はじめに
私たちが手に触れるようなサイズの物体は、原子・分子から見ると、巨大で膨大な数の原子・分子からなる巨視的集団です。そこには構成分子の特徴を反映した性質が現われることを、水と氷を例にして前回の講義で述べました。今回は、巨視的集合体という状態においてはじめて現われる相転移現象をとりあげます。たとえば、氷がとけて水になる融解現象がどのような機構で起こるのかを考えてみたい。
1. 相転移
同一の物質であっても、温度や圧力などの環境の変化によって、巨視的集団の性質が全く違う「相」が出現します。氷、水、水蒸気はそれぞれ固相、液相、気相として、集合形態や性質に顕著な相違があります。このことはH2Oに限らず、物質の3態として普遍的な存在様式となっています。そのうち固相だけは一種類とは限らず、複数の固相が存在するのが普通です。その理由は、固体では原子・分子が規則正しく並んだ結晶構造になりますが、可能な秩序配列が14個もあるので、環境の変化によって違った結晶相に移り変わるからです。一方、液体と気体は流体とまとめて呼ばれるように、密度に顕著な違いがあるものの、不規則な分子運動による無秩序な状態をとるだけです。ある特定の温度または圧力で、ひとつの相から他の相に突然移る現象を相転移といいます。具体例として図1に温度と圧力を変えたとき、CO2とH2Oの相図を示します。
相図は安定相が占める領域を示し、境界線上では両側の相が共存します。圧力の1barは1気圧に相当します。CO2は典型的な物質の3態を示します。固体-液体-気体が共存する3重点(-56℃、5気圧)は1気圧より高いので、大気圧ではどの温度でも液体は存在できず、固体は-78℃で昇華します。ドライアイスと呼ばれ、濡れないで蒸発する寒剤としてよく利用されるのはこのためです。赤い丸印で示したのが臨界点であり、これ以上の温度・圧力では液体と気体の区別ができない、一様な相を形成します。液体として存在できる上限の温度が臨界点であり、下限の温度が3重点になります。×印は常温・常圧点で、気体が安定相であることを表します。
H2Oの相図は、1気圧付近を示しましたが、3相すべてが存在する珍しい物質であります。四季を通じて雨が降り、冬には氷がはり、真夏の夕立は涼をもたらします。地球はH2Oの3態が存在する自然環境にあり、地球の熱バランスを支える機能も果たしています。
2.氷の多様性
氷T(正確には氷Ih)の結晶は、前回の講義で示したように、一つの分子を中心にして正4面体的に4個の隣接分子と水素結合で結びついています。圧力や温度が変わると、分子間距離や結合角が変化して多様な高圧氷ができます。発見された順番に通し番号をつけて区別します。図2には10個の結晶相の安定領域が描かれていますが、相境界が厳密に決められていないところは点線にしてあります。
温度が上がると、分子の熱運動が活発になるので、より不規則な集合状態になるのに対して、圧力の効果は体積が小さく、密度の大きい配列構造を促します。H2Oは単純な分子にもかかわらず、これほど豊かな結晶相が見られるのも珍しく、水素結合の柔軟性によるものと考えられています。相図には、熱力学的に安定な相だけをのせ、過冷却水のように準安定な相は一般的にかきません。準安定な氷の相もこの他にいくつもあります。
室温で水に圧力を加えていくと、9,000気圧で凝固して氷になります。氷VIです。この氷は水に沈む、重い氷です。相図の上で水と共存する氷のうち、氷T以外(III、V、VI、VII)はすべて水に沈みます。高圧水よりも密度が大きいからです。氷VIIは100℃以上の温度で、水に沈む「熱い氷」ですが、氷Tのように、加圧すると融点が下がり、固体が液体に浮く方が異常なのです。一般に物質の融点は圧力とともに上昇します。2,000気圧以上の高圧状態では、このような融点上昇が起こり、水も氷も異常性がなくなり、ごく一般的な物質の性質を示すようになります。
図3は氷Tと氷IIIがそれぞれ高圧水と共存している状態ですが、結晶の形にも相の違いがよく現われています。
3.大気圧下の氷
