枝川裁判において提出された意見書

意見書

2005(平成17)年10月20日

田中 宏  

はじめに

 

東京都は、「東京朝鮮第2初級学校」(以下、枝川朝鮮学校という)の校舎の一部を取り壊し、校地の一部である都有地を返還すること、及び1990年以降の使用担当損害金として、約4億円を支払うこと、を求めている。同校には約60名の朝鮮人児童が現に学んでおり、都の要求は、これら児童が受けている「民族性を備えた普通教育」の機会を奪うことであり、重大な問題をはらんでいる。

 そこで本意見書をまとめたので、本件審理に参考にしていただければと思う。

 

1.「原状回復」義務と在日朝鮮人の民族教育

 

(1)1945(昭20)年8月、日本がポツダム宣言を受諾したことによって、36年に及ぶ日本の朝鮮統治も幕を閉じた。ポツダム宣言第8項には「カイロ宣言の条項は履行せらるべく・・・」とあり、そのカイロ宣言には、「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて、朝鮮を自由かつ独立のものたらしむる」とある。日本が受諾した国際文書に示された「歴史認識」は、戦後日本にとって重い意味をもっている。

  戦争末期の強制連行もあって、戦争終結時の在日朝鮮人数は、約230万人に達していたとされるが、戦後、短期間に帰国し、約60万人が日本に残留し、在日朝鮮人の原形となった。この60万人が、戦後どのような地位・処遇のもとに置かれたか、そのなかに在日朝鮮人の民族教育をめぐる経緯も含まれることになる。

 

(2)在日朝鮮人の身の上に最初におきた変化は、参政権の停止だった。戦前は、「内地」に在住する「外地人」すなわち朝鮮人・台湾人の男子は、同じ「帝国臣民」なので、国政(衆議院)、地方を問わず、選挙権及び被選挙権をともに有していた。しかも、投票にあたっては、ハングルによる投票も可能だった。次のような記事が残っている。「有権者中には、朝鮮字投票をする者が相当数ある見込みなので、東京府では急におん文字〔ハングル〕書を作り、各開票管理者に送付した。開票管理者の方でも、少々面食らった形で、早速おん文の勉強にとりかかってゐる」(1932年の総選挙に関する東京朝日新聞2月3日付)と。

  1945(昭20)年12月、婦人参政権付与として有名な衆議院議員選挙法改正が行われた際、同法付則に「戸籍法の適用を受けざる者の選挙権及び被選挙権は、当分の内これを停止する」が加わることによって、在日朝鮮人は参政権を失った。朝鮮や台湾にはそれぞれ内地戸籍とは別のものが作られており、朝鮮人、台湾人は、在日する者も含めて「戸籍法の適用を受けざる者」として峻別された。そして、翌46年4月に行われた戦後初の総選挙から参政権を失ったが、その時選ばれた議員によって新憲法が採択されたのである。

  次の変化は、外国人登録の義務が生じたことである。史上最後の勅令として制定された外国人登録令(1947(昭和22)年5月2日、勅令207)には、「台湾人及び朝鮮人は、この勅令の適用については、当分の間、これを外国人とみなす」(11条)と定められた。すなわち、日本人ではあるが「外国人とみなす」とされたのである。参政権を失い、さらに外国人登録を求められたことは、もはや「日本人」とは異なる観を呈したことは否めない。

 

(3)教育については、しかし、まったく異なった扱いを受けた。1948年1月、文部省学校教育局長は「朝鮮人の子弟であっても、学齢に該当するものは、日本人同様、市町村立又は私立の小学校又は中学校に就学させなければならない」(1月24日、官学5号「朝鮮人設立学校の取扱いについて」)との見解を示した。すなわち、日本人同様に「就学義務」を有するとされたのである。

  戦前は、「国語」は日本語とされ、「皇国臣民の誓詞」に象徴される「皇民化教育」が行われ、「創氏改名」により日本式氏名に変えられるなど、その民族性の否定が強行された。ハングルも知らなければ、民族の歴史や文化も知らない子どもたちが育ちつつあった。戦後、在日朝鮮人は、奪われた言語、文化、歴史、民族性の復権という難事業にこぞって取り組んだのである。日本各地に寺子屋のような「国語〔朝鮮語〕講習所」が生まれ、やがて朝鮮学校へと発展していった。本件の枝川朝鮮学校は、1946年1月15日、「枝川隣保館」内に国語講習所として発足した。全国の概況を知るために、<表1>を掲げる。(出典は、藤尾正人「日本における朝鮮人学校」、『レファレンス』62号、国立国会図書館、1956年)。

表1 朝鮮人学校の変遷

 

  

194610

194710

19484

19497

 

小学校

校数

525

541

566

331

 

 

学童数

42,182

46,961

48,930

34,415

 

 

教員数

1,032

1,250

1,229

995

 

中学校

校数

-

4

7

15

 

 

学童数

-

1,123

2,416

4,467

 

 

教員数

-

48

65

165

 

高等学校

校数

-

-

-

4

 

 

学童数

-

-

-

566

 

 

教員数

-

-

-

52

 

各種青年学校

校数

12

30

32

23

 

 

学童数

724

2,148

1,726

952

 

 

教員数

54

160

129

75

 

合 計

校数

537

575

605

372

 

 

