれにしてもサラリーマンたる軍政の官僚がかける圧力は、現在の官僚による圧力と同じことである。そして軍の威光は実に大衆とマスコミの支持によっていた。なぜ軍部を大衆とマスコミが支持したか。それは政党政治、特に外交の無力による。

 他でも述べるが、当時の日本は満蒙権益により生活していた。今で言う中国への企業進出と同様にである。ところが支那の革命外交により日本の権益が侵されるようになってきた。在留邦人に対する迫害、商品のボイコット。これらが支那政府の指導の下に組織的に行われていた。満洲事変勃発時点の日本に対する迫害の外交案件は数百件に上る。

 ところが日本政府の外交は幣原が威光による宥和政策で無力であった。宥和政策により排日運動をやめるよう期待したのだが、かえって排日に勢いをつける結果にしかならなかった。国際法上の正当な権利が、革命外交により奪われていようとしていなかったのに、政府は何もしなかったのである。本来は戦線を布告してきちんと対処すればよかったのである。

 しかし軍にその権限はない。そこで既成事実を積み上げるべく実行するしかなかった。なぜ陸軍がそのような行動に走らざるを得なかったか。関東軍は当時、満鉄附属地の警備、すなわち満洲の警備をまかされていた。ところが排外運動により民間人が危害を加えられても関東軍は黙認することを政府から指示されていたのである。これでは任務の放擲である。現地の実情を知る軍人がこれに対して対策を考えるのは当然であろう。そして排日を知るマスコミや大衆は軍に期待するしかなかったのである。

 いずれにしても軍のうち軍政は官僚に過ぎない。これをまとめて軍部という暴力組織があって政治に圧力をかけていたというのは間違いである。現地の軍はむしろ支那の革命外交に追い詰められていた。そして心ある内地の軍は官僚として対策を練らざるを得なかったのである。

1.7 多士済々の新聞人
 左右混じる新聞人
 戦前の新聞人は多士済々である。特に朝日新聞にその傾向は強い。ゾルゲ事件で処刑された朝日新聞の尾崎秀美は確信的なコミンテルンのスパイであった。本章で述べた白虹貫日事件の記事は明らかに天皇打倒の革命を意味するもので(18P193)ある。山中恒は間違えて書いたように書いているが(244)、このような珍しいフレーズが偶然使えるはずがない。記事を書いた大西利夫記者は間違えて書いたのではない。

 そうかと思えば、昭和六年当時、大阪朝日新聞の調査部長井上藤三郎は十六歳当時より右翼の内田良平に私淑して、90歳で亡くなるまで思想の変化はなかったという(1P390)。まことに朝日新聞は多士済々であった。軍縮の主張、満洲事変支持の基本は変わらなかったにしても、多少の逸脱記事があったとしても不思議ではない。それを過大に取り上げることは本質を見失う危険がある。

 分裂気味な高原操
 後藤孝夫氏(1p394)によれば、明治40年ころの大阪朝日は「日韓併合」を推進する論調で高原もこれに疑問を抱かない「膨張論者の一人だった」と批判する。一方でp376のように「ながく推進してきた統一中国実現への支援や中国民族主義の肯定という基本理念と、満洲は中国の一部だという事実認識」が右翼に大阪朝日が脅迫される以前の高原の理念だという。

 p399では昭和7年以降の日記その他の記録を見た印象を「銃後臣民の優等生だったという」。だが、侵略史観からみればこれらは明らかに矛盾する。中国統一を希望し、韓国併合を非難し、日本の戦争には反対するというのが侵略史観のはずである。単純に考えても韓国併合を日本膨張論だとすれば、同一人物が統一中国を希望するはずがないのである。

 この矛盾に気づいているのであろうか、後藤は対米英戦争を肯定する高原を「平和な自由主義経済論の使徒は、同時に光輝ある皇紀2600年の日本帝国の臣民であり、その未曾有の危機が奉公の義務感を極限まで高ぶらせたと」(1P407)して、中野好夫さえ信念で戦争に協力したと語ったことを引く。

 明治36年生まれの中野がそうだから、まして8年生まれの高原は壮年期にも明治人であったから大東亜戦争開戦と共に戦争に協力したことは事実であるのは当然であるとする。それならば、満洲の荒野で戦った時に既に成人であった高原が、日本が獲得した満蒙権益を擁護すべく満州国建国に賛成しても矛盾はしない。満州事変初期に単なる戦争とみて拡大反対を主張したこととも矛盾はしない。日本政府も事変拡大に反対しかつ満洲独立が決行されるとこれを追認した。つまり高原の立場は日本政府とおなじであり、180度転換したなどといわれるものではない。

2章 朝日新聞は弾圧されたか
 既に述べているように、本書では新聞の言論弾圧について、ほとんど朝日新聞だけを取り上げている。それは他の新聞においては自社が言論弾圧されたということを系統的の述べた著書がないのに対して、朝日新聞については朝日新聞OBなどの関係者が、言論弾圧されたということを主要テーマとした本を出版してる(1,814)のである。

 また大阪朝日新聞では、戦時中朝日新聞は戦争協力したではないかという読者の問いに、弁明の連載を行っている(12)。更に朝日新聞関係者でもない山中恒は、朝日新聞が軍部や右翼に恫喝されていたと主張する反面、毎日新聞に対しては元々軍部よりであり、更に「・・・毎日新聞は、超国体主義者の論客徳富蘇峰を社賓に迎えたこともあって、満洲事変後、きわめて急進的に軍部よりになり・・・」(2)としている。

 要するに軍部や右翼による新聞の言論弾圧については、朝日新聞だけが対象であり、他は一部の地方紙を除けば、軍部や政府に積極的に翼賛していたという論調で一致している。また三編で述べるように、本当は朝日新聞も積極的に戦争協力していたのではないかという出版物に対しては、著作権などの手段で絶版に追い込むという手段で、被害者としての立場を朝日新聞は主張を続けている。

2.1 切捨てられる東京朝日新聞
 東京朝日はとにかく自発的に満州事変を支持したとする。それはもともと中国に対してもともと強硬だったからとするのだ。だが軍縮問題では東京朝日も強硬に軍を批判していたのだ。そのくせp376では「右のような主体による新国家建設に疑問をなげていた」として同じ日の記事の大阪朝日の転身のひどさを強調する。これでは支離滅裂ではないか。後藤の説は大阪朝日の擁護だけを図り東京朝日、日日、読売などは最初から軍指示であったのだとする身勝手なものである。

2.2 朝日新聞被害者説とは何か
 戦前の日本には言論の自由がなく、政府の統制などにより抑圧されていたということが一般的かつ非実証的に語られる。ところが他の項で述べるようにそのようなことはない。戦時というどこの国でも言論が統制されることを例に引いて言論が抑圧されていた、などというから議論にもならない。

 またソ連の謀略機関であるコミンテルンに指導されて暴力革命の準備をして逮捕されたのも抑圧というから話しにはならない。事実は政府批判や軍部批判などが活発に行われていた例証はいくらでもできる。それ故に弾圧逮捕されたということなどないのである。ところが唯一、満洲事変を契機として新聞が弾圧され、軍部批判が禁じられたということが主張されている。

 それは現在の朝日新聞、毎日新聞、読売新聞の前身の大新聞に新聞限定すれば、朝日新聞、特に大阪朝日新聞が社のOBなどにより具体的に主張を展開している。論ずるに足るといえるものはそれだけなのである。従ってここでは朝日新聞の被害者説について検証する。

 新聞は被害者と見られていなかった
 満洲事変報道に関して朝日新聞が軍部などの強い圧力を受けて屈せざるを得なかったというのはいまや常識の域に達しているようである。だが以前は必ずしも常識ではなかった。例えば江口圭一や掛川トミ子などの論文である。江口は「朝日新聞七十年小史」が「事変発生後自由論議は許されなくなり、あらゆる新聞は満州事変に関する限り再検討または討究の自由を拘束され・・・」として「新聞紙はすべて沈黙を余儀なくされた」と主張するのに対して「・・・大新聞は、とうてい言論抑圧の結果とはいいえない積極性・自主性・能動性をもって、この戦争に協力し侵略に加担したのである。」(9113)と結論する。

 江口はその根拠として朝日新聞や日日新聞(現毎日新聞)が軍との協力による講演会や慰問活動などの積極的な行動と、以前からこれらの新聞は軍政を政党政治に従属させるよう主張しながら、満蒙権益の擁護を主張するという矛盾があったというのである。だから事変の進展により販売促進という実益もかねて、事変支持にまわったのは当然だという(前掲書)

 掛川は「・・・言論統制だけが一方的にマス・メディアの自由な意見の表明を妨げたのではなくして、むしろ、言論統制の圧力を契機にそれを口実とする言論放棄の傾向が顕著になり、積極的にセンセーショナリズムを開発していったマス・メディア・・・」(10P4)と批判する。

 これら左翼人士の言論統制批判は通常の意味をはずれていることに注意しなければならない。つまり普通の政府機関は、民主主義国家ももちろん、戦時であれば何らかの言論統制をしなければ敵を利し、日本人兵士の被害が増大するからである。つまり彼らは資本主義政府支配下の日本人が死ぬことはいとわないのである。いや反戦厭戦により政府が瓦解することさえ望んでいたとさえいえる。そのような含みのある言論統制批判に、通常の言論の自由をまともに論じても意味がないのである。

 そのような事情を別にすれば左翼シンパの人々ですらある時期までは朝日毎日などの戦前の大新聞について、軍部の強制というよりは主として自己の利益のために事変を支持したと批判している。ところがそれ以後事情は異なる。なぜか保守とみられる人々の間にも少なくとも戦前の新聞は右翼や軍部の脅迫により事変支持、軍部支持になってしまったというのが常識となっているように思われる。

 ここでなぜ新聞が満洲事変を支持するようになったかを検討する。ほとんどの文献が事変以前には軍部を批判していたにもかかわらず、事変を契機として軍部支持に転じたと書いているからである。大略をいえば新聞が満州事変を支持するようになったのは、右翼の脅迫による、軍部の圧力による、不買運動によるの三種類に要約できる。

 右翼恫喝説
 新井直之(*)によれば、

 満州事変が起きた翌日の919日、大阪朝日の本社に、当時、右翼政党・国粋大衆党の総裁だった笹川良一がやってきた。24日には、日本最大の右翼団体の創立者・内田良平が乗り込んできた。ともに満洲独立に反対する朝日の社説に文句をつけにきたのである。こうした動きをうけて、朝日新聞本社は25日に全役員を大阪本社に召集し、村山竜平社長が今後は軍部を支持し、満洲独立推進論に社論を180度転換するという態度を表明する。

 これに対し、中国報道を所管する支那部や論説、整理部の記者たちは大反対し、抵抗の意思表示としてサボタージュしたため、朝日は社面が作れなくなる。困った朝日は抵抗している記者を海外特派員として外国へ出し、代わりに特派員として外国に出ていた記者を日本に呼び戻してようやく新聞の発行を継続していく。


 これには一切論拠や出典が示していないが、内田良平が大阪に来てから社論が
180度転換し、不満を持った社員がいて外国特派員と入れ替わったという件は明らかに後藤孝夫の著書「辛亥革命から満洲事変へ」であろう。ところが新井の論文には誤解を招く飛躍がある。後藤が事実として述べているのは、内田良平が24日大阪に来て朝日新聞の部長と会い、翌日村山社長が出席して役員会が開かれ、十月一日に社論が180度転換したという淡々とした事である。

 内田が朝日に文句をつけたというのは推測であって、後藤氏は内田の申し入れの実態は不明であり、25日の役員会の内容は不明であると明言している。いずれも十月一日に満蒙独立の社説が出たことからの推測である。何よりも、戦前のこの時期の日本の大新聞に満洲独立に反対する社説をかかげたところはないのであり、新井の説は事実にも反する。この点は誤解されやすいのではっきりさせておく。

 新井論文の後段の部分も誤りがある。後藤の著書のほうが具体的で実名が登場していることから、新井はこれによったものと思われる。新井論文ではサボタージュにより、特派員を入れ替えてやっと紙面作りができるようになったというが、後藤はそこまで言ってはいない。しかも特派員の入れ替えには相当の時間がかかるから、これでは一時新聞の発行が停止されたと考えるしかないがそのような事実はない。

 後藤の著書では、重役会で十月半ばに事変支持が決まったが、整理部員に不満が出て紙面にも反映して幹部は悩まされ、特派員交代で対処したというのが大筋である。このように新井論文は他の説の引用であるため、固有名詞等の具体的なことを省略しているにもかかわらず、誇張による誤りが目立つと言わざるをえない。

 山中恒は「新聞は戦争を美化せよ」(2P103)で後藤の説(1)を引用して内田良平による脅迫説を紹介する。同様に「20ポイントで理解する『満州帝国』がよくわかる本」**でも、山中と後藤の著書をあげて内田良平による脅迫説をとる。結局のところ内田良平など右翼による脅迫説についての元は後藤の著書に戻るのである。

 そのことは後藤の著書が出版されたのが昭和62年であり、前掲の著書は当然その後の出版であり、それ以前の掛川トミ子や江口圭一の論文はそれ以前のものであることでも証明される。半藤一利や村上兵衛の朝日新聞批判の論文にしても、昭和62年以前のものである。結局のところ右翼により恫喝されたという説は内田良平による脅迫説である。そしてその情報源は後藤孝夫の「辛亥革命から満洲事変へ」(1)が唯一のものである。

 軍部恫喝説
 後藤孝夫は軍人が朝新聞を脅したという例を挙げる(1P381)。朝日新聞論説記者藤田進一郎の高原操の思い出である。昭和四年ごろとして、大学から中学までに配属将校を置く制度に反対する論文を掲載許可したことに対して軍人が抗議に来たという。

・・・陸軍少将染井某と名乗るものが、高原翁を名ざしてどなりこんできた。何度もほとんど毎日のようにやって来ては独善的なわからぬ理屈をこねてしつようにくい下がる。翁はほとほともてあまして困ったらしいが、とうとう先方の要求を容れず、一言の取消しをも半句の修正をも断固拒絶されたのである。

 私自身もかつて組合要求に関して、他の官庁の職員と名乗る者が毎日、午前中の定時にやって来て一週間ばかり執拗に抗議された。高原が要求に応じなかったことを、後藤は「平和論者として翁の真面目を躍如たらしめる一つの挿話」と語るが、私はそれに並ぶほど立派な人物であったのだろうか。信念の固い人物でなかろうとこのような要求に屈していたら仕事ができなくなる。断固拒絶したのは普通のことであって格段自慢できることでもない。

 次に後藤が挙げるのが、東京朝日の美土路昌一戦後の追想である。満洲事変勃発前の話だという(1P383)

