どういう条件なら
人を殺しても許容できるようになるかと言う視点で考えてみました。
人間が何らかの情報の塊で復元が可能だったら、
たぶん殺しても良いと言う価値観も出てくると思います。
殺人と言う行為も、罪が軽くなるでしょうね。
賠償請求とかに変わるのではないでしょうか?
現状のところ、人を殺すことは、不可逆で、元に戻せないからというのが理由のひとつだと
思います。現代でも、正当な理由があれば人を殺すことが許容されている死刑とかが存在
しますが、この元に戻せないという理由で反対する人たちもいます。
確かに不可逆ですが、その意味では(おそらく)すべての生物が不可逆であるため、
殺してはいけないという理由にはならないと思います。
うまい説明はないものでしょうか。
質問の答えになるかどうかはわからないのですが、私の中では明快な答えがあります!
人を殺してはいけない理由は『駄目なもんは駄目だから!』小さい頃に親に言われた言葉、ただそれだけです。
論理的に考えても答えの出る種類の問題ではないように思います、誰もが好きな人が死んだり殺されたりしたら悲しいもので…
その種の答えを出せるのは宗教や教育でしかないと私は思います。
答えにはなってなく申し訳ありませんが、私が思う人を殺してはいけない理由です。
親に教えてもらったから、みんなそう言っているから、常識だから、
という回答もわかるのですが、ここでは論理的な回答が欲しいです。
宗教に紐付けなければ回答できないのなら、紐付けても全然かまいません。
前提条件・仮定などがあればそれを書いて頂いて、とにかく論理的な回答が欲しいです。
私は仏教の思想(例えば縁起・空など)に興味があるので、仏教に紐付けて回答頂ければベストです。
Q.「トラは」なぜ人を殺してはいけないのか?
A.殺してもいい。だけど殺されたくないから檻に入れる。もし人を殺したらそのトラは殺します。
Q.「地震は」なぜ人を殺してはいけないのか?
A.殺してもいい。つか、選べない。なるべく地震がこないようなところには住むけど。
Q.「国は」なぜ人を殺してはいけないのか?
A.殺してもいい。実際に世界中で行われている。
Q.「私は」なぜ人を殺してはいけないのか?
A.殺してもいい。ただし現代日本では人を殺すと罰せられる。
「殺してもいい」というのが回答だと思いますが、多数の前提条件がつきます。
殺す主体が何か、ということで、生物としてのヒト一固体と仮定します。
少なくとも現代日本の社会は「人を殺さない」という契約に基づいて効率をあげているので、固体はその契約の恩恵をうけて存在しており、暗黙のうちに契約を承認する義務を負います。もしその契約に反するのであれば、契約を維持している集団は彼からいままで与えていた恩恵を取り上げる=存在を抹消する行動をとるのが妥当でしょう。
ただし生物の「個体」と人間としての「存在」は一致するとは限りません。「存在」は独立したものでなく、他者との関係性や環境もその中に含みます。
そのため、彼の存在の抹消は、親にとって遺伝子を残せる確率が低下することはダメージですし、有限の時間の中から彼を選択して一定のコストを支払ってきた友人などにもダメージとなります。
従って現代日本では殺人=死刑ではなく、その存在を抹消するのに妥当かどうか量刑を計っていますよね。
もちろん事実の認定というのは難しく、社会的コンセンサスも時代によって変化するので、死刑は取り返しがつかないという背景もありますし。
実際は死刑じゃなくても取り返しはつかないんですけど。
相手が社会的な恩恵を受けていない存在で社会集団の力量を超える力を持っていれば罰することはできず、「殺さないで」とお願いするしかないでしょう。
また直接殺さずとも、結果として人を殺している人間は、私もあなたも含めて多数います。
結論としては「自分がどんな社会的契約の恩恵を受けていて、どんな社会を創りたいのかを判断する」。
「直接的殺人を罰する社会がよい」という選択をするのであれば、「社会集団に向かって宣言しコンセンサスを取る」ということになると思います。
>相手が社会的な恩恵を受けていない存在で社会集団の力量を超える力を持っていれば罰することはできず、「殺さないで」とお願いするしかないでしょう。
>また直接殺さずとも、結果として人を殺している人間は、私もあなたも含めて多数います。
大変わかりやすかったです。納得できました。
物事には理由のないものがあります。
それは子供の頃には誰しも疑問に思うことだらけです。
なぜ空気は見えないのか、なぜ人には髪の毛が生えているのか・・・などなど。
頭を守るためという明確な回答があるかと思いますが、それは本当に正しい答えでしょうか?
