風邪のプレッシャー
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今夜、またお通夜でした。
お通夜では、お経の後で「お話(法話)」をさせていただくので、やはり緊張しますし、疲れます。今日の「お坊さん」としての自分は果たしてどうだったのか、お伝えしなきゃならない事を、お伝えすることができたのだろうか、いつも不安なのですが・・・。
帰ってから私服に着替えて、久々に近所の本屋に行ってきました。「新書」を2冊ばかり購入。
ウチに戻り、自分の部屋のソファーで横になりながら、「読みたかった本」をやっと読めている「時間」が、今は一番好きなんだなぁ…。
…といいながら、ウトウトばかりして、なかなか読めてないんだけどね(^^;)
でも、そんなウトウトも好きなんだよなぁ…。
今日という日の「業(わざ)」を為し終えた時間。
「ひとり」の時間。
今の自分にとって「大切な」時間。
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「僕はマイナス思考です・・・・」
などと言うとイメージが悪いので、批判されたり、心配されたり、バカにされたりするかもしれない。
でも、何でも自分の都合よく、うまくいくのが「当たり前」という土台に立っているよりも、
そうじゃなく、
全ては、つながり・関わり合い(縁)の中にあり、思い通りにいかない事の方が多い、「ママにならない(諸行無常)、アテにならない(諸法無我)」という土台に立っている方が、
期待を裏切られ、思い通りにならなくても、それはそれで「当たり前」だし、
逆に、
もしも、
期待通りに、思い通りにうまくいったならば
涙が出るくらい嬉しく、腹の底から「有り難う」と喜べるのだ!!
だから、僕のこんな「マイナス思考」は、そのまま「プラス思考」につながっているのだと思っている。いや、そうありたいと思っている。
単なるマイナス思考ではイジケてるに過ぎないし、単なるプラス思考では転んだときモロイ。
だから、
自分の都合を「土台」にしないこと・・・・、
・・・いや、それはムリなので、
自分の都合のみを「土台」にしている自分自身に気づきなさいよ!っていう呼びかけを「仏教」の教えからいただき、シッカリと歩む姿勢を学び、実践したい。
私には、お守りも厄払いも不要。だってそんなものでエゴを「土台」にしたままの自分を甘やかし、誤魔化してみたところで、「生まれた」以上100%「老・病・死」の人生に「都合」を裏切られ、アテにならない・ママにならない「結末」が待っているからだ。
「当たり前」の反対語は「有ること難し(ありがとう)」なのだ。
日常の何気ない瞬間を「有り難う」と喜べるのか、
それとも、
「当たり前じゃ~~ん」として無感動に素通りしていくのか・・・・。
僕は、そんな事を日々の中で学ばせていただいている浄土真宗のお坊さんです(^_^) いや、そうありたいと思っている38歳のオッサンです(*^_^*)
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みのや師匠のフレーズ。
「頑張っても必ずうまくいくとは限らない」
そうなんだ。
「でも、頑張れば必ず感動できる」
「感動する為に生きている」
まさにそうなんだ。
今年の僕には、
「静かな志」がある。
あくまでも「静かな」だ(笑)
だから、たとえうまくいかなくても、また「静かに」体勢を立て直すだろう。
でも、
今年の「初夢」で見た光景は、すべてに絶望して「割腹自殺」をしようとする自分だった…。実は一皮むけば、悲しいくらい不安定な自分自身であることを再確認した初夢。
どこかで投げやりになっていたのかもしれない。
昔みたいに「メラメラ」できなくなった自分がいるのも事実だからだ。
でもね、
やっぱり やらなきゃならない。
♪崩れ落ちた時間だけ 強くなってく魂がある・・・
(みのや雅彦『たとえ空から無情の雨が降り続けても』より)
「根」を強く。
突風が吹いても「折れない心」で…。今年。
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苦手な食べもの・飲みもの。
1・牡蠣
2・レーズン
3・日本酒
もしも、僕に『食わず嫌い王決定戦』のような場面があったとしたら、判定前の「試食」すらできないと思う。特に、「牡蠣」は口に入れるだけでアウト。アノ番組に出るタレントさんは、苦手なものでも1度はポーカーフェイスで食べてるのがスゴイと思う・・・。
苦手なもの。
1・虫 (幼虫・・・・・・・・・・・・・・・・)
2・暑さ(23度以上)・寒さ(10度以下)
3・不躾な視線
なぜだろうね。どうやったって、苦手なモノは苦手なのだ。
苦手なものと言えば・・・・、
みのや師匠は「ネズミ」が苦手だと言う。
僕が高校の頃、京都で聴いていた深夜放送でも、本番中にディレクターにネズミの縫いぐるみを放り込まれ狼狽していた師匠を思い出す。今年初めのラジオでも、「子年」にちなんだ放送内容で、笑わせてもらった。
で、元日に、そんなみのや師匠からの年賀状が届いた。(師匠、ありがとうございます♪)
毎年、師匠の年賀状はデザインが面白いのだが、今年「子年」の年賀状はどんなデザインなのか楽しみにしていた。果たして、ネズミをデザインした年賀状になるのだろうか・・・・。それとも、干支には触れずまったく関係ないデザインになっているのだろうか・・・。
届いた年賀状を見て・・・・、なるほどぉぉぉぉと思わず叫んでしまった。
メインの図柄は、「UFOと宇宙人」のイラストだった(笑)。(1箇所にネズミのデザインが隠されていたが・・・)UFOと宇宙人と言えば、師匠の「大好き」分野ではないか!!
