2008年01月11日
◆ 遺伝子の意味(生命子)
前項に続いて論じよう。
まず、「動的平衡とは何か?」を考える。すると、結論として、次のことが得られる。
「遺伝子の本質は、遺伝ではなく、(その逆に)遺伝以外のことである。つまり、生命の生存である」
「遺伝子は、『遺伝子』と呼ばれるべきではなく、『生命子』と呼ばれるべきだ」
──
本項では、最終的には、「遺伝子の本質は何か?」という問題に行きつく。ただし、最初は、「動的平衡とは何か?」を考える。前項で述べた書籍「生物と無生物のあいだ」の主題は、「動的平衡」であった。
ここで言う「動的平衡」とは、何のことか? まずは、これを手がかりとして、考えはじめよう。(最終的には「遺伝子の本質」に行きつくにしても、手がかりとしては「動的平衡」を考える。)
──
まず、用語の定義から始めよう。
同書では、「動的平衡」という言葉の意味が曖昧だった。そこで、曖昧さをなくすために、本項では特に、シェーンハイマーの見出したこと(= 真の「動的平衡」)だけを考える。(つまり、前項の(1)だけ。(2)の「遺伝子補償」のことは考えない。)
では、前項 (1) の「動的平衡」とは、何を意味するか?
──
まず、シェーンハイマーの見出したことから、「生物が動的平衡にある」ということが、わかっている。つまり、次のことが成立する。
(i) 動的である。 …… 静的ではない。
(ii) 平衡状態である。…… 見かけ上は静的に見える。
静的なものとは、無機物などだ。生命は、それとは違って、たえず変容している。だから、静的ではない。
動的なものとは、次々と変化していくものだ。風であれ、雨であれ、行く川の流れに浮かぶうたかたであれ、絶えず変化していく。ただしそれらは、変化していることが見て取れる。一方、生物は、変化していることが見て取れない。つまり、一見したところ、静的に見える。
この (i) (ii) という二つのことが両立する、ということが、「動的平衡」だ。
──
では、動的平衡は、何を意味するか? その本質は?
それは、(私の考えでは)こうだ。
「遺伝子とは、個体発生の段階で遺伝形質を決めるためだけに作用するのではなく、誕生から死ぬまでのあらゆる生命活動において、たえず作用している」
「あらゆる生命活動」というのから(最初の)「個体発生の段階」を除けば、個体の生存状態と言える。
あ ら ゆ る 生 命 活 動
……━━━━━━━━
個体発生 個体の生存状態(生涯)
赤ん坊も、子供も、大人も、老人も、個体は常に生存状態にある。そして、そういう生存状態において、遺伝子はたえず働いている。
つまり遺伝子は、個体発生における胎児のときだけに働くのではない、ということだ。最初に働くだけでなく、常に働いている、ということだ。
( 図の …… だけでなく ━━━ の全期間で働いている、ということ。通常は …… だけで働いている、と思われがちだが。)
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たとえば、GP2 というタンパク質をつくる遺伝子がある。この遺伝子は、ネズミの生命の活動のどの段階でも働いて、毎日毎日 GP2 というタンパク質をつくっている。決して、ネズミが誕生するとき(個体発生段階)だけに働くのではない。むしろ、ネズミが誕生したあとでこそ、しっかりと働く。
このような遺伝子は、通常は、正常に働いている。だが、あるとき突然、遺伝子が壊れると、正常なタンパク質をつくれなくなって、異常タンパク質をつくるようになる。
すると、どうなるか? 個体には、遺伝子病(遺伝子疾患)が発現する。たとえば、アルツハイマー病がそうだ。これは遺伝子の部分欠損によって、異常タンパク質が生じることによって生じるらしい。(同書による。)
──
生体内では GP2 というタンパク質がつくられる。この際、生体の細胞組織が器質的に作用してタンパク質をつくるのではない。生体の遺伝子が、遺伝子の情報を利用して、分子レベルの化学作用としてタンパク質をつくる。