氷T以外の高圧氷は、地表において自然の状態では観測されません。南極の氷河は5,000mにも達しますが、その底でも500気圧にすぎません。木星の衛星には表面が氷で覆われたものが多く、その巨大氷の底部には氷IIIや氷Vが存在すると予想されています。
大気圧で安定な氷はT相のみですが、準安定相としてダイアモンド型氷Icおよびガラス状のアモルファス氷があります。いずれも-100℃以下の低温の真空中で、水蒸気が急速に凝結したときに得られます。
結晶構造をもたないガラスのような「アモルファス氷」は、むしろ宇宙に存在します。極低温・超高真空の宇宙空間では、きちんと配列した結晶をつくる間もなくH2O分子が一気に凝縮し、ガラス質の固体をつくってしまいます。実際このような環境にある、暗黒星雲中に大量のアモルファス氷が存在することが赤外分光法で明らかになりました。すい星の核の部分は、鉱物のちりが混じった氷でできた、「汚れた雪だるま」に例えられますが、これもアモルファス氷であると考えれています。
新しいエネルギー源として「メタンハイドレート」といわれる、日本近海の海底に眠る大量の物質が注目を集めています。これはメタンなどが低温・高圧下で氷の中に詰め込まれ、シャーベット状になったものです。火を付けると、まるで氷が燃えているように見えるので、「燃える氷」とも呼ばれます(図4)。
一般に、ガスハイドレートとは、希ガスやメタンガスなどの小さな分子が、水素結合で連なったH2O分子からなる正12面体、14面体、16面体のかごの中に閉じ込められてできた結晶であり、実験室でも簡単に生成できます。詳しくは、東京ガス・フロンティア研究所、理化学研究所のホームページを見てください。
ハイドレートは、炭素の新しい相として注目されている、サッカーボール形のC60のかごやナノチューブの筒とよく似た構造をしています。炭素の4面体共有結合は、H2Oの水素結合と指向性がよく似ていることから、類似したかご型構造を形成し、そのなかにいろんな原子を取り込みます。
おわりに
融解現象を分子レベルで計算機を使って調べた研究を紹介します。H2O分子間の相互作用ポテンシャルから、ニュートンの運動方程式を時間を追って数値積分することで、H2O分子の動きを追跡したものです(図6)。
氷内部では、分子が結晶格子点のまわりを熱振動しているのがわかります。その振幅は温度が上がるとともに、少しずつ大きくなります。一方表面では、0℃になるにつれ、分子は格子点を離れて動き出し、液体状になります。融解は表面から結晶内部に徐々に進行し、ちょうど0℃で全体がとける様子が、計算機実験でよく再現されています。表面が融解の起点になることは、様々な実際の実験でも解明されており、ほかの多くの物質にも共通する普遍的な現象です。
最後に、極めて珍しい液体-液体相転移を2例紹介します。水には過冷却という準安定状態がありますが、圧力をかけると、過冷却の度合いがさらに大きくなります。この圧力下の過冷却水には低密度相と高密度相があり、ちょうど気体-液体に明確な相境界が見えるように、過冷却水もその臨界点(約-40℃, 500気圧)以下では2つの相に分離すると予言されています(文献2)。ただし、これは計算機実験が示す結果であり、過冷却水を凍らせず長時間保持するのが難しいので、実験的にはまだ検証されていません。もうひとつの例はヘリウムの液体で、超流動相と普通の液体相の転移です。超流動液体は、電子の超伝導と同様に、散逸しないでいつまでも流れ続けることができます。量子効果のためであり、物理学の重要なテーマとして活発に研究されています。詳しいことは、本学の物理教室のホームページ(超低温物理学研究室、素励起物理学研究室)を参考にしてください。
参考文献
1. N.H. フレッチャ-、「氷の化学物理」、前野紀一訳、共立出版(1974).
2. P.G. Debenedetti, Nature, Vol.392 (1998) pp.127-129.
三島修、「高圧力の科学と技術」、Vol.13, No.2 (2003), pp.165-172.