学童数

42,906

50,231

53,072

40,520

 

 

教員数

1,075

1,458

1,423

1,287

 

※『民主朝鮮』19505月号26項による。この表にはないが、東京の朝鮮中学は194610月に設立。

  教師約10名、生徒数約300名であった。

 

 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、前述の文部省見解に基づき、朝鮮学校の閉鎖・改組が進められた。これに対する朝鮮人父母の反対は熾烈を極め、例えば、1948年4月に、占領下で唯一の「非常事態宣言」が出されたのは、ほかでもない阪神地区における朝鮮学校閉鎖をめぐってである。「阪神教育事件」と呼ばれたものである。

 

(4)激化する戦後の東西冷戦の中、1948年8月には、南朝鮮に「大韓民国」が、9月には北朝鮮に「朝鮮民主主義人民共和国」が生まれ、南北分断は決定的になった。1949年9月、北朝鮮系の「在日本朝鮮人連盟(朝連)」が団体等規正令によって解散を命ぜられると、その傘下の朝鮮学校への弾圧が強化された。比較的規模の大きい朝鮮学校は、東京都立朝鮮人学校など、公立学校に組み替えられたり、名古屋のように公立小学校の分校となったところもある。<表2>及び<表3>によってその概況がわかろう。本件の「枝川朝鮮学校」も1949年12月20日「都立第2朝鮮人学校」となったのである。

<表3>にあるように、都立朝鮮人学校は15校あり、そのために都は、<表4>に示されているように毎年、数千万円の予算を計上していた。

 

表2 校種別、形態別の在日朝鮮人学校数

 

表3 校種別、地域別の公立朝鮮人学校数

19524月)

 

19524月)

 

小学校

中学校

高 校

 

 

小学校

中学校

高 校

自主学校

38

4

2

44

 

東京

13

1

1

15

公立学校

12

1

1

14

 

神奈川

5

 

 

5

公立分校

17

1

 

18

 

愛知

3

 

 

3

特設学級

68

9

 

77

 

大阪

 

1

 

1

夜間学校

20

1

 

21

 

兵庫

8

 

 

8

155

16

3

174

 

29

2

1

32

※朝教組資料による。

 

※東京小学校13校の内1校は分校、

 東京以外はいずれも分校(朝教組資料による)

 

表4 東京都立朝鮮人学校

開設以後の都予算

1949

14,948,842

1950

46,673,256

1951

48,005,451

1952

58,620,621

1953

78,458,212

1954

85,288,844

1955

47,400,000

※東京都教育庁学務部

 

(5)戦後、日本は約7年間占領下におかれるが、対日平和条約の発効によって占領を解かれ再び主権を回復した。しかし、講和の時期は、そっくり朝鮮戦争期(1950年6月〜53年7月)と重なっており、サンフランシスコ講和会議(南北いずれの政府も招請されず)の開催、平和条約の調印は1951年9月8日、同条約の発効は1952年4月28日であった。

日本政府は、この条約発効日を期して、在日朝鮮人は、「日本国籍」を喪失し、「外国人」になったと“宣告”した。なぜ、宣告かといえば、それは一片の法務府民事局長通達(1952年4月19日、民事甲438号)によってなされたからである。憲法10条には、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とあり、国籍の得喪に関して憲法は法律主義を求めているが、それによらずして国籍を喪失させたのである。しかも、日本の国籍法(父母両系に移行する1984年改正以前のもの)では、「自己の意思」によらずして日本の国籍を失う条項は皆無であった。要するに、在日朝鮮人の日本国籍喪失は、憲法が要請する法律主義によらないという「形式」においても、自己の意思が問われなかったという「実質」においても、きびしい批判を免れない。

日本のかつての同盟国ドイツも、隣国オーストリアを併合し、そしてドイツの無条件降伏によって、オーストリアが独立を回復しており、日本と類似している。しかし、西独(当時)では、1956年6月、国籍問題規制法を制定し、国籍処理を行った。同法1条に、併合により付与された「ドイツ国籍」は、オーストリア独立の前日にすべて消失する、と定めるとともに、同3条で、ドイツ国内に居住するオーストリア人(在日朝鮮人に相当する)は、自己の意思表示によりドイツ国籍を回復する権利を有する、と定められた(川上太郎「西ドイツの国籍問題規制法」『戸籍』1976年5月号所収参照)。すなわち、在独オーストリア人には、“国籍選択権”が保障されたのである。

 

(6)日本政府は、「日本国籍」を有するとして日本学校への「就学義務」を課したが、平和条約発効時の「日本国籍」喪失により、状況は大きく変わることになる。文部省はそれを受けて、次のような見解を示した。

 

1953(昭28).2.11 文部省初等中等教育局長通達「朝鮮人の義務教育諸学校への就学について」(文初財74)

@     朝鮮人子女の就学については従来日本の法令が適用されて、すべて日本人と同様に取り扱

われてきた。しかるに平和条約の発効以降は、在日朝鮮人は日本の国籍を有しないこととなり、法令の適用については一般の外国人と同様に取り扱われる。

A しかし、朝鮮人については従来から特別の事情もあるので、さし当り次の措置をとることが適当と考える。

(ア)   日韓友好の精神に基づき、なるべく便宜を供与することを旨とすること。

(イ)   教育委員会は、朝鮮人保護者からその子女を義務教育学校に就学させたい旨の申があった場合には、日本の法令を厳守することを条件として、就学させるべき学校の校長の意見を徴した上で、事情の許す限りなお従前通り入学を許可すること。