  ・・・満洲放棄論だというのである。姫路師団長の建川中将や参謀本部次長の二宮冶重中将をはじめとして、高原に相当な抗議をし、これにともなって民間団体の直接行動説まで出てきた。その結果、高原が釈明文を書き、東西両朝日にかれの名で掲載することになったのだが、送られてきたのを見ると、まるで謝罪広告文である。こんなものをのせたら、朝日年来の主張はすべて空文となり、天下の信を失うばかりか、軍部に降伏したと物笑いになる。そう考えた美土路は、とりあえずその掲載を待つよう大阪へ連絡したうえ、参謀本部で二宮次長にあった。

 二宮は、はじめ「朝日は反軍の張本人だ、話とは何だ」とたいへんな剣幕であった。美土路が「高原の社説のどこが気にいらぬのか」と質すと、「日露戦争で多くの血を流してやっと獲得した満州の放棄論をやるような奴は許せん」という。これにたいして、美土路は、「満州放棄論というけれども、日露戦争であれだけの血を流して得たものを、いままた武力でなければ保てんというのは、意気地なしではないか。あれから何年日本の思うようにやって来たんだ。武力を使わずに満州をうまくやれというのは、当然ではないか。またまた武力でなければおさまらぬというようなやりかたは、だれだって反対する」と、一歩も譲らず応酬、押し問答は二時間余におよんだ。結局、「今後こういう問題が起こったら、両者が会って納得のゆくまで話しあう」ということで了解が成立した。「謝罪広告」は、こうして闇に葬られた。


 後藤はこのエピソードを「高原の屈服ないしはそれに近い状態」と圧力の強さを強調する。だがこの文章を冷静に見てほしい。はじめは謝罪広告文に等しいものを掲載することになっていたのを、話し合って取り下げに成功したのである。そして今後も話し合おうという日本人の大好きな円満決着となったのに過ぎない。これが戦後言う軍部独裁である。

 話し合おうという独裁者は古今東西どこにもいない。中国でも北朝鮮でもソ連でも当局の気に入らぬマスコミは、そもそも存在を許されない。間違えて反政府の論説が発表されたら処刑かよくて亡命である。このことを軍部の弾圧として特筆するのは余程甘い世界に生きているか、諸外国の独裁の恐怖を考えることのできない、想像力が欠如しているとしか思えない。


 いずれのエピソードも満洲事変前のものであり、朝日新聞側は軍人の抗議に屈服していない。満洲事変に反対の社論に対して軍部の圧力があって、これに屈服したという証拠を後藤孝夫は提示できないのである。

 五十嵐智友は「朝日への軍部・右翼の攻撃」として陸軍軍人による批判の例をあげる。(16P174)田中義一内閣の時代に、東京朝日が過大な軍事費を批判したとして、陸軍の青年将校が緒方竹虎に決闘を申し込んできたという。これに対して緒方は「決闘は法律で禁じられているから応ずるわけにはいかない。しかし闇討ちはご随意である」と答えたというが、緒方が闇討ちに逢った事実はない。

 大阪朝日の高原操は昭和四年、ロンドン会議の始まる前に朝日新聞嫌いの金谷大将にある会議の席上で「言論機関中の最大のものが、現役軍人と同じように仮想的とする国が今にも攻めてくるが如く書き立てたらどうなるか。それは敵にますます軍備拡張を誘うような材料提供になる」と説くと金谷は「完全に了解した」といったというのだ。

 東京朝日の政治部員の回顧に言う。「筆者が陸軍を担当しているとき(昭和五年以降)、次官、局長或いは参謀本部の部長たちからよく抗議されたものである」という。記事が怪しからんといわれるから、事実が違うのかとか他の新聞にも同じような記事があるがと反問すると「とにかく朝日は反軍思想だ」と決めつけるのだという。

 五十嵐によれば、この三つの例が朝日に対する攻撃なのだそうである。これによって筆を曲げた事実もなければ、テロに逢った事実もない。金谷大将に至っては説得されて「完全に了解した」というのである。これをいちいち攻撃だと言っていれば、今の時代にも職業人で攻撃に遭わないひともなかなかいなかろう。まして他を批判することが多いため、摩擦の激しいジャーナリストである。このナィーブさで新聞記者が務まると言うのであろうか。

 以上が戦前の日本は政府の言論統制、右翼や軍部の弾圧で言論の自由がないと主張する後藤や五十嵐が例証した、朝日新聞が軍部から脅されたと言う「事件」である。そしてこの例で軍部の「圧力」に屈した例はないのである。

 類似の例では「言論の不自由」による高原操の家族の証言である(20P119)。具体的な日付は示さないが、満洲事変開始開始直後であることを示唆して、高原の次男の証言を「在郷軍人会の一団が押しかけてきたこともある。あのころ、わが家の雰囲気は暗かった」と示す。在郷軍人会は退役軍人と予備役軍人の団体だから正確には軍部ではないがそれに誓いということであろう。

 だが現代でもマスコミに利益団体が記事に文句をつけて連日押し寄せるということはあろう。もちろん限度を超えなければ違法でもなければ取り締まるべきものでもない。そして言論の自由を侵したと呼べるものでもない。だいいちそのような団体が来たからと言って論調を転換するようではジャーナリストとしての矜持が疑われるではないか。

 不買運動説
 結論から言えば不買運動などは言論弾圧でもなんでもない。現在でも行われる類のことである。例えば従来の歴史教科書の偏向を正すべく「新しい教科書」を作成し、検定に合格した。そして一部の地域の教育委員会で採用を決定した。ところが左翼の団体が教育委員会に圧力をかけてこれを撤回させるという事件が起きた。

 この事件ですら言論の自由に対する弾圧とはみなされていない。実際には教育委員に対する個人的ないやがらせや脅迫が行われたにもかかわらずである。不買運動などは比較にもならない。政治家や官公庁が業務命令で特定の新聞の不買を指示しない限り言論弾圧とはいわれない。ところが各種の文献では不買運動説を満洲事変時の社論転換の原因にあげる。「言論の不自由」は辰井梅吉

*「売れ行き」と「真実」を混同することで始まった大新聞の「世論迎合体質」新井直之

**20ポイントで理解する『満州帝国』がよくわかる本」太平洋戦争研究会著               PHP文庫

2.3 大阪朝日新聞が満洲事変に反対していた記事はどれか

 俳句による抗議
 朝日新聞は満州事変について軍部を批判したために、軍部や右翼から弾圧されて論調を変えさせられたということが朝日新聞関係やその他からも言われる。それならば、それに該当する記事があるはずである。少なくとも東京朝日新聞にはそのような記事はない。これを知ってのことであろう。後藤孝夫はいちはやく朝日新聞が満洲事変を支持したとして批判する、掛川トミ子らの批判に対して「東京朝日についてのみ論じているのも頷けぬ」という。(*1P10)

 ところがその後に、先の批判者に「お目にかけたい一句がある」としてあげたのが大阪朝日の高原操の日記にある

 書初にこぞの苦悩をさるの秋

 という句をあげているのだ。これでは掛川トミ子に再びあきれられるのがおちであろう。最初にきちんと批判記事をあげずに暗示的な俳句を挙げるのだ。この句を後藤は痛恨の出来事があったに違いないと推測する。だがよく読めばこの句は逆にも読めるのだ。苦悩を「去る」というのだから、苦悩がなくなったと読めないことはない極めて曖昧なものだ。

 この句は日記に書かれているのだから高原に「痛恨の出来事」があったのなら、その事実を明示又は示唆する記述が日記の他の部分に書かれているはずである。だがこの句を日記から持ち出すほど仔細に日記を点検した氏にも発見できなかったのである。断腸亭日記などたいていの個人の日記には、他者に対する批判は明瞭に書かれているから、高原のそれに限って何もないというのは考えにくい。

 他人に見せない日記は正直な心境の吐露であるはずだ。高原は日記が当局に押えられたときを考慮したのであろうか。それはあり得ない。個人の日記においてまで当局の目を恐れるようなジャーナリストが反軍の論説を書くはずがない。東京大阪両朝日新聞は相当に過激な表現で軍縮問題で軍部を批判していたのである。

 高原が苦悩についてその前後の時期に何も書いていないとすれば、高原の言う苦悩とは日記にわざわざ書かなくてもよいほど明瞭なこと、あるいは高原が新聞で公表していたものでなければならない。大正十五年二月二十日の大阪朝日新聞の高原の社説「満蒙を如何・根本策を究明せよ」に典型的に示されるように中国による一方的な条約蹂躙やボイコットなどに対する満蒙権益の擁護は長い間の日本の「苦悩」であったのは当時の日本人の常識であった。

 そして後藤は昭和六年十月一日の社説「満蒙の独立/成功せば極東平和の新保障」を高原によるものと推定しているが、この論説で高原は長年の日本の苦悩がなくなる見通しがついたことを論評している。つまり高原は日記に書かずとも「苦悩をさる」の意味を世間に公表している。繰り返すが、高原は日記に曖昧な俳句で本心を暗示するだけという意気地なしのジャーナリストではない。三月の満洲国建国に向けて正月には見通しが立ち、苦悩は去らんとしつつあった。

 そして後藤は朝日新聞の事変報道について、事変勃発に際して東京朝日は「最大級の扱いをした」のに対して大阪朝日は一面トップにのせたが、写真や地図もなく「奉軍満鉄線を爆破」という肝心の事変のきっかけを乗せていない「まことに冴えない紙面」だったとする。十九日の一面はその通り。だがこれは満洲事変への批判ではない。

 しかも大阪朝日は同じ十九日に二回も号外を出している。これはさきの冴えない紙面を補って余りある。東京朝日の十九日の号外は一回しか出していないのだから、総合すると東京朝日が地の利から先行し、大阪朝日が挽回するために二回も号外を出したのであろう。現在のように通信事情の良くない当時にあって、大阪と東京の差はあったとも考えられる。


 一歩譲っても、冴えない紙面はなぜ満洲事変に反対の論調であるといえるのだろうか。例えば阪神大震災が起きたとき、ある新聞が一面全面を使って大々的に報道していたとする。そうでなく冴えない扱いをした新聞があったとする。後藤の説は大々的に報道した新聞は、震災の被害を喜んでいて、悲劇を悼むなら小さい扱いにすべきだとでも言う説なのである。


 冴えない扱いをしたのは重要性を低く見積もったか、第一報の情報量が少なかったかである。重要性を高く考えたというのは、事件の発生を喜んでいたということと異なるのはこの例で明白である。まさか後藤は事変勃発が単なる事件ではなく、関東軍による計画的な事件であったのを事前に知っていたので冴えない扱いをしたというのではあるまい。

 後藤氏は満州事変前後の大阪朝日の論調について(1P1012)韜晦な説を展開しているが、結局弾圧の原因となる明確に満洲事変で軍部に抵抗したなどという記事を提示できないではないか。公開されない私的な俳句をもってきたり、事変勃発に冴えない扱いをしたなどと説明していることが、そもそも満洲事変で軍に反対した記事を例示不可能なことを自覚していた明白な証拠である。冴えない記事が反軍の証拠と言うなら、事変勃発からの記事を見てみなければならないのは当然の疑問であろう。

 事変勃発から「転向」までの大阪朝日の記事
 後藤は朝日新聞が軍関係者に反発をうけたという証言をいくつか示す。ところが満洲事変に関する限り、軍人による反発の例を示していない。後藤はさかんに朝日新聞が満洲事変に関して、軍部の反発を招いたという印象作りを行っているだけなのである。後藤は事変以後、十月一日に論調が激変したとする社説の間にいくつか事変拡大反対をしていたという論説をかかげる。しかし社説全体と新聞全体を通読してみれば、そのことは必ずしも軍部の行動と対立するものではないことがわかる。以下に社説と記事とをチェックしてみよう。

 二十日の「日支兵の衝突/事態極めて重大」とする事変後初めての社説を引用して「・・・社説の主眼が・・・早急な局地的解決、さらには出先軍部の行動厳戒を求めた後段にあったと見るのは・・・至当な解釈」(1P374)とするがその通りである。しかしこの社説にも南陸軍大臣の言として「・・・この際軍部としては速やかに事件の解決を図りたい、全面的の衝突を来すごときことをないようにしたい」を引用して全面的に賛意を示している。

 つまりこの社説は軍部の言明に賛意を示しているだけなのである。注意しなければならないのは事変拡大反対とは、中国国民党政府軍全体との全面戦争反対である。しかるにそのことは満州国独立を画策する軍部も全面戦争を望んでいなかったし、満州国独立後も支那事変に至るまでは全面戦争に発展していない。政府と軍部の対立は局地的解決のための増派を行うか否かである。実に満洲独立に国民党政府との全面戦争は絶対避けるべきものであった。

 脱線するがこの社説に面白い記述がある。満洲には馬賊などがいままでも線路破壊を企てていたとして「・・・これらはほとんど人類と認め難き野獣の被害と同様、統治の未だ完からざる、内乱つづきの支那政情」で支那の警察も討伐不可能だったから、条約により日本が守備隊を送って日中双方の国民のために治安維持に当たっていたと書くのだ。人類と認め難き野獣などという言辞に高原の支那観がいかなるものかは分かる。だが後藤の説に組する人たちは、今日の目から見て許し難き暴言と非難するであろう。だがこの社説は事実を率直に言明したに過ぎない。

 次に二十六日の「断じて他の容喙は無用」とする社説。「・・・皇軍は決して必要以上もしくは以外の行動に出でないことを堂々と中外に宣明したのである」を引用して、「軍事行動拡大への牽制のふくみもこめられていたと見てよかろう」(1P375)とする。

 だがその前段は「・・・出動したるわが軍の一部は、漸次満鉄本線又はその付近に集中せられ、緊急な危害排除のためになされた軍事行動もここに一段落を告ぐと見るに至ったことは、節制あるわが軍の真面目を発揮した・・・」という句がある。また後の節には「・・・己に一部は引揚げを了り、余所は引揚げの途中にあること上述の通りである。」とある。つまり、中外に宣明したというのは、言葉ではなく事実を持って例証しているのだから牽制ではなく、日本軍が本当に行動で示しているといっているのである。

 戦後問題とされる朝鮮軍の越境についてもこの社説では「またこの事態に応じて朝鮮より数千名の増援隊を派遣したけれども、これも条約上の規定守備の兵員補充であって、決して必要以上の増兵はやっていないのである。」「・・・条約の明文によって想定され、朝鮮軍の増派はその兵数の範疇を超えたものではないのは明白である。」として繰り返し支持を表明している。

 二十一日の大阪朝日新聞の一面トップには「連日閣議を開き事変解決を図る 政府と軍部は対立状態」とした記事を載せる。この記事には南陸相が閣議において「・・・陸軍側の意向を委曲説明し場合によっては増兵せなければならぬしまた朝鮮軍司令官が独自の見解をもって出兵することもあり得る・・・」と述べたことを記している。この文言からは朝鮮軍の派遣が政府と軍部の対立点の一つであることが分かる。