特に、アミノ酸からタンパク質をつくる過程では、たえず遺伝子の情報が参照されている。(だからこそ、老化によって遺伝子が壊れると、アルツハイマー病などの遺伝子疾患が起こる。)
──
以上のことから、こうわかる。
「遺伝子」とは、「遺伝ないし個体発生のための最小要素」ではなくて、「生命活動のための最小要素」なのだ。
その意味からすると、「遺伝子」という言葉は、はなはだ不適当だ。それは、いわば、われわれの生命活動そのものを「遺伝」と呼ぶのと同様である。
「われわれは生きている。生きているから、歌うんだ」
という書くべきところを、
「われわれは遺伝している。遺伝しているから、歌うんだ」
と書くようなもので、まったく不適切な表現だ。生きているということは、遺伝を受けているということではない。生きていることは、生きていることである。生きていることは、生命活動がなされているということである。そこでは、「生きる」とか「生命」とかの言葉が妥当であって、「遺伝」という言葉は妥当ではない。
だから、こう結論できる。
「遺伝子というものの呼び名は、『遺伝子』ではなく、『生命活動子』もしくは『生命子』と呼ぶべきだ。それでこそ、DNAの本質を示せる」
DNAと遺伝子とは、(細かい点を除けば)同一視される。しかし、DNAは「遺伝子」と呼ぶよりは、「生命子」と呼ぶべきなのだ。そうしてこそ、DNAの本質を言い表す。
DNAは、個体発生のときに個体を形成するためだけに働くのではなく、それ以後のすべての段階で働くのだ。人間で言えば、誕生前の 280日ほどの期間だけに働くのではなく、それ以後の 80年ぐらいの人生のすべてにおいて働き続けるのだ。すべての遺伝子が毎日働く、というわけではないが、とにかく毎日、莫大な数の遺伝子が働いている。(もちろん、働いていない遺伝子もたくさんあるが。)
──
遺伝子の本質は生命子である。このことが、シェーンハイマーの「動的平衡」という概念からわかるわけだ。とすれば、このことこそが、「動的平衡」ということの概念の重要性だ。
「動的平衡」の本当の意義は、「分子がたえず交替されている」という現象それ自体ではない。その現象をもたらす根源だ。つくられたものの方ではなく、つくっているものの方だ。
「分子がたえず交替されている」ということは、「組織(タンパク質)がたえずつくられている」ということだ。では、どうやって、つくられるか? そこではDNAが働いている。DNAが組織をつくっているのだ。
ここでは、つくられるものよりも、つくっているものこそ、重要である。そして、つくっているものは、DNAである。
だから、DNAの役割は、「親の情報を子に伝える」という意味の「遺伝」ではなくて、「生命を存在させる」という「生存」なのだ。
DNAの本質は、「遺伝」ではなく、「生存」である。── このことが、「動的平衡」という概念の重要性である。
私はそう思う。
( ※ 福岡伸一が「動的平衡」という概念を提出したことは、重要だ。ただし、彼は問題提起はうまかったが、解答を間違えてしまった。「動的平衡」の重要性を「遺伝子補償」のことだと思い込んでしまった。そこで私は、シェーンハイマーに立ち返って、その本当の意義を明かしているわけだ。「動的平衡」という概念の重要性は、DNAの役割が「遺伝」ではなく「生存」であることを示したことだ、と。)
※ 重要なことはすでに述べた。あとは、補足的な細かなことを記す。
[ 付記1 ]
「『遺伝子』という言葉は、はなはだ不適当だ」
と上では述べた。その理由を詳しく示そう。
そもそも、遺伝形質というものは、生物のうちの個体差の部分にすぎない。分子的には「個人の塩基差」というレベルのものだ。そういうものは、生物における変異量でもごくわずかだし、また、変異があっても、たいして重要性がない。
たとえば、「指を形成する遺伝子」というものは非常に重要だし、それがなければ大変なことになるが、「耳アカが湿っているか乾いているか」という遺伝子は、どっちでも構わない。「血液型が何型か」ということも、どうでもいい。
同様に、メンデルのエンドウ豆の実験で、豆が「シワよっているか/シワよっていないか」という遺伝子の差も、たいして重要性はない。
