改めまして、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
と言うわけで、皆さん、どんな新年初日をお迎えになりましたか?
今日は、お寺では、「修正会(しゅしょうえ)」というお正月の法要が勤まりました。住職としての年頭の挨拶は、真宗教団連合から出ている「2008年・法語カレンダー」の1月の言葉を手がかりにお話させていただきました。
「仏の教えを論じる人は多いが、その要(かなめ)を教える人は少ない」
という言葉です。ここで考えてみたいのは「要(かなめ)」って何だろう??って事です。
都会のカルチャースクールなどでは、「仏教」を知的対象として受講する方が多いと聞きます。「あぁ、仏教ってこんな事言ってるのね・・・・・な・る・ほ・ど・・・・」と言う風に自分の知的好奇心が満たされたからと言って、知識教養として仏教に詳しくなっても(意味がないとは言いませんけど・・・)、必ずしも仏教をいただいているとは限りません。何ページに何が書いてある、、とか、ダレソレはこんな事を言った、、、などと得意になってみたところで、その人の人生の「一大事」が発生したとき間に合わないのであれば、ヒマ人の時間つぶしに過ぎないのではないか、とおもうのです。
さて、日頃僕が、お坊さんとして語っている「仏教」はどうなっているのか?もちろん、お坊さんですから勉強はしなくちゃいけません。
しかし、この私、KONO自身が100%間違いなく、老いていく、縁があれば病になる、そして必ず死んで行かなきゃならない「人間存在」であるっていう「根本問題」に対して、仏教の「要」を聞き、学び、体得し、KONOの人生に於いて実践しているのだろうか??それを語っているのだろうか?
そんな事を改めて、このカレンダーの言葉から見つめ直す機会をいただいたのでした。
実は、昨日(大晦日)に亡くなった方がいて、三が日を避けて、1月4日にお通夜が決まっています。いのちの真実には待ったがありません。
ふり返れば昨年、私が住職になってから、「葬儀」の数が例年になく多くて、葬儀、法要に明け暮れる日々・・・・。「葬式仏教」と批判されようが、「葬式ボウズ」とシタリ顔で揶揄されようが、自分は、目の前に迫った「葬儀」の一つ一つをお勤めしなきゃならないのです。
ひとつひとつの葬儀には、もちろん、一人一人の「人生」があり、それぞれの遺族の「哀しみ」があり、そして、その「場」に行かなきゃならない「新米住職」の自分が、どう振る舞ったらいいのか、ココロの置き方をどうしたらいいのか、遺族の方に何をお伝えしたらいいか・・・・・、本当にシンドイ私がいて・・・。「葬儀をするために住職になったんじゃないのに・・・」と悶々としている自分がいました。
今もシンドイ自分である事は変わりませんが、去年の途中からハッキリと思ったことは、
一つ一つの「葬儀」や「法事」や「お参り」を
「自分のために」
勤めさせていただく・・・・ってことなんです。
「自分のために」って言ってしまうと、誤解されるかもしれないけれど、
まず私KONOが、亡くなった方の前に身を置き、自分の独自・唯一・有限・無常なる「いのちの事実」を学ばせていただこうって事。「法話」をするときも、遺族の人の前で話している「形態」はとっているけど、「自分のために、自分に言い聞かせるために」話そう、って思ったのです。
仏教を「物知り博士」になってどれほど論じ、説いてみたって、私KONO自身の人生はどうなってんねん?俺自身はどうやねん?どうなっていくの?っていう点がハッキリしていないと「要」でないと思うのです。
だから、「要」とは、「この私自身はどう??」っていう1点に立って学び、歩き続けていくことではないのかな・・・、
住職になってからよくこんな質問をされます。「法事を命日より遅らせたらダメ?」とか「墓参りをしないとバチが当たる?」などなど。誤解を恐れずに言うと、法事を遅らせようが、いや、法事をしなかろうが、墓参りを忘れようが、どうだっていい。実は、そんなのは「要」ではないからです。じゃ、なぜ、遅らせたらダメなの?忘れちゃダメなの?誰が言った??経典の何ページかに書いてあった?? じゃ、法事をきちんとして、墓参りも忘れない「優等生」でいたら、その人は死なないの?病気にならないの?災いがこないの??・・・・・そんなことありません。私より先に亡くなった方は、「死の縁(条件)が整えば、死ななきゃならない命だよ。あんたの現在の生き方はどうだい?大丈夫かい?」という「真実」を教えてくださってます。それを学ぶために、「法事」があり、「墓参り」があるのでしょう。
文字通り「修正会」という、年頭にあたって私自身のあり方を見つめ「軌道修正」する法要で、仏教の「要」について確認させていただいたなぁ、と感じた新年初日でした。
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