後付けされた理由に過ぎないという意見もあれば、実際に頭を守るためだという人もいます。見た目のためと思う人もいるでしょう。
つまり、誰しもの今の価値観そのものも人に教えられて、自分で見てきて感じていることで間違いはないのです。
人を殺してはいけないというものも、自分が不利益を受けないために、みんなが幸せに暮らせるように・・・などさまざまな理由があるでしょう。
しかし、正解はありません。決まっているからなのです。
私個人が思っている物事の見方は、方向性で物事を見ています。
例えば、Aさんが〇〇な人間になりたいと思っていても、その〇〇な人間になったというのはどういう判断をするのでしょう?
周りの判断でしょうか、自分の判断でしょうか。
周りの人が思うAさん、Aさん自身が感じている自分、どれも正解です。
物事は決めるのではなく、どう考えるかだと思います。
その考える行為そのものが具現化した正解なのではないでしょうか?
つまり、人を殺していいという人よりも、人を殺してはいけないと考える人が多いからルールを決めた。その理由は自分が不利益をこうむるなど、さまざま。
ただそれだけではないでしょうか。
理由がないものもあるのかもしれませんが、
何かしら意味・理由を考えて頂いて、
いろいろな人の考えを聞きたいと思い質問しました。
5
回答者:
Hiroshi0514
2008-01-04 15:48:46
満足!
22ポイント
質問とレスを見る限り、「理論的」と「論理的」を混同してはいませんか?
1、論理的な回答(たぶん期待していない回答)
論理的な回答をするためには、まず論理的な問題設定が必要です。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という質問ですが、これは論理的な問題設定ではありません。
なぜなら、「人を殺す」には様々な状況があるのに、それを設定していないからです(たとえば「戦時中ならば許容されうる」等)。前提条件のない問題はスタート地点のない迷路のようなもので、決して論理的には答えられません。
よってこの質問に論理的に答えることはできません、というのが正しい回答だと思います。
2、理論的な回答(宗教に科学的な意味づけを与える)
「利己的な遺伝子」を読んだことがありますでしょうか?そのなかで「ミーム」という概念があります。
宗教等の文化を、人間の脳を感染するウィルスのようなものとして説明する可能性を示唆しています。いわゆる普通の遺伝子が生物界で「適者生存」してきたように、「ミーム」といわれる文化的遺伝子は、宿主である人間の脳によって許容されやすく、口述等によって他人に伝達されやすいもののみが「適者生存」する…そのような話です。
この考え方を当てはめると、以下のような状況が想定できます。
昔、「人を殺してはいけない」「人を殺しても良い」という考え方が混在する世界があった。
「人を殺しても良い」と考える人たちは、出会った人たちにその考えを伝えたため、彼らの周りは「人を殺しても良い」と考える人たちばかりになった。
一方、「人を殺してはいけない」と考える人たちは、出会った人たちにその考えを伝えたため、彼らの周りは「人を殺してはいけない」と考える人たちばかりになった。
さて、どちらの方が長生きし、その考え方を世界中の隅々まで伝えることができるのでしょうか??「人を殺してはいけない」という考えが広まりますね。
このミームという考え方は、学術的な理論としてはとても弱いですが、遺伝子と文化のアナロジーは興味深いところだと思います。
日本では佐倉統という東大教授が研究しています。
参考になる文献
- 遺伝子vsミーム―教育・環境・民族対立 (広済堂ライブラリー) 佐倉 統 (単行本 - 2001/8)
- ミーム―心を操るウイルス リチャード ブロディ、Richard Brodie、 森 弘之 (単行本 - 1998/1)
- ミーム・マシーンとしての私〈上〉 スーザン ブラックモア、Susan Blackmore、 垂水 雄二 (単行本 - 2000/7)
なるほど。
論理的と理論的は確かに混同していました。
理論的とかいて質問したのですが、自分の欲しい回答は論理的回答かな?とコメントでは論理的にしていました。
要は宗教でも科学でもいいので、理論立てて回答して欲しかったということです。
この回答はシンプルで納得できました。
なぜ人を殺してはいけないか。ううん、永遠のテーマですね。
最近のそういった本には、ほとんどTakasanの云ったように
「人を殺してはいけない、というのに理論的説明をつけることはできない。いけないものはいけないのだ。すべてを論理で説明できるわけではない」
と書いてあるものが多いように思われます。
人を殺してはいけない「理由」ならばいくつでも挙げることはできますが、絶対的な「論理的説明」となるとやはり難しいものがあるのでしょう。
では、そこで僕から一つ。
根底からなし崩しにして申し訳ないのですが、
「人を殺してはいけない」
というその定義はなんですか?