(ウ)   従って学齢簿に登載する必要はないし、就学義務履行の督促という問題もなく、なお外国人を好意的に公立の義務教育学校に入学させた場合には、義務教育無償の原則は適用されない

(下線は引用に際し付す、以下同じ)

 

  すなわち、国籍喪失によって「就学義務」がなくなり、従って、「教育を受ける権利」も失うというのである。しかし、「日本国籍」を有するとされた時期(1952年4月まで)は、「就学義務」を根拠に、都立朝鮮人学校という独自の形態の学校が存在したことも事実である。そして、国籍喪失を機に、都立朝鮮人学校はすべて1955年3月をもって廃校となり、以降は、いずれも自主学校として運営されることになる。その結果、前述の<表4>にある毎年数千万円の公費は不要となり、学校の経費はすべて保護者の負担となってしまった。すなわち、外国人の教育について、日本政府には、もはや何の「義務」も「責任」もないというのだろう。

 

  (7)「通達」による「日本国籍喪失」は、1961年4月5日の最高裁判決によって是認された。同判決について国際私法学者沢木敬郎は、「朝鮮又は台湾の併合・領有がなかったならば、日本の国籍を取得せず、韓国や中華民国の国籍を保有したであろう者が、日本の国籍を失うと考えられた。すなわち、平和条約の精神はまさに原状回復にほかならない」と評釈した(同「平和条約の発効と国籍」ジュリスト228号、1961年)。“日韓併合なかりせば、として原状回復をはかる”という原状回復論こそが、この最高裁判決を支える“理念”とされ今日に至っている。

在日朝鮮人の民族教育は、まさに、“日韓併合なかりせば、有したであろう民族の言葉や文化を回復する営為”であり、それを保障することは、前述のカイロ宣言にあった「奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由かつ独立のものとする」ことを、日本国内で実現することをも意味することになる。しかし、朝鮮学校に対する日本政府の政策は、これらと相反することは明らかである。

 

2.文部次官通達の「思想」と自治体の認識

 

(1)1965年6月、日韓条約(及び付属協定)が調印され、日韓国交正常化が実現した。同年12月、文部省は、各都道府県教育委員会・各都道府県知事宛に、文部事務次官通達「朝鮮人のみを収容する教育施設の取扱いについて」(文管振210号)を発した。それは、

 「1.朝鮮人のみを収容する公立小学校の取扱いについて

公立小学校分校の実態は、・・・極めて不正常な状態にあると認められるので、・・・朝鮮人のみを収容する公立の小学校または中学校及びこれらの学校の分校または特別の学級は、今後設置すべきではないこと

2.朝鮮人のみを収容する私立の教育施設について

民族性または国民性を涵養することを目的とする朝鮮人学校は、・・・各種学校として認可すべきではないこと。・・・なお朝鮮人を含めて一般にわが国に在住する外国人をもっぱら収容する教育施設については、国際親善等の見地から、新しい制度を検討し、外国人学校の統一的取扱いをはかりたい」

というものだった。

まず、独自の形態といえる公立学校分校の設置は認めないとされ、前掲の<表3>

うち、神奈川の5校、愛知の3校、兵庫の8校の計16校は、いずれも翌66年3月に廃校となった(東京の15校は、前述のように55年3月に廃校、大阪の1校は、61年9月に廃校)。

次に、「民族性又は国民性の涵養を目的とする」学校は、あらゆる意味で「学校」とは

認めないとし、さらに、今後は、外国人学校制度を創設する予定である、としたのである。そして、翌66年から「外国人学校法案」(当初は学校教育法一部改正案として、後に外国人学校法案)が国会に提案されたが、ついに成立を見ることなく、今日に至っている。法案は、外国人学校の認可権、是正・閉鎖命令権等を知事から文部大臣に移すことが最大の眼目だった。14条からなる法案は、規制に関する条項ばかりで、大学入学資格の付与や私学助成という振興策や保護策は、何一つ含まれていなかった。文部省の「通達」及び「法案」のもつ“思想”は、極端な外国人学校敵視政策というほかないが、外国籍住民と直に接する地方自治体の“認識”は、それとは異ったものとなっていった。

 

(2)美濃部東京都知事は、1968年4月、文部省の通達にもかかわらず、法に基づいて朝鮮大学校を「各種学校」として認可した。いまでは、すべての朝鮮学校が各知事によって認可されている。従って、文部次官通達の前述の部分は、すでに死文化したといえよう。さらに、都道府県レベルでは、外国人学校への助成も行われるようになった。東京都の現在のそれは、「私立外国人学校運営費補助金交付要綱」(1995年11月30日、7総学−第736号)によってなされている(それ以前は、「私立学校教育研究費補助金」として交付)。その趣旨には、「地方自治法232条の2〔普通地方公共団体は、その公益上必要がある場合においては、寄附又は補助をすることができる〕の規定に基づき、私立外国人学校の教育条件の維持向上ならびに在学する幼児、児童及び生徒に係る修学上の経済的負担の軽減を図るため・・・」とある。そして、『東京都の私学行政−2005年』には、次のようにある。

 