年賀状のデザインって面白い。
今年も皆さんから色んな年賀状が届いた。
毎年、その歳の干支の動物のデザインが多いけど、犬好きな人は犬の写真をメインにしていたり・・・。他にも、家族の写真。こどもの写真。習字で達筆な文字が書いてあったり、絵手紙風のもの、お坊さんなら法語、音楽好きな人なら楽器のイラストとか、本当に色々で、楽しい。
年賀状は贈り物だと思う・・・(笑)
で。
今年。僕が送った年賀状のデザインは、ギターを抱えた自分自身↓↓↓・・・・。やっぱり、「自分大好き」人間なのでした(笑)
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バンドの解散コンサートから1週間が過ぎた。
1週間過ぎれば、新年になっていた。
またどんどんと月日は過ぎていくのだろう・・・。
僕の部屋には、バンド活動で使用したマイクスタンドや譜面台、音響機器、ケーブル類が、先週のコンサート終了後に運んだまま整理もせずにそのままの状態になっていた。なぜか、整理したり、片付けたりする気になれなかった。ギターもケースに入れたまま1週間触れなかった。
1月1日の深夜、
新年のスタートの節目として、そして、バンド解散後、これから「ひとり」でやっていく創作活動の「拠点」とするべく、僕の書斎(?)を「スタジオ」に改造することにした。
バンド練習のメインで使用していた「ミキサー」や「スピーカー」は僕個人の所有物ではないのだが、バンドマスターのOさんから「無期限」で預からせてもらうことになったので、それらを配置し、ケーブルをつなぎ、マイクスタンド、譜面台、イスを並べてみた。所有しているアコースティックギターを全部並べてみた。(スタジオ化と言っても、まぁ、それだけの事なんだけど・・・。)
スイッチを入れさえすれば、すぐに「最高の音」で歌えるようにセットした。
新年を迎えた夜に、書斎に完成した「スタジオ」で、ひとりぼっちで僕は歌い始めた。ムキダシの「声」とギターの「音」が、なんだか心細いような、物足りないような気がした。
でも、自分の「声」が、以前よりも好きになっていた。
もともと「一人」で歌い始めた。そんな自分にとって10年以上のバンド活動は、シンプルな原曲にみんなの力が加わることで、「歌」の色んな「顔」を発見することができて、ホントに楽しかった。
そう、久しぶりに、一人でのギター弾き語りスタイルに戻った。そして、今後は「一人」が当たり前の「演奏スタイル」になっていく。
しばらく「新曲」を作っていなかったが、またこれからの「日々」の中で沸き起こる気持ちを、この「書斎スタジオ」で、「歌」に変えていけたら・・・・そう思う。
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改めまして、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
と言うわけで、皆さん、どんな新年初日をお迎えになりましたか?