法律には、「人を殺してはいけない」などとは一言も書いてはいません。
人を殺したら懲役何年以下、と書いてあるだけです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」
という質問は、
「人を殺してはいけない」
という定義があり、その次の段階に出てくることですよね。
僕は、その定義からして間違っているのではないかと思います。
そこで、以上の点を踏まえて答えさせていただきます。
ある程度の許容があれば、回答がしやすくなると僕は思いましたので。
・自分が生き延びるため以外の殺人はするべきでない
>つまり、自分が生きるためなら人を殺してもいいということです。その人を殺さなければ、自分は生きることができない。こういう場合に限り、殺人も可ということです。
いわば動物の世界ですね。動物は、自分が生きるためと身を守るため以外には他の動物を殺さないという話ですから。
あ、でも仏教ではそれもいけないんでしたっけ。不殺生なんですよね。
・あなたはいつ・どこで・どんな状態のときなら殺されてもいいか教えてください。
もしあなたがいついかなる時でも他人に殺されたくないと思うのならば、あなたも殺すべきでない。
>誰かの言葉です。忘れました。
これも、裏を返せばいつ・どこで・どんな時でも自分が殺されてよいのなら、自分も人を殺してもよいということになってしまうのですけどね。
・残された人が悲しむから。
>ではどうして人を悲しませたらいけないの? と言われたらまた説明がくっついてしまうのですが。
そしてこれも、身寄りのない人や、知り合いや友達もいないホームレスなら殺してもいいのか、という点があります。
こんな感じでしょうか。
正直、人を殺したいと思っても、実際に殺さないのは心だかDNAだかにそれが刻み込まれているからじゃないでしょうか。
理論ではなく、習性や本能。
たとえば持っているナイフで人を刺すことを想像したら、その痛みが自分に置き換えられてしまったりとかですね。
人を殺してしまうのは、その本能を上回る感情の高ぶりとか、もしくはその機能に欠陥が起こった場合じゃないですか。
あんまり理論的ではない、ですか?
すいません。
うーーん、言いたいことはよくわかるのですが、求めている回答ではないです。
種の保存のためです。
仮に人を殺しても良いことにするとどうなるのか。
最後の一人になるまでは人を殺しても良いことになります。
それでは人間は絶滅してしまいますから、人を殺しても良いということは有り得ません。
でも、人間は他の生物を殺しますよね?
なぜ人間を殺してはいけないのでしょうか?
仏教には次のような説話があります。
ある熱心な仏教徒の母親が乳飲み子を抱えて、お釈迦様の説法を聞きに行こうとしていました。途中に大きな川があり、船に乗せてもらおうとしましたが、どの船頭も「あなたは乗せられるが、乳呑児は乗せられない」と断りました。意を決した母親は、乳呑児を川原に残して船に乗りました。
炎天下、駐車場の車の中に赤ん坊を置き去りにするより危険かと思います。
仏教は、わが子を捨てても聴きにいくべきであると勧めているのです。
一方、聖書のマタイ伝には次のような有名な一節があります。
「 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。」
「明日に道を聞けば夕べに死すとも可なり。」と孔子さまもおっしゃいました。命より大事なものがあるということです。
「なぜ人を殺してはいけないのか」というお尋ねですが、それは、誰もが自分は殺されたくないからです。つまり、「人を殺してはいけない」としておいたほうがすべての人にとって都合がいいからです。
「人を殺しても良い」とすると、殺される惧れがが格段に増すからです。
どんなに強大な権力者も寝首をかかれる恐怖からは逃れられません。
「人を殺してはならない」ということは、科学的真理ではなく、社会的取り決めに過ぎません。したがって、圧倒的な力の差が生じている現場では、破られる場合が多々あります。
論理的にいえば、その論理は、あくまでプラグマティックなものであって、形而上学的なものではないと考えています。「
社会的取り決めであるという論理と理解しました。
確かにそうかもしれません。
人を殺していいのかは、殺されていいのかを考えてみてはどうでしょうか。
単純に考えれば、利害が一致しないと思います。少なくとも本人が望まなければ・・・
では、自殺願望の人を殺してはどうか。本人は満足するかも知れないが、悲しむ人のことを考えれば、ここはグレーゾーンでは?
そこで、殺すことができる場合はないかを立証してみてはどうか。
延命治療を中止する。これは、苦しむ本人を見てどうするか家族が判断する。心肺停止→蘇生行為 これをやるのか。やめるのか。やってどういうメリットがあるのか、突然新しい治療法がみつかる可能性にかけるだけ、その確率は?たぶん、安らかに眠らせることを選択するだろう。
それと、緊急避難(正当防衛)かな。自分が生きるために人をあやめることだと思う。しかし、よく映画で地球滅亡で選択された人間だけが生き残るシーンは賛否両論かなと思う。個人としては、生き残れないなら公平にみんな死んだ方がよいと考えるのが持論です。
もう一歩な深く考えてみたい感じがします。
10
回答者:
simajiromaikeru
2008-01-05 02:07:25
満足!