補助対象は、東京都知事が認可した私立各種学校で、専ら外国人を対象とし、わが国の幼稚園、小学校、中学校または高等学校の課程に相当する課程を有する学校である。平成16〔2004〕年度は23校が指定されている。補助対象経費は、教職員人件費及び教育研究関係経費である。補助金の額は、学校割、生徒割の合計額である。

<表5>補助実績及び生徒一人当り予算単価

  

年 度

2001(13)

2002

2003

2004(予算)

2005(予算)

補助総額(千円)

95,161

93,101

85,206

93,120

93,585

予算単価(円)

(生徒一人当り)

15,000

15,000

15,000

15,000

15,000

 

なお、23校のうち、11校は朝鮮学校であり、他には、東京韓国学校初等部、東京韓国学校中高等部、東京中華学校、聖心インターナショナル・スクール、ブリティッシュ・スクールイン東京、セント・メリーズ・インターナショナルスクール、清泉インターナショナル学園、クリスチャン・アカデミー・イン・ジャパン、サンタマリアスクール、 アメリカン・スクール・イン・ジャパン、アメリカン・スクール・イン・ジャパン・ナーサリイ・キンダーガーデン、西町インターナショナル・スクールの12校である。

 

(3)さらに、市区町村レベルでも助成が行われている。次に一例として、東京都足立区が行っているものを簡単に紹介しておきたい。それは、「足立区外国人学校児童・生徒保護者負担軽減補助金交付要綱」によっており、その目的(同1条)には、「外国人学校に在籍する外国人である児童・生徒の保護者に対して補助金を交付し、その負担を軽減すること」とある。そして、その外国人学校は「認可を受けた各種学校のうち、外国人を対象として教育を行う学校で、義務教育に相当する教育を行うもの」で、「補助金の額は、児童・生徒1人につき月額6000円とする」とある。ここでも外国人学校での教育を「普通教育」と認識していることは明らかである。

 

(4)1989年の入管法改正によって日系人(日本人の2世、3世)は外来外国人であるが、就労を自由化するとする措置がとられ、ブラジル人、ペルー人などが急増し、2004年末には30数万人に達している。日系人の集住地域は東海地区及び北関東である。愛知県の約7万人及び静岡県の約5万人が群を抜いているが、そこには、トヨタ、スズキ、ヤマハ、ホンダなどの自動車産業が集中している。日本が世界に誇る自動車関連企業が、就労が自由化された日系人を大量に吸収しており、少子高齢化が進む日本社会の現実の一端が示されていよう。

これらの地域には、多くのブラジル学校やペルー学校が誕生しているが、いずれも各種学校でもなく単なる“私塾”にすぎない。最近、国際カリキュラム研究会『外国人労働者の子女の教育に関する調査研究』(2005年3月)がまとめられたが、そこでは栃木、群馬、長野、静岡、愛知、三重、岐阜、滋賀におけるブラジル学校が紹介されている。戦後、まもなく各地に生まれた「国語(朝鮮語)講習所」とほぼ似た状態といえよう。

そうしたなか、静岡県では、これらの学校の処遇改善に取組み、2004年3月、従来の「各種学校」及び「学校法人」の審査基準をいずれも緩和し、校地や校舎の借用が安定したものであれば認めることとした(静岡県「外国人児童・生徒等を対象とする私立各種学校設置認可等審査基準」及び「外国人児童・生徒等を対象とする私立各種学校を設置する準学校法人寄付行為認可等審査基準」、各2004年3月16日)。その趣旨には「(外国人の)子弟の教育環境の充実や就学率の向上を重要な課題とし・・・その地域に所在する、主として、我が国の義務教育年齢に相当する外国人児童・生徒を対象とする教育施設」とあり、ここでも外国人学校での教育は「普通教育」と認識されている。

そして、2004年12月、浜松にあるペルー学校が「各種学校」として認可され、さらに2005年8月にはその設置者が「学校法人」としても認可された。その結果、通学定期券の購入、授業料の消費税免除、さらには県の補助金も交付されることになった。このほかに、さまざまなスポーツ大会への参加も可能になるが、これらのいずれもが、朝鮮学校が長い間かけてひとつひとつ開拓した成果であり、それが新渡日者の学校に均霑することとなったのである。

その後、文部科学省は、2004年6月、各種学校規程(昭31=1956年文部

省令31号)を改定し、「特別の事情があり、かつ教育上及び安全上支障がない場合は」(10条)規制を緩和するとの措置をとったことを指摘しておきたい。すなわち、地方     自治体の“英断”を文科省が追認したのである。

 

(5)在日朝鮮人の民族学校は、奪われた言語や文化の“原状回復”教育−それはまた親の言語を継承する教育でもある−をその責務とし、一方、新渡日者のブラジル学校やペルー学校は、親の言語の“継承語(Heritage language)”教育をその責務としているといえよう。「継承語」という言葉は日本ではまだ耳慣れないが、多文化主義・多言語主義をとるカナダでの経緯をまとめた『カナダの継承語教育』(ジム・カミング他著、中島和子他訳、明石書店、2005年)には、次のようにある。「継承語教育は、異言語環境で親のことば、文化を育てる教育である。従って、世界の各地にある在外教育機関(日本人学校や補習校)も継承語教育であるし、日系人の手で営まれる〔海外の〕各種日本語学校も継承語教育である。また国内のオールドカマーの朝鮮・韓国人学校、中華学校、ニューカマーの母語教室(例えばベトナム語、ポルトガル語、スペイン語など)、ブラジル人、ペルー人学校もみな継承語教育の一種である」(訳者:中島和子「本書の解説にかえて」より)と。