今日は、お寺では、「修正会(しゅしょうえ)」というお正月の法要が勤まりました。住職としての年頭の挨拶は、真宗教団連合から出ている「2008年・法語カレンダー」の1月の言葉を手がかりにお話させていただきました。
「仏の教えを論じる人は多いが、その要(かなめ)を教える人は少ない」
という言葉です。ここで考えてみたいのは「要(かなめ)」って何だろう??って事です。
都会のカルチャースクールなどでは、「仏教」を知的対象として受講する方が多いと聞きます。「あぁ、仏教ってこんな事言ってるのね・・・・・な・る・ほ・ど・・・・」と言う風に自分の知的好奇心が満たされたからと言って、知識教養として仏教に詳しくなっても(意味がないとは言いませんけど・・・)、必ずしも仏教をいただいているとは限りません。何ページに何が書いてある、、とか、ダレソレはこんな事を言った、、、などと得意になってみたところで、その人の人生の「一大事」が発生したとき間に合わないのであれば、ヒマ人の時間つぶしに過ぎないのではないか、とおもうのです。
さて、日頃僕が、お坊さんとして語っている「仏教」はどうなっているのか?もちろん、お坊さんですから勉強はしなくちゃいけません。
しかし、この私、KONO自身が100%間違いなく、老いていく、縁があれば病になる、そして必ず死んで行かなきゃならない「人間存在」であるっていう「根本問題」に対して、仏教の「要」を聞き、学び、体得し、KONOの人生に於いて実践しているのだろうか??それを語っているのだろうか?
そんな事を改めて、このカレンダーの言葉から見つめ直す機会をいただいたのでした。
実は、昨日(大晦日)に亡くなった方がいて、三が日を避けて、1月4日にお通夜が決まっています。いのちの真実には待ったがありません。
ふり返れば昨年、私が住職になってから、「葬儀」の数が例年になく多くて、葬儀、法要に明け暮れる日々・・・・。「葬式仏教」と批判されようが、「葬式ボウズ」とシタリ顔で揶揄されようが、自分は、目の前に迫った「葬儀」の一つ一つをお勤めしなきゃならないのです。
ひとつひとつの葬儀には、もちろん、一人一人の「人生」があり、それぞれの遺族の「哀しみ」があり、そして、その「場」に行かなきゃならない「新米住職」の自分が、どう振る舞ったらいいのか、ココロの置き方をどうしたらいいのか、遺族の方に何をお伝えしたらいいか・・・・・、本当にシンドイ私がいて・・・。「葬儀をするために住職になったんじゃないのに・・・」と悶々としている自分がいました。
今もシンドイ自分である事は変わりませんが、去年の途中からハッキリと思ったことは、
一つ一つの「葬儀」や「法事」や「お参り」を
「自分のために」
勤めさせていただく・・・・ってことなんです。
「自分のために」って言ってしまうと、誤解されるかもしれないけれど、
まず私KONOが、亡くなった方の前に身を置き、自分の独自・唯一・有限・無常なる「いのちの事実」を学ばせていただこうって事。「法話」をするときも、遺族の人の前で話している「形態」はとっているけど、「自分のために、自分に言い聞かせるために」話そう、って思ったのです。
仏教を「物知り博士」になってどれほど論じ、説いてみたって、私KONO自身の人生はどうなってんねん?俺自身はどうやねん?どうなっていくの?っていう点がハッキリしていないと「要」でないと思うのです。
だから、「要」とは、「この私自身はどう??」っていう1点に立って学び、歩き続けていくことではないのかな・・・、
住職になってからよくこんな質問をされます。「法事を命日より遅らせたらダメ?」とか「墓参りをしないとバチが当たる?」などなど。誤解を恐れずに言うと、法事を遅らせようが、いや、法事をしなかろうが、墓参りを忘れようが、どうだっていい。実は、そんなのは「要」ではないからです。じゃ、なぜ、遅らせたらダメなの?忘れちゃダメなの?誰が言った??経典の何ページかに書いてあった?? じゃ、法事をきちんとして、墓参りも忘れない「優等生」でいたら、その人は死なないの?病気にならないの?災いがこないの??・・・・・そんなことありません。私より先に亡くなった方は、「死の縁(条件)が整えば、死ななきゃならない命だよ。あんたの現在の生き方はどうだい?大丈夫かい?」という「真実」を教えてくださってます。それを学ぶために、「法事」があり、「墓参り」があるのでしょう。
文字通り「修正会」という、年頭にあたって私自身のあり方を見つめ「軌道修正」する法要で、仏教の「要」について確認させていただいたなぁ、と感じた新年初日でした。
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