9ポイント
まず第一に
本人の意思でないから(殺された場合)
第二に
本人の意思で生き返れないから(もちろん他人の意思でも)
納得できません。
なぜ“人”を殺してはいけないのでしょう?
http://www.jtvan.co.jp/howa/Hasegawa/index.html
仏教の根本の戒めが不殺生であることは、仏教がいのちの教えであることに由来する。
釈尊のお言葉をそのまま集めたパーリ語のダンマ・パタという原始仏教経典の中に
「一切の者は刀杖(武器)を恐れ、一切の者は死を恐る。己が身に思いくらべて、殺すなかれ、殺さしむなかれ」
とある。
仏教はここから始まった。
一人の生命を奪うことも許さぬ仏教において、多数の生命を奪う戦争を許さぬことは申すまでもない。
http://www.nehan.net/bukige.html#武器よさらばの詩
自分が、『生まれてきて良かった』と思うこと、そしてみんなが『生まれてきて良かった』と思うこと。それが仏者の期待する所である。仏教の望みはそれ以上でもなくそれ以下でもない。
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/201.html
あらゆる命あるものの「命を奪う」ことを「殺生」といい、仏教の戒律の中では最大の罪として、最も強く禁じてきた。また同時に仏教は、人間が生きる為には、他のもののいのちをもらわなければ生きていけないという自覚に立って、この最大の罪を人間の根本的な問題としても考えてきている。
仏教的には理論以前に、「戒律として最大の罪だから」ということになってしまいます。人に限らず、食物として動植物のいのちを奪うことも罪ではあるわけですが。
もっとも、他者を殺すことが宗教的な目的に合致している場合、それを悪とはとらえないことがあるのも事実です。
例えば、イスラム原理派といわれる人々による自爆テロは殉教行為ですし、
オウムによる地下鉄サリン事件も「ポア」という宗教的な行為という解釈で行われたわけですから。
個人的には人間である以上、自らに与えられる権利と義務は同様に他者にも与えられると考えています。これが平等の概念だと思います。
とすれば「自らが人間として存在する」ということを認めるということは「他者も人間として存在する」ということを認める、ということだから、と理解しています。
「人を殺してもいい」というのであれば「自らも誰かに殺されてもいい」ということを受忍するということになります。
人間が「社会」というものを構成していく上で、「他者に生命を脅かされない」という「契約」が必須条件でしょう。
一方で、国家による「死刑制度」が存在する矛盾もあるわけですが、こうした「契約」を破った人間は、社会から排除されてもやむを得ない、もしくは社会が維持できない、という多数の合意があるから、と考えざるを得ないんですよね。「人を殺してしまった人間」は「人から殺されることを受忍した人間」と国家が判断した、という。
宗教的に「自爆テロ」「ポア」を容認する人々がいるのは、他者の生命を暴力的に排除することでしか、倫理が維持できない、と考えるからなのでしょうから、その境界線があいまいな感じはあるのですが。
ちなみに過去にも別な視点からの質問が出ています。
http://q.hatena.ne.jp/1124114353
個人的にある程度納得したのは下のサイトでした。
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/kichi-ido/mki-63.html
http://media.excite.co.jp/book/daily/friday/020/
長くてすみません。
ありがとうございます。
仏教の戒律だからというのは一つの明確な解答だと思います。
紹介頂いたサイトもじっくり読んでみます。
12
回答者:
iceparunasu
2008-01-05 03:00:52
満足!