 

3.進む「外国人学校」の認知

 

(1)外国人学校への冷遇策の一つに、その卒業者に日本学校への入学資格を認めないという問題があった。例えば、外国人学校の高校相当課程の卒業者は、「大学入学資格検定(大検)」に合格しなければ、大学を受験できなかったのである。学校教育法施行規則69条6号は、「その他大学において、相等の年齢に達し、高等学校を卒業した者と同等以上の学力があると認めた者」は、大学入学資格を有する、と定めている(大学認定条項)。公立、私立の大学では、この条項を活用して朝鮮高級学校の卒業者に入学資格を認めるところが増え、すでに過半数に達していたが、国立大学だけは忠実に文部省の意向に従って「大検」合格を出願の条件としてきた。

  しかし、1998年秋、京都大学大学院が、文部省の意に反して朝鮮大学校(各種学校)卒業者の大学院受験を認めた(合格)。同年、九州大学大学院も同じく門戸を開放した。いずれも、公・私立大学が活用した大学認定条項を活用してのことだった(学校教育法施行規則70条に該当条項がある)。大学院レベルではあるが、国立大学の一角が崩れたことから、文部省もついに方針変更を余儀なくされ、翌99年7月、各大学院の判断に委ねることにした。具体的には、「大学院において、個別の入学資格審査により、大学卒と同等以上の学力があると認めた者」を加える省令改定が行われた。

  残るは学部レベルの問題だけとなった。規制緩和の流れもうけて、文部科学省は、2003年3月6日、外国人学校(高校レベル)40校のうち、欧米系の三つの国際評価機関(Western Associatoin of Schools&Colleges=WASC , Association of Christian Schools International=ACSI , Europian Council of International Schools=ECIS)の認定をうけた16校の卒業者には、大学入学資格を認めると発表した。しかし、アジア系(朝鮮学校、韓国学校、中華学校など)を排除するのは“差別”だとの強い反発を招き、3月28日、それを凍結し、再検討すると表明した。

  文科省は、同年9月、ついに学部の入学資格問題についても方針変更を余儀なくされ、問題は基本的に解決された。それは、@3つの国際評価機関(前述)の認定をうけたインターナショナル・スクールの卒業者、A本国の高校と同等の課程を有すると位置づけられた学校(韓国学校、中華学校、など)の卒業者、B各大学の個別審査により認定された者は、いずれも大学入学資格を有するとされたのである。そのことは、これら外国人学校(高校相当)卒業者は、日本の高校(学校教育法1条にいう)卒業者と「同等以上の学力がある」と認められたことを意味し、外国人学校の教育がもつ“相当性”が承認されたことになる。

 

(2)2003年3月、前述の入学資格問題が動いたとき、外国人学校に対する税制上の優遇措置についても、新しい措置がとられた。所得税法及び法人税法の各政省令が改定され、新たに「初等教育又は中等教育を外国語によって施すことを目的」とする各種学校を設置する学校法人が、「特定公益増進法人」に加えられたのである。しかし、それを受けた文科省告示59号(2003年3月31日)では、その対象とする外国人学校に二つの要件が設けられた。一つは、その学校が前述の国際評価機関(WASC,ACSI,ECIS)及び国際バカロレア事務局により認定された学校であること、二つは、そこに学ぶ児童生徒が「外交」「公用」「家族滞在」の在留資格を有すること、とされた。三つのうち在留数が最も多い「家族滞在」は、中国3万6,453人、韓国1万5,786人、米国6,706人、インド3,065人、英国1,778人(2002年末現在、この数字は配偶者も含む)である。外国人学校のなかでも、極めて限られた学校のみが税制上の優遇措置を受けることになり、政策の歪みは明らかである。特定公益増進法人に指定されると、受け取った寄付金が恒常的に免税の対象となるため、益するところが大きい(後述の「指定寄付金」は臨時的)。

  文科省告示によって、今は極めて限定的になってはいるが、さまざまな各種学校のなかにあって、外国人学校が「初等教育又は中等教育を外国語によって施す」学校として認知されたことの意味は大きい。税制上におけるこうした認知は、外国人学校における教育が正規校(1条校)のそれに匹敵する「普通教育」であることを証明したことになろう。

 

(3)外国人学校に対する税制上の優遇措置には、「指定寄付金」制度という以前からのものもある。これは、校舎の新築や増築の場合などに集める寄付金に、あらかじめ財務省から指定を受けると免税措置がとられる制度である。その根拠になっているのは、「寄付金控除の対象となる寄付金又は法人の各事業年度の所得の金額の計算上損金の額に算入する寄付金を指定する件」(1965=昭40年4月30日、大蔵省告示154号)である。同告示では、「小学校、中学校、高等学校・・・の行う教育に相当する内容の教育」を行う各種学校も、その指定を受けることが出来るとある。しかし、その申請に当っては文科省と協議することになっている。そして、文部省の「思想」のゆえか、1997年に下関朝鮮学校が申請した時は、文部省の反対にあって、その寄付金は指定を受けることができなかった。