一般に、遺伝的形質というものは、「個体の生存にとってはどっちでもいい」というふうに、重要性が低いものだ。一方、変異することで致死的になるような遺伝子は、重要性が高い。
まとめると、こうだ。
・ 遺伝形質 …… 遺伝子変異は可能 …… 重要性が低い
・ 生命形質 …… 遺伝子変異は不可 …… 重要性が高い
結局、DNAには、重要な形質と、重要でない形質とがある。そして、遺伝形質というものは、重要ではないものだ。DNAの本質は、遺伝形質ではなく、生命形質にある。ここにこそ本質があるのだ。遺伝形質というのは、どうでもいいような、ただのオマケにすぎない。
だから、(本来ならば両方を見るべきだが)どちらか一方だけを見るとしたら、生命形質の方だけを見るべきだ。そちらにこそDNAの本質がある。遺伝形質の方は、非本質的であるにすぎない。
DNAの意味は「遺伝子」ではなくて「生命子」もしくは「非遺伝子」である。「非・遺伝子」ではなくて「非遺伝・子」である。こういうふうに認識するのが、DNAの本質を知るということだ。(「遺伝子」の部分は、あることはあるが、重要ではないオマケにすぎない。)
ただ、歴史的に見ると、次のようになる。
・ 遺伝形質 …… メンデルの実験で簡単に判明する
・ 生命形質 …… 遺伝子分析などの高度な解析が必要
こうして、前者は簡単に判明し、後者はなかなか判明しなかった。本質的であるかどうかよりも、簡単にわかるかどうかが重視された。そのせいで、DNAを「遺伝子」と呼ぶ命名が定着してしまったのである。
とはいえ、その命名は、あまりにも不当な命名であった。DNAの本質は、遺伝部分にあるのではなく、非遺伝部分にあるからだ。
こうして「DNAの本質は生命子である」という真実は、ずっと理解されないままであった。
( ※ このことは、漠然とは理解されているのだが、しかし、はっきりと言葉では理解されていない。いわば「地球は平らだ」と信じているような時代と同様だ。「地球は丸い」ということは経験的にわかっているとしても、世間常識では「地球は平らだ」というのが常識なので、その常識を信じて疑わない状態だ。)
( ※ 実際、Google で検索してもわかるが、本項で述べた趣旨で、「DNAは遺伝子ではなく生命子だ」という趣旨で述べている人は、一人もいないようだ。少なくとも、日本語サイトでは。)
[ 付記2 ]
日本語では「遺伝子」だが、英語では gene という、素っ気もない単語となっている。では、どうして?
実は、 gene は、デンマーク人のウィルヘルム・ヨハンセンの提案による命名だ。また、語源は、英語ではなくてドイツ語の Gen から来ており、 Gen はまさしく「遺伝子」の意味だ。だから、「遺伝子」という和訳は、英語からからの訳というよりは、ドイツ語からの訳として、正当であるわけだ。。
では、どうしてドイツ語では Gen が遺伝子なのか? それはそもそも、 Gen という言葉が「メンデルの定めた『遺伝因子』の意味」という形で定義されたからだろう。たぶん。……つまり、結局はメンデルに行きつくんですね。遺伝学としては。たぶん。(詳しくはよくわからない。)
なお、辞書によると、日本語で「遺伝」、英語で「Heredity」、ドイツ語で「Vererbung」となる。
特に英語の gene についてなら、語源の出典は下記にある。
→ http://www.alc.co.jp/eng/vocab/etm-cl/etm_cl058.html
──
( ※ 本項では、「動的平衡」の真意を解説し、「遺伝子の本質」を探った。ここでは主題は「遺伝子」だった。一方、主題を「生物」「生命」にして、「生物とは何か?」「生命とは何か?」という本質的な問題もある。これについては、次項で説明される。)
posted by 管理人 at 20:18
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| 生物・進化
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