 朝鮮軍の越境は管轄の問題であるから争点となるのは当然であろう。しかるにこれを受けた高原氏はこれに賛同する社説を掲げたのである。すなわち対立状態に軍部に軍配を上げたのである。しかしてこの論説が事変拡大を主張したものとすれば、高原にとって朝鮮軍の増派は事変拡大にはならないと言わなければならない。つまり後藤の言う事変拡大と高原の事変拡大とは相違があることに注意しなければならない。後藤が高原論説は事変拡大に反対したというときに、この点に注意しなければ誤解する。つまり後藤氏は言葉のトリックを使っていると言われても仕方ない。

 朝鮮軍越境が重大な問題であることを聡明な後藤が知らないはずがない。しかしなぜかこの社説に繰り返し述べられている事を無視する。実は朝鮮軍越境を問題視した新聞がある。軍にすりよったと後藤が批判する東京朝日新聞である。朝鮮軍の満洲国境越境は二十一日。二十三日の東京朝日新聞社説「中外に声明するところあれ」である。

 「いやしくも国外出兵の必要を生じ、今後に財政的負担と共に、外交的交渉を残す以上は、ただ軍部の独断専行を閣議で事後承諾しただけでは事は済まないのである。・・・軍司令官の独断専行で国外出兵が出来ることの制度にも疑問があろうし、外務当局と無関係に、軍事当局が行動し得る事にも批判の加うべきがある。しかしながらそれらはすべて後日の問題であって、今日ただ今争うべき時機ではない。・・・問題は国際的になってゆくのである。その時に国家を代表する者は、帝国軍人ではなくて、帝国政府である。・・・政府は軍部大臣によって、当然に軍部をも統制するものでなければならぬ。政府と軍部との対立は内部的にあるとしても、外部的には常に一でなければならぬ。・・・」

 
私は満洲事変の時期を通しての新聞でこれほどみごとな正論と軍の行動に対する批判を堂々と述べたものを知らない。大阪朝日新聞にはこのような正当かつ明瞭な批判を見ない。かく正論を言う新聞があり、正論を言う自由が戦前の日本にはあったのである。朝鮮軍の独断越境という事件は満洲事変、ひいては満洲国建国に賛成する立場からも、統帥という観点からは批判されるべきものである。

 すなわち一司令官の独断で軍隊が越境して出撃することはあってはならない、今日的な問題でもある。それについて仔細に朝日新聞の社説をチェックしているはずの後藤が、大阪朝日の朝鮮軍越境に肯定的な社説と、正論ではっきりと問題視した東京朝日の社説をともに無視して、全体的には大阪朝日の肩を持つという態度には事実を追求しようとする姿勢は感じられない。事変拡大反対以前に問題にすべき、朝鮮軍の独断越境の批判ができぬものに何も批判する気概はないのである。要するに大阪朝日新聞社を何とか弁護しようとして、社説を都合よく使おうとしている態度しか見て取れる。


 二十九日の社説「連盟と満洲事変/列国の与論緩和の理由」である。後藤氏は「すでに自衛権の行使なりと説明せる以上、その行使を他の目的に使用することが出来ないのはアメリカ政府の警告を俟つまでもなく」「日本政府にして今後その声明を裏切るやうな行動に出でんか、連盟は勿論、全世界の与論は復どう変はるか判らない」という節を引用して、「事変拡大反対の意図は歴然としていたといえよう」と結論する。

 それでもすぐに「事変の発端について関東軍への疑惑を抱きながら、その拡大を最小限にくいとめるための苦心の論法だった」と書いて、論旨が明瞭でないことを暗示する。大阪朝日がこの間に「証拠は歴然!支那側の満鉄爆破」などとする特派員記事を書いて中国側の非を非難していることは不問に付する。

 二十九日の論説は列国の意見が日本寄りになってきた原因として(1)今回の軍事行動は国際法のいわゆる自衛権の行使であること、(2) 事態をこれ以上に拡大しないこと、(3)満洲に対し何等領土的欲望を有しないことをあげている。そして「・・・満洲事変は、最初から此の勧告通りの行動をなしたに止まり、それ以上に出なかったのである。それが後に至って判明したので連盟の空気が緩和したのである」としている。

 だが同日の一面のトップを見たら驚くであろう。「満洲独立計画具体化す」として「遼寧、吉林両省愈よ独立を宣言」「ハルビンでも決行 黒龍江省を抱込む」「まづ各省に−新政権を樹立す、それを共和制『中和』に合流」などとして、満洲全土で独立運動が展開されていることが忽然として、大々的に報じられているのだ。しかも嬉々として報じているというしかないのだ。

 なるほど後藤は事変勃発について冴えない一報を報じたと弁解した。その通りで新聞は社説だけ切り離して読むべきではない。後藤が事変勃発以降の社説を掲げるが、その間に引用しない大阪朝日新聞の記事がある。それは満蒙権益の問題に対する報道と天声人語である。社説はその新聞の顔であるから重要であるが、単なる事実報道以外の、その他の社の意見発表と見られる記事も参照すべきであろう。

 十月一日の東京朝日は新国家建設に疑問を投げかけることができたとすれば、高原が本当に満洲独立に反対するような思想の持ち主であったとすれば、二十九日に報じられる独立運動の報を聞いたときに、驚いて社説で疑義を呈していたであろう。しかし二十九日から三十一日の間、すなわち「転向」したとする十月一日前の三日間に、高原は平然と独立運動と関係のないことを論じたのである。

 満州独立支持の社説を十月一日に載せたことを後藤氏は180度の転換とする。それは満洲独立に高原なり大阪朝日新聞は絶対反対であるはずだということが前提である。そして満洲独立が先の三条件と正反対だと高原が考えていたということが前提である。同日の一面に満洲独立の動きが大々的に報じられることを高原が知らぬはずはない。すると同じ日の社説に平然と列国に日本が支持されていると書くとしたら大間抜けである。

 高原は間抜けではない。満洲独立と先の三条件は矛盾していないと高原は考えていたと言うより他はないのである。だから後藤氏の非難する十月一日の社説で、日本政府は独立運動に関与すべきではなく、「その決心が如実に現れるまでは、日本官憲は内政不干渉主義に則り・・・」として独立の気運がはっきりするまで日本は傍観せよと主張する。

 なるほど自発的な独立運動なら先の三条件と満洲独立はなんら矛盾するものではないのは論理的にも明白である。日本が無干渉なら軍事力行使ではないし、日本の領土併合でないなら領土拡大でもない。しかもこの社説は微妙で日本が独立運動を絶対支援すべきではないと言っているのではなく、独立の決心が明瞭になるまでは支援するなと言っているに過ぎない。

 右翼に脅されても変わらず
 時間経過をたどるとますます後藤の説には矛盾が生じる。右翼の内田良平が大阪朝日の井上調査部長に二十四日夜会って脅されて、翌日役員会が開かれたとする。この役員会では「この時に限って内容は不明である」として内田の脅迫が役員に伝達されたことを匂わせる。しかもこの時には普段出社しない老社長が出席したとして重大な役員会であることを印象づけることに懸命である。

 後藤は長く沈黙していた右翼の大物が登場して老社長に重い腰をあげさせたと強調する。それでも役員会が開かれた後の二十六日にも、更に二十九日の独立運動が公表された時に至っても、高原は内田の脅迫を無視して執拗に軍に反対する論説を書いていたということを後藤は主張するのだ。大物右翼の内田もなめられたものである。前日の事件について翌日コメントするのが社説である。内田に屈したのならこんなのんびりしたことはしない。もし高原だけが抵抗しても他の者がそんな社説は廃棄したはずである。役員会の決定があったというのだから。

 だがのんびりと十月一日にやっと社説は転換したという。ところが憲兵の情報ではさらに後の十月十二日に事変について軍を支持する方針が伝達されたというのだ。右翼に脅迫された二十五日の役員会ではなかったか。以上の時間経過をたどれば後藤氏の主張はあまりに支離滅裂である。

 後藤氏は「大阪朝日としては単なる右翼の脅し文句以上の不気味なものを感じざるを得なかったに相違ない。」と内田の脅迫の恐ろしさを最大限に強調する。にも関わらずその後二回にもわたって反軍の社説を掲げたというのだ。このことに何の説明もない。これは矛盾である。検証したように事変勃発以来の社説も紙面も、明瞭に反軍といえるものではない。そして内田の脅迫があって役員会があった日を境にして論調の変化もない。

 社説以外ではどう報じたか
  それでは他に事変勃発から転向したとする十月一日までの社説以外の記事をチェックしてみる。

@二十日の天声人語
 「軍事当局は拡大せぬとみているらしいが、拡大せざるを祈らざるを得ない」という。

 何のことはない、軍部も事変は拡大しないと見ているのであって、朝日新聞が事変拡大を言ったのは軍部に反対する意図はなかったのである。

A二十一日の臨時夕刊

 「不戦条約違反と現在では思えぬ 露支紛争とはわけが違う アメリカ国務省の解釈」という見出しで、ワシントン発の記事。「事変の原因は支那の不遜 欧州諸国の与論」「禍根は支那自身に 英紙の論調」

 この三本の記事は客観報道と見られるがいずれも欧米が日本に好意的なことを伝えている。同じ紙面で「満蒙問題への関心市民の間に昂まる やや落着いた日曜の大阪」として大阪市中の動静を伝える。書店に満洲問題の本がならび関心が高まる様子を伝えている。また天満宮その他の神社に兵士の無事を祈る祈願をするものが多数いることを伝える。満洲問題に対する関心が高まっているのを歓迎する論調である。

B二十一日朝刊
 一面トップに「「連日閣議を開き事変解決を図る 政府と軍部は対立状態? 重大視する若槻首相」という記事を掲げる。軍の一部に積極論があり、政府としては事変拡大を避けたいとして腐心しているというのだが、積極論とは何かが不明である。

 一方同じ一面に「事変は一段落−増兵には及ばぬ 地方問題として解決を望む 陸軍三長官会議」という記事がある。タイトルで一目瞭然であり軍首脳部としては事変拡大をしない意向というものである。先の記事を総合しても積極論なるものは軍の一部の動向であり、大勢は拡大反対というものである。以上のように社説以外を見ても、大阪朝日新聞が軍を批判しているものは見当たらないと言わざるを得ない。

 当時の朝日新聞批判
 「大阪朝日新聞は正に国賊」というアジびらもどきの小冊子がある(15)。大阪朝日新聞の不買運動を呼びかけるもので、当時大阪朝日新聞を国賊として批判したものなので、当時大阪朝日新聞を敵視した者たちが何を問題にしていたかわかるはずである。その中から満洲事変に関係あるものをあげてみる。

@高原操の満蒙抛棄論
 S6.4末日参謀本部第一部長建川美次少将が大阪倶楽部で講演した際の、大阪朝日編輯局長高原操の次の発言を問題にする。

「お話によれば満蒙問題解決の必要上現在の程度の軍備を必要なりとせらるる如くなるが果してしかりとするなら満蒙を抛棄して軍備を半減するを適当と信ず」大朝は張作霖から賄賂をもらい援張論を主張したとする噂もある。

A事変反対論をとなえた

S6.9.27の大朝経済面水銀灯欄15行目
「満洲事変のその後に来るもの排日も萬更経験のないことでもあるまいから大体の見当はつきそうなものだ。今日一日頭を冷して大局を静観することだ。」

S6.10.3天声人語
「対外硬と同時に顧みて国内の窮乏に一瞥を要し」

S6.10.14天声人語
「挙国一致の語は一部の専制を許す意味に使用すべきではない」

S6.11.21天声人語
「権益を犯す如きあらば断固たる処置を採ると云いながら、断固たる処置を採った今日を持て余さざるを得なくなるんだ。」大朝の記者町田梓樓は「満洲から・・・日本人へ」の既述の中に「無論九月十八日以来の軍部の行動は少なくとも猪突的であった」云々。
・・・他に多数の反軍文句を例示するが日付不明。おそらくS6.11.21

 正にこれらは大阪朝日新聞が満洲事変の軍の行動を批判したことを指摘するものである。だが前述の後藤の大阪朝日新聞が内田良平に脅迫されて転向したとする説(1)と比較すると奇妙なことが判明する。この文書は経済面のコラムまでチェックしているにもかかわらず、後藤が軍部の行動を批判したと指摘した、高原の社説はこのアジ文書では全く非難の対象となっていないのだ。この点は私の見解と一致する。また101日の社説をもって転向が始まったとするが、それ以後の方がこの文書で指摘されるものが多いのだ。

 もはやこれで後藤の言うように、右翼の脅迫により大阪朝日新聞は屈服したという説は到底成り立たないことが分かる。注意してみれば後藤の指摘もこの文書の指摘も、満蒙放棄論を除けば、内容は実に瑣末なものである。この文書の眼目は高原操が満蒙放棄論をとなえたと非難して、恐喝をすることにあったように思われる。従って事変反対論などは付け足しで、非難するねたが多ければ多いほどよいという程度の意図で付けたし出会ったろうから瑣末なのである。
 しかし、高原の社説は満蒙放棄論をとなえたことはなかったし、誤解だったというのである。そして、東京朝日新聞の美土路昌一が二宮冶重参謀次長との面談で軍とは折り合いがついている(16P189190)。興味深いのはこの説を唱える五十嵐氏は軍部や右翼の非難や脅迫があったとしながらも、内田良平による恫喝による高原の転向という説を一切唱えていないことである。

 後藤と同じく朝日新聞OBで十年後に発刊した時点で、各種の文献に引用されている内田脅迫説を知らぬはずがない。そして信憑性があるなら五十嵐は後藤の説を確認して補強したはずである。しかし五十嵐が確認して、後藤の説に矛盾が多過ぎることに気づいたのに違いない。五十嵐は山中恒のように簡単に後藤の説に乗らず、辰川梅吉の日記を確認するなどのチェックも行ったのであろう。

 その結果、五十嵐は後藤の右翼恫喝説に無理があるのをみてとったのである。しかも五十嵐は大阪朝日の大山千代雄の証言として、非買運動などの圧力に対して、大阪朝日販売部長の忠田兵造が当時「新聞の減るぐらい心配するな、大いにやりなはれ」と激励したという。大朝朝日新聞は屈服していなかったのである。

2.4 朝日新聞の不買運動の原因は満州事変報道ではない
 朝日新聞関係者は満洲事変で軍部の動きに反対したために、不買運動が起こったと主張する。要するに正論を言ったために弾圧されたというのだ。朝日新聞販売百年史では(P354355)ロンドン軍縮条約締結に軍に反対し政府を支持した、陸軍の改革に賛成した、満洲事変の直前に満州事変を予告するかのような陸相の発言を社説で批判したなどの例を挙げて、在郷軍人会が奈良や善通寺などで不買運動を起こして追い込まれたと書く。

