< 前の日へ
'08.01.10 (木)

自然な心

 

(文中の「あなた」という呼びかけは、
 特定の誰かに向けられたものではありません。)

・・・・・・・・

皆、考えることがまだまだ足りないと思います。
もちろん私自身を含めて。

そんなに早く「解決済み」にしてしまっていいのですか?

本当に?

私は、私として、皆さんに、
もっと多く、厳密に、細かく細かく、
あらゆる可能性に対して
心を開いて考え続けて欲しい
と思うものです。
私自身のことを含めてです。

色々な「可能性」を含んだ考察を進めてみること。
それは時には「憶測」と言って貶められます。
でも、それは「推測」かも知れません。
科学でも、他のどんな探究でも、
過程においてこれを含まない世界はありません。
探究の途上にあるものを、あたかも確定的なもの
であるかのように打ち出すこと。
それだけが問題です*。
それだけが避けるべきことです。
しかし、「推測」自体は何らやましいものを含まぬどころか、
人間の精神の進展進歩にとっては必ずなければならない
普通に貴重な精神機能です。

* ただ、やっぱりある種の表現の自由はあるのでしょうが...。
つまり人間には、自分が探究して自分として確信したことを確定的な外観をもって表現してもいいのでしょう。人間にとって二番目に大事な、世俗レベルの自由において。

「あらゆる可能性に対して心を開いて」とは、
よく言われるように
「心を白紙にして」
ということです。
人間の心構えの中で
これほど難しいことはないのだけれども。

それは、変な言い方をするようですが、
また、ここでは漠然と言っておきますが、
カトリック的でさえあるな
ということです。

何故なら、
「真理」や「正義」を考えることにおいて、なにがしかの
「カトリック以前」の空間
も必要な筈だからです。

そして何故なら、
「カトリック的」な、習性、習慣、思い方の癖…
などがいわゆる「先入観」を形成し、
真理や正義を考えることにおいて
ものをクリアーに見ることを妨げる障壁になることが
可能だからです。

私達はここを本当に注意しなければならないと思います。
私達は本当の「カトリック」を見出すために、
時に「カトリック的」をも脇に置かなければならない
かも知れません。

・・・・・・・・

本当に、
「自分は考えられるあらゆるものを考えた、考え尽くした」
という感覚がおありなのですか?

あるいは、
「自分として、感じられるだけのものは感じようとしてみた。
心と感覚を傾けてみた。
それにおいて自分は十分である。」
という感覚がおありなのですか?

なに? Yes?
そんな馬鹿な。

でも、あなたが本当にご自身でそう思うなら、
私は敢えてこれ以上のことを申し上げるつもりはありません。

でも、今、とにかく、教会はものすごく混乱しています。
信仰が脅かされています。
たとえば、御聖体に関して、
それが何であるかについて「言葉」は残っていても、
現場ではそれに対する信仰と敬意がとてもひどく
失われつつあります。
これは紛れもない事実です。

だから、
それは何故であるかということと、
これをどうにかするために私達はどうしたらいいのか
ということについて、
共に考え続けて欲しいのです。
何度でも同じところに返って
考え続けてもらいたいのです。
信仰の同志として。
信仰の熱心においてそうしてもらいたい。
もちろんこれは私自身にも言うべきことです。
何故なら、私達は毎日こう祈るからです、
「御旨の天に行なわるる如く地にも行なわれんことを。」
聖ピオ十世会を非難していればいい話ではありません。

そう、聖ピオ十世会。
巷の一部ではこの会についての議論が盛んです。
その中で私は、聖ピオ十世会を非難している人が、
「私だって今の教会の中に何も問題はないと思っていない。
混乱がないとは思っていない」

と言うのを聞きます。
しかし私は、私達がおしなべて
「はい、今の教会には問題があります、 混乱があります」
と言っても、
各自が見ているものはものすごく違うだろうと思います。
あなたからは見えない私の内面を言っても
埒が開かないかも知れませんが、
私から聖ピオ十世会という要素を取り去って下さい。
事実、私にも聖ピオ十世会以前の時期がありましたし、
また支持の揺らいだ時期もありました。
私から聖ピオ十世会という要素を取り去って下さい。
でも、たとえそうしても、
あなたと私は「教会には確かに問題と混乱がある」と
異口同音には言っても、
おそらくなかなか手を結べないのです。
それほど各自の内面で保持しているものは違っているのです。
聖ピオ十世会問題以前にです。

