新風舎があぶないとの情報がもたらされたのは昨年の秋のことだった。
そして昨日、東京地裁に民事再生法の適用を申請し、事実上の倒産の運びとなった。
これ以上の被害者を出さないという意味においては結果に納得はする。だがこの新風舎問題にかかわった私のような立場の者は反面苦い思いもある。
一昨年この問題をブログで取り上げたのはキャンペーンを張るというような大げさなものではなかった。
ときおり私のところに送られてくる簡易写真集の成り立ちを調べてみるに、私のような出版にかかわる人間から見ると詐欺まがい行為に世間知らずの若者がひっかかっているとの心証を強くしたわけだ。そこで被害に遭った人たちに投稿を求め、ブログに順次アップした。当然人間には感情があり、怒りというものが根底にあるわけだが、私がそのような挙に出たその真意はまず情報の共有化と等分化が必要だと念頭にあったからである。
当出版社はひろく一般人から多くの金を集め、やがて出版界においても出版点数においては講談社を抜き、トップに立つ勢いがその時点であった。このことは何を意味するかというと情報の占有化が進むということだ。当社は大手新聞雑誌などに多大な広告を出稿し、一方的なプラスイメージを一般に植え付け、さらにその広告出稿によって大手マスコミにも口封じができる立場に立ったのである。
一例として朝日新聞 などはbe on Saturday「フロントランナー」という紙面で、自費出版ブームを作った詩人経営者新風舎社長松崎義行さん41歳(2006年10月7日)という大々的なインタビューを行っている。私のサイトの投稿者も実際にその記事によって新風舎に信頼感を抱き、迷っていた当社の企画に乗ったという方も何人かおられた。こういった金を動かすことのできる者が情報を占有するという今日的情報化社会の不健全な状況を少しでも改善すべきだという思いが、ブログで何日にも渡って被害者の実話を取り上げた真意である。ちなみに私はこの件に関し朝日新聞の一編集委員に電話で忠告をするとともに、なぜこういう記事ができるのかそのメカニズムを知りたいとの注文を出したが満足の得られる回答はなされなかった。
以上のような流れの中で私の新風舎を扱ったブログはさまざまなミラーサイトに反映される形で広がりを見せたわけだが、私はその後このブログの継続を断っている。
それは以下のような理由がある。
(月)まずこの問題がネット上で炎上する過程で新風舎から出版した人々に向かって軽率とも言える誹謗中傷や蔑視がまかり通るようになったことである。
この雇用事情の厳しい世の中で働きながら200万の金を貯蓄することは並大抵のことではない。その有り金をはたいての念願の自本が宣伝もなければ流通もしないただの金儲けの駒であったというダメージを受けた上に、さらにそのことを第三者に誹謗されるという二次被害のようなものがひろがりはじめたわけだ。そして私のサイトにも悲鳴に似た投稿が多く寄せられるようになった。
私はこの問題に関して自分のメッセージはなるべく出さず、被害の事例のみを載せ続けるということを心がけたわけだが、そういったやり方が問題のリアリティを高め、今日の結果の一助になったということはあるだろう。だがこれ以上火に油を注ぐことはそれに応じて二次被害者がさらに増大するという危惧が生じたのである。
(火)ブログというものは曲者で、かりにそのような記事であったとしても、それはれっきとした情報であり、書けば書くほど相手側(新風舎)に情報をもたらし、対応の材料を与えてしまうということが起こりはじめた。このことはある程度予期してはいたが、純度の高い情報を一定量掲載してのちは、それ以上はむしろマイナスになる傾向があると私は判断したわけだ。
(水)たとえば新風舎では数多い賞の中で写真賞も設定しており、この賞の設定そのものが出版勧誘のための人寄せに使われたわけだ。だが私の目から見ると上位の賞を実際に取った作品の中には十分に鑑賞に堪えるもの、そして今後に期待できるものもあった。
たとえば10回目の大賞『戦争ジャーナリストへの道―カシミールで見た「戦闘」と「報道」の真実』(著者桜木武史)はまじめな作品であり、コメントに私の影響で写真をはじめたとある。また他の大賞の中には写真界の大きな賞である木村伊兵衛賞の候補に上った優れた作品もあった。そういう意味ではこの賞そのものの存在理由はあったわけで、また現在は審査員を降りている平間至さんの功績もあったわけである。
そういった純粋に表現として成立する作品が、こういったいびつな出版の構造の中でつぶれさていくのには内心じくじたるものがある。ましてや写真環境は今日大変厳しく、少しでも若い新人の育つ環境が欲しいと思っている私のような者のやっていることが結果的にその芽を摘むことになるというのは自己矛盾を感じざるを得ないのである。