 だが、満州事変報道が原因で不買運動が起きたというのは疑問がある。百年史に販売部数の統計がある。下表はその一部である。

昭和年

大阪朝日

東京朝日

計数時

866,256

573,838

47日数

922,891

553,318

47日数

966,398

587,495

47日数

979,530

702,244

115日数

914,355

521,228

515日数

1,054,021

770,369

115日数

 たしかに、昭和6年には、ことに東京朝日で激減している。全体を眺めると両朝日新聞は順調に部数を延ばすなか、昭和6年は明らかに部数減がはっきりする。そして翌7年はあっさりもとの水準を超える部数となっている。6年の統計の日付は5月で、翌年は1月だから、わずか8ヶ月の間に減少から大幅増になっている。

 満洲事変は9月である。すると5月の部数減は事変以外の原因である。陸軍の改革というのは、当時の南陸相と前任の宇垣陸相による縮軍である。昭和634日の社説「軍縮促進会」などに見られるように当時朝日は東京、大阪とも政府の軍縮政策や恩給削減で政府を支援し、軍部を攻撃していた。これが軍関係者の反発を買うのは当然である。5月の部数減の原因はこれだったのである。

 だから不買運動もこの時期に起きたのである。このときの軍部批判は東京も大阪朝日も同様なスタンスであったから両方とも減じていて当然である。しかも表では東京の落ち込みが激しいととれるのである。この点の参考になる後藤氏の記述がある(1P14)。新聞は一般に年末に最大の増紙活動をするから一月は最大の部数を示し、二月は反動が起きる。そして大阪朝日は夏の中等学校野球大会(甲子園大会)があるのでその直前にも増紙活動があるそうだ。その結果一月は最大の販売部数を示し、五月前後は最低部数を示すという。

 これは大阪毎日新聞との部数差を説明しているのだが、上表には適用できない。昭和5年を除いて、昭和6年以前は全て最小部数のはずの4〜5月であり、それでも昭和6年は大幅減を示しているのである。昭和7年以後の増加傾向が統計採用日の変化による程度であるものではないことはもちろんである。軍縮などに対する軍部反対の姿勢が不買運動はこれで証明されたとしても、満洲事変反対に対する部数減は証明できない。

 よく考えれば、事変の計画は軍中央のしかも一部の秘密だったのであるから、全国の在郷軍人会が組織的に支援運動をするはずもないのである。また後藤氏によれば事変発生から大阪朝日新聞が転向するまでわずか十日あまり。百年史は、軍部批判の言論に対し特に関西では奈良県を中心に大規模な朝日不買運動が起こり、この機運は全国に広がり特に善通寺などの軍都での販売店では苦境に立たされたと書く。

 だがこのような全国的な運動が実質十日もない期間で功を奏するはずがない。百年史ではロンドン条約、クーデター未遂事件、縮軍問題、満州事変を列記して軍に抵抗したと書き、その後を受けて一括して不買運動があったと書く。これは巧妙な書き方である。さっと読めば全てが不買運動の原因のような印象を与える。先の記述は場所の特定など特定の時点での不買運動をさしており、不買運動一般のことをさしていない。

 だからどの論調が不買運動を起こしてたと特定もしていないから嘘はついていないということになる。だが一見すると全ての論調に対して不買運動がおきていたかのような印象を与え、ひいては満州事変報道でも不買運動が起きたかのような印象を与える。事実、満州事変報道により不買運動が起きて、それに屈して朝日は転向したと書く文献も存在する。

 だが朝日新聞は不買運動には屈するようなやわな新聞ではなかった。販売部数が低下した5月以降でも縮軍について強硬な論説は衰えたどころか更に辛らつになる。10月の役員会でも軍縮支持は継続するが満洲事変は軍を支持するという決定をしているのである。すなわち軍部に反対すべきものは反対すると主張しているのである。

 そしてこのことは憲兵に察知されているにもかかわらず、大阪朝日新聞は右翼や軍からの脅迫にあっているのでもない。事変直後の翌7年二月から五月に起きた血盟団事件や五・一五事件などの一連の軍部や右翼の起こした事件に新聞は何の被害も受けていないのは既に述べたとおりである。7年の部数拡大は明らかに派手な事変報道のためである。朝日の縮軍の根拠は戦争もないのに軍隊は減らしてもよいというのであったのだから、実際は縮軍を主張する根拠も失った。従っていまさら縮軍を言わなくなったために不買運動も消えたのであった。

 論説を仔細に読めばわかるように、朝日新聞は軍にやみくもに対抗していたのではなく是々非々の筋論を通していたのであった。縮軍と満蒙権益維持、ひいては満州事変支持は朝日にとっては別物だったのである。軍縮問題でかくも強烈な反軍の言論を展開した朝日新聞であった。東京朝日の名誉のために言うが、この点での強硬さは東京朝日も大阪朝日もたいしてかわらないものであった。


 この論調が不買運動という猛反発を起こしたのは当然であった。だが朝日新聞は屈しなかった。その朝日が右翼の脅しに屈したとすれば、それに対応した軍縮問題以上の強烈な、満洲事変反対の論説がなければならない。後藤氏は大山千代雄の談話をひく(1P384)

・・・朝日全社内に満洲事変を不満とする空気がみなぎっているものだから、自然に紙面にもにじみ出てくる。すると小倉で不買運動が起こった。・・・

 要するにこの談話も明瞭な、反満洲事変の記事を提示できない。できないから紙面ににじみ出てくる、などとしか書きようがないのである。

2.5 内田良平による脅迫は事実か
 後藤孝夫の「辛亥革命から満州事変へ」(1)における最も重要な点は大阪朝日新聞が右翼の内田良平により脅迫されて、満州事変支持に変わらざるを得なかったということである。これは全体構成が、軍部に抵抗する朝日新聞が前半で、途中から変わったということを言い、その抵抗の中心に高原主筆を据えているからだ。そして東京朝日新聞ですら当初からある程度軍には協力的であったとある意味で切り捨てている。

 これは掛川トミ子氏や江口圭一氏に緒方竹虎など東京朝日の関係者を批判されて、そのことを認めざるを得ず、東京朝日だけを見るからだと弁明しているのである。前述のように満洲事変勃発時に、朝日新聞が脅迫されていたという説の唯一の出典はこの本にある。後藤の著書が巷間に流布している朝日新聞脅迫説、しかも内田脅迫説の唯一の典拠である。ならば内田が本当に脅迫していたのかということは重大なことである。

 ところが後藤でも内田脅迫は事実が不明瞭である。「内田の申し入れの実体だが、残念ながらいまのところ不明のままである。」(1P388)などとあるのだ。だが「つるや」で会ったのは内田の一党であるという朝日新聞の井上部長である。しかもその会談の中身も朝日幹部に何か伝言したのかさえ分からない。右翼の不利な多くの事実があることないこと暴露されているのに、もっとも肝心な朝日新聞の転機となったとされる重大な証言が欠落している。 その不確かな情報のまま、朝日が脅迫により転身させられたと断定するのだ。従って後藤氏の説はきわめてあてにならないと言わざるを得ず、これでは仮説を提示した域であるに過ぎない。

 後藤の説を要約すると次のようになる(1P386)。内田良平が大阪朝日の調査部長を通じて昭和6年9月24日に幹部との面会を求めてきたので、その夜調査部長に料亭で会談をさせた。翌日めったに出社しない村山社長が出席する役員会が開かれた。すると大阪朝日の社説は十月一日に満洲独立賛成論を書き、軍部に屈服したという。従って24日に内田による脅迫がなされ、翌日役員会で指示が出され、一日の社説となったというわけである。

 一日の社説とは「満蒙の独立/成功せば極東平和の新保障」という高原の論説である。これが大阪朝日が軍部と連携した右翼の恫喝への屈服の始まりであると力説する(1P377)この説は実に矛盾に満ちている。内田は朝日幹部に会いたいと言ったにも係わらず、実際に会ったのは内田の要求を伝えた井上自身だったというのはどう考えても奇妙である。

 それならば内田は幹部に会いたいなどという必要はない。本書では内田は右翼の超大物であり朝日に対する長い沈黙を破ったことは「単なる右翼の脅し文句以上の不気味なものを感じざるをえなかった」等々内田が恐ろしい右翼の大物だということを強調する。それならばその怖い大物の面談の要求を事実上拒絶したのはどういうわけだろう。


 話を伝えたその人物に再度会ったのでは話にならない。何も幹部に会いたいなどという必要はないのである。しかも申し入れがあったということを記録しているのは、営業局長の辰井氏の日記と文書課長の天野氏のメモだというのである。これらは誰も検証できないのである。しかも後藤氏は二つの資料で「経過をたどってみよう」として要約しているだけで直接の引用はしない。読者は後藤氏の説を信じて聞くしかないのである。しかもその内容たるや上記のように不可解なものである。


 もちろん後藤氏が認めるようにこれを裏付ける内田の行動記録すらない。しかも調査部長の井上という人物は十六歳のときに内田に助けられて信服し、それ以後晩年まで思想が変化していない人物だという(1P390)。内田は大阪に来て子飼いの井上にひさしぶりにあって一献酌み交わしたという方が余程自然な解釈である。

 東京朝日よりリベラルなはずの大阪朝日新聞の部長、すなわち中堅社員に後藤氏の言う極右の幹部の一党がいるというのは実に奇妙ではないか。井上が社内で浮いていたという説もない。そのような人物が普通に仕事ができる社であったのだ。後藤氏が言うように内田が井上を通じて脅迫するなら、常々井上が内田の意を汲んで社の動向に反映させたと考えるべきではないか。ところが後藤氏は九月二十五日までは、そのようなことがなかったということを一生懸命説明しているのである。

 そして脅迫説は更に混乱する。「大山によると、一〇月なかばの役員会できまったという」が「社論の曲がり角は、一〇月一日である。また、一〇月なかばをはさんで社説が特に変化した形跡もない。」(1P386)としている。つまり大山の証言を否定している。そして内田の幹部との会談の申し入れが九月二十四日、二十五日には役員会開催とあり、「このときに限って内容は不明」と思わせぶり。要するに脅迫の内容が役員会で紹介されたごとくである。

 ところが突然前述の大山の記憶は正しかったと言い出すのである(1P390)。要するに後藤にとっては内田が脅迫をしたということさえ言えば、事実はどうでもよいようにしか思えない。実際には「資料 日本現代史(8)(18P96)で朝日新聞が満州事変支持を決定したのは10月なかばであることが証明されている。

 資料 現代史
(8)によれば、「憲高秘第六五八号」として十月十二日に大阪朝日新聞が重役会議を開き「・・・集合協議ノ結果大坂朝日新聞社ノ今後ノ方針トシテ軍備縮小ヲ強調スルハ従来ノ如クナルモ国家重大事ニ処シ日本国民トシテ軍部ヲ支持シ国論ノ統一ヲ図ルハ当然ノ事ニシテ現在ノ軍部及軍事行動ニ対シテハ絶対批難批判ヲ下サス極力之ヲ支持スヘキコトヲ決定、翌十三日・・・主任級以上約三十名ヲ集メ之ヲ示達、・・・言論界トシテ外務省ノ如ク軍部ニ追随スル意嚮ナルヤ等ノ質問アリシモ高原ハ之ニ対シ現時急迫ナル場合微々タルコトヲ論争スル時機ニアラスト一蹴セリ」と明らかにされている。

 しかも東京朝日にも翌日この方針を伝達するために副社長が上京したと追記されている。このなかで注目されるのは、批判論を一蹴したのが他ならぬ高原操なのである。これが脅迫に屈して自説を曲げて「満洲独立支持論」を書かされた高原の取る行動なのであろうか。後藤は九月二十四日の内田の脅迫の翌日に、ほとんど出社しなかった八十過ぎの村山老社長が翌日出席して在阪の役員会が開かれたとして、このとき脅迫の内容が伝達されたことを示唆している(1P387)

 だがそんな離れ業が可能であろうか。当時の大阪朝日新聞は既に大組織であろう。前日の夜間に伝えられた脅迫は幹部に伝達され、そこで鳩首協議されて根回しされてから翌日の役員会にかけるのは到底不可能である。後述の憲兵の調査資料でも十月十二日に事変指示の方針が伝達されたところ反対論が出たとされている。二十五日に方針が出されていたならこのような混乱はないのである。

 このように後藤孝夫による内田良平脅迫説は矛盾に満ちている。前記の右翼恫喝説で述べたように、この矛盾にもかかわらず新井直之や山中恒などは内田脅迫説をそのまま引用した。しかし同じ朝日新聞の後藤の後輩の五十嵐智友はこれに組しなかった。五十嵐が「歴史の瞬間とジャーナリストたち」(8)を出版したのは平成11年のことである。五十嵐は後藤の著書も当然確認したであろう。

 しかし五十嵐は笹川良一と内田良平が大阪朝日に来たことを紹介するが、このとき両人が社論を転換するよう脅したという説をとっていない。五十嵐によれば、九月十九日に来社した国粋大衆党総裁の笹川良一に会ったのが専務・小西勝一である。内田良平については、大阪朝日の幹部に面会を求めて来たが、幹部の面会を避けて若いころから内田と知り合いの井上調査部長と会談させたというのだ(8P188)

 事実関係が後藤説と微妙に異なるが、後藤の矛盾を考えると五十嵐の方が正しいのであろう。五十嵐は内田との会談の結果を辰井梅吉の日記から引用している(8P189)。後藤と異なり五十嵐は引用の形で紹介しているので、こちらが真相に近いのであろう。辰井の日記に拠れば二十五日の会議の内容は

 一、貴賓室にて村山社長より全役員と会ひ、時局問題に付社論統一の事、及不景気は急に回復せず、用紙の値下りもなきため、今後緊縮方針の話抔出づ。 一、貴賓室にて・・・昨夜内田良平氏井上藤三郎氏と会したる節の内田氏注(ママ)告の報告を受け、高原君の「満蒙放棄論」の流説に関しては新聞紙上広告する事とし、案を決定し散会せり。

 これによれば内田は高原操の「満蒙放棄論」の流説について忠告したのだ。後藤孝夫は辰井梅吉の日記を読んだとする。それにもかかわらず、内田の申し入れの内容は不明であると言う。だが辰井の日記にの二項目には忠告の結果、満蒙放棄論の弁明広告をすることとなったと述べている。また、第一項の「時局問題に付社論統一の事」を強引に解釈すれば、脅しに屈したと読めないこともない。

 だが後藤にはそう解釈はできなかった。そしてこの二項目の日記をそのまま引用すれば、弁明広告で収まる要求であったと説明しなければならないと考えたのである。だから辰井日記に内田の件が書かれていたのにもかかわらず、これをそのまま引用せずに「申し入れの内容は不明」とし、井上部長が前夜会ったことだけ使ったのである。そして申し入れの内容については軍のつながりや、内田の恐ろしさなどを説明することによって恫喝によって社論を転換させたと書いたのである。後藤は確信犯であった。