「私だって今の教会の中に何も問題はないと思っていない。
混乱がないとは思っていない」と言うあなたは、
それではどのように、
教会の中に問題と混乱があると思っているのですか?
私は、それをあなたから一度じっくりと聞いてみたい
と思うほどです。
何故なら、 あなたはそれに関して具体的に語ることが
ほとんどないからです。
しかし、それを聞いたら、私は、
あなたが決して問題というほとの問題、混乱と言うほどの混乱を
教会の中に感じておられない、と感じるかも知れません。
失礼千万な傲慢な言い方ですが。(ごめんなさい)
何故なら、あなたはふだんから、
聖ピオ十世会のことを語る時など、
ほとんど彼らのいわゆる「違法性」を語るだけであり、
ひたすらもうそのまわりを回るだけであり、
現在の教会の問題と混乱について
少しも彼らと嘆きを共にすることがないからです。

それを口にすることがありません。
それは不思議なほどそうです。
私は、これは人間としてまた「カトリック」に連なる者として
とても不自然なことであると思います。
つまり、
今の教会の現状を見ている人が
ルフェーブル大司教様の嘆きに文字通り
「少しも共感しない」などということは--------可能なのですか?

あなたは本当に、ご自分の中に、
ルフェーブル大司教様と悲しみを共有する部分が
「一つも」ないのですか?
それは、たとえば大司教様の
教会がどうなってしまったのか……へのお手紙 を読んでです。
これを読んで、本当に「一つも」共感するところがないのですか?
あるいは内心では共感するところがあっても、
それを表示することは聖ピオ十世会に力を与えることになるので
外に出さないのですか?
しかし、私は思います。
そのようなことをすれば私達の議論は貧しくなるのです。
プロパガンダ合戦の要素が濃くなるからです。
私達はなるべくプロパガンダ合戦を、
それから、詰まらない天狗の舌戦みたいなものを、
避けたいものです。
何故なら、それは醜いことが多いものだし
(私に言う資格はないかも知れませんが) 、
且つ、騒いでいるほどには効果がないものだからです。
今やプロパガンダ的戦法が効果を持つほど、
教会の中の何かに決定的に気づいている人達の混乱は
浅くはありません。
私達はどちらにせよ
最も深い理解をこそ目指す他はありません。

言うまでもないことですが、
私は自分の内側に
カトリック以前の「人間」-----を持っています。
あなたと同様に。
それ故、時に「カトリック信者」としてよりも「人間」として
私があなたに語りかけることは許されます。
カトリックの論理に沿った戦いでは勝てないから
皆さんの人間としての「情け」の部分に訴えたい
というのではありません。
そんな哀しい、寂しいことは致しません。
それは、なによりも
十分に「人間」に立つことのない「カトリック」は
どこか欠けたものがあるだろうからです。
信仰は人間の「心」に大いに関係した世界です。
私達は時々、個別的には自分よりも心の深そうな人達を
世間の中に見るものです。
あるいは自分よりもものを見る目のクリアーな人達を
世間の中に見るものです。
どうして「カトリック」であれ何であれ、
ものの追究において
この「人間」の次元から、
「カトリック以前」から、
始めずにいられましょうか。


(以下は昨年の12月4日の日記に書いた内容の繰り返しです。)

「カトリック的」であるより前に、
まず私達は「自然な人間」でいるべきです。

・・・・・・・・

ある人においては
「護教の盾=聖ピオ十世会」という構図が
どうしても頭から離れないみたいで、
というより、その方が追い込み易いので、
「離れない」というよりむしろ「離さない」のかも知れませんが、
しかし以下は、それ自体として
聖ピオ十世会に直接関係するものではありません。

・・・・・・・・

教皇はいつ如何なる場合でも、信仰と道徳に関する私達への指導において、決して間違うことはない。

このようなことを思う人はいるのでしょうか。
いるのでしょう。
しかしそのような人は確信的にそう思っているというより、
今まで特に疑ったことはない、ということなのでしょう。

私はここでは

教皇は、信仰と道徳に関して間違うことがあり得る。

これを「その通りである」と言う人達のことについて
考えたいと思います。

それは通常、次のように表現されます

教皇は、特別教導権において、つまり不可謬見を行使して宣言した時には、信仰と道徳において間違うことはないが、そうでない場合、つまり通常教導権においては間違うことがあり得る。

あるいは、

父親が息子に「盗みを働いてこい」と言った。
そんな時、息子は父親に従うことが許されていない。

そしておそらくその時、
「息子は父親を父親として認めつつ、父親に従わない。従わないけれども、父親として認めることをやめたわけではない」
という言い方が可能である。

あなたはこのような言い方について
「確かにそうである。その通りである」
と言うのでしょうか?