  それを扱った記事(朝日新聞、1997年8月7日)に登場した文部省国際教育室長は、「健全な日本人を育てるという立場からすれば、朝鮮人同胞を育てるのが目的の朝鮮学校は日本の公益に資するとは思えない。政府として優遇することには否定的にならざるを得ない」と述べている。同校を所管する山口県学事文書課長は、「国の見解は尊重するが、大変残念としか言いようがない。朝鮮学校が日本の学校に相当する内容の教育をしているとの山口県の認識は、今も変わらない」と述べている。文部省の「公益に資せず」という認識と、山口県の「相当する内容の教育」というそれとの間には、大きな落差が見られる。

  山口県の認識は、前述の大蔵省告示にある「相当する内容の教育」とも符合する。しかし、文部省の「公益に資せず」との認識は、前に見た東京都の「私立外国人学校運営費補助金交付要綱」が根拠とする地方自治法232条の2にある「公益上必要がある場合」とは矛盾する。なお、同じ外国人学校でも、「福岡インターナショナルスクール」については、文部省は同意し、その「校舎及び寄宿舎建設の費用」が指定寄付金の扱いを受けている(1993(平成5)年7月8日、大蔵省告示145号)。文部省のもつ“思想”がここに影を落としているのであろう。

 

(4)このように見てくると、財務(大蔵)省は、二つの税制上の優遇措置(特定公益増進法人及び指定寄付金)において、「初等教育又は中等教育を外国語により施すことを目的」とする学校、又は「(日本の学校)の行う教育に相当する内容の教育を行う」学校は、いずれも正規校(1条校)と同等の教育、すなわち「普通教育」を行っているとの認識に立っていることになる。財務(大蔵)省は、税金を徴収する立場であり、文科(文部)省といささか異なるのかもしれない。

 

4.外国人の「教育への権利」と国際人権法

 

(1)日本における外国人の「教育を受ける権利」は、どうなっているのだろうか。日本国憲法26条には「すべて国民は、・・・その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する。2、すべて国民は、・・・その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」とあり、教育基本法4条1項は、「国民はその保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う」と規定する。そして、「『国民』とは、日本国民をさす。外国人に対する義務教育の実施については、憲法上及び教育基本法上要請されておらず、本条〔学校教育法22条=就学義務〕についても、外国人には及ばないものと解されている。したがって、日本国内に居住する者であっても、その者が外国人である限り、その子女を小・中学校等に就学させる義務は生じない」という(鈴木勲『逐条学校教育法』学陽書房、第5次改訂、2004年)。著者の鈴木勲氏は、文部省のキャリア組で課長、局長、文化庁長官などを歴任している。この見解は、前に見た1953年2月の文部省初等中等教育局長通達(文初財74)と相通ずるものであり、文部当局に根強く残っていることを示していよう。

 

(2)一方で、これらとは異なる見解がある。

「これらの教育の権利・義務については『国民』という限定が付せられており、一見外国人にはこれらの規定の適用がないかに見受けられる。事実、従来は外国人に対して、『外国人子弟の就学義務について日本の法律による就学義務はなく、また外国人がその子弟を市町村立学校に入学させることを願い出た場合、無償で就学させる義務はない』(昭和28=1953年1月20日文部省初等中等教育局財務課長)とされてきた。

しかし、このような取扱いは、実質的には改められており、また改められねばならない。すなわち、世界人権宣言26条1項で『すべての者は、教育を受ける権利を有する』とされ、初等・基礎教育の無償と、初等教育の義務を課し、技術教育及び職業教育の一般的利用可能性と高等教育の能力に応じた均等の開放を義務づけていること、これを受けた、国際人権A規約13条や児童の権利条約28条が、より詳しい権利保障を行っていることなどからすると、当然の帰結である」(手塚和彰『外国人と法、第2版』有斐閣、1999年)。

すなわち、国際人権規準から考える視点が不可欠だとしている。

  社会権規約(A規約)13条〔教育への権利〕には「2.(a)初等教育は、義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする」とあり、児童の権利条約28条〔教育への権利〕1項には、「締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に」次のことをするとあり、社会権規約13条と同じく「初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする」とある。要するに、「国民」ではなく「すべての者」について教育への権利を保障しているのである。「国際人権規準」と「国内人権規準」とのギャップが浮かび上がってくる。

 

(3)「国際人権」と「国内人権」のギャップに関しては、憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」についても、次のような経緯がある。

  1954(昭29)年、建設省(当時)は、「公営住宅は、憲法25条の理念を具体化したものであるが、憲法が国民に保障しているこの生活を営む権利は、ただ日本国民のみを対象としたもので、外国人において権利としてこれを要求しえないと通常解されている」(同年11月8日、住発922号)との行政見解を示し、外国人には公営住宅の入居資格がない、としたのである(持木一夫『在日外国人の実体法上及び手続法上の地位』法務総合研究所、1983年所収)。その後も、国民年金法(1959年)、児童手当3法(1961〜1971年)などが制定されるが、いずれにも「国籍条項」が設けられ、在日外国人をことごとく社会保障の対象外としたのである。