13ポイント
ありがとうございます。
人は文化を持ち、同じ文化に属する人で協調して文化を発展させていきました
その歴史からみて「人を殺す」という行為は発展を阻害するものであり許容できるものではないです
肉食動物が同類を食べないという行為が、種の発展に役立つものであって先天的なものであるとするならば
大部分の人が持つ「人を殺す」ことに対しての嫌悪感は先天的なものだと考えています
しかしながら、人の感情は他の動物のそれよりも豊かであり激しいものです
その感情は時に「人を殺す」という嫌悪感を超えることも少なくないです
また、人という種は成長過程における環境で思考の個体差が激しく、前に先天的なものであると考えているといった嫌悪感も不変的なものではないようです
中には「人を殺す」という行為に快感を得ることができる人も存在します
複雑な感情を持った人という種は、本来先天的なものである「人を殺さない」という行為を必ずしも守れなくなり
「人を殺す」という行為をした人を罰するというルールを作ることで種の発展と文化の形成に不都合な「人を殺す」という行為を抑制してきました
つまり、人が「人を殺す」という行為が種の発展や存続に必要ならば人の文化はそれを許容します
その例が「死刑」、「戦争」というものであると考えます
つまり、人はなぜ「人を殺す」という行為をしたらいけないのか?という疑問には
人が「人を殺す」ことに対して先天的な「嫌悪感」を持っているからであり
嫌悪感を感じない人には「罰せられるから」なのだと考えます
この二重の構造によって、人という種は「人を殺す」という行為を抑制しているのだと考えます
“本能”というやつですね。
人を殺すことに嫌悪感を持っているのは確かにそうだと思います。
これは、人を殺したくない理由になりそうです。
自分の中では明快な答えがあります。
それは、
仲間意識が日本の中に芽生えているから。
ということです。
いま世界で起きているように、日本の国内でも、集団で殺し合う時代がありました。
でも、その集団内では仲間意識があり、殺し合うことは御法度です。殺し合うことが認められていると安心して生活ができないので、殺し合わないひと同士で集団を作ってきたと考えているほうが自然です。
そして、その集団同士がさまざまな戦いの末、征服され、集団が一つになっただけ。
それだけだと私は考えています。
そもそも、殺し合いや、暴力、レイプが認められた社会では、常に武器を携帯していなければならないため、生活しづらいです。
↓
でも安心して生活したい
↓
それなら、安心出来る仲間を集めて集団を作ろう
↓
敵に仲間を殺された。敵をやっつけよう
↓
これからは私たちのルールに乗っ取って生活しなさい
↓
どんどん敵を倒していったら天下統一できた
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題を倫理的に説こうとしても、なかなか難しいと思いますが、歴史をひもといていけば、私たちが殺し合うことを放棄した事実を学ぶ事ができます。
このような安心した社会を構築するまで、私たちは数千年の時代を経ているのです。
それが歴史の重みというやつだと思います。
人を殺してはいけないと思う集団が生き残ってきたという回答納得できました。
15
回答者:
webmaster55
2008-01-06 08:58:37
満足!
6ポイント
死んではいけない理由をズバリ教えましょう!
正確には死んではいけないというのは間違いです。
死ぬか生きるかは宿命によってある程度決まっています。
もし今あなたが自殺を選ぶというのであれば、あなたは前世でも自殺したのか大罪を犯し苦しんで死んだ可能性が高いです。
人は死ぬ時に、その時の感情を持ったまま魂の世界に帰ります。
そして何度も生まれ変わります。
よく私は、前世と同じような生き方をしている人を見かけます。
今世で楽しそうに幸せそうに生きている人達は前世でも人生をまっとうした人が多いです。そういう人達は死に顔がとても安らかです。
逆に苦しんで悩んでいる人達は前世でも苦しんで悩んで死んでいった人が多いんです。
ですから、あなたが今末期のガンになって残りの人生が少ないと宣告されたとしても、残りの時間を精一杯前向きに生きることで、もっと長く生きたいという魂が残り来世では長生きすることが出来るでしょう。
しかし、そこで絶望に陥って自殺を選んだとしたらどうでしょう?来世では苦しい不公平だという思いが残り来世ではそれを実感させられる人生が待っていることでしょう。
ですから人はまさしく死ぬ瞬間が重要なんです!
終わりよければ全て良しという言葉がありますが、まさにその通りです。
人はだれでもいつかは死にます。これは避けられない宿命です。
しかし魂を浄化させるか否かは本人の意思によるところが大きいのです。
長いスパンでみると、いつかは自分に返ってくるというのは仏教の考え方ですね。
でも、仏教では自殺は悪いとされていないはずです。仏教の基本理念は苦からの解放であるからです。
貴方は、誰かにとってかけがえの無い存在であるように、
殺したいほど憎い相手も、誰かにとってかけがえの無い存在であるから。
だと思います。
それは確かにそうだと思います。が、質問の趣旨にそっていないと思います。
進化生物学的視点から考えるといい。ある二つの種類の集団がる、と想定してみよう。ひとつの集団では、平時に人を殺すことを禁止し、殺人に対して罰則を設けている。もうひとつの集団では、平時に人を殺しても、罰されない。