 一方五十嵐は高原が満蒙放棄論をとなえたことはなく、新聞広告についても東京朝日の美土路昌一が二宮冶重参謀次長と交渉して掲載せずに済んだという。五十嵐は「高原に対して軍部の脅迫や『直接行動』をほのめかす右翼の攻撃があったのには間違いないが、これまで高原はそうした威嚇に一歩も退かなかった。事変勃発で、軍と警察の言論統制は強化されたが、それでも前述のとおり、事件直後の大朝社説が軍部に直言する気概は失っていない。」という(8P190)

 1章で述べたとおり、戦時における政府機関による言論統制は必ずしも言論弾圧ではない。言論統制を軍部の脅迫や右翼の攻撃と並置することによって言論弾圧であるかのように見せている。しかも脅迫と攻撃を例示しないのだ。ともかく高原は右翼に屈したのではなかった。しかし五十嵐は十月一日の社説を「事変是認へ社論の転換を明らかにしたものだった」とする(8P191)

 それでも五十嵐は右翼による弾圧説を取らない。「歴史の瞬間とジャーナリストたち」は「辛亥革命から満州事変へ」の12年後の出版である。類似したテーマで共通した時代、共通した人物を扱い、出典に重複する二つの著書で後発の著書が前者をチェックしないはずがない。それでも五十嵐は後藤の内田脅迫説を引用しなかった。

 内田脅迫説が採用できればこんな都合のよいことはないにもかかわらず、である。それは前述のように内田脅迫説に無理があることに五十嵐が気付いたからに他ならない。辰井日記を直に読んで、後藤が我田引水をしているのに気付いたのである。だから五十嵐は後藤の説を引用しなかったことにより、事実上否定したのである。

 後藤の内田良平恫喝説の根拠は「辰井梅吉の日記と天野徳三の記録」(1P386)である。しかし前述のように、五十嵐の引用した辰井日記に拠れば、内田の忠告により満蒙権益放棄説の否定の広告の掲載することとなったのである。ところが前述のように元々高原は満蒙権益放棄を唱えたことはないから、広告はみっともなくても自説の転換ではない。しかも軍人と交渉して広告も撤回したのだからまるくおさまったのである。

 これを要するに、内田は井上と会って、軍人が高原のことを満蒙放棄論者だと怒っていると忠告したのであろう。そして広告の形にしようと朝日内部でまとめたが、最終的にはこれでは軍に頭を下げるようでみっともないということで、誤解を解くために美土路が二宮参謀次長と話し合って納得させた(1P383)のである。それ以後内田は行動していないのだから、内田は本当に忠告したのに過ぎなかったのである。内田良平の性格からも、以上のような顛末からも内田は軍部に使われたのでもない。

 次の天野徳三の記録も後藤は具体的に引用していない。しかし「言論の自由」(20P120)には天野徳三の「役員会議記録」が引用されている。

 「事変以来、本社の前の主義と相反した方向。対暴力の方法なし。やむをえず豹変。とにかく無事にきた」

 というのだ。これは村山龍平社長の事変一年後の発言を断片的に記録したものというのである。このような書きぶりと一年後の発言の記録であるというのは正規の議事録ではなくメモであろう。すなわち後藤の言う「天野徳三の記録」というのがこの役員会議記録のことなのであろう。この本は朝日新聞社会部が1998年すなわち後藤の著書以後に出版したので、この記録もチェック可能だったのである。

 ここには圧力により社論が転換したことを示唆しているものの、内田の恫喝を証明するものではない。後藤が「辰井梅吉の日記と天野徳三の記録」を具体的に引用せずに自分で要約して見せたのも、引用してしまえば五十嵐と「言論の不自由」が引用した箇所しか出来なかったのである。既に述べたように、それでは内田良平が恫喝して社論が転換したという主張ができない。公刊された資料を見る限り、内田良平が大阪朝日新聞を恫喝して社論を転換させたというのは後藤孝夫の嘘と言わざるを得ない。

 ちなみに「言論の不自由」は「圧力受け『満州国』支持」とあるが、内田良平については高原の満蒙放棄論について朝日新聞社幹部に面会を求めたことを記述するが、これが社論転換の原因であるとは述べていない。朝日新聞社会部も後藤の内田恫喝説に無理があるのを見て取ったのである。

2.6 新聞関係者は満洲事変計画を知っていた
 なぜ満蒙権益論か
 満洲事変勃発前後の新聞記事には満蒙権益擁護論が頻繁にでる。一見普通だが、これはよく考えると不自然である。張作霖爆殺事件のときにはそのような現象が現れていない。現れないのが普通である。中村大尉殺害や万宝山事件のときも同様である。支那側が不法な行為を起こせば、これを断固取り締まれというのは普通であるが、そこから満蒙権益擁護論に行くには飛躍がある。

 結果的に満州事変が満蒙権益擁護の最終手段となったから不思議には感じないのである。つまりわれわれは、その後満洲国が樹立されたのを知っているから、その当時満蒙権益論が叫ばれても不自然に感じないのである。まして大阪朝日新聞が満州事変に反対するというような立場の新聞なら、事件のたびに満蒙権益擁護を言うはずがないのである。反日事件が起きたから満蒙権益問題を早期に、かつ最終的に解決せよという立場だから満蒙権益擁護論を国民にあらためて喚起しようという発想が起こる。

 すなわち満洲事変の真の目的を知っていたと考えるのが最も自然なのである。満鉄平行線の建設というような満蒙権益を侵されるような事件があれば、満蒙権益擁護論が起こるのは自然である。

 軍部と新聞の信頼関係
 日本の新聞社の幹部が満洲事変の計画について、軍から知らされていたとしたら。それは単に事変を知りながら報道をしなかったということではない。軍は日本の新聞社と敵対していなかったということであり、情報が漏れる心配もなければ、うまく使える存在であると判断されていたということである。さらに、軍から世論の動向を聞かれていたということでもある。

 換言すれば軍部と新聞社にはある種の信頼関係があったということである。このことは朝日新聞が軍に批判的記事を書いたことがあるということと何ら矛盾はしない。人は信念のある者の厳しい言動に対して、根本的な信頼感を持つことがあっても、疑惑を抱くことはない。逆に媚びへつらい迎合するものに対しては表面的にはともかく、心の底では信頼がおけないものである。

 今の反日的日本人にはこのような信頼関係があるということが分かりえないのである。彼らの多くは中国政府に接待されて、中国政府に媚びて反日的言辞を繰り返している。これが中国政府に心から信頼されていると考えているのである。中国には漢奸という言葉がある。中国人は漢奸を軽蔑し絶対に信頼し得ない。したがって日本の漢奸というべき反日的日本人を実は信頼していないということを理解できない。

 しかも祖国を裏切って外国政府にほめられることを持って信頼関係だと誤解している彼らには、信念に基づく批判が信頼を生むという真理を理解せず、反軍という言葉で自己を正当化しようとしている。当時の日本人の多くはまだ堕落していなかったのである。米軍の検閲に背骨を折られて、反軍であったことを訴えて自らの生存に汲汲とし、あげくは占領政策に媚びたことすら忘れて、反軍の証拠を探すことに血眼になっている堕落した日本人ではなかった。

 軍部は是々非々で軍部をも公然と批判することが、国を愛するがゆえであることを知っていたのである。すなわち軍は新聞の愛国心を信頼して重大事を打ち明けたのである。そのことはこれまでの満蒙権益に対する新聞社の態度から、中国における反日から満蒙権益を守るためには、それまでの政府の外交では打開のめどはない、ということでは軍と新聞社の見解は一致していたということである。でなければ満州事変の重大な陰謀を打ち明けるはずがない。

 その抜本的解決策を軍は打ち明けて、賛同を得ることに成功したというのが事実であろう。後で読めば満州事変を予告したと考えられる記事は存在する。及しないことも、彼らの話す言語から考えれば当然のことである。米軍の言論統制は、マスコミの検閲や発行停止、統計的抽出手法による親書の開封など完璧とも言えるもので、戦前の日本の言論統制など間抜けにしか思われないものであったにもかかわらず、彼らにはその比較をする必要すらないのである。

*1)
「諸君」昭和527月号

2.7 石橋湛山の記事は無視されたか
 東洋経済新報で石橋湛山は明確に満州事変に反対した。だがそれに対する言論弾圧はなかった。それは山中恒氏によれば(2)、同紙は経済専門の小雑誌であるから無視されたという。だが後藤孝夫氏によれば(1)P7満州事変の時点(昭和6)では社員58名の「わが国最有力の経済雑誌の一つ」である。無視されるべき存在ではない。一方で山中氏は朝日新聞が公然と批判しなかったことをいっているのであるから大いに矛盾する。

 時代は違うが後藤氏は(p8)大阪朝日新聞がそれなりの規模である例として、大正7年に内外通信網を入れると158(在阪人員110)と誇示しているから、当時の東洋経済新報が微弱ジャーナリズムではなかったといえよう。まして当時は現在のように百花繚乱新聞雑誌テレビラジオがひしめく時代ではない。一経済誌であると無視できる存在ではない。

 韓国では日本の弁護的記事を日本の雑誌に書いた大学教授が社会的に抹殺された。比較的言論の自由のある現在の韓国ですらである。言論統制の完璧な中国では、政府批判などはアメリカなどへ亡命しなければ、投獄あるいは処刑されている。それでも最近、西欧諸国の批判があるため、処刑などできず国外追放される幸運なものがいる。これは幸運なのであって、西欧に名の知れた場合だけで、多くの場合人知れず処刑されていると思わなければならない。

 それが戦前の日本で朝鮮台湾などの放棄論を公表しても、マイナーだから目こぼしにあったのだなどと説明するのは、言論の不自由な国のいかなるかに思いをはせることのない想像力の欠如である。そういうひとたちに限って戦前の日本の言論統制を批判する一方で、戦後の米軍の徹底した言論統制、ソ連中国における言論統制について言及することがない、というのはただの矛盾ではあるまい。

 向坂逸郎は共産主義社会になったら当然それ以外の言論は弾圧すると明言した。そして共産主義のソ連は日本より言論は自由であると言明した。彼らにはこのことは矛盾していないのであろう。言論の自由は自分と同じ考え方の言論にだけ適用される。彼らが自分たちと異なる、例えば慰安婦の強制連行はなかったとする考え方をする、ジャーナリストの公的機関主催の講演に圧力をかけて中止させるなどの言論妨害的行為をするのもこのような考え方のあらわれである。
 NHKで報道された、慰安婦についての模擬裁判なるもので、この集会を傍聴するものは趣旨に賛同する旨制約しなければ入場させなかったという。はじめから異論は排除するのである。かれらの特徴は意見を異にするもの相互の議論をはじめから封殺することにある。このひとたちの言論の自由というものが私たちの常識とは異なるのである。そのひとたちのいう言論の自由がなかったという主張は言葉通り受け取ってはならない。残念なことに自由主義者までこの主張に乗っているひとがいる。

2.8 朝日新聞は弾圧により転向したのではない
 結論を出そう。朝日新聞は弾圧により転向したのではない。もともといわゆる満蒙権益については朝日新聞をはじめとする日本のマスコミは間違いなく擁護で一致していた。例外は石橋湛山の東洋経済新報社だけである。後藤孝夫氏らがいくら重箱の隅をつついてもこの点に対する反論は出てこない。しかも満洲事変による満蒙権益擁護という点に限れば、軍縮で軍を攻撃していた朝日新聞ですら賛成していた。

 軍部によるマスコミ弾圧を強調する者たがいくら騒いでも、軍人、政治家、経済人らがテロの凶弾に倒れる中、マスコミ人士の受けた被害は、最大でかすり傷であった。このことが軍とマスコミの蜜月を明示している。何故ただ一人の新聞記者も殺されなかったか。それならば朝日新聞の記者がテロで殺された戦後の方がマスコミは弾圧されていたと主張するがよい。

 マスコミは政党政治による外交が満蒙権益擁護に何ら寄与しないことを知っていた。そのために苦しむのは国民大衆であることを知っていた。だから軍が任務を放棄せず、やむを得ず非常手段で満洲事変で解決したことに、拍手喝采をしたのだ。当時の陸軍大臣南次郎は事変直前に満蒙問題の武力解決を示唆して問題となった。南は満洲事変の謀議は知らなかった。

 にもかかわらず満蒙権益が支那政府の革命外交iにより奪われようとしている事態に対して、政府に何も対策がないことから軍人の立場から武力解決という国際法上当然の解決策がひらめいたのである。いや当然の常識として識見ある人士には共有されていたことを口にしたのに過ぎない。そう。満洲では何か起きる。何か起きなければならない。それは満洲の状態を知るものの常識であったのだ。

 だから朝日新聞が事変前にさかんに満蒙権益記事を書いたのは当然であった。わが国民は現在そのことを忘れさせられている。嘘だと思うのなら昭和6〜7年の新聞の縮刷版をみるがよい。ラジオは放送すれば跡形も残らない。だが新聞は縮刷版が残る。だから後藤や山中は重箱の隅をつつかなければならない。挙句に俳句すらつついて無理やり朝日新聞は軍や右翼に脅されたというのだ。

 2.9 満蒙権益擁護で一致していた世論
当時の世論にとって満蒙権益擁護と軍部に対する批判とは別の問題である。この点は混同してはならない。当時の政府、軍部、国民世論、新聞雑誌などのジャーナリズムは、前項のように石橋湛山の東洋経済新報などわずかな例外を除いて、満蒙権益擁護で一致していた。このことははっきりさせておかなければならない。

 しかも軍縮問題にみられるように、朝日新聞は、東京大阪ともに軍部批判を同時並行して行っていたのである。満洲の独立が満蒙権益擁護の切り札だと考えれば、朝日新聞が独立に賛成したのは軍部批判から支持に転じたのではない。明らかに後藤孝夫は満蒙権益の問題と軍部批判とを混同することにより、満洲独立賛成論をもって軍部支持に転じたかのごとく論じている(1)。従って後藤孝夫は、朝日新聞が東京大阪共に満蒙権益擁護擁護の基本は一致していたことにはついては明言しない。

 ここで満蒙権益について簡単におさらいする。満蒙権益とは日露戦争の結果日本が得た満洲における国際法上の、つまり条約上の権利である。日本が満洲に得た権益とは南満洲鉄道、いわゆる満鉄である。満鉄を譲り受けるとともに満鉄附属地の保護のための駐兵権を得た。これは事実上の国家である。そこで多くの国民が国策もあって満洲の地で働くこととなった。