  しかし、1975年のベトナム戦争終結と、それに伴う大量の難民流出(日本にも上陸)、同じ年の先進7ヶ国首脳会議(サミット)の発足は、日本に思いがけない結果をもたらすこととなった。当初の「一時上陸許可」から「定住許可」へ、そして「難民定住促進センター」の設置(神奈川県大和市、兵庫県姫路市)へと日本の難民受け入れ策は徐々に拡充していった。しかし、センターでの生活(原則6ヶ月)が終った後、難民が公営住宅への入居を希望しても、子どもの養育にと児童(扶養)手当ての支給を申請しても、いずれも“国籍の壁”に妨げられて、何一つ助けにはならなかった。

  フランスのルモンド紙が、日本の難民受入れ消極策の背景に、在日の朝鮮人や中国人に対する制度的差別があると指摘したのは1978年5月のことである。また、英紙ガーデイアンも、「日本人は“純粋な”もしくは無意識の人種差別主義者であり、彼らがこの国にも“人種差別問題”が存在すること、ないし他民族に対する彼らの態度に何かが欠けていることを認めない限り、事態の改善は望めない」と論評した(読売新聞、1979年8月13日)。

 

(4)日本政府もついに重い腰をあげ、国際人権規約(社会権規約と自由権規約)及び難民条約を相次いで批准せざるをえなくなった。国際人権規約を批准した結果、公共住宅関係(公営住宅、公団住宅、住宅供給公社、住宅金融公庫)の国籍要件を撤廃し、外国人に門戸を開放したのである。前述の公営住宅に関する行政見解も見直され、建設省(当時)は、「公営住宅の賃貸における外国人の取扱いについては、諸般の情勢にかんがみ、外国人であっても日本国に永住する地位を与えられた者等について、原則として、日本国民に準じて取り扱うことが望ましい」との新しい通達を発した(1980年2月8日、住政発9号、持木一夫、前掲書所収)。それが、国際人権規約という国際人権規準の受容に伴う措置であることはいうまでもない。

  次いで、難民条約への加入に伴っては、国民年金法、児童手当3法の「国籍条項」を削除する法改正が行われた(1982年1月施行)。これらの法改正は、いみじくも「難民の地位に関する条約への加入に伴う出入国管理令その他関係法律の整備に関する法律」によってなされた。一握りの難民が“黒船”となって、日本の社会保障制度の「一国主義」乃至「自国民優先主義」に“頂門の一針”を放ったといっても過言ではなかろう。

  従来の日本の社会保障制度は、「日本に住所を有する日本国民」を対象としていた。すなわち、居住要件を付すことによって「在外国民」を、国籍要件を付すことによって「在日外国人」を、ともに除外してきたのである。この場合、在外国民の社会保障はどこが責任を負うのかと問えば、それは在外国民の「居住国」が負うはずだ、と答えるしかない。しからば、在日外国人の社会保障はどこが責任を負うのかと問えば、それは在日外国人の「本国」が負うはずだと答えるしかない。在外国民は相手国に押しつけ、在日外国人はその本国に押しつけるというシステムが、どれほど整合性に欠けているかは多言を要すまい。国際人権規準を受け入れた結果、日本における社会保障の対象者は、「日本に住所を有する日本国民」から、「日本に住所を有する者」へと、大きな原理転換がはかられたのである。

 

 (5)憲法30条には「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」とある。しかし、納税の義務について、前述の建設省見解を拝借すれば、「憲法が国民に課しているこの納税の義務は、ただ日本国民のみを対象としたもので、外国人において義務としてこれを課しえないと通常解されている」ということになろう。税務当局がこうした解釈をとることは決してありえない。いみじくも、所得税法5条には「居住者は、この法律により、所得税を納める義務がある」とある。要するに、納税義務の面では、完全な“内外人平等”が貫徹されているのである。国際人権規準を受容した結果生まれた「日本に住所を有する者」とは「日本居住者」であり、それは即納税義務者なのである。従って、日本で憲法の教科書などが、外国人の生存権については、「それらを保障する責任は、もっぱら彼の所属する国家に属する」(宮沢俊義『憲法U、新版』有斐閣、1971年)などという言説が見られるが、謬論とういうほかない。なぜなら、例えば、在外国民の母子家庭に、日本の児童扶養手当が支給されない事実には一切言及しないからである。

  要するに、憲法25条の生存権と同30条の納税義務を分断して考えてきたが、国際人権規準を受容したことによって、ようやくその均衡を回復したのである。社会福祉の多くの財源が税金であることを考えると、至極当然のところに着地しただけのことである。

 

 (6)ところで、「外国人の教育への権利」について考えるときも、ほぼ同じ問題状況にあるといえよう。教育もまた、社会保障同様多くの公費が投入される分野であり、文科省資料によると、小・中の公立学校の児童生徒一人当り年間約100万円の公費が投入されている。すなわち、憲法26条の「国民」はもっぱら「日本国民」を指すとする文部当局の認識は、前述の建設省見解とそっくりであるが、その認識と国際人権規約及び児童の権利条約が、ともに「すべての者」の教育について規定していることとの乖離は明らかである。