さて、どちらの集団の方が発展するだろうか? 仲間内で殺しあってる集団からは、逃げていく人間が多いだろうし、殺し合いのせいで、集団の人数も減少してしまうだろう。そして、残った集団は、殺人を禁止し、それに対し罰を儲けているものだけ、となる。これを、今、われわれが生きている社会、とみなせば、合理的な説明になるんじゃないだろうか。
ありがとうございます。
内容的には5番の方と同じですね。
> 内容的には5番の方と同じですね。
ぼくが回答した時点では、5番の回答は見れなかったんで。重複している上に、ぼくの方がかなりしょぼい内容でちょっと恥ずかしい。ドーキンスは既に持ち出されているので、ニーチェでも出してみるかな。
「人を殺してはいけない」っていうのは、一種の「道徳」と言える。カントは道徳法則みたいなことを主張して、道徳それ自体を肯定しようとした。それに対し、ニーチェは、ダーウィニズムを応用して、そういった主張に全面的に反駁している。あらゆる道徳なんてものには、決定的な根拠など何もなく、ただ社会がその存続と発展の過程で必要としたものに過ぎない、と。この議論でいくと、「人を殺してはいけないのか?」という質問に対し、「本当は、別に殺したって構わないんだ」という回答になる。
これだとあんまりな気もするんで、「他者」について思索した哲学者であるエマニュエル・レヴィナスでも、おまけに。彼によれば、人を殺す、という究極の暴力は、他者の全面的に否定、となる。多くの人間は、常に他者という「顔」を持った存在を意識しつつ生きているわけだけど、人を殺すことのできる人間は、その他者の「顔」を見ていないから、それが可能である、と。つまり、彼は、他者が不在の、独我論的世界に生きている、ということになるんだろう。本来の質問からかなり脱線しているとは思うけど、こういう倫理学的な考え方、ってのも、取り入れてくと、より考え深まって良いと思うよ。
すいません、書き方が悪かったです。
so-asanoさんが5番の方の回答が見れていなかったのは知っていたので、
自分なりのまとめのつもりでした。
再度回答ありがとうございます。
エマニュエル・レヴィナスの話は大変わかりやすかったです。
人を殺すこと = 他者の全面的な(究極の)否定
ということ。
仏教でいうなら縁起という考えに対する否定につながるから、ということでしょうか。
この質問・回答へのコメント
正解です。然し不十分です。
人間は他の生物以外の生物、つまり人間も殺します。
7番の方の回答に私なりに補足させていただきます。
>7 回答者:ch3cook 2008-01-04 17:44:25 満足! 9ポイント CommentsAdd Starjossie
>種の保存のためです。
>仮に人を殺しても良いことにするとどうなるのか。
>最後の一人になるまでは人を殺しても良いことになります。
>それでは人間は絶滅してしまいますから、人を殺しても良いということは有り得ません。
>質問者:kusakari 2008-01-09 00:06:25
>でも、人間は他の生物を殺しますよね?
>なぜ人間を殺してはいけないのでしょうか?
>なぜ人間を殺してはいけないのでしょうか?
他の人間を殺すことは「人間」という種を保存する目的を妨げる行為だからです。
(人間は自らの種を保存、繁栄させることを目的とする。という前提がつきますが)
昔は、武士は人間を殺しても良かったですし、今も他の国では(ある条件では)可能なのかも知れません。
そして、では現代日本ではなぜ駄目なのかというのは、「多数決で決まったから」です。今の日本の教育を受けた人々は、半数以上が「他人を殺してはいけない」という意識を持っているため、駄目という「ルール」にしたのです。
当然、今も殺して良いと考えている人もいるでしょうし、実際に殺す人もいます。彼らは、正しいのかどうかは別にして日本の法律上は「正しくない」とされているのです。
そして、彼らは国によって「死刑」という形で殺されます。しかし、これは今の日本では許されています。これもやはり、多数決で死刑は正しいとされているから、これによってのみ人を殺しても良いのです。
しかし、他の国では死刑が廃止されている場合もあります。日本でも、死刑廃止論は後を絶ちません。どちらが正しいかは、誰かが判断できる物ではなく「より多数の人の考え」によって、「今の日本ではこれが正しい」と決められるのです。
というわけで、なにが良くてなにが悪いかは、国によっても時代によっても、受けた教育によっても変わってきます。
論理など存在しないというのが私の考えです。
他人との関わりが自意識のベースなので、ベースを殺すということは、
自意識を不安定に、確信の持てない物にしていくのではないかと思います。
貴族などが本当に自分と関係ないものと思い、民衆を殺すなどする時には、
殺した本人へのダメージはないのかもしれないと思います。
仏教的に自殺が悪とされていないのは、自意識からの解放の手段としては、
あり、と判断しているのでは、と思います。
「自意識を解放しよう」というこだわりを捨て切れていないところで、
まだまだと判断されるような気がしますが。。
同種同士で殺し合うことを許容する種は絶滅する。
必然的に現在生きている種は同種同士で殺し合うことはしない種となる。(人間も犬も猫も他種は殺すが、同種は殺さない)
生物の目的は結局は「種の保存・生残り」なので、同種同士の殺し合いというのは目的に反する。
仮に人を殺しても良いとする社会であれば、私は人を殺すことが出来るが、同時に私も誰かに殺されるリスクを背負うことになる。
(生き残れる自信は無い...)
そう考えると、種を繁栄させるためには殺し合うより協力し合った方がずっと合理的になる。
たとえば質問者が患者を死亡判定して治療を中止しようかどうか考えている医師だとしたら?
