最近、政令指定都市になった静岡市街を歩いていてふと思うんです。「ここはどこなんだろう?」と。 109があり、パルコができて、食事できる場所もどんどん多くなっていく。心なしか人の数も増えたようで……。 欲しいものは何でも手に入るような世界。 でも思うんです。「ここは静岡?」 要は、ここが静岡である必要性が無さ過ぎるんです。まるでアメリカの基準を真似してきた日本のように、東京を真似している静岡。 そこに静岡の特色はあるのだろうか? 都市化によって便利を求めすぎ、大事なものが失われてはいないか? 日本人は、これまで故郷を愛して生きてきた。なぜなら、そこに自分をはぐくんだ土地があり、親がいて、友人がいて、恋人もいて、多くの知人がいた。その環境全てが、自分を育んでくれたはずだ。 しかし、その場所がどんどん開発によって均一化していく。その結果、ほとんどの都市の駅前風景が、同じように見えるなんて事態がおこる。 そんな状況の中で、いくら教育基本法を改正しようと「愛国心」なんて生まれる訳が無い。 はっきり言って、人間にとって1番大切なものは「愛」だと思う。 じゃあ「愛」ってなんなんだろう? 「愛」と「恋」には決定的な違いがある。漢字を見てくれればわかるように、「愛」は心が中心にあるのに対して、「恋」は下に心がある。つまり下心があることになる。 「自分がこれこれをしてあげるかわりに、何かちょうだいよ」 そういう意味では、見返りを求めているのが恋、求めないのが愛だっていえるだろう。 親と子の関係なんかは、まさしく「愛」だ。しかし、それが「恋」になったらおしまいだ。 「自分が一生懸命育てたのに、何もこの子は私にしてくれないの?」 → 赤ちゃんポスト。虐待。 「親なんだから、もっとお金くれたっていいじゃん」 → ニート。親殺し。 近頃のおかしな事件の裏側には、絶対に愛の喪失がある。 自分が1番大切な守るべきもの。 会社が好きだったら、謝罪会見なんてない。人を愛した経験があれば、殺人なんてしない。自分を育んだ土地に、愛着があれば環境問題も少なくなるだろう。 だったら愛をなくしているものってなんなんだろう? 1つの理由は、人間であるが故であると思う。人間は過去に起こった物事を忘れてしまうから、それを避けるために、愛を形に残そうとする。結婚指輪だったり、記念碑だったりと。 それに伴って、もう1つの理由が生じる。 人間の記憶を薄れさせるもの。それは、余計な「情報」の多さではないだろうか。いらない情報が、人間の大切なものを押し流し、忘れさせる。 昔、自然に囲まれ、いわゆる便利なものはほとんど何も無い小さな国があった。困った時は、国民同士が助け合いながら生活していた。しかしながらこの御時世、国の王様は悩んでいた。 周りの国は、どんどん発展していく。経済、産業、科学技術…このままではこの国は、衰退していくのではないだろうか。 王様は、思い切って周りの国の方針を取り入れた。その途端、国民の不満は爆発した。そして、犯罪数も激しく増えた。 幸せは、物事の便利さやお金の裕福さで、測ることはできない。幸せは、そこにどれだけの愛があるかだ。「情報」は、それをうち崩すだけの威力を持っている。 情報の媒体として、長く広く蔓延してしまっているのが「テレビ」かもしれない。 人と直接話す時は、お互いに「この人は本当にそう思っているのだろうか」「信用できるのだろうか」と疑うくせに、だれが作ったかも知れないテレビから入ってくる情報は、何の疑いも無く受け入れる。これって、ちょっと立ち止まらないと危ないんじゃないか。 相手の顔を見なくなり、テレビを見ながら、会話をするようになってしまった現在。そこに、コミュニケーションはあるのだろうか? 家に帰ってきて、「何となく」テレビをつける。そこに「目的なんてほとんど無い」。テレビがついていないと落着かない。つまらなそうに、四角い箱をながめる大人。残念なことに、自分もその類に入ってしまう。自分は、テレビが好きな方である。「意味も無く」テレビをつけっぱなしにしたりする。 そこに愛はあるのか! でもはっきりいって、今の自分は「愛」がどういうものかも解からない。自分の守るべきものが家族だとしても、実際家族は、いつまでも自分を守ってくれるって、頼っているし、愛する人もいない。これって、すごく寂しいことなのかなって最近思う。
よく分からないけど、最近、日本社会のこのもやもやした曖昧な嫌な感じが、自分を取り巻いて、そして、自分もそうであることが、落着かないのは確かなんだ。
総合32点(計29人)
※評価結果は定期的に反映されます。
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