  外国人の子どもの教育に関する文部当局の前述の認識が災いしてか、外国籍児童・生徒の就学状況に関する全国統計はまとめられていない。岐阜県可児市で2003年に実施された調査によると、「学齢期の外国人登録者318人のうち23人が『不就学』の状態にあった。所在不明者87人を除くと、対象者の実に1割の子どもが教育の機会を逸していることになる。全国的な『不就学』の実態は、統計が不在ゆえ定かではないが、その数は万単位に及ぶものと推計されている」という(太田晴雄「教育への権利と学習権の保障」『NPOジャーナル』8号、2005年)。

  文科省の『学校基本調査報告書(初等中等教育機関、専修学校、各種学校)』には、「不就学学齢児童生徒調査」が掲げられるが(ちなみに、2004年度のそれは総計2,261人)、そこには「外国人」は含まれない。その「調査票」に「外国人は、調査から除外する」と指示されているからである。前述の「国民」のみが就学義務を負うとの見解と符合するのであろうが、日本の学校に学ぶ外国人児童生徒の存在について、文科省がいかに“無頓着”であるかを示していよう。

 

 (7)日本が批准したいくつかの国際人権条約は、いずれも政府に定期報告書の提出を求めている。その報告書は、国連に設置された専門家よりなる各関係委員会において審査され、その結果は「総括所見(concluding observation)」にまとめられる。在日外国人の教育をめぐる問題は、そこでもしばしば指摘されてきた。そのいくつかを次に紹介しておきたい。

  自由権規約委員会が、1998年11月にまとめた「総括所見」には、「13、委員会は、朝鮮・韓国学校が承認されていないこと・・・に懸念をもっている。委員会は、規約27条の下での保護は国民に限定されないことを強調した一般的意見23(1994年)について、日本の注意を喚起する」とある。自由権規約27条〔民族的、宗教的または言語的少数者の権利〕には、「その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、・・・自己の言語を使用する権利を否定されない」とある。なお、一般的意見(General Comment)は、同委員会が示した解釈規準である。

  人種差別撤廃委員会が2001年3月にまとめた「総括所見」には、「15、委員会は、日本に居住する外国籍の子どもに関して、小中学校教育が義務教育になっていないことに注目する」とあり、前に見た「外国人である限り、その子女を小・中学校等に就学させる義務は生じない」とする文部省の見解とは異なっている。

  社会権規約委員会は、2001年8月、日本の「定期報告」審査後の「総括所見」でこう指摘した。まず「60.委員会は、さらに、締約国が、マイノリティの学校及びとくに朝鮮学校が国の教育カリキュラムにしたがっている状況においては、当該学校を公的に認め、それによって当該学校が補助金その他の財政的援助を得られるようにすること、および、当該学校の卒業資格を大学入学試験の受験資格として承認することを勧告する」と。ここで指摘された入学資格の問題は、前述のようにようやくクリアーできたのである。また、同じ項目で「委員会は、言語的マイノリティに属する生徒が、相当数就学している公立学校の正規のカリキュラムに、母語による教育を導入するよう強く勧告する」と指摘し、日本の学校に学ぶ外国人児童・生徒の母(国)語を学ぶ権利にも言及している。

  日本の現状と、日本が批准した人権条約のもつ国際人権規準とのギャップは明らかである。それは、前に見たように、「国民」と「すべての者」との間のギャップであり、さらに「マイノリティの権利」を承認するか否かの相違といえよう。社会保障における内外人平等原則の受容の時と同じように、教育への権利についても、「国民」の教育から「すべての者」の教育に原理転換をはからなければならないのである。それに加えて、もう一つの重要な観点は、マイノリティの権利を認めることであり、そこにおいて外国人学校・民族学校の存在が重要な意味をもってくることになるのである。

 

5.結びにかえて

 

 以上、下記の4項目を述べてきた。

@     日本政府が行った日本国籍喪失措置の際の理念「日韓併合なかりせば、の原状回復をはかる」に対応するものとして、日本政府には「原状回復」義務として在日朝鮮人の民族教育を保障しなければならない。

A     1965年、文部省は、「民族性又は国民性を涵養することを目的とする」朝鮮学校は、あらゆる意味で「学校」とは認めないとした。しかし、認可権をもつ都道府県知事は「各種学校」として認可し、その教育のもつ公益性に着目して補助を行うようになり、それは新渡日の学校などにも及びつつある。

B     文部科学省の外国人学校否定策も、大学入学資格問題の基本的解決、部分的ではあるが外国人学校に対する税制上の優遇措置もとられるなど転換期にあり、そのことは、外国人学校の教育が「普通教育」としての認知が進んだことを意味する。

C     従来、日本では教育の権利及び義務は「国民」のものとされ、「すべての者」の権利(義務)とする国際人権規準と異なっていた。しかし国際人権諸条約を日本が批准したことから、国際人権規準によって日本の現状が検証され、「すべての者」の「教育への権利」さらにマイノリティの権利すなわち民族教育権を保障すべきことが明らかになった。

このように見てくると、本件訴訟における、枝川朝鮮学校で行われている民族性を備え

た普通教育は、歴史的に見ても、国際人権規準から見ても、人権として保障されなければならない。

 本件訴訟の核心は、結局のところ、人格形成の基礎である「普通教育」を行っている枝川朝鮮学校に現に学んでいる子どもたちの「教育への権利」を奪うことにほかならない。東京都の形式的な請求は、子どもたちの権利を奪うに値するものとは到底考えられない。

歴史の歯車を逆に廻すことがあってはならないのである。

                                     以上

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