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埼玉 戦争 NA_テーマ2
米公聴会でも証言した李容洙さんが、埼玉で再び「証言・告発」
2007/02/26

 昨年の埼玉県議会で上田清司知事が「古今東西慰安婦はいても、従軍慰安婦はいなかった」と発言し、その抗議のため昨年10月上田知事に面会を求め来日した李容洙(イ・ヨンス)さん(78)が再来日し、さいたま市のさいたま市民会館うらわで2月23日に開かれた「イ・ヨンスさんのお話を聞く会」で再び証言・告発した。


「会場」いっぱいの参加者



「証言」する李容洙(イ・ヨンス)さん



「加害証言」する金子安次さん



証言後「握手」をした証言者の李さんと金子さん



3月2日集会予定の「チラシ」



李容洙さんの「経歴」



 昨年の来日時は、知事面会を断られ県議会場入り口で秘書課長らと知事を待っていた李容洙さんに、上田知事は「邪魔するな!」と怒鳴っている(下部関連記事参照)。また、李容洙さんは先日も米議会の「公聴会」で証言してきたばかりであるという。

 李容洙さんは慶尚南道で生まれ15歳のとき、小銃で脅され、大連から、台湾に連行され新竹海軍慰安所で特攻隊員の慰安婦とされた日々を、不自由な日本語で告発した。日本政府の対応に怒りを込めて「これからも死なずにずっと話す」と訴えた。

 当日は2000年に従軍慰安婦問題を裁いた「女性国際戦犯法廷」で加害証言をした元「中国帰還者連絡会」の金子安次さん(87)も参加、李容洙さんの発言に続き自らの加害体験や軍隊の実情を証言し、上田知事の発言を否定した。

 その「女性国際戦犯法廷」の放送では、NHKが金子さんに「放送で実名を出してもいいのですか?」と事前に確認電話があり、「勿論いいですよ、私は証言者ですから」と応えたにも関わらず、その加害証言をカットされ「圧力があった」と感じたことも証言・告発した。

 この放送では同時に「被害証言と、天皇有罪部分」もカットされ、その原因に安倍官房副長官(当時)の関与が内部告発され、主催者が提訴し1月29日東京高裁は安倍氏らの圧力を認めなかったものの、自主規制の「不当性」を認定しNHKに賠償を命じ、敗訴したNHKは上告している。

(芹沢昇雄)

     ◇

関連記事:
埼玉上田知事発言に元慰安婦が抗議





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[25183] 渡辺幸雄 様へ
名前:芹沢昇雄
日時:2007/02/27 00:25

 市民記者の芹沢です。
 下記に手元の「資料」をご案内申し上げます。


 1928午12月13日


慶尚南道大邸市に生まれる。
貧しいながらも両親と兄と本人と五人の弟の大家族で暮らす。
学校にも通ったが、下に弟が沢山いたので一年程で辞める。
その後、夜学に通い、日木人の先生に日本の歌を教えて貰う。

 
 1944年 秋


15歳の時、家で寝ていると、小窓を叩く音に目を覚まし手招きされるままに外に出てみると、日本軍人が立っていました。そして、脅かされるままに連行されました。
慶州から平壌、安州から中国大連、そして台湾新竹海軍慰安所へ。


 1945年 春


16歳。慰安所が爆撃にあい、家の下敷きになる。
親切にしてくれた特攻隊の軍人は、出撃して帰って来ませんでした。
8月。日本の敗戦で解放され、収容所に集められました。


 1946年 春


17歳。帰還船で釜山港へ。
大邸駅から走って父母の元へ。しかし、誰にも被害を語れませんでした。いつか誰かに知られてしまうのではないかと、毎日恐れながら暮らしていました。それでも幾つかの仕事をしながら、弟達の援助で生活していました。


1992年6月25日


63歳。恐る恐る何度も迷い、そして勇気を振り絞って名乗り出でました。その後、韓国、日本、アメリカ、カナダ、フィリッピンと抗議活動を続けています。


韓国・日本大使館前での水曜デモ。参加720回を超える



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[25177] イ・ヨンスさん
名前:渡辺幸雄
日時:2007/02/26 20:42

http://www.geocities.jp/kesenai_kioku_04/kyoto/profile.htm
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-06-26/13_0201.html
http://tateiwa.kir.jp/0n/z01.htm

時と場所によってプロフィールや当時の境遇等が変わっているようですが、どれが本物なのでしょうか?
また1944年から3年ということですが、終戦後(1945年以後)、2年間はどうなさっていたのでしょうか。

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