(木)このことはいまだにその真偽のほどは不明だが、私のところにはこの問題の炎上に関しては新風舎との競合関係にある文芸社に関連のある者が油を注いでいるという情報が複数もたらされてもいた。
他の投稿によると文芸社も似たり寄ったりのことをしているが、矢面に立たないような巧妙なやり方をしているという元内部者の報告もあった。かりにそうであれば、新風舎を糾弾することは他を利するという矛盾をも生むわけだ。
(金)投稿者の同意を得てブログへアップした本人が半ば特定され、訴訟問題に発展しかかったこともある。相手側は私個人との争いは避けたい意向だったが、ブログに掲載した以上、何千万もの損害賠償を匂わせるような内容(おりしもオリコンによるフリージャーナリストへの訴訟問題がネットでは騒がれており、相手側はこの材料を例に攻めてきた)にただのフリーターの若者(女性)を矢面に立たせるわけにはいかず、私が責任を負うかたちで弁護士を立て(結局大出版社おかかえの弁護士は役にたたず、私がすべてを仕切るはめになったのだが)事態をなんとか収束したこともある。
自本を出した者の二次被害もそうだが、私のサイトに情報を寄せる人々にも被害が及びかねないという事態も多々生じたわけだ。
(土)今取り上げたことは数例に過ぎないが、この新風舎問題に関するブログが一定の役割を果たしたとみなしたことも継続を断ったひとつの理由でもある。
ただ、昨日のようにひとつの結論が出て、これ以上の被害者が出ないことは喜ばしいことだが(ただし今現在でも1100人に及ぶ被害者予備軍が存在する)、その間いつも念頭にあったのは、マスコミのこの問題に対する腰の引け具合である。私の知るところこの問題に触れたマスコミがなかったわけではない。だがいったいに及び腰であることは否めなかった。
だが昨日新風舎が倒産するや、解禁されたかのように一斉にこの問題を報じるマスコミの姿勢は滑稽以外のなにものでもない。私のところには特集を組みたいのでインタビューに応じてほしいという新聞や雑誌の要請も来ているが、こういったことは事後ではなく、渦中にあるときに勇気を出して行うというのがマスコミのやるべきことではないか。
またマスコミに限らずこの間、こう言った問題になぜそれなりの名のある作家や写真家などが口をつぐんで触れないのかということも不思議のひとつであった。
確かに自分に被害があるわけではなく、その辺の若者が出版詐欺のようなものに引っかかっているだけの話だから関係ないと言えば関係のないことではある。その背景には活動の場や世間を狭くするという、この日本の蛸壺世界における表現者独特の嗅覚が働いていることは否めない。だがかりにその恐れがあったとしても、ある一定の地位を得、後進を指導する年齢に達した者は少なくとも自分がかかわる表現の世界における理不尽な出来事に対し、それに関与する義務とは言わないまでも、必要があるように思うのである。
またそれと同時にこの詐欺まがいの出版事業に心ならずも結果的に加担してしまったと言える広告塔となった、たとえば谷川俊太郎さんや当出版社で本を出している江川紹子さんなど作家たちの見解もこの際聞きたい。
当初はその出版の構造はあずかり知らなかったとしても、一昨年から昨年にかけあれほど話題に上った新風舎問題を、その社から出版している作家が知らないはずがないからだ。
またたとえば私のブログでも名前を伏せて書いたのだが、ある作家が新風舎から対談本を出すにあたって私との対談の収録を要請してきた。私は新風舎の行っていることに関して納得の行く説明がなされれば同意してもよいとの返事を編集者にさしあげたのだが、その後「今回は引き下がらせていただきます」との返事があった。ということは新風舎自ら不正を払拭する説明のできないことを認めたかっこうなわけだ。
私はその過程でその作家、つまり新井満さんに直接電話を入れ、新風舎の事業内容をふくめ、私がなぜこの企画に乗らないかをお話しした。それは暗に作家としての矜持を保ってほしいとの私の思いを伝えるコンタクトでもあったわけだ。だがその後この出版は双方のきわめて日本的な優柔不断と馴れ合いの上に立って丸く事が進んだわけだ。
以上のように今回の問題は製造業に限らず文化事業の出版界にも偽装や不正がはびこりはじめていることをあらわすとともに、今日のマスコミの弱腰をもあぶり出し、そして西欧における作家の社会意識と日本の作家の社会意識の違いをあらためて浮かび上がらせたと言える。
追伸・今回は新風舎倒産の報に接し、仕事の合間の急遽のコメントであるがゆえ、至らぬところは文面の部分修正を行う可能性がある。