たとえば質問者が脳死状態の家族(本人は臓器提供拒否の意思あり)の生命維持装置を外すことを決意しようとしている人だとしたら?
たとえば質問者が家族を殺された人だとしたら?
たとえば質問者が殺人を犯した犯罪者だとしたら?
たとえば質問者が冤罪死刑から生還した冤罪被害者だとしたら?
たとえば質問者が死刑が確定したオウム真理教の麻原教祖だとしたら?
たとえば質問者が死刑執行命令書にサインしようとしている現職法務大臣の鳩山邦夫氏だったとしたら?
たとえば質問者が東京大空襲で自分以外焼き殺された生存者だとしたら?
たとえば質問者が広島・長崎に原爆を投下したエノラゲイの兵士だとしたら?
たとえば質問者が次の戦争計画(攻撃目標は日本)を立てている国家元首だとしたら?
たとえば質問者がこの質問の回答者全員を殺害しようとの殺意のある人だとしたら?
どんな質問者でも同じ回答を書けますか?>回答者の皆さん
id:so-asano id:ponta_05 id:webmaster55 id:makoron-P id:adonesu id:iceparunasu id:zoology id:simajiromaikeru id:Microsoft id:knockeye id:ch3cook id:honzuki id:Hiroshi0514 id:kuroe_o id:memo77 id:Takasan id:KUROX
別に人を殺してもいいって価値観だって存在するわけです。
この価値観が正しいと教育されているからそう思うだけの事です。
法律でしょうか?
法律以外に殺してはいけないという理由があるのか??
ないのであれば、なぜ法律は人を殺していけないとしているのか?という質問に置き換えられるかと。
あるのであれば、それを示さないと。
そもそも質問として成立していないと感じます。
> どんな質問者でも同じ回答を書けますか?>回答者の皆さん
なんか、この書き込みは変だなぁ。質問者の立場を意識して、回答を変える方が、むしろおかしいと思うんだが。まったく同じ内容の質問に対して、であれば、ぼくは、どんな質問者に対しても上に書いたような回答を書く。それが普通じゃないかと。
恐らく、この人がこういうことを書いてしまうのは、そもそも、この手の質問の、問題設定の曖昧さのせいだろう。死刑の是非、戦時に人を殺すことの是非、安楽死の是非、正当防衛による殺人の是非。殺人にも色々なタイプがあって、本当は個別に論じないといけない。この書き込みによって彼が言っているのは、質問者が「殺人」と言った場合に、彼がどのタイプをイメージしているのか、それを想像し、それに合わせて答えろ、ってことと等しいと言える。でも、本来はそうじゃなくて、質問者の方で、特定の「殺人」のタイプをイメージしているのであれば、質問上でそれを提示すべきじゃないか。
ここでは、それがなされていないので、世間一般で言うところの「人を殺してはいけない」ということを対象に回答することが適当だろう。それについては、上に書いたような、ダーウィニズム的な説明が最も適切なんじゃないのか、としかぼくには言いようがないね。
過去に何度もなされた問いだ、とか言っている人は、自分なりに考え抜いて、究極の結論に到達して、悟りでも開いたのかねぇ? だったら、それを教示して欲しいもんだ。この手の問題については、いくらでも考えを深める余地があるとぼくは思うし、何度、繰り返されたっていいと思う。あるいは、見飽きた、と思っているのであれば、誰も強制しているわけじゃないんだから、見なきゃいいのに。
また、法律も殺人にサンクションを与えますが「殺す無かれ」と殺人を禁じているわけではありません。
さらに、私には殺したいほど憎い人物がいます。
ですが、私は殺しません。
簡単な理屈です。それは、駄目なものは駄目という「客観的道理」です。
りんごが上から下に落ちるのと一緒です。
この事に理論的または論理的な答えを模索する必要は無いのではないでしょうか?
?? 法ってのは、社会の規律を規定したもので、刑法に関しては、明文化されているわけでしょ。やってはいけない、ということに対して罰則が設けられているわけで。判例とか読めば、この社会において「殺人が禁じられている」(死刑とか正当防衛のケースは別として)ことは明らかじゃないの?