もし、あなたがこれについて「はい、それは確かにそうである」と
言うのだとして、その次にこう言うのでしょうか。

カトリック教徒は教皇に、実際にはその特別教導権と通常教導権との別を問わず、どのような例外も一切なく、文字通り常に、従わなければならない。

あなたがもしそう言うなら、
私は、それは人間としてとても 「不自然」 なことだと思うのです。

あなたがこれに 「はい、確かにそれはそうです」 と言って、
しかも

カトリック信仰の中には教皇に逆らうなどという要素は一切ありません、あり得ません。

と断言するなら、
それは人間としてとても 「不自然」 なことだと思うのです。

何故なら、「教皇も間違うことがあり得る」と言った時点で、
実際には、あなたの脳内に、
既に「教皇が間違う可能性」について検討し得る空間が
“開けてしまっている”からです。

あなたが「教皇も確かに間違い得る」と認めた時点で、
「あり得る教皇の間違いについて気をとめる」という精神の動きが
“発生してしまっている”からです。

それが自然なことであり、
人間として正直なところなのです。

ですから、もし私達が "疑問" を感じた時に、ただただ

カトリック信者は、教皇の教導権には、その特別か通常かを問わず、疑うことを禁じられている。服従しか許されていない。

と言うのなら、
カトリック以前の「ものを考え追究する人間」としては
一つの完全な知的機能不全の中に
自らを投げ込んでいることになります。
これを「不自然」と言わずに何と言いましょうか。

もし、「教皇も信仰と道徳において、場合によっては間違い得る」
という知見に、
文字通り一切の存在空間が、活用空間が許されないならば、
私達がその知見を手にしたことには
一体全体どんな意味があったのでしょうか???

それはナンセンスです。

そしてこれは聖ピオ十世会の問題でもなく、
カトリックの問題ですらなく、
それ以前の人間の思考の「自然さ」の話です。

この「自然さ」を破壊しないで真理をまとめれば、
私達はこのように言うべき筈です。

教皇が特別教導権 (不可謬権) によって宣言したことに対しては、私達は一も二もなく信じ、従わなければならない。
通常教導権によって言われたことに対しても、尊敬をもって従わなければならない。
しかし私達が『教皇はその通常教導権において間違いを犯し得る』と確かに言うのなら、
私達がその可能性について常に一定の留意を保持していることは自然であるし、
信仰の重大であることを思えば、義務でさえある。
そして、父親が子供に『盗みをしてこい』と命じる時のような客観性と明示性をもって教皇が過ちを犯す時は、
私達にはそれに抵抗する権利と義務がある。

私はそのようにまとめるのが正しいと思います。
明らかです。実に明らかなことです。
そして、このまとめはこれで終わりです。

つまり、ここで

その客観性と明示性を判断するのは誰だ?
教皇ではないか。
教皇に従う私達には、判断する知的空間は一切与えられていない。

などと言えば、その時議論はナンセンスです。
今までの議論が全てパーです。

私達が「客観性」「明示性」の必要という条件の下にであれ
「教皇の間違う可能性」というものを想定するなら、
-----ある意味、想定したが最後-----
物事の「判断」において教皇と私達の間に一つの空間(距離)が生じ、
私達に一つの自律性ができるというのは事実です。
善し悪しではなく、それが自然の道理です。

もう一度言いますが、
これは聖ピオ十世会の問題でもないし、
カトリックの問題でもありません。
人間の思考の野における有り様をそのまま描写し、
確認しただけのものです。

その通りだと思いませんか?

「だからどうなのよ。だからと言って聖ピオ十世会が…」
と言うのは次の機会にして下さい。
私達は物事の一つ一つを確かめていかなければなりません。
議論を急いではなりません。
きちんと順序を踏んで行かなければなりません。

日記の目次へ   ロザリオ実績表へ
ページに直接に入った方はこちらをクリックして下さい→ フレームページのトップへ