 満洲は当時滅亡しかかっていた清朝の故地である。ところが当初封禁の地として満洲人以外の者を排除していたが、清朝末ついに荒れた本土から支那人が移住してきた。そしてロシアに軍事占領されて事実上奪われていたのである。日露戦争はロシアの駐兵が朝鮮の安全を脅かすとして始められたのだから、満洲からロシアを駆逐した日本は当時の国際常識から言えば満洲を自国領とするのが当然であった。

 清朝は本国満洲が奪われ、そのため日本が戦ったにもかかわらず傍観したのだから、既に満洲は放棄されたも同然であった。しかし日本は戦争に辛勝したのであって、新興国日本が領有を主張すべくもなかった。そこで満鉄と附属地の保有ということになったのである。

 無主の地となった満洲に国際法上の権利を持つ唯一の国日本に対して、単に支那人が多数流入してきたからといって満洲人でもない国民党政府が満鉄と日本人を一方的に追い出そうとしたのであった。農耕のために入植した日本国民たる朝鮮人に対する暴行。日本人の子供の通学に対するいやがらせ。日本製品のボイコット。日本人に対して友好的な支那人に対する処罰。満洲事変の直前の排日事件の案件は数百件もあったのである。

 平成18年に日本が国連常任理事国入りをしようとしたときの中国の日本人に対する暴力事件を思い出すがよい。あのような事件の大小版の事件が日常茶飯におきていたのである。その目的は国連常任理事国どころではない、国際法上の権利を放棄して満鉄を支那政府に渡し日本人は築いた資産を置いてでていけというものであった。ところが幣原の外務省は対支融和をとなえるだけで何ら対策をとろうとしなかった。

 それどこか1927年に起きた南京事件、北伐軍が南京を占領して外国人を暴行した事件で、英米が艦砲射撃で反撃した際にも日本政府は隠忍をとなえて協調しなかった。その結果支那は英米を恐れ日本を侮蔑して排日は増加する。更に日本が不平等条約を廃止して妥協すると英米は日本の意図を疑い英米と日本の間に亀裂が入る。

 英米は結局支那と組み排日は促進される。それまで欧米を含む排外運動だったのが日本にターゲットを絞り、排日だけになったのである。これが満洲事変直前の状況である。石橋湛山はこれに嫌気がさしていっそ満洲を放棄せよと言ったのだろう。だが現実に商売をし働かなければならない大衆はそうはいかない。大衆の味方たる新聞がこれに同情したのは当然であろう。

 このような経緯が全く閑却されて、戦後の史観から、何とか帝国主義政策の代表たる満洲権益擁護に反対であったとか、侵略戦争の満洲事変に新聞は反対であったとか嘘をつかなければならないから四苦八苦する。

 満蒙権益に対する姿勢
 朝日新聞は、是々非々とでも言うべき態度で軍部に対する批判を行っていたことがわかった。ところで、当時の外交上最大の懸案の満蒙権益に対する論調を見てみよう。満洲事変が起こる寸前の七月には「行き詰れる満鉄」「諸家の満蒙論策を聴く」として有識者の論文を連載している。後述のように新聞社幹部は満洲事変の勃発を軍から知らされていたという説もあるが、そうでないにしても満洲事変直前には支那側の各種の圧力によって日本のいわゆる満蒙権益が喪失する危険性を国民が感じていて、劇的な方法でしか解決されないという共通の危機感があったことがわかる。換言すれば満州事変は多くの国民が待ち望んでいたもので、単なる軍部の暴走ではないのである。

 東京朝日昭和6年七月四日の山本条太郎の「正解されざる我が特殊地位」の前段には社側の見解を述べてある。「満蒙問題の論議せらるるもの今日の如く痛切なるは無い…支那全土を挙げて燃ゆるが如き国権回復運動の前に、わが満蒙の権益は正しく最後の審判が告げられようとしている…」としたのは、意味深長な文章である。「最後の審判」と言う言辞は二カ月後の満洲事変により決着が着くと言っていると思える。

 山本は「第一に日本の満蒙に対する希望の目標は無論その領土でもなければ政治的主権でもない…厳粛なる意味において、ただ同地域の平和と開放だけである、満蒙の平和が確保され、その富源が開発されて産業は栄え、人口が増加し、文化が発展さえすれば日本の目的はそれで十分なのである…国防問題は素よりである…」とし「曾て日本がその国運を賭してロシアと戦いたるもこれがためであり」という。

 永井柳太郎は「…満鉄の沿線数百マイルにわたる日本人の各種産業が如何に多数の支那人に生活安定の機会を提供しつつあるかを物語る…我国は満蒙を戦乱の災禍より救う…」として日本のおかげで支那本部より満洲の方が平和で生活が向上したと言う(十六日)。だが満洲の主人は支那で日本は客であり、協力すれば双方の利益になると言う。「満蒙に在住せる我官民の大多数は…政治的または軍事的の力を持っておりさえすれば、思うこと成らざるなしと考え」ていると戒める。

 二人の意見を要約すれば、満洲は日本のおかげで栄え平和になることができたのだから支那側は協力すべきであり、それが日本の経済的利益にもなる、日本は満洲に領土的野心はない、満洲は日本国防の要地である、という3点になる。これが当時の政府及び多くの国民の多数意見であった。

 事変直前の満蒙権益報道
 後藤氏が満洲問題で明確に軍部を批判したとする九月十七日の社説「満蒙権益の擁護/若槻首相の与えた言質について」をみよう。この社説は十五日に若槻首相が「支那の向上的努力に対する同情と権益擁護は背馳するものでないこと」と言ったこと受けてのものである。この主意は支那の自立支持と日本の満洲権益擁護とは矛盾しないということであろう。当時の日本人の多くは支那本部と満洲を別個に考えていたからこの論理は成立するということに注意すべきである。

 これに対して社説は「今後首相の所信通りに対支外交が運用されて行くならば現に分裂対立の観あるいはゆる硬軟両派の主張は、まず以ってその大半は貫徹し得ることになるであろう。」という。これは前述のように、支那本部と満洲は別個のものだという考え方がなければ成立し得ない。しかも若槻流ならば強硬派すなわち軍部の主張も貫徹されるというのだから、絶対に軍部批判ではない。

 次に言う「・・・幣原外相らによって試みられた隠忍十年の外交が、今日強硬論者がその強硬の一部を正義の命ずるままに実行に移しても、単に実行者が日本であることによりて直ちに国際正義に戻る(もとるの意味か)ものではないとされるだけの国際的信用の箔をつけるに役立っている・・・」「強硬論をそのままに実行し田中外交式に手綱を切って奔馬の如く逸走せしむるにおいては、その害毒測り知るべからざるものがあろうけれども、その活力を国際正義の範疇に収め、断固として正義の主張を堅持せしめてこそ、初めて実力ある外交が行われるものであると確信する。」

 誰が読んでも「国際正義の範疇に収め」は付け足しで、強硬論の推奨であろう。これを後藤氏は「高原論説が正面に据えた相手は、軍部とりわけ陸軍である。そこにはいささかのたじろぎもなく、論峰は直裁である。」(1P366)というのはどういう読解力であろうか。 高原論説は、いささかの制限を加えれば、大きな害毒があっても強硬論を奔馬のように逸走させても良いと言うに等しい過激な主張をしているのである。このような論説を書く高原が十月一日に満洲独立を支持する論説を書いたとしても何の変節ではない。満洲併合ではなく、独立が強硬派も慎重派も満足させる絶妙の案だったのである。

 意味深長なのはこの社説が配達された日の午後、満洲事変は起きたことである。そして強硬派も慎重派も満足するような策があるというのだ。この過激な読みようによっては、満洲事変を予告しているともとれよう。現に東京朝日新聞にも事変を予告するかのような論説がある。次に「朝日新聞販売百年史」では満州事変直前に南陸相が軍司令官・師団長会議で行った講演で、満蒙情勢に言及したのに対して、大阪朝日新聞が昭和6年8月8日付社説により批判して「軍部の無理を圧して道理を貫け」と主張したとする。長くなるがその社説を次に全部引用する。

軍部と政府 民論を背景として正しく進め
軍部隊政府の関係が、最近険悪になって来たことは、国民の看過し能わざるところである。国民の負担がその能力を超えるにいたりたるがゆえに、その軽減の財源を、従来つねに偏重である軍費にこれを求めることは極めて自然なるに拘わらず、軍部はその威容を傷くるものなりとして、絶対反対を表明している。

 少なくとも国民の納得するような戦争の脅威がどこからも迫っているわけでもないのに、軍部はいまにも戦争がはじまるかのような宣伝に努めている。なるほど満蒙問題は決して穏かではないが、しかしその権益を保護するに、武力が一体どの程度に役立つかを、考え直して見る必要があろう。例えば対獨賠償を確保するために行はれた佛軍のルール占領の如き、濟南事件に際して行はれたわが山東出兵の如き、いづれも皆武力が権益確保に大して役立たないことを證明してゐるではないか。武力がオールマイテイであった時代は、すでに過ぎ去つてゐる。しかも軍部は強ひて内外の情勢を察知せんともせず時代の轉變も隣邦の實情も度外視して、ただ昔ながらの夢と現とを混淆してゐるようである。

現内閣は國民多數の支持するところだ。殊に軍備縮小の旗印が、國民の支持するところであることは、疑を容れることのできぬ事實である。しかも軍部はこの國民の輿論を無視して、政府に楯つかんとしてゐるやうに見うけられる。軍部内の陸相訓示を門外に發表して、軍縮論者に一戰を交ふるを辭せざる態度を示し、また満蒙問題に對しては、政府の弱腰を叱咤する如き風をみせてゐる。

 政府はこの分限を越えたる軍部の行動にいかに處せんとするか、これが國民にとりての大問題である。軍部は國民の多數が現内閣の政策を支持してゐることを承知で、これに挑戦している。よほど手剛いと見なければならぬが政府にその準備があるかどうか。』無理が通れば道理が引込むといふことは、封建時代のことで普選時代の今日には通用せぬ。

 天下に道理ほど強いものはない。政府が道理に随って進みさへすれば、國民の多數は、これを支持する。國民の多數がついてゐて、多數黨内閣が、民望によってその所信を斷行することが出来なければ、立憲政治も何もあったものでない。今日の政府對軍部の關係は、まことに立憲政治、議會中心政治の試金石だといってよい。

三、古来わが國において、武が尊ばれたのは、平和の保障としてである道理にそむきて劍を振廻はすは武を汚すものである。しかるに今日の軍部は、とかく世の平和を欲せざるごとく、自らことあれかしと望んでゐるかのやう疑はれる。かくの如きはわが國の傳統にもとること甚だしい。軍部が政治や外交に喙を容れ、これを動かさんとするは、まるで征夷大将軍の勢力を今日において得んとするものではないか。危険これより甚だしきはない。

 國民はこれを黙視できやうぞ。もとより國家の隆盛は國民として喜ばぬものはない。しかし國家の隆盛をいたすについて、武力は全部でなくて一ファクターである。武力は昔と比べてその重要さを低減してゐる。この點をよく考へてもらひたい。武力がすべての他のものに優越せりといふ考へは今日の社會常識はこれを容れぬ。恩給法改正案について軍部が挙って文武官均等に反對してゐるのも舊式思想の現れである。

 國際關係の最後の解決をはかるものは、今日では決して武力ではない。軍部はとかく、門外の常識を輕んじてゐるが、しかしそのいはゆる門外の常識こそは實は世界をリードしてゐるのである。プロシャ主義の末路を見よ。世界に通用せぬ譯の分からぬことをいふ軍部の腰はなかなか頑強であるやに傳へらる。現内閣は正義と民論とを背景としてどこまでも無理を壓して道理を通さねばならぬ。

 この社説を読むには前提がある。当時日本では陸海軍の軍縮問題と財政改善のための軍人恩給を削減するという二点について陸海軍と政府与党とが対立していた。朝日新聞は東京も大阪も政府を支持して激越ともいえる論調を展開していた。南陸相は軍事問題がないのだから軍縮をという声に対して満蒙の国防と経済の保護の必要性を訴えたのである。これが軍事力行使も辞さぬととられたのである。


 すると先の社説を要するに、戦争の脅威もないのに軍事費が多すぎるので軍縮は当然であるということ、さらに満蒙問題を解決するのに軍事力を行使しても今の時代は効果がないということを滔々と敷衍している。しかしこれが満洲の併合とか独立に反対しているというのは間違いである。それは例示が仏軍のルール占領と日本の山東出兵だからである。要するに排日侮日行為に対して、一時武力討伐をするようなことをしても根本的解決にならないということを言いたいのに過ぎない。

 まして秘密裏に行うべき事変計画を南陸相が示唆したという「百年史」の主張はあり得ない。この社説単独で見れば過激である。しかし軍縮と恩給法改正について朝日新聞は海軍も含めた軍部に対して常に激越な主張を展開していたのであって、この時に限ったことではない。つまり軍事力行使について言及したから特に過激になったのではない。朝日新聞は自己の主張を軍に対しても、隠微にではなく明瞭に主張していたのである。すなわち満洲事変に対しても反対であれば明確に主張したはずである。この点はかの緒方竹虎も認めている。

 支那は統一国家ではなかった
 清朝末以後の中国史を要約すると一般には以下のように考えられている。日清戦争の敗北で西欧列強に半植民地化されて清朝は弱体化して辛亥革命により、1912年に国民党政府すなわち中華民国が成立した。そこに共産党が勃興して勢力を増して、日本が敗戦すると国共内戦が起こり、1949年に共産党政権、中華人民共和国が成立、中華民国は台湾に逃亡する。政権の順に言えば1912年までが清朝、それから1949年までが中華民国、それ以後が中華人民共和国、という時系列に整理される。

 だが、1912年から1949年の約40年間は国号を対外的に「中華民国」と呼んでいただけである。この間に統一政権が現在の中華人民共和国の領域を支配していたわけではない。この時代は実際には軍閥抗争の時代であったといってもよい。ここで中国の軍閥とは何かに言及しなければならない。パールバックの「大地」に描かれているように、中国には「私兵」の伝統がある。これが日本人に中国史のわかりにくいところである。

 個人が武器を用意して人を集めて軍隊を作る。軍隊の運営は兵士に略奪させたり、居住地域の住民から政府と関係なく、「税金」を集めて行う。そもそもこの軍隊は生活の手段として行うのであって、地域の防衛のためではない。だからその地域に定住して、暇なときは農業などを営んで自活することもある。一見武装農民と見える場合も多い。事実は武装農民とこのような私設の軍隊との厳密な区分はない。このような私設の軍隊を中国では「軍閥」と呼ぶ。場合によっては匪賊、馬賊などとも呼ばれる。軍閥という呼称のニュアンスが全く異なり、日本では軍部のことを軍閥と呼ぶが、中国では政府の正規の軍隊を軍閥と呼ぶことはないから注意が必要である。