> 簡単な理屈です。それは、駄目なものは駄目という「客観的道理」です。
それのどこに客観性があるのか分からない.....。
> りんごが上から下に落ちるのと一緒です。
リンゴが上から下に落ちるのは、例えば、現在の地球の物理的な状態において、であり、一般的に言えることじゃない。また、それは「落ちるから落ちる」んじゃなくて、科学的な説明が可能で、科学的、ってのは実験による再現性とか反証可能性を担保してるものだ。客観的ってのはそういうことで、「落ちるから落ちる」って理屈とは全然違う。
ここで言う客観的道理は科学的な証明を必要としません。
客観的、という言葉について、もう少し考えてみた方がいいと思うね。ぼくは、誰が何を信奉しようが勝手だと思うけど、何かについて議論する場合には少し事情が異なる。考えてみろ、って言われたって、人倫の後に客観的道理がくる時点で、言葉の使い方を間違っている、っていう風にしか、ぼくには思えない。そもそも、「考えてみろ」「~を読め」「~について勉強しろ」みたいのは、反論として成立しないとぼくは思ってるし。
> ここで言う客観的道理は科学的な証明を必要としません。
リンゴが落下するアナロジーを持ち出しておいて、そりゃねーだろ、と。少なくとも、このアナロジーの不適切さについては、理解してもらいたいもんだが。こういう発言をしている時点で、結局、議論としてまーったく成立してないんだよ。だから、「語りえないことについては沈黙」した方がいいんじゃないの、と、としか、ぼくに言いようがない。これが、布教活動なら話は別だけども。
ちなみに、殺人の禁止は明文化されていません。
判例に書かれているのは、わかりやすく言えば
「殺してはいけないのに殺したからこの罪ですよ」って事だけです。
是故に、死刑や正当防衛が認められる訳であり
「死刑や正当防衛」が特別措置として個別に存在するわけではありません。
生きるために他の生物を殺す。
それは自然界でも全く同じ事でそれが摂理です。
我々はいつからか、動物界と人間界に別のルールを設け人間同士、互いに殺し合い傷つけあうことをやめました。
我々の目的は子孫を残し人間世界を拡大することであるから、それに逆行するように人を殺してしまっては
本来の目的である我々の繁栄の妨げになるからではないでしょうか?
拙い説明で申し訳ありません。。
もう少し冷静な判断力が必要のようですね。
落ち着いて考えて見ましょう
あー、よいアドバイスをどうも。
で、冷静に考えて言わせてもらうけど、ちょっと頭が悪すぎ(読解力なさすぎ)ないか?
> ちなみに、殺人の禁止は明文化されていません。
法っていう枠組みの中での議論をぼくはしたんだけどね。明文化された刑法上、殺人には罰則が設けられている。でも、それは禁止しているって意味じゃない、と、あなたは言っていた。でも、たとえば、判例を読めば、殺人という行為に対し、司法が価値判断してるのがふつーの人なら読み取れるはずだし(「被告人の犯行は冷酷で残虐なものであり」とかってのは価値判断でしょ)、行為の価値判断をしている時点で、「ただ、ある行為に対して、ある罰則が設けられている」だけ、ではない。
そもそも、法治国家なら、法律が作られる時点で、殺人を禁止しようね、っていう社会的合意のもとに、制度があるわけだ。ある行為に対して、根拠も意図も不在のまま、罰則を設けることなんて考えられない。罰則が設けられている時点で、それは社会によって禁止された行為だ、ってことなんだよ。法(少なくとも日本の国内法)は殺人を禁止しているわけだ。
> 判例に書かれているのは、わかりやすく言えば
>「殺してはいけないのに殺したからこの罪ですよ」って事だけです。
?? 殺してはいけない、ってことは、殺人は禁止されている、ってことじゃないの?? であれば、殺人の禁止は、判例法上、明文化されてる(だいたい、刑法にいちいち、「~はやっちゃいけないことです。だからこういう罰則を設けます」なんて書くわけねーだろ、と)、ってことなわけで、墓穴を掘っているだけ。
> 是故に、死刑や正当防衛が認められる訳であり
> 「死刑や正当防衛」が特別措置として個別に存在するわけではありません。
まあ、ここまで読んで、何を考えているのか分かった気が(文章が不適切だとぼくは思うんだがね)。「殺してはいけない事情のもとで、殺人をしたら罰される」、つまり「殺していい事情のもとであれば、殺人は OK」、であれば、「法あるいは社会は、殺人を禁止してないじゃん」。でも、全面的に禁止されてないこと = まったく禁止されていないこと、ではない。もし、そういう理解の仕方をしているなら、まったく論理から外れているよね。
この様な内容の質問は人類史上遥か昔からあった事ですし、人それぞれの考え方や、経験・環境、地位などに因ってどれが正しいかは決まらないものです。まして、あなたが例とされている宗教に因って、人の心は大きく歪められた事もあります。主観的にも、客観的にも、理論的にも、論理的にもあなたを納得させる説明は誰にもできないと思いますよ。(回答・コメントの流れをみて)
いかなる状況でも答えは一つです。
人の為に、一人を切る。さて是は、本当に人を殺しても良いといえるのでしょうか?
人を殺してはいけない、だから、一人を切った。一人を切ったからといって、人を殺してはいけないとはならない、となるのでしょうか?
いや、ならないだろう。