 この軍閥が時には政府の依頼で戦争を行うことがある。もちろん税金で給与されるわけではないから、戦争を行うのは報奨金目当てである。軍隊が金儲け、生活の手段だからである。「大地」は一面で軍閥に身をおいて生活する中国人の物語である。軍閥の中で出世するのは会社の中で出世するのと同じ事で、偉くなれば裕福な生活を行えて幸せだと捉えられるのである。

 さて日清戦争で日本と戦争した李鴻章も大軍閥に過ぎなかったといわれる。だから清朝は日清戦争に敗北しても何の痛痒も感じなかった。そもそも西大后が日本との和睦を支持したのは、頤和園を造営する費用が必要で、北洋軍閥に軍費など沢山払いたくなかったからだというのだ。そして辛亥革命の主役を演じたのも軍閥の頭目の袁世凱である。

 中華民国の臨時大総統に選ばれた孫文は、間もなく袁世凱に総統の座を譲った。孫文は袁世凱のように私兵を持たない、すなわち軍閥の頭目ではなかったからである。清朝を倒した軍隊の主力は、袁世凱の私兵であったからである。すなわち成立したばかりの中華民国には国軍というものはなく、軍隊すなわち軍閥であった。この私兵の伝統というのは現在でも続いていると言えないこともない。中国には政府の指揮下にある軍隊はなく、共産党の軍隊であるからだ。共産党創設のころの延安の時代には、党の単一の軍隊であったのであろう。しかし共産党が全国を支配し、軍隊の各軍区が土着するようになるとそれぞれの軍区が、伝統に従って個々に軍閥と化す。

 だから天安門事件で騒然としたときに、注目されたのは各軍区の動向であった。最終的に各軍区の長が共産党に忠誠を誓ったために収まった。場合によってはどこかの軍区が学生側について反乱するということが懸念されたわけである。中国の軍隊が国軍すなわち国家に忠誠を誓う軍隊ならそのようなことはありえない。国軍は国家元首の一元的指揮の下に動くからである。だから江沢民にしても軍隊をどこまで掌握しているかが注目された。

 中華民国の時代は軍閥跋扈する時代であった。満洲の大部分は張作霖の軍閥が支配していた。そして北京へ進出して全国制覇を期していたのである。息子の学良の代になって蒋介石の晴天白日旗を掲げるが、これも考えてみればおかしな話である。日本では満洲が中華民国に編入されたといって重大視したが、考えようによっては軍閥の頭目張学良が別の頭目の蒋介石の子分になったというのに過ぎないというのが、中国流の考え方であって張学良の軍隊が国軍に編入されたわけではない。

 現に張学良は別の軍閥の共産党に協力して、蒋介石を拉致して西安事件が起きた。国民党自体ですら、国共合作により共産党という別のイデオロギーを持つ分子に浸透され、内部分裂を起こしていた。昭和6年当時の新聞を見ると広東政府というものまで登場する。ひょうぎょくしょうなど有名な軍閥の頭目はいくらでもいる。

 それらの軍閥は入れ替わり立ち代り各地域のボスとなって事実上の支配をしていたが、栄枯盛衰が激しいため、戦国時代の日本のように整理した勢力地図を描くことができない。日本の場合には、戦国武将が最終的に江戸時代の藩に収斂していったから歴史的に分かりやすい。中国の場合には統一志向が強いため、簡単に国民党政権、共産党政権と択一的に表現されやすいのである。

 このように現代の日本人が考えるような国民党政権による統一などはなく軍閥跋扈する時代が続いた。これが支那事変の進展と共に国民党と共産党に収斂して、二者が衝突して国共内戦に発展して共産党の統一となった。日本は清朝崩壊以後に軍閥跋扈する支那大陸で、国防のため満蒙権益を維持し、大陸に投下した資本や経済活動を行う在留邦人の保護を行うという未曾有の困難を掲げていたのである。統一政権のある現在ですら中国に資本投下した世界各国は中国人の法を無視した勝手な行動に悩まされている。まして日本は最大の被害者である。

 満洲国は満蒙権益維持の理想形
 満洲事変の首謀者の石原莞爾は満蒙領有論から満蒙独立論に転じた。すなわち満蒙独立論は山本条太郎の意見と同じく、「満蒙に対する希望の目標は無論その領土でもなければ政治的主権でもない」ということと同じなのである。当時の満洲地域には日本が日露戦争で得た、満洲鉄道とそれに付随する権益があった。これを満蒙権益と当時は呼称した。満蒙権益の擁護とは単なる経済権益ではない。常に南を窺って膨張しようとするロシアに対する防壁であった。ロシアの膨張政策はソ連に国家形態を変えると共に、止むどころか共産主義という悪質な武器を手にした。

 共産主義は元来は救済思想であった。少なくともマルクスはそのつもりであったのに違いない。ところが現実のロシアに共産主義政権というものが樹立されると、理想とはかけ離れたものになっていた。プロレタリアすなわち労働者の無産階級の独裁がレーニンなどプロの革命家の独裁になったのである。労働者が労働をしつつ国家の政治を運営できるはずがないのだから、これは予見すべきことであった。なによりも科学的法則に基づくとしているため、それに反対する思想を弾圧する根拠にすら利用された。自らに反対するものの弾圧という、為政者が一番やりたいと願うことに理論的裏付けを与えてしまったのである。

 しかも元の救済思想という隠れ蓑が多くの貧しい人々には魅力的に映った。そのことをソ連政府は利用した。救済思想を世界に広げることにより、世界にソ連のシンパの拡大を狙ったのである。その最大のターゲットになったのが、内戦で混乱する中国であった。瞬く間に共産党が樹立され、政権奪取を狙った。地理的にもソ連の南下を防ぎ、中国の共産化を防ぐ防壁が満洲だったのである。この日本の国防の要請が真の満蒙権益であった。だから日本は経済利益のために日露戦争を戦ったのでは全くなかった。だが国民は国防という理念だけで動くものではない。満洲における経済権益というものを叫ぶのは現実政治の要請上やむをえない。

 その観点からすれば支那と日本の生活上経済上の利益の他に、国防を掲げた山本条太郎の主張はバランスの取れたものである。だがその満蒙権益は侵されつつある。日本政府は排外運動に対して妥協的な態度を取った。公使館などが襲われて英米が砲撃を加えた際にも日本政府は、これに加わらず中国に対して妥協的に振舞った。

 それが逆に日本に対して中国が日本を甘く見て排外運動を、排日運動に収斂していった。それには中国人の事大主義による強い西洋人に対しては下手に出、元来東夷とみなしていた日本に対しては自然に強く出たという面もあったであろう。加えて支那本部から独立した軍閥が支配していた満洲においても同様である。

 満洲鉄道に対して平行線を作らないという条約は勝手に保護にされ、日本人の商店や学童に危害が加えられるという状況が慢性化した。日本は満洲にも支那にも資本を投下していた。それは侵略でも何でもなく、現在も日本や諸外国が中国に行っている投資と基本的に同じことである。現在でも中国で行われているように、日本の経営が軌道に乗ると、突然労働者が反抗する、商店を襲うというようなことが日常化していった。平成17年に反日デモが暴徒化して日本大使館や商店を襲った事態が日常化していたのである。これをして日本経済のみならず国防の危機である。

 これに対して日本政府は何ら対策を持たなかった。山本条太郎が「支那全土を挙げて燃ゆるが如き国権回復運動」と称したのはこれに対する危機感である。日本にはこのような危機感が充満していたのである。これに対して石橋湛山のように満蒙権益の全面放棄を言うのはたやすい。石橋は国防という観点を全く忘れている。あるいは知らないのであろうか。日露戦争で満蒙権益を手中にしたのは結果論である。そして国防を単に国防に終わらせるという不経済を防ぐための方便である。それが時代を経て忘れられていく。それは政党政治の欠陥でもあった。政党政治は国防問題も権力闘争の道具にした。統帥権干犯と叫んで政争を行ったのは右翼にヒントを得た政党の仕業である。

 満蒙権益を有効に守る手段は外交的にはなかった。満蒙権益を侵しているのは、支那本部から流れてくる匪賊の跋扈と国民党政権による条約違反の行為と排日暴動である。これを防止するには支那本部から満洲を切り離して隔離するしか方法はない。その方法は満洲の併合と満洲の独立の二つの方法論がある。そこで石原莞爾がまず考えたのが満蒙領有論である。

 しかし満洲における日本人は少数民族である。また満洲は朝鮮のような単一民族の地域でもない。そして何より満洲は歴史的には清朝の故地であり、満州族の故里である。モンゴル人が元朝崩壊とともに故地モンゴルに復帰したのと同じく、最も自然なのは満洲人が満洲に帰ることである。しかし封禁政策の失敗とともに、満洲の地に於いても満洲人は少数民族に転落していった。

 これらの現実を考えると満洲王朝の復辟と多民族国家の樹立が最も正統性があり、現実的である。日本と大韓帝国との関係には合邦という選択肢が双方の国の国内運動としてあった。これに対して日露戦争以後満洲は事実上ロシアから日本に主権が移譲されていたにもかかわらず、日満の合邦という運動はなく満洲王朝の復辟運動は絶えなかったのである。日本の心優しき大アジア主義者が満洲独立を支持し、石原莞爾もその影響で独立論に傾いたのも故あることである。

 かくして満洲独立が現実になろうとすると、朝野を挙げて独立を支持した。新聞もそれを是としたひとつの勢力に過ぎない。国家に指導力があるならば満洲独立は関東軍の謀略として行われるべきではなく、まず外交関係者と軍関係者の協議による満蒙権益擁護の背策として立案され、政府の正規の政策として実行に移されるべきであったという説もある。

 実際には支那の排日に対する宣戦布告から、謀略による独立支援でやらざるをえないにしても、軍に引きずられるかたちではなく、政府の国策として行われるべきであったというのである。このような例は英国、米国、ソ連などの諸国の常套する手段であった。国際法論外交論から言えば、それが正しいであろう。国家の統制という観点からも正しいであろう。

 だが果たして王道政治という観点からは正しいのであろうか。私には確信がない。一部の関東軍の謀略というのはやむにやまれず出たもので、やり方は謀略であっても謀略的ではない。西欧諸国の行う統制された謀略は謀略的である。すなわち謀略による覇道であって王道ではない。日本の大アジア主義者が各人ボランティアとして行った満洲独立支援というのは王道であろうと思える。それ故現実の歴史の経過を是としたいという気持ちが強いのである。

 満洲国は傀儡ではない
 満洲国が日本の傀儡であるからとして、満洲独立を日本による支那の侵略であるとするのは、ためにする議論である。満洲国が日本の援助により独立したことをもって傀儡であるとしたら、北朝鮮や東欧諸国、南米の各国、イスラエルなど現在の独立国の大部分は傀儡である。多くの民族は他国の援助により独立しなければならなかった。他国の援助なしに独立せよというのであれば、多くの民族は依然として他民族の抑圧の下に呻吟していなければならない。それ故に正統性がないとは必ずしも言えない。正統性とは、他民族の抑圧に悩む民族が自ら独立を欲していること。その民族の居住地が歴史的にその地に縁があることである。

 その意味でイスラエルは前者の条件を満たしているが、後者の条件は必ずしも満たしているとは言いがたい。それ故現在まで血で血を洗う紛争が絶えないのである。ユダヤ人がかの地に縁があるというのは、聖書すなわち二千年前の神話の世界の話である。それが事実であるとしてもパレスチナの民族はその後二千年に渡って居住していたのに、英国などの力で出て行けといわれたのではたまらない。

 満洲の地は満洲人の故地であり、その後移住してきた支那人、日本人、朝鮮人、白系ロシア人の居住していた土地である。支那から来た張作霖による弾圧的統治と支那軍閥による抗争、清朝滅亡による故地満洲での腹壁運動がある。そのような諸状況から、支那本土から切り離して、複数の民族の居留する安寧の地を求める独立運動が起こっていたのはむしろ自然である。

 それ故満洲に対ソ国防の拠点を求める日本の利害が一致して、日本が支援するというのは自然であった。満蒙権益擁護に対して国民政府に迎合するだけで何の策もない日本政府。しかしてその権益は革命外交により逐次侵されつつある。これに対し、満蒙権益擁護のために駐留する関東軍は政府の無策のために任務を全うできない危機的な状況にある。

 それに対して現地の実情を知る関東軍が満蒙独立運動を、謀略をもってしなければならなかったのは追い詰められていたのである。本来は政府が国民政府による反日に対する正当な反撃政策として、計画的にしかも諸外国に声明する形で宣戦布告して独立運動を支援すべきであったのである。事変勃発、満蒙独立と共に世論が支持を表明したのは当然のことであった。私たちはその経過をGHQの言論統制により忘れさせられたのである。

 傀儡政府とは
 アメリカはハワイ王朝を倒して共和国を建国した。しかしすぐにアメリカへの併合を申請した。メキシコに戦争を仕掛け、テキサス共和国を樹立させ同様に併合した。第二次大戦はソ連がポーランドを分割領有することで始まった。ソ連は第二次大戦の混乱に乗じてリトアニア、エストニア、ラトヴィアのバルト三国に侵攻、人民政府なるものを樹立したが、わずか二ヶ月も経たないうちに三国はソ連邦へ加入したというのだ。それもわずか3、4日のうちに三国が一斉にだ。

 本当の傀儡政府の樹立とはアメリカやソ連のやったことなのだ。中国は傀儡政権など作りさえもしない。昭和25年の朝鮮戦争のどさくさにまぎれて、すぐにチベットに進行して併合してしまった。フィリピンから米軍が撤退すると、領土問題で係争のあった東沙諸島を武力進駐して併合した。これらの国の行為を非難しない人たちが、満洲国を傀儡だの偽国家だというのである。モンゴル人民共和国も傀儡政権だと言われよう。モンゴルは辛亥革命が起こった後、ソ連により外蒙古人民革命政府が1921年樹立された。勿論ソ連の支配下にするための傀儡政府である。一方でチベットは辛亥革命直後1913年、はやくも独立を宣言した。ところが前述のようにまもなく中共に独立を奪われた。

 だがモンゴルはソ連の傀儡であったが故に、内モンゴルはともかく外モンゴルだけでも、形式上の独立を保った。しかも1991年にソ連が崩壊すると、共産党政権が倒れて本当の独立を果たした。チベットは傀儡ではなく本当の独立をしたために、どこからの支援を受けることなく、中共に蹂躙された。モンゴルは皮肉なことに傀儡であったが故に真の独立を果たした。ソ連支配の70年が過酷であり、キリル文字を強制されモンゴルの文字を失ったとしても、内モンゴルを失ったとしても。チベットは独立どころか民族滅亡の危機を迎えている。

3章 朝日新聞は国民の正論を代弁していた
 忘れられた満洲事変への国民の期待
 半藤一利氏は著書(*)で、中央公論・昭和311月号で鶴見俊輔氏は、戦前の知識人は満州事変以後の日本を批判的にみていたはずだが、わかっていて決心してのめりこんでいったという矛盾したことを語ったことを引用する。そしてなぜ間違っていると思う相手に進んで協力したかいぜんとして不鮮明だと首を傾げてみせる。

 鶴見氏は戦後の流れのなかで当時の知識人の意識を忘れているのである。日本人は戦後満洲事変は間違いだと吹き込まれて本当に違いないと信じてしまった。それならば愚かではないはずの当時の知識人が心中批判的でなかったはずはないと現在の心境から当時の心境を勝手に判断してしまったのである。ところが、当時の公開されたものを見る限り、知識人が率先して協力したとしか考えられないから、それをつぎはぎにするから先のような矛盾した結論になる。


 人は当時の熱狂を忘れる。平成元年前後の好景気を、わずか数年後にはバブルというレッテルを貼って馬鹿にする。当時は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと西洋人に言われて得意になっていたのである。不況になるとその時の心理を完全に忘れている。そして今度は平成の大不況などとして、日本は本質的に欠陥を抱えているから永久に不況から脱することができないごとく語る。バブル当時この好況は永遠に続くがごとく語り、土地と株式投資を煽ったご本人がである。

 このように人は数年前の熱狂すら平然と忘れる。煽った記録があるにもかかわらずである。戦後の日本は当たり前だが好況と不況とを繰り返し、全体的に経済成長してきた。好況も不況も永遠に続かない。そんな当たり前のことを忘れて、目の前の好不況に一喜一憂するのである。江藤淳氏が言うように、日本人は「忘れさせられた」のである。

 放っておいても忘れやすいものが、忘れさせられて別の知識を注入されたのである。そして保身に走るマスコミや知識人は、軍部や右翼の圧力に屈せざるを得なかったのだと弁明する。この弁明の仕方も、軍が悪いので国民大衆は被害者であるという米軍が教えてくれたものである。都合のよい弁明にはすぐすがる。


 満州事変なかりせば
 満州事変なかりせば。この問いが鍵である。日露戦争で満洲に権益を得た日本は、権益を維持拡大するために満州国という傀儡国家を建てた。筋書きの単純化が忘れる元である。半藤氏によれば、石橋湛山は小日本論で朝鮮も満洲も台湾も放棄すべきで、日本の国防線には日本海で充分であると主張する。この論を進めれば日清日露の戦争は不要であるのだ。

 さらに軍備無用論に近い発言をする。石橋湛山の言説は当時の世論と真っ向から対立するという意味で勇気に富むものである。軍部や右翼の圧力で新聞は言論を曲げざるを得なかったと称する連中に限って、石橋の東洋経済などは世論に影響がなかったなどと逃げる。そんな不徹底な言論統制などない。まして現在のようにテレビラジオ新聞雑誌週刊誌など無数の言論のあった時代ではない。


 東洋新報は当時一流の経済誌であった。石橋の勇気と言論人としての誠実さは疑うべくもない。私の言う勇気とは軍部などの圧力に屈しなかったなどということではない。世論の大勢に正反対の言論を主張したことである。だがそれと彼の持論が正しいかは別である。現在の日本を見よ。事実上軍事力を行使することなしと見られる現代日本は、米軍の庇護なしには中国に対して領土などの国益を維持し得ない存在である。物理的障壁としては日本海は大きいものがある。しかしそれだけでは日本を守りえない。

 日露戦争なかりせば、単に満洲と朝鮮がロシア領となっていただけでは済むまい。清朝の分割に大きな影響を与えたのであろう。英国は狡猾にも砲艦が溯上できる範囲だけに権益を求めたという。現在でも支那の繁栄は沿岸部だけである。その意味でも英国の態度は賢明であったのに違いない。日露戦争なかりせば、沿岸の発展する箇所は米英独仏の植民地として発展し、支那人の政府は奥地に貧しい国民を抱えていたに過ぎない可能性がある。

 ウイグルやチベットが支那人の支配化にないことはもちろんである。英国に支配された香港を見よ。英国風の別名を持ち英語を話す。香港人の本心は中共に支配されるよりは、英領でいることであったのに違いない。時間は大事である。発展した沿岸部はそれぞれ欧米の植民地として分離発展していたのであろう。そして長い支配の下支那人だとは豪も思うまい。

 日露戦争なかりせば。欧米の植民地の独立運動などはあるまい。時間の経過と共に、自然発生的に独立運動が起こるなどというのは思い違いである。現にインド、フィリピンでも欧米化した。それが長期続いた場合には民族は変質して元の姿は残すまい。現在の南米の諸国を見よ。原住民の文化は痕跡しかなく、混血して要望すら異質化している。しかも南米の多くの国で、原住民風の黒い容貌を嫌い白人風の容貌になりたがるという。

 支那の排外抗日運動も日本に触発されたものである。支那とて日本の大陸への干渉がなければ、現在とは全く違う相貌を示していたはずである。ましてや、インド、東南アジア、アフリカ、南米といった地域は現在とは違うはずである。それは現在の世界に比べ、日本にとっては都合の悪い世界であるに違いない。白人が圧倒的に世界を支配し、有色人種のまともな国は日本だけ。白人の有色人種蔑視は元々想像を絶する。有色人種の独立国が圧倒的に増えたからこそ白人は、その蔑視を進呈に隠して交際するのであって、日本くらいしかないという世界なら、ことごとく日本に不利な取引がなされる。その中を戦前の日本のように細い道を綱渡りのように生きて行くのだ。それとていつまでも続くまい。

 綱渡りを永遠に続けることはできない。綱は年々細く揺れていくのである。いつかは落ちて戦争という罠にかかる。時間の経過と共に不利にはなっても有利にはならないからである。世界は白人に同化するからである。同化できない有色人種は劣等感にさいなまれて白人の奴隷のごとく暮らす。香港人のように同化したものだけが白人然として、有色人種をこきつかう。

 そのときに決然と日本人が白人と決戦して敗れれば、全面的に敗北して二度と立ち上がることはできない。現実の日本は敗戦したが、自らの百年の戦いの結果白人から独立した有色人種の闊歩する国際社会があったからこそ、日本は経済的には立ち直り戦前を凌駕したのだ。最大の問題は肥大化したソ連と中共である。第二次大戦の結果、領土を大きく増やしたのはこの二帝国だけである。

 だがソ連はアメリカとの戦いに敗れて分裂し帝国は崩壊した。中華帝国は依然として日本と西欧の資本を導入して成功しているようにみえるがそうではなかろう。日本並みかそれ以上に基礎技術のあるソ連ですら、軍事技術的にはアメリカを凌ぐことはできなかった。まして基礎技術のない中共、その欠陥をソ連のようにコピーすることで補うことのできない中共である。

 中共に自前の技術はない。日本や西欧に工場施設を建てて貰い指導を受け、末端の労働者を提供して指導者がピンはねしてぼろもうけするという世界である。中共の有人宇宙船の開発はソ連崩壊の翌年から始まったことは何を意味するか。ソ連崩壊であぶれた宇宙技術者を雇い、飛行士も育ててもらい宇宙飛行に成功したのである。中共の宇宙飛行士は普段はロシア語で地上と交信しているのかもしれない。

 中共の軍事技術は全てロシアやイスラエルが完全にバックアップしたもので、彼らにライセンスにより高度な技術を導入する能力すらない。ロシア人はスペースシャトルをコピーする能力はあったのである。これとて戦後ドイツからさらって来た技術者から学んだ技術のベースがあり、それを維持発展させる能力はあったのである。

 近代技術を導入する能力のない中共は永遠に外国資本を利用するしかない。そういう安易な方法が一見うまくいくからなおさら楽な方法に頼り、基礎技術を育成する組織の養成はできない。なるほどアメリカに在住する中国人技術者は優秀であるという。それはアメリカの組織にいるからである。その証拠に中国に在住するノーベル賞科学者は存在しない。これは不思議なことではない。

 外国技術と資本に依存する中国に未来はない。歴史は繰り返す。歴史は支那の帝国は必ず分裂することを証明している。いや支那の状態は統一ではなく分裂である。健全な分裂こそ支那人民衆の幸福である。支那の分裂は異民族の侵入や農民の叛乱で起きた。歴史は繰り返す。だが同じパターンは繰り返すまい。支那の崩壊は外国資本と技術の導入による、一見繁栄と見られる事態から起きるかもしれないのだ。

 ところで石橋は倒錯した小日本論をなぜ考えたのか。それは案に相違して夜郎自大からである。石橋は一等国といわれた日本の地位を安定した普遍なものと錯覚したのである。満洲がなく朝鮮を独立させたとしても当時の国際社会で生存することができると考えたのである。明治の日本人が独立維持のためにいかなる苦労をしたか。

 そして弱肉強食の白人支配の世界では不断の努力をしなければ、他国に蚕食されるかということに想像をいたすことが出来ないのであった。現代で石橋湛山の小日本論を賞賛する人たちは、先進国も後進国も、白人も有色人種の国家も対等であり独立しているという現代世界の状況を当然としていることにおいて共通するものがある。小日本が成立している前提条件を忘れているという意味において共通する。

4章 GHQに背骨を折られた新聞
 日本のマスコミは戦後のりこんできたGHQにより徹底的に弾圧された。その経緯は江藤淳氏の「閉ざされた言語空間」に詳しい(3)。検閲の厳しさは、検閲が秘匿されたことにも象徴される。戦前の新聞や雑誌等は事前検閲に会うと、伏字や墨塗りなどにより修正した。ところがGHQはそれを許さずに、自然に見えるように支持したのである。従って、現在それらの出版物からは検閲があったことすらわからないほど徹底していたのである。

 検閲は当初は、検閲の指針を提示して行う事後検閲としたが、これに多くのマスコミが従わないため、すぐに事前検閲に切り替えられた。そして事前検閲が軌道に乗ると最終的には事後検閲に切り替えられた。事後検閲は恐ろしい威力を発揮した。発行停止などの厳しい措置に恐れおののいた新聞はなど、事後検閲に絶対に引っかからないように、検閲の指針より厳しい自己規制をかけるようになった。

 すなわちGHQの意向を忖度して記事を書くようになったのである。迎合である。迎合が始まると止まらない。日本が独立を回復して検閲がなくなっても、なんと検閲の効果は維持されたのである。このことを考えるたびに、「我輩は猫である」の挿話を思い出す。迷亭が集まった一同に金儲けの講義をする。六百円の掛け軸を分割払いで売る。月十六円の月賦である。すると毎月払えば、六十回五年で完済となる。ところが毎月払い続けると五年を過ぎても期日になると払わなくては気が済まなくなって、それ以後は儲けになるというわけである。

 漱石の「猫」は単なるユーモア小説ではない。このエピソードは真面目なものである。現に日本の多くのマスコミは現在に至るもGHQの検閲の指針に従っているように思われる。既に検閲がなくなっても、なぜそのような自己規制をするかすら分からなくなっても、検閲の効果が維持されているのだ。誰も迷亭の話を笑い飛ばす事はできない。同盟通信は、海外からの情報網をGHQに切断された。すると同社の存在価値がなくなって解散せざるを得なくなった。朝日新聞は原爆への批判、米軍の暴行などの飛行への批判をしたために昭和二十年九月、二日間発行停止処分を受けた。このために社論は百八十度転換した。GHQに屈服したのである。

 これ以後各新聞は唯々諾々とGHQに従う。あたかも自己の意志であるかのように装って。すると都合の悪いのは、それまで自らの意志で日本の戦争に翼賛したことである。いや、翼賛したことが自らの意志であったことすら忘れたのであろう。月賦を払うのが掛け軸を買ったからということを忘れたように。そして戦前の軍部の批判をする。そうして右翼や軍部の脅迫により翼賛したに違いないと思い込む。あるいは本当にそうだと信じているのである。ここにおいて日本のマスコミは過去との断絶が生じた。昭和二十年九月に日本のマスコミは背骨は折られたのである。

まとめ
 私は戦前の新聞社の戦争協力を決して非難するものではない。むしろ朝日新聞にみられるように、陸軍における政治上の姿勢を非難するなと、新聞は批判すべきは批判していたのであって、満州事変などは国益のために是としていたのである。戦前の新聞でジャーナリズムのあり方として問題なのは●編で詳述したように、満洲事変の際の報道合戦、イベント合戦と呼ぶべきものである。これは国益を慮っての行動というよりは、販売部数拡大のためのいわば私益を追求してのことであった。しかも戦争という多数の生命をかけたできごとを、おもしろおかしく仕立てるなどはジャーナリズムとしてあるまじきことであった。

 その結果、戦後百人切り報道として戦争裁判にかけられ、二人の若い軍人が殺されたのである。報道としてはあまりにお粗末な故に、ただの面白くでっちあげたと当の記者が証言して無実を晴らすことができなかった事件である。これは日本の新聞紙上最大の汚点というべきであろう。嘘の記事が現実に個人を罪人とし、後世まで記録として残されてしまったのであるから。その反省はなされているのではない。現に営業のため販売部数拡大という私益のため新聞の紙面作りがなされることが今でもあるから。

 日本の新聞界の大きな欠陥は戦前にあったのではない。戦後米軍の徹底的な検閲下におかれ、戦前を徹底的に否定的に書くことを強制されながら、戦前は軍部や右翼の弾圧などで筆を曲げざるを得なかったと語ることなのだ。戦前は言論の自由がなかった、戦後は平和憲法のおかげで言論の自由を獲得したと平然と嘘を語ることなのだ。

 なるほど嘘も百篇言わされれば本人も信じてしまうのであろう。だが自らの嘘も完全に信じているわけではあるまい。江藤淳氏の一連の著作で、米軍占領の7年間に戦前より厳しく徹底した検閲がなされていたにもかかわらず、新聞関係者や戦後民主主義者は言論の自由を語るときでも一切それに触れようとしないから、触れられない事実であると判明する。発行停止など、米軍により戦前より厳しい言論弾圧が各新聞社に加えられたのにもかかわらず、新聞関係者は顛末を黙して語らないのだ。

 そして一方で戦前の言論統制を声高に非難する。それは新聞の営業と反日思想にうまく合致するのである。大日本帝国憲法のもとでも当時の世界の思潮からは、言論の自由があったのであり国益を考えて戦争を支持しながら、軍部の弾圧にあったといい、戦後は米軍の検閲により日本国憲法のおかげで平和国家になったという。戦前も戦後も時の権力者に従ったまでだといってしまっては読者離れで営業に差し支える。戦前にも言論の自由があったと言っては反日に差し支える。そこで戦前を批判し戦後の検閲に触れなければ両者を満足する。私は以上のことの一端でも明らかにしようとした。

続く・A  suivre.


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